なんも見えねぇ
その日は、朝から清々しい秋晴れだった。
人類が激減してからというもの、皮肉にも街の空気はうまくなっていた。
ある日、世界を青黒い霧が覆い尽くした。
そして霧が晴れたかと思うと、人類の大半が消え去っていた。
ハッキリとした数字は出ていないが、地球上から半分の人類がいなくなっただろうという話だ。
そう。
人類だけだ。
イヌもネコも消えていない。
科学では説明がつかない。
街の景色も一変した。
あきらかに人の数が減った。
通行人も減った。
電車の本数も減った。
店も潰れた。
ネットの書き込みも減った。
どこもかしこもスカスカになった。
それだけじゃない。
急にラッパのような音がすると、青黒い霧が現れ、いくつものヒトの姿となって襲ってくる。
そう。
それはあきらかにヒトなのだ。
ところが政府は決してそれをヒトだとは言わない。
圧力がかかっているのか、ニュースもそれをヒトとは言わない。
彼らはあくまで「青色スモッグ」とだけ表現した。
だが、誰もが気づいている。
それはヒトだ。
生きている人々に襲いかかり、霧にして連れ去ってしまう。
*
だが、世界が滅んだとは言いがたい。
つまり働いて金を稼がないと、メシが食えなくなってしまう。霧に怯えるどころではない。
「おはようございます」
「おはようございます」
異常事態だというのに、「職場」の挨拶は相変わらずだ。
雑居ビルにある小さな事務所だ。
職員の数も多くない。
もとは探偵事務所だったらしいが、少なくとも現状「何でも屋」としか言いようがなかった。非合法な仕事は以前からあったが、霧の一件以降、さらに増えた。
いや、俺は裏の世界の住人じゃない。
ただここで雑用をやってカネをもらっているだけの一般人だ。運び屋という言い方もできるが、ほとんど使いパシリみたいなものだった。
ただ、まあ、時勢が時勢なので、護身用に銃を持ち歩いている。
というかボスに押し付けられている。
それを咎める人間もいない。法が機能していないというほどでもないが、警察もそんなのを取り締まっているほど暇ではなかった。警察官も減っているわけだし。
「内藤、配達頼めるか?」
「はい」
奥からボスが出てきた。
背の高い角刈りの男だ。
室内だというのに、クソデカいサングラスをしている。
昔の刑事ドラマのコスプレにしか見えないが。
「急ぎですか?」
俺が尋ねると、ボスはかすかにかぶりを振った。
「時間通りに行けばいい。詳細は向井が伝える。頼んだぞ」
「はい」
それだけ言って、社長室に入ってしまった。
向井というのは、ここの唯一の事務員。
小柄で愛嬌のある女性だ。
肩まである髪を後ろで縛ってポニーテールにしている。
彼女は立ち上がると、こちらへ近づいてきた。
「これが予定表です」
「はいはい」
紙の資料だ。
この事務所では、どの資料もほとんど電子化されていない。
荷物の受け取り場所は、ここから南に数十分の場所。
配達先は、そのとき現地で教えてもらえるようだ。
向井さんが資料を覗き込みながら言った。背が低いからつむじが見える。
「あのー、じつはこの場所、ちょっと治安がよくなくて……」
「え、どっち?」
俺の質問の意図はこうだ。
法と秩序を遵守しない悪い人間がいるのか、あるいは霧の多発地点なのか。
彼女は苦い笑みを浮かべて言った。
「霧……なんですよね……」
「そっちか」
溜め息が出た。
悪い人間なら、銃を見せればなんとかなる。
だが霧はダメだ。脅しは通じない。言葉も通じない。問答無用で襲いかかってくる。
「依頼人の指定した時刻は十一時です。それまでは、少し離れた場所にいるのがいいと思います」
「ありがとう。そうするよ」
*
俺はスタッフ用のジャンパーを羽織り、外へ出て、いまとなっては貴重な自動販売機で缶コーヒーを買った。
クソ甘いミルクコーヒーだ。
朝は糖分をとったほうがいい。
「腕が鳴るわね」
「鳴らない」
黒いスーツの女が話しかけてきた。
同僚、ということになるんだろうか、いちおう。
マッシュルームカットをした、マネキンみたいな顔立ちの女だ。美人といえば美人だが、整いすぎていて造り物みたいに見える。
彼女は眉をひそめている。
「は? まさか置いてくつもり?」
「その『まさか』だ」
「この美女を後ろに乗せてドライブしたいと思わないの?」
「思わないんだな、これが」
俺は缶をあけてぐびぐびやった。
本当にクソ甘い。
メーカーはいったいなにを考えてこんなに糖分まみれにしたのだろうか。いや、だが、俺はこれを求めて毎回このコーヒーを買ってしまう。
エンジンを動かすには燃料が要る。
「内藤さん、私はね、暇なのよ。向井さん、あんまり話に乗ってくれないし。そもそもあの子、私のネタに渋い顔するばっかりで、いまいち盛り上がらないのよね」
「そりゃあんたがクソみてーな話題を振るからだろ。あんまし向井さんのこと困らせんなよ。そもそも仕事中だぞ」
「仕事? あの事務所で? パソコンでエロサイト見る以外になにかすることあんの?」
「テメー、あそこでエロサイト見てんのかよ……」
「ほかにすることがないの!」
なぜ彼女がキレているのか。
しかもたいして強くないくせに、腰に刀をぶら下げている。俺はいまだにこいつの刀がなにかの役に立ったところを見たことがない。
だが、そうだ。
この女はなんの役にも立たない。
ゆえに、事務所に置いてくと、間違いなく向井さんの負担になってしまう。向井さんは、ただでさえボスの相手で大変だというのに。
「分かった分かった。ついてきていいから。その代わり、俺の仕事の邪魔だけはしないように」
「は? 邪魔したことある?」
「あると思うな」
「あと一人でコーヒー飲んでないで、私にもおごりなさいよ」
「なに飲むんだ?」
「アイスティーよ!」
キレるなキレるな。
*
移動にはフローターという乗り物を使う。
ドローンとバイクが合体したようなものだ。頑張れば空も飛べるが、許可なく飛ぶと道路交通法違反でパクられてしまう。だから、あくまで道路に沿って進まないといけない。
「ねえ、もっとスピード出せないの?」
「うるせーな……」
置いてくればよかった。
こっちは法定速度を守って運転しているのに、後ろからやいのやいの言ってくる。
スピード違反でパクられたら、余計に時間をロスするハメになるというのに。
もっとも、それを取り締まる警察官も、事故になりそうな他の車も、基本的には見かけることもないのだが。
どこもゴーストタウンだ。
しかも火器で攻撃されたわけでもないから、基本的にキレイなまま残っている。
本当に人間だけがいなくなった。
もちろん略奪だってあったし、窓ガラスが叩き割れらていたりもするが……。いまはもう静かだ。価値のあるものは奪われて、どの建物も墓標のようにそびえ立っているだけ。
すると女が手を伸ばしてきて、ゴソゴソとズボンをまさぐった。
別にエロいことを始めようっていうんじゃない。腰につけていた拳銃を盗まれた。
「おいやめろ」
「ちょっと見るだけだから」
「見るな。返せ。マジで置いてくぞ」
「なんで?」
「危ないからだ。どうせ銃口を覗き込んだりするんだろ?」
「ギクリ」
ギクリじゃねーんだよ、バカ野郎。
こいつは本当に軽率過ぎる。
「でも、見るだけならいいでしょ?」
「ダメだ。安全装置だって絶対じゃない」
「どれのこと?」
「いいから返せよ。アメリカじゃ、幼児が謝って親を撃つこともあるんだから」
「え、ヤバ。じゃあ返すわ」
「痛っ。おい。バカ野郎。そこじゃねーから……」
「は? めんどくさ」
めんどくさで済ますな。
俺の息子が傷ついているぞ。
これほとんど傷害事件だろ。
*
十時五十五分、現地到着――。
街は特に荒廃していない。
ところどころガラスはぶち割られているが、それ以外はいたって普通だ。
待ち合わせはカフェの前。
天気もいいし、デートするにはうってつけだ。
俺は連中の顔を知らないが、連中は俺のジャケットで気づくはず。
というより、この街にいる時点で、おそらく関係者と見て間違いなかろう。
「カッフェ? なんなの? シャレオツぶってるの? ノートPC広げて仕事してるフリするの?」
「きっと目立つ場所なんだろ」
「ええ、もちろん目立つわね。ほら、さっそく見つかったわ。呑気に寝てるわね」
「これは困ったな」
ビジネススーツの男が二人、道路に寝ていた。
しかも流れ出している血液の量からして、もう助からないだろう。
そしてもう一人、しゃがみ込んでいる痩せ型の男は、手当てしているのではなく、荷物を盗んでいるように見える。
どう考えても事件だ。
男は驚いた顔をしたかと思うと、バッグを抱えて自分のフロートに飛び乗った。おそらく銃を撃とうとして、間抜けなことに落としやがった。プロではないのかもしれない。
彼は法廷速度を超えて走り去った。
俺はその背へ向けて発砲してもよかったが……。
しかしそんなハードな仕事をするほどの給料は受け取っていないのだった。ただの雑用。パシリだ。護身以外で撃つつもりはない。
「え、なに見てんの? 撃ちなさいよ! 逃げちゃうでしょ!」
「あんなに遠くちゃ当たんねーよ」
「はぁー、つっかえ……」
「じゃあ貸してやるから当ててみろよ」
「あぶなっ! こっち向けないでよ!」
俺が銃を向けると、彼女はさっと飛びのいた。
ヘビを見たネコみたいな動きだった。
さて、どうしたものか。
などと悩んでいると、突如、バーンと爆発音がした。
男が逃げた方向からだ。
見ると、青い霧がもうもうと立ち込めているところだった。
ただの花火じゃない。
青色スモッグだ。
なぜ?
あのバッグから噴出したのか?
それともバッグはただの爆弾で、それで男が爆死して……たまたま同じタイミングで霧が?
だが、ラッパは?
鳴ってもいないのに、霧が?
霧は信じられない速度でこちらへ迫ってきた。
「おい、逃げるぞ!」
「もう逃げてる!」
ああ、そのようだな。
フローターは、よりによって少し離れた駐車場に停めてしまった。駐禁を切る警察もいないってのに。自分の性格が恨めしく思える。
霧の蔓延はあっという間だった。
気づいたときには、俺たちは周囲を青に支配されていた。
なんも見えねぇ……。
(続く)