記憶の伝承
結局メモリアはレイチェルの家を出た。今のままではレイチェルにかかる負担も大きく、ずっと甘えてはいられないと。
しかし離れ離れとはなってはおらず、宿住まいの生活に戻るメモリアは、今日もギルドの受付に現れる。
「レイチェル! 暴れ猪を狩りに行かせてよ!」
「駄目です。メモリアさんには岩ナメクジだってまだ早いくらいです。大人しく帯電粘液にしましょうね」
メモリアはぷくっとむくれて見せるが、すぐに息を漏れ出すと、朗らかに笑ってみせた。
「レイチェルの言うことは正しいもんね。こつこつ頑張るよ」
「ふむ、よろしい」
「じゃあ、行ってくるね」
「あ、メモリアさん! 魔除け玉は持ちましたか?」
「心配性だなぁ。ちゃぁんと持ってるって!」
メモリアは腰の革袋をカウンターに載せると、布でくるんだ玉を取り出した。
「ほら、これだろ! でもこれを使ったら僕の方がノックアウトしちゃうよ」
けらけらと笑い合うレイチェルとメモリア。スティンクボンバは魔除けといっても、退廃イタチの肛門嚢を使った悪臭を放つだけの匂い袋。異常な動きを見せる魔物を鑑み、万一の際にレナトゥリアから逃れる為に。冒険者たちは常備することになった。
ここ数日、メモリアは採集と小さな狩りを続けている。それでもレイチェルは毎度毎度、一抹の不安が付き纏っていた。
メモリアの背中が入口から見えなくなったところで、ふと目を落とすレイチェル。カウンターには四つ折りの紙が残される。
「あれ……この紙は依頼書ではないですが……」
くすんだ紙を開くと、そこには稚拙ながら丁寧な文字が並んでいた。
「アルコフェミナの生息域……リンネハーブの見分け方に、ヴィーダリリーの根の掘り方。それにラットイーターの解体法……」
ぽたぽたと伝う涙が零れ落ちて、 淡黄色のメモを濡らした。
「フィリクスさんは……生きてます……メモリアさんの中に息衝いて……」
涙を拭うレイチェルに差す一つの影。見上げると長身のヴェルメリオが、金の髪を垂らして見下ろしている。
「メリディオンの森の依頼はあるか?」
「ヴェルメリオさん……ありますけど、それって……」
「黙って依頼を探せ」
「えぇと……今は七星茸の採集くらいしか……」
「はぁ……仕方ないがそれでいい」
依頼を受けたヴェルメリオはその場に屈むと、ぎゅっとブーツの紐を縛り上げる。
レイチェルはカウンターの表に回り、屈むヴェルメリオにメモ書きを差し出した。
「メモリアさんの忘れものです」
「なぜ俺に?」
「同じ目的地ですからね」
「ちっ……仕方ないな」
不愛想にメモを受け取ると、懐にしまうヴェルメリオ。その姿を眺めるに、レイチェルは姿勢を正して頭を下げた。
「ありがとうございます。毎回毎回、メモリアさんを見守って頂いて」
「なにがだ。俺の行きたい場所とたまたま同じなだけだ。勘違いするなよ」
そしてヴェルメリオは目も合わせず、つかつかとギルドを去って行った。
慌ただしい午前の時間も過ぎ去って、なだらかな午後の時間。お手洗いを済ましたレイチェルがカウンターに戻ると、銀髪の男が急かすように机を指で叩いている。
「すみませんルアンさん、遅れました。一昨日にギルドを出たぶりですね」
「まったく、この程度の依頼に貴重な時間を三日も使わせてくれるとは。この人面蜘蛛の糸腺を納めて、次こそは銀狼をお願いしますよ」
「駄目です。シルウァはとても危険です。群れならドラゴンさえ獲物にするとの報告があります。そしてドラゴンを捕食した紅蓮狼に出会ってしまえば……」
「燃え盛る狼など、そんな伝説は眉唾です」
「本当です! だってフィリクスさんが――」
言い掛けて、レイチェルは口を噤んだ。フィリクスを貶されることを恐れたのだ。
「そうですか……査定をお願いします」
「はい……」
気まずい空気が漂うが、人面蜘蛛の糸腺を受け取ると、レイチェルの沈んだ目は次第に輝きを取り戻す。
「とても綺麗……生きた糸腺を見ているよう。とても丁寧な採取です。まるでフィリクスさんの持ってくるような――」
「私の実力が少しは分かりましたか。今さら気付くとは、あなたの目は節穴だ」
「そうですね、節穴でした……すみません」
目の縁の涙を拭うレイチェル。悲しみから出たものではないのだが、戸惑うルアンの目は泳ぎだした。
「し、失礼。節穴というのは言い過ぎました……」
続く慰めも見当たらず、しどろもどろするルアンは、咳払いで場の空気に区切りを付ける。
「ですがご理解頂けたようでしたら、次こそはお願いしますよ」
「駄目です」
「……あのですね――」
「だって、ルアンさんとまた会いたいから」
ルアンの赤色の目は丸まって、忙しなく挙動していた体を、次にはがっちり固めることに。
「……ルアンさん?」
「ま、まぁ……耳を傾けることはしましょう。傾けるだけは……」
目の色が顔色にまで滲み出て、報酬を受け取ったルアンはそそくさとギルドを立ち去った。