特殊任務
月曜日。
ポラリス興信所、オフィス。
俺はそわそわしていた。
フジコの遺伝子を採取するため、唾液を回収する使命を帯びている。
変態ではない。
治療のためだ。
「な、なあ、フジコ、ガム食うか?」
「は?」
こいつは朝から、会社のPCで堂々とエロサイトを見ている。
マネキンみたいな顔だから、それでも真面目に仕事をしているように見える。
「だから、ガム……」
「見て分からない? いま仕事中なんですけど? ガムとか……。常識足りてる?」
「仕事してないだろ」
「でも職場でガムとかなくない?」
「確かに……」
俺はバカだ。
まともな職場には、仕事中にガムを食ってるようなヤツはいない。
「あー、えーと、じゃあ、なんか飲むか?」
「じゃあ?」
「いや、ところで? あるいは? もしくは? バイザウェイ?」
「さっきからなんなの? もしかして、私のこと狙ってる? エッチしたいとか思っちゃってるわけ?」
「違うよバカ野郎。俺はただ……」
「ただ?」
「救いたい人たちがいるんだ」
「はい?」
まあ、そうだろう。
あきらかにおかしい。
俺はつい溜め息をついた。
「いや、邪魔して悪かったよ。もう行く」
「エッチしたいならそう言えよ、ザコ」
「うるせぇ、死ね」
クソが。
小学生みたいな会話させやがって。
レベルの低いヤツに絡まれると、こちらのレベルまで低下する。いや絡んだの俺のほうか。
席へ戻ろうとすると、不快そうな顔の各務に呼び止められた。
「内藤さん、ちょっといいですか?」
「はい?」
「こっち」
また嫌味でも言ってくるつもりか?
こいつは上司でもないくせに、ネチネチうるさいからな。
*
自販機のある休憩所まで誘導された。
先客はナシ。
こいつの趣味は、人前でマウントを取ることだったはず。
人目もないこんな場所で、いったいなにをする気だ?
各務はこちらへ背を向け、窓から階下の様子を見下ろした。人をゴミのようだとでも思っているのかもしれない。
「内藤さん、ちょっと聞きたいんですけど」
「はい」
「二人って、付き合ってたりします?」
「はい?」
「いや、まあ、プライベートな領域なんで、どうしてもというわけでは……」
なんだこいつ?
なにが知りたいんだ?
「二人って、俺とフジコのこと?」
「そうですよ?」
「いや、付き合ってないですけど」
「でも狙ってるでしょ?」
「狙うっていうか……。いや、少なくとも恋愛という意味では狙ってないです」
狙っているのは唾液だけだ。
ほかはどうでもいい。
すると各務は、ようやくこちらへ向き直った。表情を消しているせいか、意図は読めない。
「え、ウソですよね?」
「だからウソじゃないって。過去にも全然そんな空気になったことないし。なんなんです? それが聞きたかったこと?」
「いや、フジコさん、そういうのどうなのかなって……」
「どうって? 男関係? そういや聞いたことなかったな……。けど前の職場では、ずっと事務所にこもってましたし、男がいるって感じでもなかったな」
だがちょくちょく「さっきナンパされちった」と自慢してきたことはあった。
きっと出会いはあったが断ってたんだろう。
各務はそこで、ようやく表情を崩した。というより、露骨にうかがうような目で見てきた。
「フジコさんの好きなタイプって、どんな感じだか分かります?」
「えぇっ? いや全然だな」
「ヒントだけでも!」
なんだこいつ?
フジコのことが好きなのか?
まあツラはいいのは認めるが……。
「ヒントもなにも……。まったく思い当たる節がないんで」
「え、でも仲いいですよね? え、じゃあ内藤さんみたいな人がタイプってこと?」
「ンなわけないでしょ」
フジコはたまに際どいネタを振ってくるが、あれはきっとそうならないという確信があるからやっているのだ。
それくらいは俺にも分かる。
「どんなテレビ観てました? 好きなお笑い芸人とかは?」
「あいつエロサイトしか見ないですよ。あ、でも待てよ。映ってんの毎回女だな……」
「はい?」
「いや、後ろに回って見てみてくださいよ。あいつマジで、いっつも女体ばっか見てますから」
「……」
各務は絶望的な顔になった。
「え、つまり僕じゃムリってことですか?」
「いやそうと決まったわけじゃ……」
「決まったようなものじゃないですか! 僕じゃ門前払いってことでしょう?」
「いや、だからさ。いまのはただの推測で……。あ、分かった。じゃあ、あのね、フジコ、とある女の子の家に居候してて、もしかしたらその子が情報持ってるかもしれないから、あとで聞いてみますよ。結論出すのはそのあとでも……」
するといまにも気絶しそうな顔だった各務は、ハッと我に返ってこちらを見た。
「いいんですか?」
「たいした手間じゃないし」
「分かりました。あの、もちろんですけど、フジコさん本人には内緒でお願いします」
「言いませんよ」
「あの、それじゃ、頼みましたからね。報告お待ちしてます」
各務は行ってしまった。
正気に戻ってくれてよかった。
どうしようもないクソ野郎ではあるが、フジコを押し付けておとなしくなるなら安いものだ。
すると、すれ違うようにして、なんとも言えない表情の越水が近づいてきた。
「モメ事か?」
「いえ、ちょっとした雑談ですよ」
「隠さなくていい。あいつは以前から、お前たちを敵視してたからな。きっと不快な言葉を投げかけられたんだろう」
気にしてくれているのは嬉しいが、あきらかに誤解している。
いつもはその通りだが、今回に限っては違うのだ。
だが越水は、自販機でコーヒーを二つ買い、一つを俺に渡してくれた。
「ありがとうございます」
「あいつ、そこそこいい大学出てるんだが……就職活動に失敗してな。しばらくニートをしてたらしい。そのとき、仲間たちの活躍を見せつけられて、だいぶヘソを曲げてな。荒れてたんだそうだ。見かねた親がコネを使って、なんとかここにねじ込んで。だがあの態度だろ? 周囲と折り合いが悪くてな」
「はぁ」
マジの話が始まってしまった。
ひとまずコーヒーでも飲むか。
「自分はデキるヤツだと思い込んでるから、現場でもスタンドプレイが多くて。信じられないようなヘマをする」
そのヘマは俺も目撃した。
「よく生きてますね」
「運がよかったんだろうな。普通なら死んでる。しかもここでは、主力は一班。俺たち二班はニート班なんて呼ばれててな。あいつ、それを気にして、とにかく成果をあげようとして……。それで空回りだ」
「いろいろ合点がいきました」
「俺も最初の就職で痛い目を見たから、あいつの気持ちは分かるんだ。だが、そのせいで甘やかしすぎたかもしれない。だから、あいつの態度でお前に不快な思いをさせたなら、その責任の一端は俺にもある。その点は、申し訳ないと思ってる」
「いえいえ、大丈夫ですから」
フジコの唾液を欲しがっただけなのに、なぜこんな話に……。
「じつはな、俺も社長も、むかし芝さんの部下だったんだ」
「えっ?」
「昔、もっと大きな事務所があって、そこでな。あのときはホント世話になった。いまはもう、その会社もなくなってしまったが……。だが俺も社長も、芝さんへの恩は忘れてない」
俺も同感だ。
ボスはビッグな男だ。
ついて行きたくなる。
唾液集めは本気で引いたが。まあ、ちゃんと理由もあることだし。
「各務のことは、俺もちょっと対応を考えるよ。だから内藤、できればあいつを追い詰めないでやって欲しいんだ。虫のいいことを言ってるのは、俺自身もよく分かってる」
「はい。まあ……はい」
なんも言えぬ。
だがまあ、状況を改善する気があるのなら、それは素直に歓迎したい。
*
その日、俺はフジコの唾液を回収できなかった。
失意のまま帰宅し、タブレットで向井さんに連絡をとった。
>久しぶり
>フジコどう?
我ながらクソみたいな文面だ。
返事はすぐにあった。
>元気ですよ!
本当にいい子だ。
俺だったら「元気ですよ」じゃなくて「ぶっ殺したいです」と返してるところなのに。
>変なこと聞いていい?
>フジコって、普段どんなテレビ見てる?
返答はこうだ。
>テレビは見ないですね
>その代わり、よくスマホで動画見てます
エロ動画だ!
あの女、向井さんの前でクソみたいなことしやがって。
>好きなお笑い芸人とかは?
なかば虚しくなりつつも、俺はそう尋ねた。
回答はこうだ。
>ごめんなさい
>分からないです
>全然そういうの見ないんで
あの女、虚無なのか?
特異体質じゃなかったとしても、あいつはそもそも特異だったのかもしれない。
もう面倒になったので、俺は思い切って尋ねることにした。
>フジコって、どんな男がタイプか分かる?
誤解されてもいい。
早く答えが欲しい。
すると向井さんは、やや間を開けてこう返してきた。
>ポラリスの人に頼まれたんですか?
鋭いな。
俺が「じつはそう」と返すと、彼女は笑顔の絵文字を貼ってきた。
>タイプは分かりませんが
>ちょっと探ってみますね
>なにか分かったらまた連絡します!
フジコは無料で居候しているだけでなく、おそらく食費さえ払わず飲み食いしていることだろう。向井さんは、そんなヤツの好みのタイプを調べてくれるという。
間違いなく天使だ。
俺は「ありがとう」と返した。
さて、やり取りが終わって素に戻ると、急に寂しくなった。
ガランとした部屋だ。
特にこれといったものもない。
テレビもないから、音も流れてこない。
子供のころから住んでいたマンションだ。
父と母は田舎に引っ越した。
ここには俺だけが残った。
親には毎月金を払っている。
ベランダからは夜景が見える。
俺が小学生のころにできたビルは、当時はピカピカで信じられないほどキレイだったのに、気づいたときにはひとつも特別じゃなくなっていた。
夜中まで騒ぐ学生はいるわ、イヌは吠えるわ、酔っ払いは歌うわで、本当に不快なことが多いマンションだ。
だが、なぜか住み続けている。
単に惰性のなせる業かもしれない。
電話が鳴った。
表示はナシ。
「ハロー?」
すると機械音声が流れてきた。
『いま会えませんか? マンションの入口にいます』
「はい?」
『少しお話ししましょう』
モテモテだな。
ただ、うかつに顔を出したらどこかに連れ去られるか、あるいはその場で蜂の巣にされるかもしれない。そういう相手だ。
だが、同時にこうも思うのだ。
もしこいつらが本気を出したら、どれも警告ナシに実行されているはずだ、と。
電話で呼び出す必要なんかない。
実際、俺の住所を特定しているのだ。なにか仕掛けるつもりなら、待ち伏せしてとっくにやっていることだろう。
「いま行く」
『お待ちしていますね』
機械野郎のツラを拝ませてもらうとしよう。
(続く)




