女神
だが、平和な休日は唐突に終わりを迎えた。
食事を終えて会計を済ませ、いざ解散するかというとき、フジコがふっと振り返った。
ある一点を見つめている。
「どうした?」
俺はもう答えが出ているにも関わらず、あえてそう尋ねた。
彼女の答えはこうだ。
「霧が出る……」
どっちだ?
本物か?
偽物か?
ブーッと空が鳴った。
残念ながら本物だ。
「みんな早く外へ!」
俺は誰にともなく言った。仲間だけでなく、それ以外の人たちにも逃げて欲しかった。だが客の何人かは、ただキョロキョロするだけ。店員もどうしていいか迷って他人の顔をうかがっている。
説得している時間はない。
俺は走った。
駐車場にフローターがある。
「乗せてくれ! 電車で来たんだ!」
「俺のに乗ってください!」
明智さんは俺が逃がすとしよう。
フジコは、向井さんのフローターで逃げるだろう。
その他の人たちは、自分たちでなんとかしてもらうしかない。フローターは二人乗りだ。頑張れば四人まで乗れるかもしれないが、それ以上は搭乗スペースがない。
ビルの合間に霧が出た。
人々は必死の形相で逃げまどい、車は交通法規を無視して急発進し、信号無視して突っ込んで来た車が事故を起こした。
最悪だ。
いや、本当に最悪なのは、フジコがいつまでも逃げようとしなかったことだ。
「フジコさん! 早く!」
向井さんが声をかけるが、フジコは動かない。
「先に逃げてて」
「はい? えっ? なんで?」
「あの霧、ぶっ飛ばしてやる」
完全にキレている……。
霧は迫ってくる。
俺たちが逃げる方向はまだ大丈夫だが、その手前の道は事故でふさがっていた。だから車に乗っていた人々も、外へ飛び出して走り出した。
青黒い霧が壁のように押し寄せてくる。
ビルの隙間を埋めるように、ぐいぐい来る。
表面に張り付いた無数のヒトたちが、苦しそうに足を動かしている。
ガヤガヤとなにか喋っている。
「おい、フジコ! マジで逃げろ! 消されるぞ!」
フジコは不死身かもしれない。
だが、霧の被害は、そういう物理的なダメージとは根本から違う。いくらフジコでも消滅する可能性がある。
すでに何人もの人間が、霧となって消滅していた。
足の遅いもの、転倒してしまったもの、腰を抜かしてしまったもの、諦めたものは、容赦なく霧に飲まれた。
あるいはビルの中にいて、そこにいれば安全だと思い込んでいる人たち。いや、大丈夫なケースもある。霧が及ばないほどの高所にいる場合だ。だがそうでない場合、隙間から入ってきた霧にやられる。
いま、道路の中央にフジコが立っている。
霧はじわじわ迫っている。
強引にでも連れ去るべきか。
あまり近づくと、俺たちまで手遅れになる可能性がある。
フジコが前進を始めた。
もう俺たちでは救えない。
「どうした? 逃げないのか?」
明智さんがせっついてきた。
フローターなら、ギリギリまで迫られても引き離すことができる。交通事故に巻き込まれなければ。
いまは余裕がある。
少なくとも、あと数十秒は眺めていられる。
俺はフジコの背を、ギリギリまで見送るつもりでいた。
本当にバカなヤツだったが、彼女の怒りや葛藤は理解できた。この霧にはみんなうんざりなのだ。いきなり現れて、一方的に命を奪ってゆく。
戦えるなら戦いたい。
青黒いヒトが手を伸ばしている。
フジコはそこへ、振りかぶって拳を振るった。
当たらない。
触れることはできない。
よくヒトに「捕まる」という表現をされるが、あくまでそう見えるだけなのだ。実際は、霧に飲まれることで存在を消される。
だが、霧の進行は止まった。
フジコの目の前で。
葛藤しているかのように、青黒い壁がゆらゆらしている。
まさか、フジコの存在を認知しているのか?
時間が止まったように見えた。
なかば逃げるのをあきらめていた人たちも、振り返ってその光景を見た。
女が霧を止めている。
誰もがその姿に注目し、それから映像を撮影し始めた。
ぽつぽつと「ヤバい」「すごい」などの感想が漏れてきて、すぐに大歓声になった。
フジコが歩を進めると、霧は後退した。
しかもフジコは、自分が凄いことをしているという自覚もないのか、やたらギャーギャー騒いでいた。
「どうしたの!? 私を消してみなさいよ! ホラ!」
キレながら、ずんずん前へ進んでゆく。
街を覆わんばかりだった青黒いスモッグは、たった一人の女に押し返されていた。
人々は熱狂していた。
なにも知らない人たちは、それでもいいんだろう。
人類が霧を撃退している。
奇跡が起きた。
ポジティブな光景だ。
だが、おそらく、いま取り返しのつかないことが起きている。
こんな能力のある人間を、各勢力が放っておくわけがない。
水面下で動いていた連中だけでなく、大メディアも動かざるをえなくなる。
あるいは政府でさえも。
SNSを見ると、映像はすでに多くのユーザーに拡散されていた。
グッドされ、コメントがつけられ、一瞬で世界に共有された。
すると次に「あの女は何者なんだ?」という疑問が駆け巡った。
どこそこで見かけたとか、知り合いに似ているとか言い出し、あるいは卒業文集を載せるものまで現れた。なにが事実かは分からない。なにせ俺たちでさえ、フジコが何者なのか知らないのだ。
コラ画像が作られ、ネットミームに組み込まれた。
事態が発生してからまだ数分だというのに、凄まじい速度で消費されてゆく……。
霧は、みるみる収束していった。
フジコはそれを追いかけた。
いったいどこにいたのかというほどの群衆も、そのあとを追った。
俺は動かず、ただ彼らを見ていた。
群衆というのは、それ自体がエネルギーだ。ヘタすると霧よりも危ない。
明智さんが溜め息をついた。
「まるでドラクロワの女神サマだな」
「なんです?」
「有名な絵画だよ。それより、前に言った『オーシャン』って覚えてるか?」
「アメリカのやってるプロジェクトですよね?」
「その資料の中に、『海を割る者』の記述があってな。いや、あくまで参考資料として掲載されてたものなんだが。ちょうどこんな光景が描写されていた。青い海を押しのけて進む英雄の姿がな」
言い伝えは事実だった、というわけか?
紅海は「レッド・シー」だから「オーシャン」ではないが。いや、イルカとクジラ程度の違いだろう。
「フジコがそうだと?」
「俺にはそう見えるぜ」
仰る通り。
俺にもそう見える。
「これ、かなりの事件ですよ。各勢力はどう出ます?」
「少なくともアメリカは、なんらかのアクションをしてくるだろうな」
「でも、ここは日本ですよ? アメリカの思い通りになりますかね? 先にカルトが動き出すかも」
俺の問いに、明智さんは渋い顔を見せた。
「お前……」
「え、なんです?」
「いや、いい。どうせ結果は一緒だからな」
「どういう意味です?」
教えてくれてもいいだろう。
明智さんは盛大な溜め息をついた。
「あのカルトは、そもそもアメリカが作ったんだよ。ハナから日本に選択肢なんかねぇのさ」
「はい?」
「ま、証拠は確たる証拠はないけどな。断片的な情報を集めるとそういうことだ」
*
フジコに追い込まれた霧は、最初から存在しなかったかのように、忽然と消え去った。
それは本体のない、泡のような存在だったというわけだ。
だが映像にはしっかりと残っている。
帰宅した俺は、ベッドに転がりながら、それらの映像をぼんやり眺めた。
『日本政府が、メディアを通じてフジコさんへの接触を試みるようです』
機械音声がそう教えてくれた。
もう正体が分かっているのに、烏丸麗は相変わらず機械音声で話しかけてくる。
「そっちはどう動く?」
『そっちとは? 私自身ですか? それとも結社?』
「両方聞きたいな」
正直、彼女に聞き返されるまで、俺はカルトのことしか念頭になかった。
彼女と母親は、同じ組織に属しているが、考えは別なのだった。
『母は、アメリカの動きを待つと思います』
「アメリカの傀儡って噂は本当なのか?」
『私にも確証はありません。ただ、状況を見る限り、常にアメリカの意向に沿っていますので』
ガッカリだな。
カルトまでもがアメリカのツラをうかがって活動していたとは。
せめてカルトくらいは、独自の価値観で動いていて欲しかった。
「あんたは?」
『恥ずかしながらノープランです。この件で派手に動けば、結局はフジコさんを保護できないだけでなく、行動を怪しまれるだけですから』
「一理ある。じゃあ、ある日突然フジコが姿を消す可能性もあるわけか」
『明智さんが手を尽くしてくれるそうですが、結果がどうなるかは……』
「分かった。情報ありがとう」
とはいえ、明智さんは、支部という名の自宅でパソコンをいじっているだけの中年男性だ。過剰な期待をすべきではない。
相手がアメリカであるにせよ、日本政府であるにせよ、カルトであるにせよ、当然だが、俺たちは組織力では勝てない。
つまり一発逆転の手が必要になってくるわけだが、基本的に、そんな策は存在しない。
俺たちだって頭を使うつもりでいるが、相手側も優秀なのを揃えている。
物量でも、頭脳でも、どちらも勝てない。
ただしそれは、あくまで総力戦をした場合の想定だ。
一時的にでも切り崩し、分断できれば、少なくとも物量では張り合えるようになる。
運がよければ頭脳でも。
デカい組織はほころびやすい。
なんならデカすぎて自壊する。
歴史上、デカいものは、だいたい勝手に崩壊してきた。誰かがその手伝いをすれば、崩壊は加速する。
なかなか崩壊しないデカいものもあるが、そういうものは、じつは周囲がコントロールしているだけだ。
問題は、霧による人口減少のせいで、あらゆる「デカいもの」の規模が半減していることだ。
ある意味で盤石になっている。
ただ、これとてあくまで「フジコを守るならば」という前提の話だ。
もしフジコを見捨てるならば、俺たちはそんな「デカいもの」とやり合う必要がなくなる。
世界には「能動」と「受動」がひしめきあっている。
能動とは、みずからの意思でエネルギーを動かすことを言う。
受動とは、世界――すなわち自分以外の全存在がエネルギーを動かし、その結果が自分に波及することを言う。個人の意思とは無関係に、信じられないほど巨大なエネルギーが駆動し続けている。自然災害もこれに該当する。
もちろん個人は「完全な無力」ではない。
個人の有するエネルギーが、世界のエネルギーに食われない限りにおいて、目的は常に達成される。
有名な「トロッコ問題」はその縮図だ。
世界が否応なく選択肢を奪うせいで、個人には限られた選択肢しか残されない。その選択肢の中で、俺たちは「こっちがいい」「いや、こっちがいい」と思い込む。別に正解はない。この場合、クソなのは世界のほうだ。
能動と受動の入り乱れた世界観は、「中動」または「中動態」と表現される。
能動と受動の両者が成立している世界観だ。
能動だけで価値を判断しない。
受動だけで価値を判断しない。
そういう見方だ。
可能なことは、可能である。
だが、不可能なことは、不可能である。
バカみたいに要約すれば、そういうことだ。
俺は当然のことを、いまさらのように言っている。
だが世の中には、そのときどきの都合によって、「能動だけ」あるいは「受動だけ」で判断する人間がいる。俺はそういう意見は聞かない。シンプルに「愚か」だからだ。
いや、いい。
俺は言い訳をしたいだけだ。
つまり俺がフジコを見捨てたとして、それは仕方のないことなのだと。
可能なら助ける。
だが、不可能であるなら、いっそ別のことにエネルギーを使ったほうがいいのだと。
(続く)




