4)悪夢がやってきて、執事もやってきた
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・
暗がりの中、男がじっとこちらを見ている。
低い声で久しぶりだなどど言っているので、たぶん知り合いなのだろうが……誰なのかよくわからない。
その男は、ブロンドの髪と明るい碧眼の持ち主で、金の飾り紐が付いた臙脂色の厚手のローブを纏っている。
ローブの中には濃紺の官服らしいものを上品に着こなしていて、如何にも上級の役人らしい装いだ。
傍らに身の丈ほどもある黄金色に輝く錫杖を携える姿は、神々しい印象さえ醸し出していた。
しかし、その表情は暗く険しい。
嘲るように歪んだ口唇は、いい加減にくたばれと罵りの台詞をわめき散らす。
ああ、……マタ、殺ラレル……
今すぐにこの場から逃げ出したいのに……容赦なく痛めつけられた身体は、もう自分の意思では指一本動かすこともできそうにない。
身体中がひどく痛むし、視界は汗で滲んでいる。
おまけに、恐怖が全身を支配していてガタガタと震えが止まらない。
金髪男が手にしている錫杖がこちらを狙い撃つ。
無数の光と炎が全身を包み、痛みと恐怖の叫びが喉を焼き尽くす。
叫ぶ声が嗄れるまで、やがてそれすらもなくなるまで情け容赦のない攻撃、拷問が続いた。
ローブの男が去り、後に残されたのは暗闇に沈んだ残骸…………無音の地下牢。
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・
「…………て。……きて。起きて!」
ゆらゆらと体が揺すられている…………水の中を漂うように意識が揺らめいて、やがて明るい場所にたどり着いた。
誰かの声が聞こえている…………
呼びかけに答えようと必死な思いで起き上がると、寝台の上だった。
(…………ゆ、…………め?)
息が上がって、やたらに肩が上下している。
ちょっと胃が苦しいし、なんだか喉も痛いかもしれない。
横から小柄な人が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫……じゃないわよね。酷く魘されていたもの」
(…………)
治療師のリナさんが震えている俺の両手を包むように握って、じっとこちらを見ているのだ。
「今、貴方は安全なところに居るの。わかる? 大丈夫、落ち着いて」
(……ぅ、はい)
背中をそっとさすってくれて、ぎゅうっと抱きしめられた。
(…………)
落ち着け。あれは、夢だ。
俺は無事に生きていて、昨日連れてきてもらった診療所に居るんだ。
何ともない、大丈夫だと自分で自分に言い聞かせる。
少し呼吸が落ち着いたらしく、無意識に溜め息をついていた。
強張っていた身体の力を抜いて小さく深呼吸をしてみる。
(リナさん、落ち着けたみたい。ありがとうございます)
彼女が、まだ心配そうに覗き込んでくるので思わず下を向いてしまった。
至近距離で異性に見詰められるなんて、何だか恥ずかしいのだ。
お願いだから、寝起きの顔をあんまり覗き込まないでほしい。
穴があったら入りたくなってしまうじゃないか。
怖い夢をみて魘されたなんて、カッコ悪いし……情けない。
リナさんが大きな窓のところに移動して部屋中のカーテンを開けていく。
早朝の診療所に、昇って来たばかりの陽の光が射し込んできて仄かに明るくなった。
視線を下に向けたまま固まっていると、コンコンと軽やかな音が響いた。
誰かがドアをノックしたようだ。
「おはようございます。目覚ましの飲み物をお持ちしました」
入口からスラリとした紳士が颯爽と登場して、寝台脇の小さなテーブルに手際よくお茶の準備を整えた。
彼の艶のある金茶色の髪は後ろに流され、しっかりとセットされている。
眼鏡の奥にあるダークブラウンの瞳は切れ長で力強いのに、浮かべている笑顔のせいか穏やかな印象だ。
早朝から隙のない身だしなみで、寝台の上で呆けている自分とは大違いである。
ぼんやりと彼の様子を観察していると、観察対象であるはずの紳士にいきなりぎゅうっと抱きしめられた。
えええっ!? 今のは何!?
「ちょっと失礼いたします」
今度は、おもむろに額に手を当てて首を傾ける。
「んー、平熱ですね。顔色が良くないようですが、体調は大丈夫ですか?」
えっと?
ああ、熱を測ったわけですか。
うん、いきなり抱き着かれたから驚いて心臓がドキドキしてるけど、昨日よりは調子がいいみたい。
きっと、あの激苦水薬がもの凄い効き目とやらを遺憾なく発揮してくれたのだろう。
顔色はね、ちょっと夢見が悪かったもので。
でもしかし、さっきのハグには何の意味が?
言いたいことと聞きたいことがごちゃ混ぜになって、俺はハクハクと口を開閉するばかりだ。
困惑気味に、隣に来てくれていたリナさんを見る。この人は何者?
彼女は俺の気持ちを察してくれたらしく、ちょっと微笑んでから謎の紳士に話かけた。
「貴方がいきなり色々するから、彼が驚いているみたいですよ?」
そうなんです。びっくりしたし、どう対応したらいいのか困っているんです。
リナさんは、可笑しそうに小さく吹き出しながらも、俺の状況を紳士に伝えてくれる。
そして、彼は感激屋だからスキンシップが多いけど悪気はないからと、こっそりと俺に教えてくれた。
感激って。この紳士は、いったい俺の何に感激したというのだろうか?
紳士は焦げ茶色の目を見開いて、そうでした自己紹介を失念しておりましたと呟いた。
「私は、ウィルヘルム=ルカートと申しまして、こちらのオーナーの執事を務めております。我が主より貴方のお世話を言いつかりましたので、本日よりよろしくお願いいたします」
利き手を胸に当てた執事らしい礼の姿勢で自己紹介をしてくれたウィルヘルムさん。
ご主人のオーナー様、そして執事のウィルヘルムさん……自分とはどういう関係の人たちなのだろうか。
昨日から疑問ばかりが次々と湧いて出てきて、全然対応が間に合わない。
というか、対応の仕方がわからなくて非常に困っているのだ。
・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・
俺について客観的に振り返ると、こんな感じらしい。
昨日ギルに保護されてこの診療所に入院した。
それ以前の記憶が無い。
重症な後遺症で数日は安静が必要である。
以上のことが理由で、精神的に不安定になっているはずだから、十分に気を付けるべきである。
リナさんがウィルヘルムさんに簡潔に説明してくれたので、有能そうな彼はすぐに現状を理解してくれたようだった。
「ああ、なんて御労しい。この不肖ウィルヘルム、誠心誠意お仕えいたしますのでどうぞご安心ください」
いやいや、自分は執事さんに面倒をみてもらうような大層な身分じゃないと思うんだよ。
なにせ、ビシッと身を固めた紳士が目の前に居るだけで恐縮してしまうのだから。
俺は、ちっとも安心できる気がしないと反論しそうになるのを何とか思いとどまった。
彼のご主人とやらのご厚意を無碍にするわけにもいかないだろうし、どうしたらいいのか。
すぐ傍では、焦げ茶色の瞳をキラキラさせて大袈裟な決意を表明し始めた彼を、リナさんが引きつった笑顔で落ち着いてくださいと窘めている。
執事さんは念話をすることができないそうなので、リナさんの通訳でこちらの意思を伝えてもらうしか会話の方法がない。
今までは念話で問題なかったが、やはり喋れないのは不便だと改めて思い知る。何か対策が必要だと心に刻む。
(執事さんですか。ええと、ご主人のオーナー様は、俺のために貴方を差遣してくださったんですか?)
ありがたいことに、とりあえず今はリナさんの通訳のおかげで会話に不便はない。
(俺なんかの為に、お手間を取らせてしまっては申し訳ないです。オーナー様のご厚意はありがたいのですが、辞退させていただければと思うのですが)
よくわからないけど、俺に世話係は必要ないと思う。
俺は、自分の事は自分でやるのが当たり前だという庶民派なはず。
たぶん、そう思うのだ。
それなのに、執事さんは庶民の意見を聞いてはくれなかった。
「私は、貴方のお世話をさせていただくことを自ら望んだのです。我が主人には勝手にしろとちゃんと許可を得ておりますので、どうぞご心配なく」
私はやりたいように仕事をさせていただきますのでと、爽やかな笑顔で宣うウィルヘルムさん。
そして、ちょっと苦笑いのリナさん。
ええっと、それって許可じゃないよね? 投げやりに放置されてるっていうか、匙を投げられちゃってる感じだよね!?
これって、もしかしたら……ここの一番偉いらしい御方の執事さんを、勝手に私用に使っていることになるんじゃないかと思うんだけど。
執事さんは、ここのオーナー様に仕えているはずなので、俺に構ってばかりではいけないだろうに。
リナさんにそう指摘してもらうと、ウィルヘルムさんは事もなげに問題ありませんと言い放った。
「あの方のことならば心配に及びません。そちら方面は、当分の間は放っておいても大丈夫ですから」
ええええっと、ご主人様を放置するのは大問題だよね!? ちっとも大丈夫じゃないよね?
どうなってるんだよ、ここの主従関係は。
リナさんの方を見ると、彼女も俺と同じ意見らしく呆れた様子で本格的に苦笑いしていた。
後で怒られても知らないですよとか言ってるし。
大丈夫なのか?? これ。
……まずいんじゃないかな。