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ガーディアン・シスターズ  作者: ハルカ
1/1

──私が、守ってあげるからね


  警察所で報告書を作成しながら、ジュンナは右足を小刻みに揺すっていた。


 「先輩、そんなに貧乏ゆすりしていると床が抜けますよ」


 刑事課の後輩である、沙羅の軽口を横目に受け流し、今度は左手の親指の爪を噛む。

 その様子を見て、沙羅が呆れたように言う。

 「もう、そんなに感情的になっても仕方ないじゃないですか。私たちにできることは限られているんですから」

 沙羅の言う通りだった。

 しかしその通りだからこそ、苛立ちは募っていく。

 やりきれないジュンナの苛立ちは、今日起きた事件によるものだった。



   ───…………   *   *   *    …………───



 今日の午後のことだった。


 乱れた制服姿の女子高生が、裸足で署に駆け込んできた。

 そして受付にいたジュンナに、息を切らしながら何か言おうと口を開きかけ、しかし何故かためらったように逡巡し、結局口をつぐみしゃがみ込む。

 そしてそのまま嘔吐した。

  しかし彼女の胃には何も入っていないらしく、苦しそうな彼女とは対照的に吐き出されるのは胃液ばかり。

 少女はむせび泣き、慌ててジュンナは駆け寄り背中をさする。

 肩で息をする彼女に声をかける。


 「大丈夫だよ。大丈夫だからね。」


 ジュンナのその声や周囲のざわめきを聞いて、遅めの昼ご飯を食べていた沙羅が何事かと給湯室から顔を出す。

 床の吐しゃ物を見て、状況を察し掃除道具を引っ張りだしてくる。

 少し呼吸の整ってきた彼女にジュンナは「立てる?」と聞き、「医務室に行こう」と促す。

 箒やら雑巾やらを持ってきて掃除をしようとしてくれる沙羅に、ジュンナは目線でありがとう、と合図を送る。

「ごめんなさい」と何度も謝る少女をなだめ、そのまま医務室へ連れて行った。

 この時点で、ジュンナにはあらかた少女の身に何が起きたのか、およそ予想がついていた。

 それは15、6歳の少女が経験するにはあまりに過酷で、許しがたいものだった。



   ───…………   *   *   *    …………───



 事情聴取は交代で後輩に任せることにしていたが、今回は男性に当たることがないよう、ジュンナ自ら事情聴取に及んだ。

 これから彼女の傷をえぐる行為をするのだと思うと気が滅入る。

 記憶から抹消してしまいたい出来事を、他人に、自分の口で、思い出しながら説明させるなんて。

 ひとつの出来事に何度も傷つく意味がどこにあるのだろう。


 「何があった?」

 「何をされた?」


 十文字にも満たない問いが、彼女にとっては刃物と化す。

 これからその鋭い刃物を、まだふさがっていない傷の上に突き立てなくてはならない。


 彼女の父親を捕まえるために仕方がないこと。

 “彼女のため”

  

 分かっている。

分かっているけれど。


 「──……」


“彼女のため”という言い訳に、『本当に?』ともう一人の自分が問いかける。

 

(──震えている)


 狭い取り調べ室の中で、ジュンナの目の前に座る15歳の少女は、自分の震える右手を反対の手で抑え込み、しかしその懸命に抑え込む左手もまた震えているのだった。


  ジュンナは立ち上がり、少女の横に(ひざまず)く。

  彼女の手を取り、両手で包みこむ。

  そこに自分の額を軽くあてる。

  触れる肌の一部から、少しでも想いが伝わりますように、と願いながら。


 「ごめんね」


 まぶたを閉じる。


 「……ごめんね、こんなになるまで。よく頑張ったね。……ごめんね、怖かったよね、痛かったよね」


 顔を上げたジュンナの瞳には哀しみが宿っていた。

 それは同じ経験をしたものにしか分からない、本物の哀しみだった。

 少女の瞳が潤む。


 ジュンナは額を離し、彼女の髪をそっと撫でる。


 「──よく耐えたね。よく頑張った」


 その言葉を聞いて、少女はぽろぽろと、やがてこらえきれなくなったように声を上げて泣き始めた。


 ジュンナは少女を抱きしめる。


 「もういいんだよ。もう大丈夫。…もう、我慢しなくていいからね」



   ───…………   *   *   *    …………───



 「先輩、ひょっとして警察よりカウンセラーの方が向いているんじゃないですか?」

 少女を児童相談所の役員に受け渡した後、事務作業をこなしているジュンナに沙羅が軽口を言った。

 「どういう意味よ」

 不服そうにジュンナが問う。

 「いや、さっきの事情聴取、すごかったなぁ、と思って。いや、先輩の高圧的にならず話を聞き出す能力はもちろんですけど、それ以上に…、なんというか、…先輩、演技とかじゃなく、本気で泣いていたでしょう?……共感能力が高いというか、感受性強すぎます。」

 冗談交じりの口調だったが、ジュンナは一瞬言葉を失った。


 “──本気で泣いていた”

 

 返す言葉が浮かばない。


 「……、だめね。ああいう境遇の子を見ると、つい妹と重ねちゃって。」


 そこでようやく、沙羅は自分の失言に気づいたようだった。

 冗談めかして言うべきではなかったと、次の言葉に迷っている。


「……私じゃきっと、あんなふうに心を開いてもらえなかったですよ。」

 

沙羅の精一杯の気遣いに、ジュンナは表情を和らげる。


「いいのよ、気にしないで」と返した。


 先ほど少女の口から語られたのは、父親が実の娘である彼女に対し、性的暴行に及んでいるという内容だった。

 こういう事案は、何度聞いても信じられない。

 親が子に対してする所業ではないと思えば、怒りが沸々と込み上げてくる。

 子供は親に守られるべき存在だろうに。

自分の力ではどうすることもできず、ただただ雪辱に唇を噛み、スカートを握りしめていた彼女の姿が頭から離れない。

 たとえ彼女の父親が牢屋に放り込まれたとしても、父親によってつけられた彼女の傷は一生消えることはないだろう。

 父親にどのような処罰が下されようと、彼女の身に起きたことがなかったことにはならないのだ。

 彼女の足には目に見えない枷がはめられている。

そして枷を外すための鍵はこの世に存在しない。

 彼女はその不自由さや痛みを背負って、これからの人生を生きていかなくてはならない。


 ──なぜ、とジュンナは思う。


 悪いことをしたのは父親なのに、彼女まで辛い思いをし続けなくてはならないのだろう。


 彼女は何も悪くないではないか。


  どこの家庭に生まれるかなど、選ばせてもらえるわけではないのに。

  無意識にキーボードを打つ手に力がこもる。

 「っ!だから先輩、そんなに力任せにやってたら、パソコンが壊れちゃいますって」

  沙羅が声を上げ、ジュンナの顔を覗き込む。

そしてまるで“落ち着いて”とでもいうように珈琲を渡す。

 「……ありがと」

 「嫌な事件でしたもんね、…でも先輩は馬鹿ですよ。全部真に受けて。…まぁ、でもそんな先輩が傍にいてくれるから、私は受け流せるのかもしれないですけど……。」

 そこで言葉を区切り、沙羅はちらりとジュンナを見る。

「……でも先輩、先輩はもっと、肩の力抜いてもいいんじゃないかって思いますよ。」


 後輩に諭されるのってどうなんだ。

 ジュンナは一つ息を吐いて冷静になり、

 「…そうね、ありがとう」と返した。

  ジュンナに少し落ち着きが戻ったのを見て、沙羅はようやく安堵したようだった。

 「……そういう、先輩の事件に入れ込みすぎるくらい、本気で仕事しているところ、自分は尊敬してますけどね……でもやっぱり、」

  言いかけて、沙羅は閉口する。

視線を落とし、珈琲の入ったマグカップをぎゅっと握りなおす。

 沙羅が何を言いかけたのか察したジュンナは困ったように微笑んだ。


 「わかってるよ」


 〝心配になるんですよ〟


 沙羅の言いたいことは分かっていた。

 これまで何度も、真剣にかけてくれた言葉だから。

 沙羅はそれ以上言及するのをやめ、代わりにジュンナのデスクの上に置かれている写真に視線を移す。

 ジュンナも同じ方を見る。

 「──明日、ですか」

 ジュンナのデスクの上に置かれた写真には、無邪気に笑う幼き日のジュンナと、その妹の姿が映っている。

 ジュンナは頷く。

 「……お花とお線香、お供えにいけるといいんだけど。」

 明日は何時に上がれるだろう。


 ──5月8日。


 明日は9つで死んだ妹の、12回目の命日だった。



   ───…………   *   *   *    …………───



 もう12年も前のことになる。


 そのとき私は中学2年生で、妹は小学校3年生だった。

 妹の名前は“メイ”という。

 私と妹は、暴力が当たり前の環境で育った。

 父親のDVが日常化していて、しかし幼い私たちはそれに立ち向かう術を知らなかった。

 母は私たちを愛していたけれど、暴力を止めることはできなかった。

 父は酒に酔いつぶれると私たちに殴りかかり、母はそれを必死で止めた。

 そのとき目の当たりにした、男と女の力の差。

 仲裁に入った母はぶたれて突き飛ばされ、壁に体を強打する。

 肉体がぶつかる鈍い音。

息が詰まった母のうめき声。

 見ていたくなくて目をそらす。

 そのうち耐えられなくなった私は、いつだったか母に言った。


 「もう庇わなくていい」


 やがて母は本当に庇うのをやめてしまった。

 代わりにただ部屋の隅で震え、泣くようになった。

 顔を膝にうずめて体をゆすり、耳をふさぎながら。

 母を責めるつもりはない。

 しかし、耐えるしかないその環境で、だったら自分がメイを守るしかないと思った。


 なのに、それなのに──。


 あの日は。

 部活で家に帰るのが遅くなってしまった。

“遅くなってしまった“というのは、“やむを得ずそうなった”のではなく、“自分でそうなることを選んだ”のだ。

 正直に白状すると、あの日は部活の主要メンバーに選ばれて、嬉しさでいっぱいだった。

 最後の夏の大会で絶対に勝ちたくて、いつもなら切り上げるところで帰らず、仲間と残り自主練習をした。

 ──そう。

 帰ろうと思えばいつでも帰れたのに、自分の意志で帰らなかったのだ。

結局、体育館が閉められるギリギリの時間まで練習をして、息を切らして家に帰ったのを覚えている。

家に着くなり私は大慌てで靴を脱ぎ捨て、


 「ごめん!遅くなった!すぐに夜ご飯作るからね!」

 

と、リビングでテレビを見ているはずのメイに叫んだ。

 いつも父親が返ってくるのは夜遅くで、母は抜け殻みたいになってしまっていたから、夕飯を作るのは私の役目だった。

メイはいつも、私の帰りを大人しく待っていた。

テレビを見て、おなかがすいていても、文句ひとつ言わず。

(早くメイにご飯を食べさせてあげないと)

きっとおなかをすかしている、と小走りでリビングへ行こうとしたら、床がぬるっとしていて、滑ってこけてしまう。

尻もちをつき、痛みにうめく。

足元をよく見ていなかった。

「…ったぁ、なによ、もう……」

手をついて立ち上がろうとした、そのときだった。


 「……っ!!」


 のどが絞まり、ろくに声も出なかった。

 突然視界に飛び込んできたのは、おかしな方向に曲がった左腕と、割れた額から滴る血、そしてその血でできた血溜まりだった。


 「きゃあああああ!!」

それが妹だと分かるまで、しばらく時間を要した。

メイの亡骸は階段の下に転がっていたから、おそらく階段から落ちたのだろうと推測できたが、メイの瞼は目が開けられないのではないかというほど赤く腫れ上がっていて、それらの打撲跡は階段から落ちてできたものとは思えなかった。

(…あいつだ。あいつに殴られたんだ。)

 メイは父に暴力を振るわれた後、何かのはずみで階段から転落したのだろう。

 その体が、玄関に転がったまま、誰にも見つけてもらえずに──。


 「ど…う、して…、」


 知っていたではないか。

 メイを一人にしてはいけないと。


 (でもこの時間、父親(あいつ)はいないはずじゃ…、)


 どうして。


(……救急車、……救急車!!)


 妹に近づきたいのに、脚が動かない。


 握りこぶしに力がこもる。


 ──と、不意に視界の奥にリビングの隅でうずくまり、耳をふさいでいる母が視界に入る。


 「…っ!!」


 その瞬間、何かが切れた。

 


「゛あぁああぁぁあああ!!!」



 心臓が破れそうな慟哭だった。


 知っていたではないか。

 肝心な時、大人は助けてくれないと。


 自分でどうにかするしかないのだと。


 ──そんなこと、嫌というほど知っていたはずなのに。



 やがて私の叫び声を聞きつけた近隣の人々が、何事かと救急車を呼んでくれた。

しかし救急車が到着したときにはもう、妹は処置のしようがない状態だった。


 それから後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。



 妹が命を落としたにも関わらず、そのままパチンコ屋に出かけていた父は、帰宅した瞬間、待ち構えていた警察に捕まった。

 しかし父親の父親、つまり私の祖父は警察の高い役職を持つお偉い方。

 どういうわけか、多額の罰金を支払うだけで釈放されてしまった。

 その後、私は叔母に引き取られ、高校を卒業するのと同時に家を出た。

 父はいまでも、どこかでのうのうと生きている。



   ───………  *   *   *    …………───



 「……神様、って意地悪ですね。」

 女子高生が駆け込んできた翌日のことだった。

 退勤時間はとうに過ぎているのに、沙羅とジュンナはパトカーの中にいて、ハンドルを握る沙羅は、助手席で3分おきにため息を吐く先輩警官に同情していた。

 沙羅はジュンナが気の毒でならなかった。

 妹のお墓参りに行くために、いつもの倍のスピードで事務作業をこなしていたのに。お昼休みもろくに取らず、『あと少し、この調子でいけば定時に上がれるから』と、身を削って仕事をしていたのを知っている。

 それなのに、“さぁ帰ろう”、というタイミングで、『商店街の居酒屋で喧嘩沙汰が起きているから止めてほしい』という通報が入り、急遽現場に出向かなくてはならなくなった。

 

 今は喧嘩の仲裁を終え、署に帰っているところなのだが、思っていた以上に若者を和解させるのに時間がかかり、遅い帰還になってしまった。

 すっかり夜も深まり、デジタルで表示されている時刻は深夜を回っていた。

 さすがにこの時間になると外を歩く人はなく、すれ違う車も数えるほどしかない。

 ただ街があるだけの、夜の世界。

 街灯がなければ色さえ分からないその景色を、ジュンナは額を窓に押し当て、ぼんやりと眺めている。


「……メイは私に会いたくなかったのかな」


 助手席で顔を背けていたジュンナが零した言葉を、すかさず沙羅は否定した。

 「何言ってるんですか先輩、くだらないこと言ってると車から放り出しますよ!」

 沙羅の軽口に救われながら、流れる景色を目で追い続ける。


 ──、と



 “おねぇちゃん”



 不意に妹に呼ばれた気がして、声がした方を凝視する。



 「…っ!!とめて!!」


 突然ジュンナが叫ぶ。


 「早く止めて!!」

 「え」

 無理やりハンドルを奪おうと身を乗りだされ、沙羅は慌てる。

 「ちょ、先輩あぶな」

 「いいから!!早く!!」

 ジュンナの気迫に押され、沙羅は言われた通りにする。

 車が止まるより先に、ジュンナはシートベルを外し、ドアノブに手をかける。

 「先輩!危ないですって!!」

 しかし沙羅の忠告はジュンナに届かない。

 「沙羅はここで待機してて!!」

 ジュンナは捨て台詞を残し、車が止まるや否や外へ飛び出した。



   ───…………   *   *   *    …………───



 ジュンナははじめ、疲れていて見間違えたのかと思った。

 しかし、“それ”は疲労による目の錯覚ではなく、“彼女たち”はそこにいた。


 先ほど、妹の声が聞こえた方向には公園があり、そこに置かれているベンチに座っている女の子と、その女の子の膝に頭をのせて横たわっている女の子の姿が見えたのだ。


 ──あれは、姉妹、だろうか。


 深夜零時を過ぎているというのに、こんな寒空の下で一体何をしているのだろう。


 歩みが早まるのは気が急くせいだ。


 車から降りて感じる、指先が悴むほどの寒さ。


 ジュンナは唇を噛みしめる。


 ──迷子か、それとも家出か。


 どちらにしても親は何をしているんだ。

 喧嘩の仲裁をしてから今まで、『家出をした子供を探してほしい』という通報は入っていない。


 ──…あるいは平気、なのか。


 自分の子供が、寒さに震え、どんな危険な目に遭うかわからない状況にさらされているというのに、平気だとでもいうのだろうか。


 「あなたたち!」


 声とともに出る息が白い。

 コートを羽織ってこなかったから、薄着の身体に寒さが突き刺さる。


 ジュンナは公園に入り、街灯一つだけの薄明りの中、彼女たちに歩み寄っていく。


 「どうしたの? 大丈…、」

 最後まで口にすることができなかった。


 「………」


 口をパクパクとさせ、瞬きを数回繰り返し、無線で沙羅に連絡する。


 「……沙羅、救急車。うん、救急車呼んで!いますぐに!」


 ジュンナが見つけた二人の服には、大量に血が飛び散っていた。

 無線を持っていた手を下ろし、ジュンナは懸命に頭を整理する。

 良く見てみると、体つきからして姉らしき少女は、座っている様子からして命に別状はなさそうだった。見た目の酷さに比べて、苦しそうな感じはしない。


 それに比べて妹は……。

 

 腹部を中心にべったりと血が付着し、その量は姉の比ではない。

 眠っているのか、瞼を閉じて姉の膝を枕代わりに横たわっているが…。


 ──、……この出血量、生きて、いるのだろうか。


 ごくりと生唾を飲み、恐る恐る、妹の首筋に手を当てる。


 (……生きてる!!)


 脈も安定しているようだ。


 しかし安心するにはまだ早い。

 妹の呼吸は荒く、苦しそうで、顔が火照っていた。

 額に手を当ててみれば、焼けるように熱かった。


 「ひどい熱…」


 早く医者に見せた方が良い。

 救急車はまだか。

 それにしても、姉は動揺しているらしく、目を見開いたまま動かない。

 少なくとも見つけてもらえて助かった、という表情はしていなかった。

 その様子からジュンナは考察する。

 もしかすると、彼女たちの服に付着している血は彼女たちのものではないのかもしれない。

 おそらく危ないところから逃げてきたのだろうが、逃げてきた場所が“家庭”なら、家を探して送り帰すわけにはいかない。

 その場合、家に帰すのはむしろ彼女たちを追い詰める行為になるだろう。

 硬直している姉の顔には、“どうしよう”と書かれていた。

 ジュンナは彼女の顔を覗き込む。

 安心させてあげたかった。

 「大丈夫だよ、もう救急車を呼んだからね」

 その言葉にびくっと反応し、姉は

 「やめて!!私がやったんです!!全部わたしが…!!お願い!!妹を捕まえないで…!!」

と叫んだ。

 突然涙目で訴えられ、ジュンナは狼狽する。

 「捕まえたりしないよ、大丈夫。」

 なだめるように言うが姉は納得しない。

 ぶんぶんと首を横に振る。

 そうこうしているうちに、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。

 少しずつ大きくなるその音が、彼女の動揺を加速させる。

 「妹を連れて行かないで!!」

 妹を庇うように手を前に出す。

 戦闘態勢は解かれない。

 「連れて行かないよ」

 「うそよ!!やだ!!向こうへ行って!!」

 我を失ったように叫び、泣き始める。

 しかし彼女が感情的になればなるほど、ジュンナは不思議と冷静になっていった。

 落ち着いて観察してみると、ジュンナの腕をつかんで訴える彼女の手首には痣があった。

 それもただの痣ではない。

 煙草を押し付けられてできた痣だ。

 自分の手首にも同じ痣があるから、よく分かる。

 (……家庭内暴力、か)

 めくれ上がった裾から見える脚にも、古い痣と、新しい痣との両方が見受けられた。

 しかし、では妹もそうかというと、どういうわけか妹の身体に痣はなかった。

 服に血が付着しているだけで、それ以外の外傷は見当たらない。


 ──そうか、とジュンナは思った。


 姉(この子)が、妹を守っているのだ。

 こんな小さな体で、痛みも恐怖も我慢して。


 ジュンナの胸は潰れそうに痛んだ。


 言葉で言っても伝わらないならと、ジュンナは姉を抱き寄せる。

 「…っ離して!!……放せ!!」

 背中を何度も叩かれる。

 こんな痛み、彼女がこらえてきた痛みに比べればなんでもない。


 「ごめんね、怖がらせたりして。私はあなたの味方だよ。──信じて。私はあなたたちを引き離したりしない。約束する。」


 「うそだ!!」


 どれだけ強く叩かれても、ジュンナは決して放そうとしなかった。

 伝わるまで、ただ、抱きしめる。


 「……、」


 何も言わず、されるがままに殴られ続けるジュンナの姿に、姉の手から力が抜けていく。

 タイミングを見計らい、ジュンナは体を放し、彼女の目をまっすぐ見つめる。


「私はあなたたちを助けたいの。……病院に行こう。妹さん、すごい熱だから。……ね?」


 やさしい声に、姉は項垂れた。


 ちょうどそのタイミングで救急車が公園の脇に止まり、次々と隊員が下りてくる。

 姉に先に救急車に乗るよう促し、妹を抱き上げる。


 姉の影になって良く見えずにいた、妹の顔が間近に迫る。


 「──…っ」


 ジュンナは短く息を飲んだ。


 女でも軽々と抱き上げられてしまうか細いその子が、12年前に死んでしまった妹とそっくりな顔をしていたから──。



   ───…………   *   *   *    …………───



 救急車の中で、二人の名前を聞いた。

 やはり二人は姉妹で、姉はルナ、妹はエリカというのだそうだ。

 病院についた後、二人は医師の診察を受け、今夜はとりあえず、そのまま病院の空き部屋を借りて休ませてもらうことになった。

 高熱にうなされていた妹のエリカは点滴を繋がれ、そのまま眠りについている。

 頬の火照りが引かないエリカの様子を、ルナは隣のベッドから心配そうに伺っている。

 そんな中、ジュンナはルナの横にある丸椅子に腰を下ろし、病院服に着替えたルナの肌に点在する青や紫の痣について、どう切り出すべきか迷っていた。


 痛々しいその痣を見ると、過去の記憶が蘇る。

 忌々しい、幼少期の記憶。

 酒を飲んで暴れる父親と、

 泣くだけで何もできない母親。

 怯える妹と、無力な自分。


 無意識に手首をさする。

 ジュンナの手首にも、ルナの手首にあるものとよく似た痣がある。

父親に煙草を押し付けられた痕。

 焼ける痛みとともに植え付けられた憎しみは、いまでも癒えることがない。


 ──と、不意にルナに話かけられる。

 「……ねぇ、どうして警察につれていかなかったの?」

そんなことを聞かれると思っていなかったので、ジュンナは答えあぐねる。

 「ええと…、」

ルナがそんなことを訊くのはきっと、先ほどの沙羅とのやり取りを聞いていたからだろう。

 警察署に二人を連れて行こうとする沙羅を、「ちょっと待って」と。

「すべての責任は自分が持つから」と無理を言って止めたのだ。

自分の立場を危うくしてまで“二人を離ればなれにしない”という約束を守ろうとするジュンナを見て、ルナは “どうしてそこまで自分たちに肩入れするのか”と、疑問に思っているのだろう。


 ──”約束したから、それだけだよ。”


 そう答えようと思ったのに、ジュンナの口をついて出た言葉は、頭で思い浮かべたのとは違うものだった。

 「……似ていたから、私と。だから他人ごとに思えなかったのよ」

  自分の言葉に驚く。

 「……ふぅん」、と呟くルナは、それ以上言及していいのか分からないでいる様子だった。


 会話の終わった室内にバタバタと足音が響く。

 先ほどから廊下が騒がしい。

 急患でも入ったのだろうか。


 沙羅は二人の身元をいま大急ぎで調べてくれている。

 無理を言っても、呆れながら手伝ってくれる優しい後輩だ。

 調査結果が出るまで、できるのは姉妹の傷の処置と事情聴取くらいしかない。

 エリカが眠っているうちに、ルナから少しでも事情を聞き出したいところだが、自分の過去が重なり、気が進まない。


 12年前にメイが死んだとき、刑事やら教師やら親戚やら、代わる代わる知らない大人が現れて、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。

 妹の死を実感するより先に、心の中を土足で踏み荒らすその振る舞いが、どれだけの精神的ダメージを与えるか、ジュンナは身をもって知っていた。

 聞かれるのはどれもどうでも良いことばかりで、それよりも、私はまるで背中に拳銃を突き付けられているような気分なのに。

そのことを誰も知らない。

いつ、誰のちょっとした言葉がはずみとなって、引き金が引かれるか分からない。

そんな綱渡りのような日々。

 ルナにあんな気持ち、味わってほしくない。

 そして自分も、あのときの大人たちのような大人にだけはなりたくない。


 切り出し方に頭をひねっていると、見回りがてら看護師が入ってきて、エリカとルナの点滴を交換してくれる。

 慣れた手つきで作業をこなす看護師の手元を眺めながら、ジュンナは話かけてみた。

 「急患ですか? 大変そうですね」

 看護師はため息を吐く。

 「…えぇ、そうなのよ。二人も急患が入ってね。夫婦みたいなんだけど、それが、もう目を逸らしたくなるくらい酷い怪我で…」

 看護師の眉間にシワが寄る。

 「しかもその怪我っていうのが…、」

 そこで一度言葉を区切り、看護師は咳ばらいをした。

 あまり大きな声では言えないんだけど、とジュンナの耳元に顔を寄せる。

 「……どうやら刺し傷らしいのよ、訳ありみたいね」

 刑事さん、明日も忙しくなるんじゃない?と同情する看護師の側で、ルナは人知れず身を固くした。

 そのわずかな変化をジュンナは見逃さなかった。


 ──そして確信する。


(ルナは何かを隠している)


 「ねぇ、それ」


 ルナが目でジュンナの手首を指す。

 そこには丸く、ぷくりと膨れ上がった火傷の痕があった。

 その膨らみを撫でながら、ルナはそれがどういう痕か気づいているのだと思った。

 自分にも同じ痕があるから。

 それは手首に限ったことではない。

 二の腕や太ももや、父親に殴られたり煙草を押し付けられたりしてできた痕は、薄れはしても消えることなく、現在でも身体に残り続けている。


 「──あなたも?」


 “似ているから”

 ジュンナの言葉の意味を、ルナは理解し始めていた。


 ジュンナは苦笑し、困ったように頷いた。

 「父親がね、お酒を飲むと、我を失う人だった。暴れてどうにもならないの。私も妹も、いつも体中殴られた痣でいっぱいだった。…それで、ある日部活で遅れて帰ると、妹が階段から落ちて死んでいた。あの時の光景は忘れられない。」

 淡々と語られる事実に、ルナは言葉を失った。

 ごくりと生唾を飲み込み、そして「私も…、」と語り始める。

 「私のお父さんも一緒。お酒を飲むと暴れるの。お母さんがお酒を取り上げるんだけど、そうすると『酒をよこせ!』って、手がつけられない。そうやってお母さんを殴るから、止めようとしたら私も殴られて…。妹には見てほしくなかった。お母さんが殴られるところも、私が殴られるところも。ましてやお母さんが夜に一人、台所の隅で縮こまって泣いているところなんて。お母さんがいるときはお母さんが庇ってくれるけど、お母さんが仕事で家を空けているとき、妹を守れるのは私だけ。だから私が妹を守らなくちゃいけないの。」

 

(──本当、私とよく似てる)


「だから、刑事さん。私が悪いの。妹を助けられなかった私のせい。私のことは捕まえていいから、妹のことは助けて。お願い。お願いします。」

 目に涙を溜めて懇願され、ジュンナの心は揺らぐ。

 そうしてあげたいところなのだが、それにはしかし、ずっと引っかかっていることがある。

二人の服にはこんなにも血が付着しているというのに、ルナもエリカも、身体に外傷はなかった。出血するような怪我はしていなかったのだ。それはつまり、負傷した第三者がいて、その人物の血が付着したということ。

 ジュンナはそっとルナの手を握り、語りかける。

 「もちろん、できることなら二人とも逮捕したくない。……でもね、分かるのよ。あなたが何もしていないこと。事件に深く関わっているのは妹さんの方でしょう?……服に飛び散っている血の量からして、そうとしか考えられないもの」

「…っでも!!」

「──よく聞いて。明日になったら、あなたたちを他の刑事に引き渡さないといけない。私があなたたちを救えるかどうか、それは今夜にかかってるの。お願い。私にあなたたちを救わせて。時間がないの。妹さんの身に何があったの?──本当のことを教えて」


 ジュンナの真摯な瞳を間近に受け、ルナは説き伏せられたように頷いた。


「……夜中に妹がトイレに目を覚ますのは、よくあることだった──、」



   ───…………   *   *   *    …………───


夜中に妹がトイレに目を覚ますのは、よくあることだった。


 「おねぇちゃん、起きてる? エリカ、トイレ行きたくなっちゃった。 怖いからついてきて。」


 時刻を確認するために目を開ける気力さえ起きない真夜中、エリカはルナに声をかけた。

しかし面倒くさかったルナは眠っているふりをした。

 エリカはその後も何度か粘って声をかけたが、ルナがピクリともしないので、諦めて一人で部屋を出て行った。


 そのことに小さな罪悪感を抱きつつ、ルナはエリカが戻ってくるのを待っていた。

きっとお化けが怖くて走って戻ってくるだろうな、と口元で笑いながら待っていたのだが、どういうわけか一向にエリカは戻ってこなかった。


 (どうしたんだろう?)


 胸騒ぎがして、ルナは起き上がる。


 「まったくもう」

ぼやきながら、部屋を出てトイレへ向かう。

すると何故かキッチンに明かりがついていた。


 「……エリカ?」


 エリカがいるのだろうか、とキッチンを覗き込む。



 「──……っ!!」



 比喩じゃなく、一瞬心臓が止まったかと思った。

 一体何があったのか、床にはビール瓶の欠片が散らばっていて、奥でお母さんが頭から血を流して倒れ、その横で父が腹部から血を流して倒れていた。

 しかし何より信じられなかったのは、両親の側で、血の付いた果物ナイフを握りしめてエリカが立ちすくんでいたことだった。

ルナに気づくと、エリカはナイフを落とし、後ずさる。

 「おね、ちゃん…。おか、あさんが、お酒、隠してて、…、それでお父さん、怒って、瓶でお母さんを…」

 懸命に説明しようとするが、声が震えている。

 エリカは肩で息をして両手で自分の顔を覆い、その場にしゃがみ込む。

 「エリカが、やらなきゃって…。エリカが、お父さんをやらなきゃ、お母さんの次、お姉ちゃんが、やられちゃうって…」

 「エリカ!」

 突然、言葉の途中で倒れこむ。

 割れたビール瓶の上ではなかったものの、父親の血が広がった部分に倒れ込んだ。

慌ててルナがエリカに駆け寄り抱き起すと、服にはべっとりと血が付いてしまっていた。

「エリカ! 大丈夫? エリカ!」

気を失っている。

 大きな怪我はしていなさそうだが、倒れた節に頭を強打したらしい。

 脳に影響があったらどうしようと心配になりながら、ルナは「エリカ!」と名前を呼び続けた。


 何度目かの呼びかけで目を覚ましたエリカは、自分がナイフで父親を刺したことも、父親が母親を瓶で殴ったことも何も覚えていなかった。



 「──…あのときはどうしたらいいのか分からなかった。動揺していたし、頼れる人もいなかった。お母さんを助けなきゃとも思ったけど、妹を一刻も早くここから連れ出さなきゃと必死だった。だって、遅かれ早かれ救急車や警察が来て、そうしたら妹が捕まってしまう。だけど結局、お母さんを見捨てることもできなくて、救急車を呼んでから家を出たの。もうこれから先、妹と二人で生きていく。そうするしかないんだって、二度と家には戻らない覚悟だった。」

 ジュンナは握ったルナの手を励ますように何度か撫でた。

 「……そのはずだったのに、できるだけ人気のない道を選んで林の中を歩いていたら、突然、妹がぐったりして、酷い熱だった。どんどん熱が高くなっていって、汗も止まらないし、意識も朦朧としているし、でも助けを求めるわけにはいかなくて…、公園で休ませることしかできなかった。そうしていたら、刑事さんに見つかったの。……もう終わりだと思った。私たち、これからどうなってしまうの」

 ルナはまた泣き始めた。

 ジュンナはルナの頭を撫でる。

 「辛かったわね。よく頑張った」

 その言葉にふるふると頭を振り、「でも…、妹が、妹が」とルナはしゃくりあげた。

 ジュンナは「大丈夫よ、大丈夫だから。心配しないで」、と背中をさする。


 さて、どうしたものか。


 眉間に力がこもる。


 ──トントン。


 ジュンナが考え込んだそのタイミングで響くノック音。

 「失礼します。取り込み中すみません。先輩、例の資料、持ってきました。」

 沙羅だった。

 ジュンナは報告を聞くために病室を後にした。



   ───…………   *   *   *    …………───

 


 ──こんなことってある?

 その驚嘆は、はじめ声にならなかった。

 次いで激昂が込み上げてくる。

 胸の内では憎悪が煮えたぎっているのに、頭は変に冴えていた。


 沙羅から渡されたのは、ルナとエリカの身元に関する資料だった。

 その資料の、両親の名前の欄。


 姉妹の父親の名前。


 “加賀見義彦”


 ジュンナの父親の名前だった。


 (──異母姉妹)

どうりで似ているわけだ。

 妙な縁と納得とを同時に感じながら、二人を見つけた時、妹の声がしたことを思い出す。


「…先輩? 報告続けて大丈夫ですか?」


 心ここにあらずだったジュンナに沙羅が呼びかける。

「あぁ、ごめん、お願い」

 応えれば沙羅は頷き、調べた情報を簡潔に述べる。


「姉妹の父親の加賀見義彦ですが、先ほどこの病院に運びこまれたそうです。妻の加賀見菜津も一緒です。妻は頭部に外傷があり、義彦は腹部に外傷が。両者とも出血量が多く、現在処置中です。」

 そう、と頷きながら、一心に資料を見ているジュンナに、沙羅が耳打ちする。

「それと、父親の傷ですが、刃物で刺されたような傷だそうです。」

 衝撃的な内容のはずだったが、「そう、ありがとう」とジュンナは眉一つ動かさず返した。

 その思わぬ反応に、沙羅は意外そうな顔をして、訝し気な視線を向ける。

ジュンナは資料から顔をあげ、

「私が何とかするから」

と真顔で言い放つ。

 沙羅は目を丸くする。

「…なんとかする、って先輩。何言って…。」

 茶化そうとした沙羅だったが、「本気なの」と瞳で制され、黙ってしまう。

そしてジュンナは“それ以上口を挟くれるな”とでもいうように、足早にどこかへ去ってしまった。


一人廊下に取り残され、沙羅は溜息を吐く。


「……私は部外者ですか、先輩。」

 

 そんなのって、あんまりですよ、という沙羅のつぶやきは、誰にも聞かれることなく夜の静寂に消えた。



   ───…………   *   *   *    …………───



 ジュンナは無人の待合室の硬いソファーに腰かけ、背を壁に預け考え込んでいた。


 冷えたソファー。

 臀部が冷たい。

 長くて暗い廊下にぽつりとある自動販売機。

 薄暗い灯り。

 遠くで聞こえる話し声。

 視界に映る汚れた自分の靴。


 無意識にしていた貧乏ゆすりを止め、人差し指の第二関節で額をぐりぐりと押す。

 『何とかする』とは言ったものの、ルナとエリカの、そしてジュンナの父親は、傷の処置が終わっても話ができるような状態ではなかった。一命はとりとめたものの、薬が効いていて眠り込んでいる。

 いつ目を覚ますか分からない。

 どうにかして話をつけたいのに、これでは手も足も出ない。

 現在の時刻を確認しようと、左腕にしている腕時計を見る。

 ──午前四時、五分前。

 夜明けが近い。

(もう時間がない)

 どれだけ頭をひねっても、正しい解決策が思いつかなかった。

 “正しい解決策”、というのは、道理にかなっている、つまり人として真っ当な解決手段ということだ。

 脳が煮えくりかえる程考えても、その解決策が浮かばない。


 父親が意識を取り戻せば、エリカは罪を問われ、姉妹は離れ離れになってしまう。それにもし父親を逮捕できたとしても、出所したらまた同じ過ちを繰り返し、新たな被害者が出るかもしれない。それは根本的な解決にはならない。


 何がこの事件の解決に当たるのか。

 同じ悲劇を繰り返さないためにはどうするのが得策か。


 ──何度考えても、たどり着く先は一つだけ。


 ( 私が父を殺すしかない )


 それだけはやってはいけない、手を出してはいけないなどというのは承知の上だ。

 しかしもうそれ以外、自分にできることは残っていない。


 メイが死んだあの日、帰りが遅くなった自分の代わりにメイが命を落としたのだと思えば、自分の命などあの日失ったも同然ではないか。

 だったらこの命、どうなっても構わない。

 ジュンナはこの役回りが回ってきたことを、どこか使命のように感じていた。

 やっと肩の荷が下りるという気さえした。


 12年前の無念を、今日ここで、ようやく晴らすことができる。


(……見ていてね、メイ。お姉ちゃん、あの子たちのことちゃんと守って見せるからね)



   ───…………   *   *   *    …………───



  加賀見義彦。


  病室の名札を確認し、音をたてないように扉を数センチ開け、中を確認する。

  誰もいないことを確かめると、忍び足で体を刷り込ませ、ポケットの拳銃に手を伸ばす。

  いつでも銃を抜ける態勢のまま、一歩ずつ、ゆっくり、ゆっくり、近づいていく。


  確実に撃ち殺せる距離になったところで、立ち止まり、銃を構える。


  狙うのは頭。

  リボルバーに弾を装填する。

  ガチャリ。

  鈍い金属の音がこだまする。

  加賀見義彦は目を覚まさない。

  引き金に指をかける。

  心臓の音が、頭蓋骨まで響いてくるようだ。


  片目をつぶり、狙いを定める。

  そして、



  (――……撃つ!!)



  ガラガラッ!!



  「ダメですよ!!先輩!!」


  勢いよく扉を開き、沙羅が叫んだ。

  沙羅の手には拳銃が握られていて、その銃口はジュンナに向けられていた。


 「ダメです、先輩。そこまでです」


 「沙羅…」


 驚いてジュンナの動きが止まる。

 そのわずかな隙に、沙羅は銃口を自分の頭に押し当てた。


 「先輩がその男を撃つなら、私は自分を撃って死にます。」


 ──どうして、という問いかけは喉を痞えて出てこなかった。


 「先輩わかりやすいんですよ。思い詰めているんだろうな、と心配していたら、急に一人で姿を消して。それで、やっと見つけたと思ったら、ものすごく深刻な顔をしてこの病室に入っていくんですもん。大方何をしようとしているのか予想できますよ」

 沙羅の顔が辛そうに歪む。

 「どうして相談してくれないんですか。……私は何の役にも立ちませんか。一人じゃどうにもならないことでも、二人なら、…足りなければもっと、人の力を借りたらどうにかなるかもしれないじゃないですか」

「ならないわよ」

 思わず強い口調で言ってしまう。

 ひるまず沙羅が反論する。

 「それは先輩が中学生のときの話でしょう? 今は違うんじゃないですか? …少なくとも私は、先輩の役に立ちたいです。先輩が困っているとき、駆けつけて、自分にできる最大限のことをしたい」

「…やさしいのね。でもそんなに現実は甘くないのよ。人に頼ったところで、結局問題と対峙するのは自分なんだから」

 沙羅の言葉を受け入れないジュンナに、「そうかもしれません」と沙羅は俯く。

「……でも、そうだとしても、それでもやっぱり私は頼って欲しかったです。」

さらに沙羅は続ける。


 「だって先輩は、メイのお姉ちゃんだから」


 “メイのお姉ちゃん”


 予期せぬ言葉に、ジュンナは沙羅を見る。

 「……メイは、私の親友でした。」

 ジュンナの耳がピクリと動く。

 「先輩には言えずにいましたけど、私、小学生の頃メイと同じクラスだったんです。

ずっと友達ができないのがコンプレックスでした。

自分からクラスメイトに話しかけるのが怖くて、できなくて。

でもメイは、そんな私に、ためらいなく声をかけてくれました。

他のクラスメイト達は私を透明人間みたいに扱ったのに。

…メイに話しかけられるまで、そんな扱いをされるのも仕方がないって諦めていました。

寂しさを押し殺して、一人でも大丈夫だと。友達なんていらいないと。

必死で言い聞かせていた。

だけどメイに声を掛けられたとき、“一人で大丈夫なふり”をしていただけんなんだ”って思い知らされた。

だって、メイに話しかけてもらえたとき、心の底から嬉しかったから。

……だけど、私と仲良くするメイのことを、良く思わない女の子たちがいた。

それである日から、メイはいじめられるようになったんです」

 「え、…」

 思わず声が漏れたのは、そんなこと、知らなかったから。

 学校はどうだったかと聞くと、メイはいつも笑顔で、その日あったことを話してくれた。

 いじめられているなんて、一言も……。

 「どれだけいじめられても、仲間外れにされても、メイは私に話しかけることをやめませんでした。

そのことにどれだけ私が救われたか。私たちはどんどん仲良くなっていきました。それで、会話を重ねるうちに、私の家庭環境と、メイの家庭環境が似ていることが分かったんです。メイはいつも先輩のことを自慢していましたよ。

『私のお姉ちゃん、優しくてカッコいいんだ』って。

『料理も上手で運動もできて、頭も良いんだ』って。

……それとこうも言っていました。

『お姉ちゃんはいつも自分のことを助けてくれるのに、私は何もしてあげられない』、『助けられてばかりで嫌だ』って。

『私もお姉ちゃんのことを守りたい……。そう思っているのに怖くてできないのが情けない』のだと。

その気持ち、私にも痛いほどわかりました。

私にはメイみたいに姉妹がいなかったから、盾になって守ってくれる人はいなかったけど、いつも立ち向かえないことが悔しかった。

終わるのを待つだけで、足がすくんで動けない。

ねぇ、先輩、私、実はずっとこう思っていたんですよ。

…先輩は自分のせいでメイが死んだと思っているみたいですけど、メイはその日、もしかして勇気を振り絞ってお父さんに立ち向かったんじゃないですか?

守ってくれる人がいない中、これから帰ってくる大切な人が、これ以上傷つかなくて良いように、メイなりに精一杯戦ったんじゃないでしょうか。自分よりずっと大きな大人に立ち向かうのって、すごく怖いことだと思います。なのに、メイがそれだけ頑張ったのに、メイの勇気を、強さを、優しさを、“可哀想”と言ってしまったら、それこそ本当に可哀想じゃないですか」


 沙羅は泣いていた。

 唇を震わせて泣いていた。


 ジュンナは思い出した。

 ある時期、妹が楽しそうに話す学校の話に必ず登場していた、友達の名前を。

 『さっちゃんがね』


 “さっちゃん”


 幼かったから、メイはさっちゃんと呼んでいたけれど、“さっちゃん”ってまさか──。

 「さっちゃん、なの?」

 沙羅は「その呼び方…、」と大粒の涙をこぼし、何度も頷き、拳銃を持っていない方の手で涙をぬぐった。

 さっちゃんは確か引っ越してしまって、そのときのメイの落ち込みようといったら……。


 「学年が上がったとき、メイとクラスが別々になって、数カ月もしないうちに父親の暴力が発覚した私は施設に引き取られることになったんです。

それ以降、メイとは連絡を取っていませんでした。

……だからメイの死を知ったのは、先輩に出会ってからのこと。

先輩のデスクに飾られている写真を見たときは目を疑いましたよ。

まさか配属先の先輩がメイのお姉さんだなんて。

嬉しくて、メイの近況を聞こうとしたのに、先輩の口から語られたのはメイが亡くなった日の出来事で、あのときは頭が真っ白になりました。

それこそ家に帰ってから何も手につかず、ソファーで“ぼぅ”っとしているうちに、夜が明けてしまったほど。」


 沙羅が顔を上げる。

 決意のこもった瞳をしていた。


 「メイには数えきれないほど助けてもらったから、メイの願いは私が叶えてあげたい」


“私もお姉ちゃんを守りたい”

 

「メイの代わりに、私が先輩を守ります」


 「だからこれは私の役目です。」


  先輩にはやらせない、と、自分に向けていた銃口を加賀見義彦に向ける。


 「ダメ!!沙羅っ……!!」


 ジュンナはとっさに拳銃を投げ捨て、沙羅に飛びかかる。


(っ、間に合わない!)


 ──、と、そのとき。



 ブワァァァアアーー!!!



 突如、閉じていたはずの窓が開き、突風が吹き抜けた。

 あまりの風圧に沙羅は目を閉じる。

 目を閉じたせいで狙いが定まらず、パァン!!という音とともに放たれた弾丸は、軌道を逸れて壁に埋まる。

 シュウゥゥと弾丸が壁と摩擦で擦れる音がする。


 衝撃に耐えられず、尻もちをついた沙羅。

その拍子に拳銃を落とす。

 ジュンナはぎゅ、と目をつぶっていた。

 すべての音が止んでから、沙羅は立ち上がり、落とした拳銃を拾いに行く。

 リボルバー内部を確認すれば、装填した弾丸はなぜか全てぺしゃんこに潰れていた。


 「……先輩、いま、見えました?」


 ジュンナは沙羅の顔を見て、こくりと頷いた。


 確かに見えた。

 風が吹き込む、その一瞬、窓の向こうに薄っすらと。


 「……メイ?」


 ──と、問いかけに呼応するようにまた突風が吹く。


 ザァァァアア!!!


 ジュンナと沙羅の髪は舞い上がり、棚に並べられていた本がバサバサと床に落ちる。

 そのことに気を取られていると、突然加賀見義彦の心電図が異常な数値を示す。


 ピー!!ピー!!


 「なに!?」

 振り向けば、加賀見義彦は意識がない状態のまま痙攣していた。

 「沙羅!ナースコール!!」

 ベッド近くにいた沙羅に指示を出す。

慌てて沙羅はボタンを押す。

 ジュンナは病室の扉を開け「誰かいませんか!!来てください!!」と叫んだ。


 ──容体が急変したのか。

 安定しているように見えたのに。


 ジュンナは頭で考えながら、助けを呼び続けた。


 ──それにしても不思議な風だった。

 窓は閉まっていたはずなのに。

 いくら外の風が強いからといって、窓の鍵が開くことなどあるだろうか。


 呼び声を聞きつけたナースと医師が走ってくる。

 「こっちです!急に体が痙攣しだして…」

 ナースがジュンナの肩に手を置いて言う。

 「わかりました。大丈夫ですよ。後は任せてください。」

 ジュンナは頷く。

 「大丈夫ですか、加賀見さん、聞こえますか。」

 ナースと医師は手際よく数値や状態を確認し、処置を施すために集中治療室へベッドを移して運んで行く。


 運び出される父親を見送りながら、ジュンナの意識は他のことに囚われていた。

 ……さっき、窓の向こうに、やはり見えた気がしたのだ。

 容姿は幼い頃のままだったけど、昔よりずいぶん大人びた雰囲気をした──、


 その思考を遮ったのは、懐かしい、いま一番会いたい声だった。


“おねぇちゃん”


 耳元で声がする。

 振り返り病室を見回すが、そこには力なく椅子に座り込む沙羅がいるだけだった。

 「メイ?」

 ジュンナはあたりを見回す。

 「そこにいるの?」

 まるで返事でもするかのように、隣の棚に置かれていた花瓶の白百合が一輪、首からぼとりと落ちた。


 “お父さんのことは、私に任せて“


 声と共にふっと目の前を風が吹き抜けた。

胸が熱くなり泣きそうになるジュンナの背中を、そっと撫でていくような、そんな優しい風だった。


 その風はジュンナの前を通った後、沙羅の方にも吹き抜けた。

 沙羅はピクっとわずかに反応して、数秒後、泣き崩れた。


 ジュンナは沙羅に歩み寄る。

 彼女の背中をさするために。



    ───…………   *   *   *    …………───



 泣きすぎて涙も枯れ果て、沙羅の頬に涙の痕ができたころ。

ジュンナに背中をさすられながら、沙羅は言った。

 「聞こえた気がしたんです。メイの声が。『ありがとう』って」

 ジュンナは頷く。

 「きっと本当にメイが来てくれたんだと思うよ。見えなくてもずっと、そばにいてくれたのかもしれないね」

 沙羅は、再び泣きそうになるのを隠すようにして立ち上がり、「私、エリカちゃんの様子見てきます」と病室を出て行った。

 沙羅の後姿を見届けながら、“早くれからのことを考えなくては”、と思うのに、ジュンナの頭は思うように働かなかった。

 ジュンナの周りの空気には、まだ先ほど吹き抜けた風の余韻が、波紋のように広がっていた。

その余韻に浸っていると、おもむろに扉が開かれる。


 ──ルナだった。


 控え目にこちらの様子を伺っている。

 開いた扉からこちらを心配そうに見つめているが、なかなか足を踏み入れてこようとしない。


 「こっちにおいで」


 ベッドサイドに置かれた椅子を隣に引き寄せ、手招きすれば、おとなしくルナは頷き、その椅子に腰を下ろした。


 ルナはジュンナを見上げ、「刑事さん、大丈夫?」と尋ねる。

 赤く腫れぼったい目元を見れば、ジュンナが泣いたことなど一目瞭然だろう。

 取り繕うことはできない。

 「……、」

 “大丈夫”と言いたいのに、なんだか声を出したら泣き出してしまいそうで、何も言うことができない。

するとルナが、“無理に言わなくていいよ”と言うように、こつん、と頭をジュンナの腕にもたせ掛けてきてくれる。 

 目を閉じて呟く。


「痛いの痛いの、とんでけ」


 こらえきれなかった。

 ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


 「刑事さん?」 


 突然泣き出したから、ルナは驚いたようだった。


 「ごめんなさい、刑事さん。私たちを守ろうとしたせいだよね…。何かひどいことをされたの?」

 申し訳なさで泣きそうな顔をするルナに、ジュンナは“違うよ”と首を振り、安心させようと抱きしめる。

 「大丈夫。私は大丈夫だよ。お父さんのことも、エリカちゃんのことも、きっと全部大丈夫だからね」

 ジュンナが自分にも言い聞かせるようにそう言ったとき、ナースが開いたままの扉をノックした。

 抱きしめているところを見られたことに微量の恥ずかしさを感じつつ、ルナを離す。

 「お取り込み中すみません。…加賀見義彦さんのことですが、」

ナースは深々と頭を下げる。

「──…申し訳ありません。助けることができませんでした。残念です。全力を尽くしたのですが……」

 突然の訃報だった。

 まさか、あのまま亡くなってしまうなんて。

 ──でもこれで……、

そこまで考えてハッとした。

“お父さんのことは私に任せて”

(もしかしたら、メイが、お父さんを連れて逝ってくれたのかもしれない)

「……そうですか」

ジュンナも立ち上がり、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

 ナースが去った後、「お父さん、死んじゃったの?」とルナに訊かれ、ジュンナは頷いた。

「……そっか、」と小さく応えるルナの表情は、喜びでも悲しみでも安堵でもなく、複雑なものだった。


 それからルナは思い出したように切り出した。


「そうだ! あのね、さっきエリカが目を覚ましたの!相変わらず事件のことは覚えていないみたいだったけど、看護師さんが言うには、もう熱も下がったし、悪いところもないし大丈夫だって。」

 妹の回復を伝えるルナは嬉しそうだ。


「来て」、と腕を引かれ、ジュンナは立ち上がる。


「エリカも刑事さんにお礼を言いたがっていたから、それで呼びに来たんだった」


 ごく自然に、ルナはぎゅ、とジュンナの手を握る。

 ジュンナもその手を握り返し、導かれるままに歩いた。



   ───…………   *   *   *    …………───



 「エリカ!刑事さん連れて来──、」

 「しーっ!!」

 ガラガラ!と扉を開けたルナの声を、人差し指を口に当てて沙羅が遮る。

 気勢を削がれ、ルナは「ごめんなさい」、とそっと扉を閉めた。

 忍び足でエリカに近づき、「あれ、エリカまた寝ちゃってる」と溢す。

 沙羅は頷いて、「薬が効いている証拠だよ」と言った。

 ベッドに身を乗り出して妹を見つめているルナの後ろで、沙羅は「……先輩、エリカちゃん、メイにそっくりですね」と囁いた。


「見てくださいよ、この寝顔」


 エリカを見つめ、沙羅は微笑む。



 「すごく、幸せそう」



 (──……っ、本当だ)


 そこには沙羅の言う通り、幸せそうに眠るエリカがいた。


 思わず見ているこちらの方がほころぶその無防備な寝顔に、生前のメイの姿が重なる。

 

(──メイのことも、この子たちみたいに助けてあげられたらよかったのに)


 ……と、その時、耳元の髪で風がくすぶった。

 まるで何を言ってるの、とおどけるように。


“もう十分だよ、お姉ちゃん、自分を責めないで”

 それは微かな、本当に小さな声だったけど、ジュンナの耳にはしっかり届いた。



 窓の外に視線をやれば、外の世界ではもう、長い夜が明けようとしていた。

 白んでいく空の朝焼けが、新しい朝の始まりを告げていた。




                     (完)





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