【波北朱音】あるはずのないこと
翌日の昼休み、二年生の教室に向かった。
昨日、私は先輩を傷つけてしまった。先輩の告白を疑って、すぐに何も言えなかった。一言、好きだと言ってくれて嬉しいと言えば良かったのだ。
来週はテストがあるから先輩に会えない。先延ばしにしてはいけないと直感が言っている。本当は、昨日のうちに先輩に会えたら良かったのだけれど。
大きな二年生らしき人たちに紛れ、いつもつばさのコンサートが行われている二年二組へ行く。ドアからひょろりと顔を覗かせると、なぜかたくさんの人から注目を浴びる。
その中の一人につばさがいた。周りの人も大きいけれど、つばさは一際大きくて目立っている。
大きなおにぎりをモグモグと食べているつばさと、ぱちりと目が合う。
「え……、え! どうしたん、朱音ちゃん!」
つばさは私を二度見してから、ガタンと大きな音を立てて立ち上がる。そして、こちらに走ってやってきてくれる。
「お、つばさ一年生に手出してんのかぁー?」
つばさと同じ輪の中にいる一人が、私の方を見ながら声を上げる。なんともいやらしさが見え透いた目で見られる。
「うるっさい!ちゃうわ!」
目の前までやってきたつばさが、大きな身体で私とその人を阻むかのように立ち止まった。私は大量の視線から、やっと逃れられた。
「ごめんな朱音ちゃん。どうしたん? なんか困ったことでもあったか?」
つばさが優しい声で私に尋ねてくれる。
第一印象は威圧感があったつばさだが、今ではパパのような安心感がある。
私は両手を前で組みながら、ここに来た目的を言った。
「あの、先輩に……。清水先輩に会いたくて」
言葉が浮かばず『会いたい』なんて意味のわからない発言をしてしまう。
しまった。委員会のことで、とかそれっぽい理由を考えておけばよかった。
「そっか。そうなんや! あいつな、ここやなくて四組やねん。それに今は教室やなくて食堂か図書室におるやろし、どうしよか」
私の意味不明な言葉にも優しく対応してくれるつばさ。思わず、気が抜けて、口からふう、と息が出る。
先輩が子供っぽいのはつばさのせいだ。こんな包容力のあるつばさが友達だから、精神年齢が下がってしまっているのだろう。
「放課後教室行くように伝えとこか?」
「お、お願いします……!」
「りょうかーい。まかしとき!」
目の前でつばさは黒い肌に反した真っ白な歯をキラキラと輝かせた。
今までつばさのコンサートに私が参加する意味あるのかと思っていたけれど、参加していてよかったと初めて思った。
六時間目。数学の授業を聞き流しながら、『嬉しかった』の一言を何度も頭の中でシミュレーションしていた。そのあとの先輩の反応もたくさん予想していく。
一、『本気にしてたのー』と馬鹿にしてくる。
二、『嬉しかったのかー』と馬鹿にしてくる。
三、『そんなこと言ったっけ?』と馬鹿にしてくる。
どうしても馬鹿にしてくる先輩しか私の頭には浮かばない。いつも先輩が私に見せる表情が、余裕そうな顔しかなかったからだ。
本や音楽に対しては泣いたり真剣になったりするけれど、私に対して真剣になるのは昨日が初めてだった。いつも先輩は私の予想できないことばかりしてきて、意地悪ばかりしてくる。『予想できないことをしてくる』なんともおかしすぎる予想をしておくことにしよう。
先生の話も頭に入れず、先輩のこと頭をいっぱいにしているとチャイムが鳴った。私はぽかんとした状態で授業を受けていた。図書室で宿題しているときの抜け殻とは違う。頭の中は先輩で飽和していて、新しい情報が頭に入らない状態になっていた。
学級委員の号令で授業の挨拶をした勢いで、雄大の席に近づく。いつもは、雄大と帰っているけれど、今日は帰れない。
「ねぇ、雄大」
「ん……?」
「用事あるから先帰っといて」
「ん……。あぁ、おうー了解ー」
雄大は私の話を聞いているのかいないのか、わからないようなうつろな目をしている。授業中も机に伏せていたから、きっと寝てたのだろう。
この前補習になったばっかりだというのに、相変わらず呑気だな。そう思いながら、自分の席に戻り帰る準備を始める。
担任が教室に戻ってきて、終礼が始まる。
終礼中もぼんやりとしている雄大を後ろから見ながら、私の胸はだんだんと昨日の放課後のように早くなっていた。胸がドクドクドクと高鳴っているのが自分でも聞こえる。先生の話し声よりも、自分の胸の音の方が大きい。まるで海の中に潜って出られなくなったみたいに、苦しい。
お前らちゃんと勉強しろよ、と先生は普段より早めに終礼を切り上げた。続々とみんなが立ち上がる。
もうすぐ先輩がこの教室に来る。
そう思うと気が気でなかった。昨日私を好きだと言った先輩が教室に来る。私はどういう顔をすればいいのだろう。
「じゃあ、さよーなら」
先生の合図とともにクラスの大半以上は早く帰ろうと教室から出ていく。私もとりあえず流れに身を任せ、トイレへ向かった。
まだ他のクラスは終礼をしているから、トイレには誰もいなかった。
個室には入らず鏡の前で前髪を整える。そして、口角を上げたり、下げたり、嬉しかった、と心の中で言いながら表情の練習をする。
何をしているのだろう
ふと我に返る。鏡の前で自分とにらめっこをする私を、入って来た子が不思議そうに見ていた。
恥ずかしさのあまり、小走りで教室に戻る。教室にはもう残り五人しかいなかった。黒板の近くでたむろしている。
私は自分の席に座り、単語帳を開いた。ペラペラと次のテスト範囲の英単語を眺めていく。
「喧嘩したのかな?」
「さっき普通に話してたけどなぁ」
「結局どっちと付き合ってるのかな」
「さすがに月岡くん選ぶんじゃ無い?」
教室の前の方で、五人組の女子たちがチラチラと私を見ている。
どっちの方が好きなのか。
よく問われる質問だ。多分、奏と雄大はそんなこと聞かれないと思う。私だけ女子なのもあるけれど、奏と雄大が人気者だから聞かれるというのもあると思う。
「でも毎日一緒に帰ってるってことはやっぱり波北さんと雄大。付き合ってるのかな」
「ありえるー」
こそこそと話す声が頭に響く。
あるわけがない。私たちは、家族みたいなもので、恋愛になることは絶対にない。奏と雄大、どちらかを選ぶなんてことはまずない。
私は単語帳を閉じ、立ち上がった。
「付き合ってないよ。幼なじみなだけ」
自分の席から一歩も動かず、声を上げた。
さすがに、雄大に悪い。
喋ったことのない女子五人組は、聞こえていないと思っていたようで、皆が皆、びくりと肩を揺らして苦笑いしてから、何も言わずに出て行った。
彼女らがいなくなり、教室には私の心臓の音だけが響いていた。再び自分の席に座り、机に突っ伏した。
ちゃんと話せるだろうか。私が嬉しいと答えたら、先輩は喜んでくれるだろうか。次は、無理に笑わせずに、傷つけずにいられるだろうか。
今日で先輩と話せるのが終わりになったりしないだろうか。
たくさん考えると余計に苦しくなって、息を吸うため顔を上げる。
勢いよく顔を上げたから、首の骨がポキリと鳴った。
「うわぁ!」
誰もいないはずなのに、私の真後ろから声がした。
後ろを振り返ると先輩が驚いた表情で立ち尽くしていた。目に、急に光が差し込んできた私は一瞬眩暈がして、眉間にしわを寄せた。
「急に動き出したからびっくりした……。やっほー!」
呑気そうに笑う先輩の感情はやっぱり読み取れない。
昨日のことはなかったことのようになっている。
予想以上に、展開が早すぎて心の準備が追いつかない。
心臓の音が私の喉を詰まらせた。
「どうしたの? 昼休み、教室に来たってつばさから聞いたけど」
先輩は猫のような声で、にっと歯を出しながら笑い、私の後ろの席に座った。
昨日の別れ際と同じ顔だ。先輩に似合わない、大人びた笑顔。
その顔を見た瞬間、自分に自分の背中を押されたような、焦る気持ちになった。
昨日と同じではダメなのだ。ちゃんと言わなくちゃ。
「あ、あの! 昨日の! 嘘でも嬉しかった……です」
私は恥ずかしさのあまり、「嘘でも」なんていらない言葉をつけてしまった。最悪だ。
先輩に顔向けできなくて、後ろにいる先輩に背を向け、何も書かれていない黒板を眺める。
何か言って。もういっそ笑って馬鹿にして。
顔に熱くなって、耳も熱くなっているのを感じる。初めての感情に私は自分で順応できなかった。
すると後ろから、ズビズビと鼻を啜る音が聞こえた。
急いで振り返る。
先輩は泣いていた。予想外の反応に私の思考は止まった。
「気持ち悪がられたかと思った。もう嫌われたと思った」
先輩は泣きながら、子供のようにそう言って机に突っ伏す。そして肩をビクビクと揺らしている。
本を読んで泣いていた時とは様子が違う。悔しさでも寂しさでもない。嬉しい気持ちが溢れて、笑顔を飛び越えて感情的になっているのだと思った。
私がそんな先輩をそうさせているのか。
そう思うと、胸が高鳴った。先輩を悲しませたかも知れないという不安は消えたのに、胸の音は消えなかった。知らない感情ばかりが、私の中に勝手に押し寄せてくる。
衝動的に目の前で伏せている、先輩のくせ毛でふわふわの頭を撫でた。すると、いきなり撫でていた私の右手が強引に掴まれた。
「付き合いたい。お試しでもいい。好きになる可能性があるならお願い」
先輩は顔を上げ涙がたまった潤んだ目で私に訴えかける。
先輩の潤んだ目に、その中に私が映っている。
私は先輩の目に映る自分を見ながら小さく頷いた。脳内で考えることもなく、反射的に答えが出た。いつも何事も考え込んでしまうはずの私は、どこかおかしくなってしまった。
でも多分、私の告白の答えに初めてイエスという選択肢が出てきたことがもう答えなのかもしれない。だから、これでいい。そう思った。
女の子の私は、女の子の清水伊織と恋人になった。
あるはずがないと思っていたことが、自分の身に起こった。
家に帰って先輩に借りた小説を読み切った。
殺人犯の女の子、Aに対し弁護士が、本当は被害者の恋人である女の子が好きだったのでは無いかと問い続ける。
Aは頑なに否定し続けるが、弁護士から、「あなたのしたことは法に反している。でも、あなたの好きという気持ちは何の間違いでも無いんだよ」と言われ、本当の事を打ち明ける。
最後にAはこう打ち明ける。
「好きと言えないことが苦しくて、誰にもわかってもらえないことが苦しくて、私の方が好きだって証明したかった。罪を犯せるほど好きだって証明したかった」
本をパタリと閉じる。
Aがしたような経験、きっと生涯することはない。人を殺すなんてあってはならない。
でも、それぐらい、誰かの事を好きになってみたい。そしてそれを、ありのまま伝えてみたい。
夜、一人の部屋で先輩のキラキラと輝く笑顔を思い浮かべながら、そう思った。




