正妻と愛人の関係
「は……?」
聞き違いかと思った。なにせ、およそ信じられるような発言ではなかったのだから。
「もう一度言う。私は、真実の愛を見つけたのだ」
この国の王太子である、アマルガス・オードマリア・アルマロス殿下の言葉である。
目は輝き、煌めき、まるで初めて冒険に出かけた物語の主人公であるかのような表情をしている。
きっと、心の奥底から今の状況に心を躍らせているのだろう。
この状況で。
こんな状況に。
つい先ほどご自分と式を済ませたばかりの私——公爵令嬢ステファニー・ヴィオ・ガーランドに対して、こんな事を言っているというのに。
「私の事は愛していないと?」
「いいや。父を愛すように、母を愛すように、君の事は心から愛している。しかし、女性としての愛ではないと感じてしまうのだ」
「それは、真実の愛を見つけたからだと……」
「そうだ」
自らは誠実であるなどという妄想に取り憑かれた真っ直ぐな瞳は、吐き気を催しそうなほどの自己陶酔に支えられたものだ。
開いた口が塞がらないとはまさしくこの事で、王太子妃としての教育を受けた私をしてどう反応したやらわからない事態である。
その上……
「だから、君と夜を共に過ごす事はできない」
そんな事まで言い始めるのだ。
「……お相手はどこの方ですの?」
頭を押さえ、ようやくそれだけを問い掛けられた。
それだけが、私の精一杯だった。
「実は、もうこの屋敷にいる。僕は、今夜から彼女の部屋で寝るよ」
「この屋敷?」
「ああ。もう一時も離れたくないんだ」
「どこの方かとお聞きしたのですが?」
「…………」
何故なのか、殿下はすぐさま返事をしなかった。
本来ならば悩むまでもないはずの質問であるというのに、十秒以上も時間をかけて言葉を絞り出したのだ。
しかも、その言葉ですらあやふやなものだ。しかし、その意味が分からない私ではなかった。
「彼女は……王都出身だ。とても健気で優しい子だよ……」
王都出身。
どこの方かと聞いて、このような返答がされる事はあり得ない。『どこ』とは、すなわち『どの家なのか』であり、『どこを治める貴族なのか』であり、つまりは『家名』を聞いているのだから。
それを王都出身だなどと。
当然だが、王都は国王が治めている。もしも殿下が私の質問の意味に正しく答えているというのならば、お相手は王族という事になってしまう。
当たり前だが、そんな筈はない。
「お名前は?」
「そ、ソフィアだ」
「家名は?」
「…………ない」
「つまり、平民だと?」
あり得ない事である。
私の目の前で、あり得ない事が起こっている。
「平民と愛人関係となったと?」
「な、なんだその言い方は……!? 言っておくがステフ! ソフィアの身分を理由に貶めるのは私が……っ」
「違ぇよバカ」
「え……?」
……私とした事が、つい口が滑って。
でも、頭が痛くなる。少し未熟なところがあるとは思っていたものの、まさかここまでとは……
「そのソフィアさんを呼んでください」
「彼女に危害を加えようと……」
「違うから呼んでくださいな」
おかしいと思ったのだ。王族であり、その上王太子であるアマルガス殿下が屋敷住まいにしたいだなどと言い出した時に。
その理由は、単に愛人を隠したいからだった。王城暮らしでは、自分の目が届く場所ばかりではなくなってしまうからだ。
その後も多少の問答を繰り返し、どうにか殿下はソフィア嬢を連れてきた。初めから大人しく連れて来なさいよ。
現れた彼女は、なるほど殿下がお熱だというのもわかる美少女だった。優しそうな顔立ち、やや色素の薄い髪と瞳。そして何より、私にはない豊満な胸。ほほう、殿下はこういった女性が好みなのね。
ただ、その魅惑の顔は、その魅力の半分も感じられないように思えた。私に呼びつけられるという事態に際して、今にも泣き出しそうなほどの恐怖を滲ませていたのだから。
「も、申し訳ありませんガーランド様! ま、まさかこんな事になってしまうなんて思わず……っ」
「落ち着きなさい。別に食べてしまうつもりはないわ」
私の言葉でようやく顔を上げるソフィアだが、それでも安堵と言うには程遠い。まだ震え、怯え、私の顔を真っ直ぐに見られていないのだ。
「ステフ! これは私が悪いのだ! 全ては私が計画した事なのだ!」
「アマ……で、殿下!」
今呼び捨てようとしたな? つまり、それだけ親しいという事だ。私の手前、取り繕おうと殿下と呼んだ。そんな風に感じてしまう。
「えぇー、ソフィアさん」
「は、はい!?」
少し話しかけるだけでこれだ。悪いようにはしないと言っているのに……
「貴女、ご両親は?」
「え……両親、ですか?」
「ステフ、もし彼女の身分を言っているのなら……」
「違うから黙ってて」
殿下が邪魔だ。
今まではこんな事思いもしなかったというのに、今日はひたすらに殿下が邪魔。いなければどれほど楽だろうか。
「ご両親は何をしている方なのかしら? 教えてくださる?」
「じ、城下でベーカリーを営んでいます! パン屋風情が出過ぎた真似をしました!」
「私がお忍びで城下に出かけた際、一目惚れしたのだ」
「殿下黙って」
一々口を挟み、話の腰を折る殿下。この方が次期国王で大丈夫かしら?
これは私がしっかりしなくてはなりませんわ。
「ソフィアさん、来月からウチで働きなさい」
「……は?」
間の抜けた声が返る。私の言葉を、冗談か何かだとでも思ったのだろう。
だが、私は一切真面目である。
「ご両親は厨房で雇い入れます。貴女は使用人として、私専属のレディースメイドになってもらうわ」
「え? えぇ?」
「表向きは、私の家に二代前から仕えている事にしましょう。貴女と私は幼少からの付き合いで、折を見て王城に連れて行きます」
「ま、待てステフ! 何の話をしている!?」
「ソフィアさんを愛妾にするのでしょう? だからどうにか不自然ではない立場を与えるのです」
私は、何かおかしな事を言っているだろうか?
なぜ二人はこんなにも驚いた顔をしているのだろう。平民を妾になどできるわけがないのだから、こうする他方法などないではないか。
「お、怒っていないのか?」
「怒ってるに決まっているでしょう! もう少しで我が家の名に泥が塗られるところだったのですよ!」
「わ、わたしを排除したりはしないんですか!?」
「なんでよ。殿下は国王になられるのだから、愛妾くらい作ればいいじゃありませんの」
問題は、どうやって『ソフィアが愛妾になっても不自然でない状況』を作るのかだ。
「ソフィアさんには、ウチで使用人として二、三年学んでもらいます。ものになったら私が王城に召し抱えるから、そこで殿下に見染められた事にしましょう」
「さ、三年もソフィアと離れなければならないのか……?」
「殿下の考えなしが原因ですわ。本当ならこのくらいの手筈は私との婚姻までに終わらせておいてくださいませんと」
「…………」
反論は返らなかった。
考えなしの殿下でも、自らの浅慮に気が付いたらしい。
「ソフィアさんが殿下の愛妾となるに際して、ご両親には爵位を与えます。その時はこの屋敷を使うように。殿下、構いませんね?」
「わ、分かった。父上に掛け合おう」
この辺りの土地も与えれば、貴族としての体裁は整えられる。狭い土地ではあるが、豊かで平和な場所だ。
「少し不恰好ですが、それだけやれば取り繕えるでしょう。さぁ殿下、何をボーっとしていますの! やる事は山積みですのよ!」
「は、はい!」
返事だけは良い殿下は、すぐに部屋を飛び出す。あんな人が国王になろうというのだから、この国の未来は明るいとは言えないだろう。
私がしっかりし、私が何とかしなければ。
差し当たり、今はこの話をお父様に報告しなくてはならないだろう。
「あ、あの……」
「? ああ、ソフィアさんはしばらくこの屋敷でゆっくりなさって。できれば使用人としての教育を始めてもらえると助かるわ」
「あ、はい。えっと……ありがとうございます!」
ソフィアさん。
王子に見染められてしまったがために、これから貴族社会などという慣れない環境に身を置かなくてはならなくなってしまった少女。
本当なら慎ましくとも幸せな一生を送るはずだったというのに、これから悪意の坩堝に落ちなくてはならない。
本人は礼を言っているが、それを素直に受け取れるものだろうか。
せめて、この巻き込まれただけの少女一人は幸せにしなくてはならないだろう。……アマルガス殿下辺りを犠牲にしてでも。
「困った事があればなんでも言いなさい。できるだけ便宜を図るわ」
「は、はい!」
純心な瞳で見つめられるのが心苦しく、私は屋敷を後にした。
その瞳が、いつまでくすんでしまわないようにと願いながら。
◆
後に、その卓越した政治交渉の手腕によって歴史に名を残す事になる、賢王アマルガス・オードマリア・アルマロス。その傍らには、常にステファニー妃の姿があった。
王を支えた王妃について記された歴史書は少ないが、愛妾であったソフィアと非常に仲が良かった事だけは有名である。