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おやすみ、僕と君と

作者: 穹向 水透

62作目です。シリーズの完結作です。



 チョークが黒板とぶつかって鳴る小気味良い音が眠気を誘うので、一瞬だけ眼を閉じた。でも、眠ってはいけないから、何とか眼を開けて、黒板の文字や図をノートに生真面目に写す。

 自分が写さないと誰が舞音(まね)にノートを見せるんだ。

 麻宵(まよい)あせびはそう心の中で呟きながらシャーペンを動かした。きっと、舞音はいつものように悠長に眠っている。さっきちらりと後ろを見た限りはそうだった。

 チャイムが鳴ったけれど、教師の説明は続き、それらも丁寧にノートに書いた。ここまでしても舞音にノートを見せてあげたいのだ。

 教師が教室から出て行って、あせびは早速、舞音の机に駆け寄った。彼女は明らかに眼を醒ましたばかりのぼんやりした顔をしながら弁当箱を机に出していた。

「舞音ったらまた寝てたでしょう?」

「バレてた?」

 言ノ葉(ことのは)舞音は気怠そうに言った。

「うん。腕までしっかり伸ばしてたし、突っ伏してたし……気持ち良さそうに寝てるなって見てた」

 彼女はゆったりと笑った。

「またコンビニ弁当」

 あせびがビニール袋から弁当を取り出すと舞音が言った。

「えへへ。いいでしょう?」

「そうかなぁ。あ、あせび、あとでノート見せてね」

 ほら来た、とあせびは思った。

「いいよ。唐揚げ一個くれたらね」

「ほら、あーん」

「あーん」

 舞音があせびの口に唐揚げをそっと入れた。

「ん、美味しいねぇ。じゃあ、ノート見せたげるよ」

 あせびはノートを舞音に渡した。

「おふたりさん、お待たせ」

 あせびが弁当を食べていると声がした。灯袋蛍(ひぶくろ ほたる)葉夏一華(はな いちか)だった。購買に行ってきたのだろう。

「購買は混んでる?」

「まぁまぁだね。何か用があるの?」

「あとで修正テープを買いに行こうかなって」

 あせびがコンビニの焼きそばパンを頬張りながら言った。

「何だ、言ってくれたら買ってきたのに」

 蛍が笑って言った。彼女はカツ弁当を食べている。一方、一華は机にクリームパンを置いて、何処か虚ろな眼をしていた。

 体調が優れないのだろうか、と思っていたら、舞音が「一華、今日は体調はどう?」と訊ねた。こういった気遣いは舞音の専売特許であるとあせびは常々思う。

「至って元気だよ」と一華は儚げな笑みを浮かべて答えた。彼女の場合、無意識の一挙一動が瑠璃のように脆く思えるのである。

「ねぇ、次の時間って何だっけ?」と舞音。

「ん? 次はー、体育じゃなかった?」

「そうだよ、体育。今日はプールでしょ、確か」と蛍。

「あせびと蛍は泳ぐだろうけど、一華は?」

「私は見学かな」と一華が言った。一華は極めて孅いので、見学という選択について、特に違和感はない。

「良かったー、私も見学しようかなって」

「え、舞音も見学するの? えぇ、私も見学したいんだけど……」

「あせびは何処も悪くないだろう? 舞音は数日前まで風邪引いて休んでたんだから見学くらいさせてやらないと」

 蛍がそう言った。

「うぐぅ……私も風邪引いとくべきだったよ」

 あせびは言った。みんなが笑ったが、本心だった。何が楽しくてプールなんかに入るのか。プールサイドで打ち上げられた鯨みたいにストレッチしていた方がよほど有意義だ、とあせびは心の中で捲し立てた。

 昼休みが終わりに近付き、それぞれが自分の席に戻った。あせびは自分が今日の学級日誌担当であることを思い出して、四時限分のデータを書き記した。そうして、五時限目も先に書き込んでおこうと思った瞬間だった。声がスピーカーから聞こえ出したのは。

 随分と震えた声だった。後ろで銃でも突き付けられているのかと疑いたくなるくらいに震えていた。声は震えながらも自分の紹介をした。それは校長だったらしく、あせびは、こんな何でもない昼休みに校長が態々スピーカーを通して伝えることがあるのか、と疑問に思った。

 いくつかの震え声が続いた後、彼の言葉は最重要事項に至った。

「世界は今日の夜に終わります」

 あせびは軽く頭を掻いた。どうにも迂遠な表現に思えた。

 質の悪い狂言か。

 どういったサプライズなのか。

 あせびは考えたが、どうにもクオリティが低いとしか思えず、自然と笑ってしまった。他のクラスメートだって笑っていた。スピーカーを通して流されたのが、あまりに幼稚な終焉の告知だったからだ。

 しかし、あるひとりの発言が場を揺らした。彼がネットニュースを見てみろと言うので、あせびは携帯電話を取り出した。そして、眼にしたのは、一面が隕石の到来で世界が終わることに言及している様だった。

 今日はエイプリルフールだったか?

 あせびは何となく日にちを確認する。

 何かの陰謀か?

 しかし、意味がわからない。この時代、ネット上での揺らぎは国民の揺らぎであると言っても過言ではない。こんな趣味の悪い報道が堂々と流されていいものか。

 あせびは人差し指の爪を噛んだ。

 ふと、振り返ると、舞音は窓を向いて呆然としているし、一華は死んだような、作り物染みた顔をしていた。蛍は何だか悔しそうな表情をしていた。自分は極めて冷静だと思った。

 思考は止まらない。

 あせびは虚ろな眼をして考えを巡らせた。

 フェイクか否か、まだ決められなかった。

 不意に「帰ろう」という声が聞こえた。振り返ると、舞音がいた。彼女は帰り支度を済ませていた。彼女もまた冷静だった。

「帰ろっか」

 あせびは微笑んで言った。

 舞音がいるじゃないか、とあせびは心の中で口笛を吹く。

「終わるんだってね」

 蛍がやって来てあせびの頭を軽く叩いて言った。

「うん、終わるんだって」と舞音。

「あっけらかんとしてるなぁ……。私はまだ信じられないし、信じたくない。まだ冗談だと思ってるくらいだから」

「一華は?」

「ん? まだきょとんとしてるみたい」

 一華を見ると、さっきと表情を少しも変えないで、本当に死体か人形のようにしていた。すかさず、舞音が彼女の方に向かって行った。

「はぁ、舞音は気丈だね。それとも、終わることがわかってないのかな。彼女ってそういうところが鈍いから」

「そんなことないと思うよ」

「ただ、もう受け入れたんじゃないかな。明日には世界がないってことをさ。舞音ってその辺の執着ないから……。蛍はどうなの? 実際、怖かったりするの?」

「怖いよ。怖くない筈がないよ。あせびは怖いよね?」

「怖いね。でも、どうせ死ぬのは私だけじゃない。みんな、みんな、老若男女、富裕層も貧困層も誰も彼も死んでしまうんだったら、私は終わりを受け入れるくらいはできるよ」

 あせびと蛍がそんなことを話していると、舞音と一華が来て「帰ろうか」と言った。

「帰ろ帰ろ。帰って何するかな。私たち、あと六時間程度の命ってことなんでしょ? 何か特別なことしてみたいよね」

「蛍、彼氏とかいないの?」

「いたらとっくに帰ってるよ」

 蛍は笑った。

 四人は教室を出た。この教室や廊下も二度と来ないと思うと不思議な感じがするけれど、考えれば、どうせいつかは味わう感覚だった。

「今日、最後の思い出作りでもしない?」

 外に出たところで舞音が不意に言った。

「いいね、そうしようか。でも、何をする? カラオケにでも行く? 買い物? 誰かの家に集まる?」とあせび。

「いやぁ、最後だからさ、いつもはできないことをしたいなぁって」

 舞音は言った。何処かはにかんでいるのが可愛らしかった。

「いつもはできないこと?」

「そう。星を見ようよ。学校の屋上から。そうしたら、四人で揃って死んじゃおうよ。隕石が落ちてくる前に」

 星。

 今から地球を壊すのだって無数の星のひとつ。

 謂わば、蛮族、略奪者、バルバロイ。害を齎すもの。しかも、歴史に終焉をはっきりと突き付けた化物。

 それらを観察しようなんて、舞音は何て素晴らしい提案をするのだろう。特大の流れ星に願いを捧げながら死ねるじゃないか。

 あせびは涎が出るかと思った。

 それくらいに素晴らしい提案だった。

 だから、すぐに「賛成」と言った。蛍と一華も頷いた。

 後で集合する約束をして、蛍と一華とは別れた。

 帰り道、舞音は楽しそうだった。あせびだってそうだ。小学生が翌日の遠足に胸を踊らせるみたいに、あせびの心臓はダンスをしていた。

 世界の終わりに心を弾ませるなんて何て不謹慎なことだろう。でも、みんなそんなことどうでもいい筈だ。

 だって、終わるのだから。



 舞音と別れて、あせびは自宅に帰った。ある団地の四階である。灯りが切れている廊下を歩いて部屋に入った。

「ただいま」

 あせびがそう言うと、奥から母親がやって来て、「お帰りなさい」と言った。玄関まで迎えに来たのは初めてのことで、これもやはり世界最後の日だからだろう。

「本当に、世界は終わるのかしら」

「終わるんじゃないかな」

「あせびは悲しくないの?」

「悲しい、なんて思えるほどに現実を受け止めてないかな。まだ心から信じてなんていないんだ」

「そう。あせびは冷静ね」

「興奮する理由もないからね」

 そう言ってあせびは自室に荷物を置いて、リビングを通過し、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。

「お隣さんは死んじゃったみたいよ」

「へぇ。早いね。独り暮らしの学生だったよね」

「そう。首を切ってたんですって」

「ふぅん。頭と胴体を切り離して、現実と夢の分離かな」

「難しいこと言わないでよ」

 母親は笑いながら言った。

「難しくないよ。気取ってるだけ」

 牛乳を飲み干して、自室に戻った。

 あせびは母親とふたり暮らしである。父親はあせびが幼い頃に亡くなった。殺人をした後で自殺したのだ。あせびは彼の顔なんか憶えていない。母親も写真を見せてくれたことがない。いっそ、父親なんて最初からいなかったことにしようとしたのかもしれない。確かに、そちらの方が幾分か気楽かもしれない。

 あせびはクローゼットに寄り掛かった。薄暗い部屋を、少しだけ開いた窓から流れ込む風がすり抜けていく。

 気分は朝のようだった。

 実際は「誰そ彼(黄昏)」である。「誰は彼」ではない。

 ふと、正面の机の上にアルバムが見えた。中学の頃のアルバムである。いくつかの傷が表紙に散見された。彼女は寝る前にアルバムを眺めることがお決まりなのである。

 三年二組の頁を開く。

 かつては、たくさんの写真が、人の顔が並んでいた。

 担任の写真はない。嫌いだったから。

 男子の写真もない。興味がなかったから。

 女子の写真も殆んどない。嫌いだったり、興味がなかったから。

 残っているのは二枚。

 言ノ葉舞音と自分自身。

 舞音は今と同じように可愛らしいが、より幼い笑みを浮かべている。屈託のない笑顔というのは彼女のためにあるのかもしれない、と毎晩毎晩思っては納得している。

 あせびはというと、今と同じようにストレートの長髪である。色も白い。ただ、眼が死んでいるし、頬には大きな湿布が貼ってあった。

 嫌な記憶である。

 舞音がいなかったら今頃はきっと……なんて思う。これは嘘でも言い過ぎでもない。本当にそう思っている。舞音が優しくしてくれなかったら、もう土の下にいただろう。

 頬の傷は何だっけ。

 あせびは考える。

 彼女は長い髪を握り締める。

 痛みは記憶されるものかもしれないが、あせびにとっては忘却の象徴だった。彼女は苛められていたという事実は記憶していても、詳細は忘れてしまった。自分は他人よりも、堕落した、ある意味での高性能を備えているのだと思っている。

 彼女は写真を凝と眺めた後、徐に二枚を剥がした。そして、重ね合わせて、ゴミ箱に捨てたのだった。

 あせびは鏡の前に立った。

 髪を上げて、耳を晒した。

 舞音から貰ったピアスだ。

 思い出の凝集。それも幸せな思い出の。

 彼女は鼻唄を歌いながら、人生で最後のシャワーを浴びた。身体に当たるシャワーの感覚、シャンプーやリンスの香り、ぼやけた浴室を舞うシャボン玉、音の反響、そして、命のゴミ箱。シャワーを浴びながら、思うことはたくさんある。一度はここで死のうと思った。それも今はどうでもいい思い出である。

「あせび、少し散歩に行かないかしら?」

 シャワーを浴びてリビングに戻ると、録画したドラマを見ていた母親が言った。ドラマは彼女が何回も何回も繰り返し見ていたミステリーだった。こんな黄昏にまで見るなんて、よほど好きなのだと改めて思った。

「散歩? いいけど、ちょっと待ってね」

 あせびは制服を着て、準備をしてからリビングに戻る。

「いいよ」

「あら、どうして制服なの?」

「んー……好きだからだよ」

 態とらしく微笑んでみせた。

 靴を履いて、薄暗い廊下を通って、軋むエレベーターに乗った。あせびが一階のボタンを押そうとすると、母親が「あ、私がやるわ」と言って操作を代わった。

「一階以外に何処に行くのさ」

「屋上よ」

 彼女は屋上のひとつ下、六階のボタンを押した。エレベーターは軋みながら上に移動する。下っている錯覚もできるので、エレベーターは面白いと思うあせびだった。

 六階で降り、屋上への階段を上った。屋上の扉は開いていた。

「開いてるんだね」

「杜撰よね」

「そうだね」

 屋上は何の変哲もない屋上だった。風が遊んでいた。空は嗄れていて、所々に少し赤らんだ雲が浮かんでいた。終わりが近いのだと思わせるのは、きっと、赤色だろう。

「何をしに来たの? まさか、景色を眺めながらお茶でもって言うの? やるなら、もっと有意義なことをしようよ」

「有意義よ。とってもね」

「どういうこと?」

「あせびといられるんだから」

「あぁ、そう、そうかもね」

 母親は屋上の縁に腰掛けた。消極的なのか怖いもの知らずなのかの判別はし難かった。あせびは母親の横に腰掛けた。

 静かだった。

 風の音だけが耳に伝わる。

 髪が靡いた。

 何処かで時計の針が進んだ音がしたような、そんな気がした。

「あせび」

 母親が言う。

「何?」

「学校はどうだった?」

「高校生になってからは楽しかったよ。仲良い友達もいたからね」

「舞音ちゃん、蛍ちゃん、一華ちゃん、だったかしら?」

「そうだね」

「学園祭で四人で楽しそうにしているところを見掛けたわ」

「学園祭かぁ。懐かしいね」

「今となっては何もかもが懐かしいわよ」

「何もかも、ね」

「そう。あの人が人を殺して自殺したことも、それで私たちが白い眼で見られるようになったことも、それであなたが苛められるようになったことも……何だか、懐かしいという言葉以外出ないの」

「世界が終わるからね」

「今ならわかるの。あの人があなたの名前を馬酔木(あせび)から取ったこと。私はずっと不思議だったの。人につける名前じゃないわ」

「そうだね。馬酔木は毒があるし」

「あせび、あなた、花言葉は知ってる?」

「うん。知ってるよ」

「あぁ、そう。そう……なら、心配ないかしら」

「どうだろう」

「いえ、あなたは賢いから……」

 母親はあせびに顔を近付ける。そして、頬にひとつキスをする。

「ここからは、あなたの時間。お友だちのところへ行くんでしょう?」

 あせびは頷いた。

 母親も頷いた。

 そして、母親が視界から消えた。

 約二秒を経て、何かが潰れる音がした。

 あせびは立ち上がる。

「ごめんね。お母さんとはふたりになれないんだ。旅は……ごめんなさい。許して欲しいな」

 あせびは屋上から戻り、エレベーターで一階に移動した。敢えて遠回りをして、団地から出た。西方が少しずつ赤くなり始めていた。



 校舎に入った時、六月の終わりだというのに少し寒気がした。冷たい廊下を歩いて、屋上に向かった。もうみんないるのだろうか、と逸る気持ちを押さえながら、階段を踏み外さないように歩いた。

 屋上のドアは開いていた。もう誰か来ているのだろうと思った。

 開けると、生温い風があせびを包んだ。髪が一気に後方へと靡いた。まだまだ青い空が皺を伸ばして広がっていた。

 屋上の中心に舞音がいた。

 彼女が不意に「おはよう」と言った。

 だから、「うん、おはよう」と返した。

「あ、あせびだぁ」

 舞音がこちらを見て言った。

「お待たせ。あぁ、いいね。屋上なんて入学以来初めてかもしれない。これこそ青春って感じがするよね」

「ちなみに、初めてじゃないよ。集合写真撮ったでしょ?」

「私、そういう記憶はできない質なんだ」

「知ってる。そのビニール袋は何?」

「ん、これ? あぁ、お菓子だよ、お菓子。どうせまだ時間あるし、蛍と一華も来てないから、適当に食べながら待ってようよ」

 来る時に買ってきたものだった。

「そうだね。ブラックペッパーのポテチある?」

「勿論だよ」

 あせびはブラックペッパーのポテトチップスを取り出す。舞音の好物である。忘れることはない。

 ふたりはジュースを飲みながらポテトチップスを食べた。チープだけれど、何よりも美味しいと思えるのは終末の錯覚だろうか。

 ふと、視線を感じて舞音に訊ねた。

「何でもないよ。見てただけ」

 彼女は言った。とても愛らしい笑顔だった。

「そう。いくらでも見てて」

 本心である。

「ちゃんと、ピアスしてくれてるんだね……」

「舞音だってしてくれてるよね」

「うん。大切なものだからね」

「嬉しいなぁ。泣いちゃうよ、私。ただでさえ、終末で涙腺ゆるゆるだったりするのにさぁ。狡い狡い」

 本当に泣きそうだった。

 舞音が自分に対して思うことは少ないかもしれない。彼女がそういうタイプの人間だと知っている。それでも、それでもだ。

「泣いてもいいよ」

「そうだねぇ、機会があったら泣かせてもらうよ」

 機会なんていつだろうか。もう時間もないのに。

 その時間の速度は非情で、空の色は眼を離した隙に変わっていく。真っ赤な空は神々の黄昏(ラグナロク)を思わせたが、これが終末の終末でないことはわかっていた。本当の終わりは美しい星空が広がった後で訪れるのだ。

「夜だね」

「うん、夜だ」

「もうすぐってことだね」

「蛍と一華、遅いなぁ。何かあったのかな」

「家族がもう道連れにしてたりしてね……」

「……舞音の親も死んでた感じか」

 自分で言って、何を言ってるのかと不思議に思った。帰った時点で母親は生きていたじゃないか、と。

 今、自分の頭には眼の前の言ノ葉舞音しかいないのだと思った。

 それほどに想っている。

「そう。勿体ないよね。こんな貴重な時間なのに……」

 舞音は哀れみを込めた表情になる。

「そうだね」

 あせびはその表情を見詰めながら頷いた。

 空が赤を失って藍色に変化していく。あせびは屋上の手摺に凭れていた。不思議と雲が高く高くへと移動しているように思えた。西方からやって来る仄かな闇が空を支配し、ぽつりぽつりと灯る光を見た。

 街を見ると暗かった。普段ならば光に彩られた、まさに人間の文明の発展した姿ともいえる夜の風景はそこになかった。

 ただ、暗く暗く沈んでいた。

「見て見て」

 あせびは舞音を呼んで、街の様子を見せた。彼女は眼を丸くしていた。それもまた、可愛らしかった。

「今、何時かな?」

「午後七時半。まだ来ないね」

「どんなスピードで来るにしても、もうそろそろ光くらいは見えると思うんだけどなぁ……」

「そろそろ、かな」

「ん? 準備?」

「そう」

 ふたりは屋上中央に戻り、先に舞音が仰向けになった。

「あ、凄い凄い。星だよ、もう、これが満天の星ってやつなんだね。あせびも見てみてよ。プラネタリウムみたい……」

「どれどれ」

 あせびも仰向けになった。

「いやぁ、確かに凄いね。綺麗だ」

「何でこんなに綺麗なんだろうね」

「フィナーレだからだろうね」

 少し擽ったい感覚がした。見ると、舞音が手を伸ばしていた。彼女はあせびの髪に触れ、そして、頬に触れた。

「どうしたの?」

「蛍と一華、来なかったね」

「仕方ないさ。でも、私が来ただけいいでしょう?」

「そうだね」

 舞音は少し寂しそうに言った。

 彼女の体温。

 今だけの体温。

 明日が来る前に失われる体温。

 何と愛おしいのだろう。

 月が綺麗だったらよかったのに、と思う。

 生憎、今日は月がよく見えない。

「ねぇ……」

 無意識に問い掛ける。

「どうしたの?」と舞音。答えないでいると、また「どうしたの?」と聞こえてきた。

「いや、何でもないよ……」

「変なの」

「そう。私は変なんだよ。舞音だって変だよ」

「そうかな?」

「うん。だって、舞音は今が一番楽しいと思ってる。世界が終わっていく今が一番幸せだと思ってる」

 少しの沈黙。きっと確かめているのだろう。

「そうかもしれないね」

「変でしょう?」

「変だね。でも、あせびもきっとそう」

 あせびはふっと鼻息を漏らす。

「あはは。そう。私も楽しい。歴史の最後に舞音といられること。きっと、神様がいたらふたりで星座になれるよ」

 ふたりで、永遠に空で笑い合える。

「神様がいたら歴史は続いてるんじゃない?」

「神様だって飽きもするさ」

 あせびは笑う。

 神様は人間の逃避の形だ。

 そんなことは知っている。

 だから、奇跡なんて起こせない。

 所詮は人間の描いた理想だからだ。

「さて、そろそろ本当に準備しようか」

「うん」

 舞音が鞄を開けて睡眠薬を取り出す。蛍と一華の分も合わせて四人分ある。でも、ここにはふたりしかいない。

 眠るには過分だと思った。

「睡眠薬ってさ、たくさん飲むと吐いちゃうらしいね……」

「苦しいのかな?」

「わかんない。たくさん飲むの初めてだから」

「私も」

 あせびは手に乗せた錠剤を口に押し込んだ。たくさんの粒が喉に落ちていって、思わず吐きそうになった。

 舞音も同じようにして口に押し込んだ。入りきらなかった錠剤がポロポロと落ちているのが見えた。

 ふたりは仰向けになった。

 視界で火花が散る感覚。

 弾けて、繋がって、また弾けて……命を作るプロセスのようにも思えた。原始的で微笑ましいイメージだ。

 手を動かそうとする。

 でも、動かない。

 満たされた星空に浮かぶ光を掴んで、舞音にプレゼントしたい。

 でも、無理みたいだ。

「ぼんやりしてきたなぁ……」

「奇遇だね……私もだよ」

 舞音が幽かに笑いながら言った。

「あはは。楽しいね。死ぬことが愉快に思えるなんて。終末ってのは人を狂わせるみたいだ……」

「楽しいね……」

「うん。楽しい……」

 とても楽しいし、幸せだ。幸福を具体化したような星空の下、舞音と一緒に命を散らすことができるなんて、生きていた意味はここに帰着すると言っても過言ではない。

「ねぇ……」

「何……?」

「何でもないよ……」

「また……?」

「うん……また」

「……そろそろかな」

「そうだね……」

「さよなら……」

「さよならだね……」

「でも、本当のさよならまで話そう……?」

「……いいよ」

 あせびはそう言ったけれど、舞音から答えはなかった。先に行ってしまったのだろう。そして、すぐにあせびの意識も暗くなった。



【コマンド。エラー。操作はできません】



 光。

 もう着いたのだろうか。

 それ以前に光ある場所へ行ける人生だっただろうか。

 そして、そんな世界を夢見たことがあっただろうか。

 あせびは眼を開ける。頭が痛い。中から響く痛みだった。瞼は重力に抗えないようで、なかなか開かなかった。眼を開くと、急に涙が溢れ出た。ぼやけた視界は、ただ白かった。

 眼を擦り、視界を鮮明にした。

「え」

 まず眼に入ったのは、淡く青い空だった。どうやら明け方の空だ。まだ雲は高く、他にはない透明さがあった。

「え……」

 あせびは横を見た。

 舞音が静かに眠っていた。

 その手はあせびの方に伸びていた。

 あせびは頭痛からだと思われる吐き気に襲われて、舞音から距離をとって吐き出した。とても苦しかった。

 理解ができなかった。

 頭を打ち付けた。

 赤いものが飛び出した。

「……夢じゃないってこと……」

 あせびはふらつく足で立ち上がり、四方を見回した。

 昨日以前と変わらない世界が広がっていた。

 何かが壊れたわけでもない。

 変わらない世界。

 つまり、世界は終わらなかった、ということか。

「……嫌だ。嫌だ」

 あせびはそう呟きながら舞音に近寄る。

 そして、触れた。

 温度は、なかった。

 それは決して冷たい朝の所為ではなく、単純に命が失われたからだと知っていた。知っていたけど、理解したくなかった。

「嫌だ……嫌だ! 舞音、眼を醒まして! 朝だよ、朝なんだよ」

 舞音は動かない。

 幸せそうな表情を浮かべて冷たく眠っている。

「ねぇ、舞音。私……僕……君がいなくちゃ生きていけないよ……だって、僕は君が、君のことだけが……大好きなんだから」

 揺すっても舞音は眠ったままだ。

 とても起きてくれない。

「ねぇ、ねぇってば……起きてよ。世界が滅ぶなんて嘘だったんだ、嘘だったんだ……ねぇ、舞音……僕……ごめん」

 あせびは涙で前が見えなくなった。

 落ちた涙が、冷たい舞音の顔を濡らした。

「もう、起きてくれないの……? 僕は、君に置いていかれてしまったの? 僕は、もう君に逢えないの?」

 朝の透明な酸素を吸い込んだ。

 噎せる。

 呼吸が難しい。

 心拍数が乱高下する。

「ねぇ、嫌だ、本当に嫌! ねぇ、僕、嫌だよ。舞音、嫌なんだ! 君がいないと、僕は、僕は、僕は……生きている意味が何処にもない。僕は、君に生かされてきたんだ。本当は、とっくの……とっくの昔に、死んでいた……僕は、そうなんだよ。君のものだった」

 あせびは立ち上がり、舞音の鞄の中から残っていた睡眠薬を取り出した。蛍と一華の分である。

「嫌だ……嫌だ……」

 あせびは錠剤を次々に口に押し込む。

「嫌だ……僕は……生きていたくない……」

 吐きそうになるのを怺える。

 すぐに足が蹌踉めいた。

 その足で舞音の横に戻り、もう動かない身体を抱き締めた。

 混濁。

 引き伸ばされて、ぐちゃぐちゃになる。

「大好きだよ……僕は、舞音のことが……」

 吐息が静かになっていく。

 心拍もとても穏やかだ。

 空気が透明だ。

 青空を引っ掻くように光が走る。

 今日はきっと雨が降る。

 そんな匂いがしたような気がする。

「おやすみ、僕と……君と」

 願わくば、逢えますように。

 僕は王子様。

 君はお姫様。

 迎えに行くから待っててね。

 エラー。

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 信号消失……。

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