【波北朱音】約束
期末テストは今回もそれなりに出来た。順位が出ることはあまり好きではないけれど、終わった後の達成感は嫌いじゃない。達成感に加え、テスト最終日の早く帰れる日が好きだ。
同じ教室の中で、一人死んだような顔をしている雄大に話しかける。
「今回は大丈夫だったの?」
私が話しかけると、金魚鉢の中の水みたいにゆらゆらさせた目で雄大はこちらを見てくる。
「朱音! やべぇよ! 全然解けなかった!」
そう言って半笑いでわざとらしく焦りを浮かべる雄大はいつも通りだ。
「出来なかったの?」
「全く出来なかった!」
雄大は泣くフリをする子供みたいに、下を向いて目を擦った。
自分では勉強できないと言っているけれど、馬鹿は馬鹿でもやるときはやる。雄大はそういう人だ。だから、大丈夫だ。いつも大抵、雄大は大丈夫。
「まあ、今日帰ったら心置きなくたくさん寝られるよ」
「そうだな! っつっても俺は毎日心置きなく寝てるけどな!」
「授業中も寝てるもんね」
雄大と何気なく話していると、視線を感じた。二人で話しているはずなのに、雄大の声が大きすぎるせいで、私たちの会話がいつも教室中のみんなに聞こえていたであろうことに気付く。
「あ、そうだ」
私は、声を潜めつつ、今思い出したかのように本題に切り込んだ。
「どした?」
「今日は先帰っといて」
雄大に話しかけたのはこれがきっかけだ。テストがどうかなんて、正直どうでも良い。
今日は先輩と一緒に帰る約束をしているから、雄大とは帰れない。
「おう! わかった!」
用が済んだので、そそくさと雄大の元を離れる。
自分の席に座り、ほっとため息をつく。何も聞かれなかった事に安心した。
まだ、恋人が出来たと言える勇気はない。
女の子の恋人が出来たのだ、と声を大にして言える自信は私にはなかった。ひどいと思う。先輩に対しても、同性愛に対する自分の姿勢も。
「終礼するぞー」
先生が入ってきて、クラスメイトたちが一気に席に着く。今日はすぐに帰れるからか、みんなすぐに静かになる。
先生が手紙を配布し始める。順に回ってきた手紙を後ろに回す。手紙にはLGBTについての講演会、と書かれている。
同性愛について。
私は否定はしない。でも非難する人がいるということを、私は知っている。
同性愛は、当たり前の愛の形では無いと認識されていることを知っている。
多分お母さんには見せないと思うけど、手紙を綺麗に折りたたんでファイルに仕舞う。
「じゃあお前ら、テスト終わったからって気抜くなよ。先生見回り行くからな。ってことでさようならー」
先生のさようならの号令と一緒に立ち上がり、教室を出る。
廊下に先輩が立っている。久しぶりに見る先輩の顔には、テストによって疲れが出ているように見えた。
ざわざわとうごめく集団の中にいる私と、先輩の目が合う。先輩は、にこりと笑って私に近づいてきた。
「朱音―、お疲れー」
図書室以外で先輩と会うことが初めてで戸惑ってしまい、どうにか平静を保とうとぺこりと会釈する。先輩の顔は、さっきの疲れた顔から、いつものふにゃふにゃした顔になっている。
「昼ご飯食べにファミレス行こうー」
「うん」
私は淡泊な返事をした。
今まで私、どうやって先輩と喋ってたっけ。
先輩と直接会ったのは、教室で告白の返事をした日以来。
自分の発するべき言葉がわからなくなる。そもそも今までそんなこと考えたこと無かったというのに。
私はそれ以前の先輩の前での自分を忘れてしまったかのように、自分が保てなくなっていた。
先輩は私の手を握って私の半歩前を歩き出す。手を繋ぐ、というよりは私が先輩に引っ張られているかのような構図になる。
先輩の後ろ姿だけでテンションが上がっていることがわかった。先輩がもし犬ならば、しっぽがぶんぶん揺れているだろう。
ドキドキした。先輩と手を繋ぐことによる動悸もだけれど、それ以外にも理由はあった。
雄大と一緒にいるときと同じくらい視線を感じたからだ。
女の子同士が手を繋いでいるなんて、なんともないどこにでもある光景だろうけれど、やっぱり私は気にしてしまう。
私の意気地なしめ。
人混みを抜け、靴箱が見えてくる。人混みを抜けても、先輩は導くように私の手をぎゅっと握って離さない。
痛くは無いけれど、決して簡単には抜けない先輩の手の力。細くて長い指。
こういうことに胸が躍ることを、『好き』というのだろうか。
靴箱を目の前にする。
私の靴箱がある手前に、のそりと大きな身体を縮め、外靴を履いている人がいた。
奏だ。
「あ、奏」
思わず先輩の手から、急いで自分の手を引っこ抜いた。目の前の先輩は靴を履き替えるためか視界から消えていく。私の視線の先の奏は、こちらを見ながら靴を履き替え、トントンとつま先で地面を鳴らしていた。
「朱音ちゃんか、お疲れ」
「部活? 今日からあるの?」
奏は手首にバッシュケースであろうものを持っている。
「うん」
「そうなんだ。頑張ってね」
「ありがとう。頑張るよ」
じゃあ、と手を振って奏は颯爽と走っていく。
バスケ部は、部活に行くのに走っていかなくてはいけないというルールがあるようだ。同じクラスのバスケ部の男子も、いつも終礼後すぐに教室から消えていく。
すごいなー、と奏の後ろ姿をぼんやり見ながら、靴を履き替える。
外に出ると一部始終を見ていたのか、先輩が走っている奏がいる方を見ていた。
「今のは?」
「幼馴染。いつも一緒に帰ってるのが雄大で、今のが奏。奏はバスケ部なの」
「ふーん」
先輩と話しながら、校門に向かう。
「あれが月岡くんかー」
知らない先輩らしき女の人二人組から奏の名前が聞えたので思わず反応する。
「噂通りかっこいいね」
「私超タイプかもー」
二人とも語尾にハートマークがつきそうな甘い声で呟いている。
どうして私の周りは目立つ人ばかりなのだろう。もうちょっと穏やかに過ごしたいのに。
そう思いつつも、どこかから奏の良い話を聞くと、勝手に鼻を高くする自分もいた。
校門をくぐって、先輩と一緒に並んで歩く。外は夏本番という暑さで、そこら中がゆらゆらして見えた。
先輩は車道側にいる先輩を見る。首筋からすーっと汗が垂れている。でも、汚いとか臭いとかは全くなくて、氷が溶けている瞬間みたいに見えた。
やっとの思いでファミレスに着いた時には、汗でベトベトになった。自動ドアが開き、冷やされている冷気がやってきて、汗を乾かしていく。気持ちいい。
店員さんに案内された席に腰かけながら、周りを見る。
私たち以外にも学校帰りの人たちはいて、その人たちからの視線を浴びる。その多数が、私への視線ではなく、先輩への視線だった。
うるさい雄大やカッコイイ奏だけが目立つわけじゃない。先輩も目立つ。もちろん良い意味で。
先輩は多分、かなりの美人の部類の人間だと思う。
ここに来るまでに、信号待ちで一緒になった他校の高校生も、さっき私たちを案内した店員さんも先輩のことばかり見ていたから、客観的に見てもそうであるのは間違いない。実は、芸能事務所に所属してる、って言われても、多分信じちゃう。それくらい、見た目だけは良い。見た目だけは。
そんな先輩は、何かを注文する前にカバンからまっさらなルーズリーフとボールペンを取り出して、私の手元に置いた。
「何これ?」
「これから付き合っていくうえでのルール決め!」
先輩は机から身を乗り出して私に顔を近づける。
「ルール?」
「そう、ルール。何されたら、嫌だとか、これはしてほしいとか電話以外に具体的に!」
さっきの店員さんが「ご注文はタッチパネルからお願いします」と言いながら私たちの目の前に水を置く。私はこくりと頷いた。目の前の先輩は、店員さんに対して「はーい」と元気に返事してから、自分の分もルーズリーフとペンを取り出した。
氷の浮かんだ冷たい水に口を付ける。
『ルール』と言われば、気になっていることがあった。どこからが浮気なのか、だ。
浮気の定義は『相手が嫌だと思ったら浮気』というのが一般的だ。でも、先輩が何が嫌なのかわからない。
他の女子と一緒にお風呂に入るなんてことあり得る話だし、私は奏や雄大と三人で遊ぶこともある。夏祭りは毎年三人で行っている。
それはいいのだろうか。一体、何が浮気なのだろうか。
先輩のコップは結露で水滴がついていて、それが机に小さな水たまりを作っていた。
顔を上げて先輩の顔を見る。先輩は天井を見上げていた。まるで、つばさの演奏を評価した時のように、真剣に言葉を選んでいるようだ。
私は再びルーズリーフを見た。
先輩は、私のこと、どのくらい好きなのだろうか。
私は、自分の『好き』という気持ちだけでなく、先輩の私に対する『好き』も、まだ百パーセント理解出来ていない。
目の前の先輩は、いつのまにか目線を下げ、コップの周りに付いた水を、丁寧に人差し指でふき取りながら水面を見ていた。じっと先輩を見る。
何も言葉にしなくても、相手の気持ちが伝わってくれば良いのに。それならば、頭を悩ませることともないだろう。
「よし!」
先輩は急に声を発し、ボールペンをかちりと鳴らし、ルーズリーフにすらすらと文字を書き始めた。そして、文字を書いたルーズリーフを私に見せる。
「『お互いの好きなものを絶対に否定しない』。ほら、朱音もその紙にこれ書いて!」
先輩はぽかんとしたままの私の肩をとんとんと叩く。促されるまま、私はその約束を大きくルーズリーフに書いた。数学のテストを解いている時の二分の一くらいの遅いスピードで文字を書く。
そして、自分で書いた文字を眺めながら唖然とする。
そうか。
付き合うということは二人の世界を作ることだと思っていた。でも、先輩の出した約束は私の世界を広げる約束だ。私は先輩と同じエメラルドグリーンのランドセルを選んでもいいし、短いショートカットにしてもいい。
先輩との約束は、私の世界に色を増やした。
「朱音は?」
「うーん」
私も先輩の真似をするように、コップに出来た結露を指でふき取り、揺れる水面を見た。
なんだろう。
「幼馴染と夏祭りに行きたい……かな」
ぱっと思いついたことを小さく呟いた。果たしてこれは、先輩とのルールなのだろうか。幼馴染とのルールではないだろうか。
自分の言葉への自信の無さから、足下を見た。チラリと見える先輩と私の足の大きさはそんなに変わらない。
「夏祭りだけは絶対二人と行きたい……」
もう一度ぽつりと呟く。奏と雄大の大きな足を思い出す。
何度も、「どっちと付き合ってるの?」とクラスメイトに聞かれてきた。そのたびうんざりしていた。
そういうのじゃない。私たちはもっと別の何かで繋がっているというのに。
コツンと先輩と足先がぶつかり、その衝動で顔を上げる。
「うん。わかった!」
先輩は満面の笑みを浮かべてから、『朱音は幼なじみと夏祭りに行く!』と大きく書いた。
先輩は、至って普通に、いつも通りに、私のことを見た。
思わず口角が上がる。
許可されたでもなく、妥協されたでも無い。それが嬉しかった。
雄大と奏と夏祭りに行くことは、私たちにとってありふれた、何の変哲も無いこと。誰がなんと言おうと、普通のこと。
私は熱くなった頬を冷ますようにごくりと水を飲んだ。
奏と雄大とは夏祭りに一緒へ行くことを約束していない。ただ小学校三年生に雄大が誘ってくれてから、流れで一緒に行っているだけだ。
幼なじみ二人とは約束していないのに、恋人である先輩と約束を交わした。
「朱音は二人のことが好きなんだね」
「先輩もつばさくんのこと好きなんでしょ」
「当たり前じゃん」
タッチパネルで自分用のスパゲッティと二人分のドリンクバーを注文している先輩は、にやにやと笑みを浮かべている。そして、私の方にタッチパネルを差し出してくる。それを受け取りながら、私はかかとを上げ、先輩に近づいた。
「ねぇ先輩……。約束とかじゃないんだけど、」
「うん? なあに?」
ゴクリと息を呑み、鼻と鼻が当たりそうなくらい顔を近づけ、ずっと気になっていたことを聞いた。
「……キスとかする?」
周りに聞かれないように息に近い声で先輩に尋ねる。
私たちの間に、一瞬の静寂が走る。先輩のまんまるな目が私の目を貫いた。
ひどく恥ずかしくなってしまい、すぐに先輩から離れて目をそらし、また水を飲んだ。
目の前の止まっていた先輩は、唸るながら動き始めた。
「したくなったらすればいいよ。無理してやるものじゃない」
「へ?」
予想外の答えにぽかんと口を開く。先輩のことだから「したいよー」なんて私のことをからかってくるかと思っていたのに、目の前の先輩はいたって真剣な表情をしている。
「そっか。そうだよね」
心の奥のどこかで安心している自分がいた。
先輩が嫌いなわけじゃない。でも、キスしたり抱きしめたり、そういうことはしたい、と思うことは無かった。むしろ、自分がどうなってしまうのかという恐怖があった。
付き合ったらしなくてはいけないものだと思っていたそれも、選ぶことが出来るんだ。
真面目に反応されたことに私の恥ずかしさは倍増する。
「朱音もそんなこと考えてたんだねぇー」
「うるさい」
「可愛いねぇ」
「うるさい。黙って」
私が予想していた反応も、先輩はしてきた。
私は、ニヤニヤしてくる先輩を無視して、タッチパネルで美味しそうなパンケーキを注文した。
私たちはお互い付き合っていながら、別の男の子のことが好き。
何もおかしくない。それが私たちの普通だ。
誰かに対して初めて、雄大と奏が好きだと認められたことが嬉しくて、私の気持ちは踊り出しそうだった。




