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フェイズ09「第二次世界大戦(2)」

 1941年3月11日、アメリカで「レンドリース法」可決し、同年6月22日、ドイツが突如ソ連に侵攻した。

 

 戦争が新たな段階に入った何よりの象徴的な二つの事件だった。

 


 フランス降伏から一年間、確かに色々な戦闘や事件があった。

 だがどれも、結局戦局の決定打足り得なかった。

 戦争が国家の総力を挙げたものとなったため、一つの戦闘が勝敗そのものを決しなくなったからだ。

 

 例外は、ドイツがイギリス本土の制空権を奪えず、英本土上陸作戦を行えなかった事ぐらいだろう。

 この点では、日本は実にタイミングよくヨーロッパに兵力を展開し始めていたと言える。

 「ゼロ」は、国産機を除けば「メッサー」ことBf-109に匹敵するほど英国民に知られた機体だ。

 

 また、40年の夏頃に派遣された日本の大艦隊は、アドルフ・ヒトラーに生涯初めて日本というアジアの端っこにある国家の軍事力を意識させたと言われている。

 何しろイタリア海軍の総力に匹敵する主要艦艇が東地中海に展開したため、戦略を根本から変えなければならなかったほどだった。

 ヒトラー総統は、日本海軍の艦艇数や詳細を何度も聞き返したと言われる。

 

 一方で、西ヨーロッパ諸国が相次いでドイツに飲み込まれたため、フランス、オランダの有する植民地では幾らかの混乱に見舞われる。

 このため日本は、あくまで各宗主国の立場を尊重する形で代理のパワープロジェクションを実施し、その見返りとして極めて安価にそれらの地域から資源や農作物の買い付けを行っている。

 さらには、ヨーロッパからの供給が絶たれた商品についても、アメリカなどに一応のことわりを行って、せっせと輸出した。

 これを日本は、濡れ手に粟と呼んで喜んだりもした。

 

 ただし各国の植民地を守るという日本の態度と行動は、有色人種国家、被支配地域の住民からは失望をもって迎えられてもいる。

 所詮白人の狗だったのだと。

 

 そうした中で、日本軍が続々と入り始めていた北アフリカ及び東地中海の戦いも、熱を帯びたものとなった。

 


 イギリスとインド、アジア、そして日本を結ぶ重要な交通線として地中海が注目を集めた事と、ドイツの派手な勝利に目が眩んだイタリアがいらぬ事を考えたからだった。

 

 北アフリカでは、20万の大軍を用意したイタリアがエジプトに向けて侵攻を開始したが、軍事的には歴史的冗談と言われる事態に陥った。

 現地イタリア軍は、あまり補給線というものを考えていない大軍だったため、越境すぐにも腰を落ち着けてしまう。

 自動車などの機械力が不足して、物資があったとしても進撃がままならなかったのだ。

 しかも総合的な機械力に劣る現地イタリア軍は、防衛的な反攻に出た少数の英日両軍に手もなく翻弄され、多くが呆気なく両手を上げてしまう。

 その挙げ句に、翌年の春までには自国植民地のリビア、つまり北アフリカそのものから叩き出された。

 この間イタリア海軍は、増援と補給のために何度も出撃したのだが、イタリア海軍の出撃を予測そして期待して準備していた英日海軍の波状的攻撃の前に、その後消極的行動を取らねばならないまでに消耗してしまう。

 

 この中で海軍以外の日本軍の活躍も大いに宣伝されたが、この頃日本軍の地上部隊はわずかに機械化一個旅団だけで、現地空軍部隊も1個連隊(1個航空戦隊)程度しかなかった。

 自前で最前線への補給を何とか出来る規模が、結局のところその程度でしかなかったからだ。

 日本陸軍は、大盤振る舞いでトラック2000両を持つ自動化補給連隊を、多数の戦車(「百式」と「九七式改」が主力)、自動車両群を持つ増強編成の機械化旅団(第一混成団)と共に派遣したが、その程度の補給能力では前線の1個機械化旅団を維持することすらままならないほどだった。

 敵は戦意に大いに欠けるところのある現地イタリア軍ではなく、砂漠ばかりで鉄道がろくにない北アフリカの社会資本そのものにあった。

 

 日本陸軍は、慌てて手持ちのトラックを根こそぎ北アフリカに派遣しなければならない程だった。

 日本国内の自動車メーカーも、戦車とトラック、自動車を慌てるように大増産する事態に陥った。

 

 移動と補給が楽な海軍は多少例外で、大規模に近代改装された巡洋戦艦を中心とした高速打撃艦隊と、空母2隻を中心とした空母機動部隊を派遣して、イギリス海軍と連携してイタリア海軍をほぼ一方的に撃破して回っていた。

 ヨーロッパで戦い慣れたイギリス軍と一緒なら、日本軍の力は何倍にも増幅されたようだった。

 

 イタリア海軍は、大型艦は滅多に洋上出撃しなかったが、小型艦、潜水艦相手の戦闘は各地で頻発した。

 そこで、出てこないなら穴蔵ごと焼き払えばいいじゃないかという意見が採用され、日英合同でイタリア海軍最大の拠点であるタラントの空襲が行われることになる。

 

 「ジャッジメント」と名付けられたイタリア海軍最大の拠点であるタラントへの空襲作戦では、まずはイギリスの夜間攻撃部隊が奇襲を仕掛けて相手の行動の自由を奪い、艦載機数の多い日本艦隊が黎明に強襲を行ってトドメをさすことになった。

 そしてこのタラント空襲での日本空母による追い打ち攻撃は、イタリア海軍を意気消沈させたと言われている。

 

 完成したばかりの新鋭戦艦が、二度の空襲で複数の航空魚雷(一説には6本)を受けて完全に再起不能とされたのだから、イタリア海軍のショックが大きいのも当然だろう。

 日本海軍でも、この時の戦闘は日露戦争での旅順攻防戦に並ぶほど高い戦果だと評価され、主要国の新鋭戦艦撃沈に日本国内も沸き返った。

 空母と艦載機の評価が一気に高まったのも、この戦いを契機としている。

 

 また、まだ数の少なかった空陸軍部隊も、この時の北アフリカ及び東地中海では決定的要素を持つ戦力として存在感を示した。

 当時少数の戦力しか置いていなかったイギリス軍だけでは、イタリア軍をリビアと東地中海から叩き出せなかっただろう。

 ドイツ軍による地上部隊の援軍も間に合ったかもしれないと言われている。

 

 他にも、マルタ島に進出した日本空軍の「隼」戦闘機隊が、イギリス空軍共々大いに注目されたりもした。

 イギリス、イタリア共に戦闘機の航続距離が短すぎて、遠距離進出は日本空軍の独断場だった。

 日本の飛行機乗りは、欧州の機体を飛びたってもすぐに降りてくるため「バッタ」と呼んだりもした。

 マルタ島に展開した日本空軍部隊は、リビア西部を日常的に空襲や爆撃してもいるので、流石のイギリス人もすぐには反論できなかったという。

 

 タラント空襲以後、イタリア軍は海軍保全と事実上の本土防衛に傾いた。

 枢軸軍全体も、制海権を得られなかった東地中海での活動を大いに抑制されることになる。

 北アフリカのイタリア軍がリビアから追い出されようという頃、ドイツが慌てて援軍を送り込もうとしたが全ては後の祭りだった。

 強大なドイツ軍とはいえ、海の向こうの橋頭堡から自ら作らねばならない戦場に赴くことは極めて難しかった。

 

 これにより連合軍は、比較的安全な地中海の交通路を確保し、アフリカの橋頭堡を奪われた枢軸軍はロシアとの戦いに傾倒していく事になる。

 


 一方ドイツは、ロシアの戦いの前段階として、東ヨーロッパ各国を自らの陣営内に組み込んでいく。

 クーデターを起こしてまでして刃向かったユーゴスラビアと、連合軍に与したギリシアを激しく攻撃、征服してしまう。

 この時クレタ島攻防戦で日本軍の出番があったが、ドイツ空軍の激しい空襲の前に艦艇群が大きな損害を受けることになった。

 幸い雷撃が少ないため沈められた艦艇は少なかったが、戦争が始まって以来初めての大きな損害は日本海軍に大きな衝撃を与えた。

 以後日本海軍では、艦艇の対空防御力が非常に重視されるようになっている。

 

 また1941年5月には、ドイツ海軍が巨大戦艦を用いた野心的な通商破壊作戦を北大西洋上で実施しようとした。

 だが、前回の同様の作戦に翻弄された英日両海軍が、全力を挙げて阻止行動に出た。

 このためドイツ海軍の中核戦力だった新鋭戦艦 《ビスマルク》は、イギリス海軍最強の《フッド》を沈めるなど奮闘するも、孤軍となって沈められてしまう。

 この戦いでは、たまたまこの時ジブラルタル海峡に展開していた日本海軍の新鋭高速空母 《翔鶴》が大きな働きを行っている。

 

 太平洋で活動することを前提にした日本海軍の艦艇と艦載機の攻撃力と行動範囲は、ヨーロッパではいささか過剰だった。

 広大な太平洋では、相手が誰であれジワジワと相手の戦闘力を削るよりも、一カ所にしかも一度に戦力を集中できるようにしなければ、敵を逃がしてしまう可能性が高い為だった。

 しかも日本海軍は、空母には常に一定数の雷撃機と航空魚雷を搭載しており、雷撃機の開発と更新もイギリス以上に行っていた。

 

 このため、日本海軍の近代的で俊敏な雷撃機の群は、比較的手薄な対空砲火をかいくぐって《ビスマルク》に複数の航空魚雷を叩きつけ、巨大戦艦の行動力を奪っていた。

 またこの時の攻撃では、急降下爆撃機も投入されており、魚雷と爆弾の立体攻撃の前には新鋭戦艦も形無しだった。

 この時《翔鶴》程度の空母がもう一隻あれば、艦載機だけでも《ビスマルク》を撃沈できただろうとすら言われる激しい攻撃だったと言われている。

 


 一方アジアでは、ヨーロッパ情勢とはほぼ無関係に中華地域内での戦闘が依然として続いていた。

 しかしどの国、団体も、正式には連合、枢軸に属していないため、この頃は第二次世界大戦の枠組みに含まれていなかった。

 当時の日本の報道各社は、「支那内戦」や「支那事変」もしくは「支那紛争」と呼んでいる。

 

 中華地域での戦闘は、戦争特需の恩恵を受けている日本やアメリカは喜んでいたが、戦略的には正直どうでもよい戦場でしかなかった。

 敢えて言えば、共産主義国であるソ連の軍隊が多数動きを拘束され、ソ連が入らぬ国費を投じることを喜ぶべきぐらいだった。

 

 そのソ連としても中華民国がドイツとの関係を絶ったので、必要以上に衛星国を援助する必要もなかった。

 取りあえず、既成事実を積み上げて自分たちの衛星国の領土が広がり、最終的に中華全土が自分たちの赤色に染まれば十分な場所だった。

 ヨーロッパ諸国にとっては、他の地域の事など気にかけている場合ではなかった。

 

 そうした状況の中で、俗に言う「独ソ戦」が始まる。

 

 この頃には、主にイギリスを対象としたアメリカのレンドリースも実働し始めており、戦争はいよいよ容赦のない総力戦の深みへとはまり込みつつあった。

 

 その象徴とばかりに、ドイツが全力を挙げてソ連への侵攻を開始したのだった。

 


 1941年6月22日から始まったドイツとソ連の総力を傾けた戦争は、政治的な奇襲攻撃に成功したドイツの圧倒的優位で進展した。

 縦からの命令が絶対で横の連携が弱いソ連赤軍は、数年前の粛清のため将校全体の質が低すぎた事もあって、次々に手もなく撃破されていった。

 しかも全軍の2割近くが、開戦時に北東アジア方面又はシベリア各地に義勇軍として何らかの形で展開していたため、一部では兵力不足にも直面させられた。

 しかも中華地域奥深くに入り込んで人の海の中にあったため、簡単に兵力を欧州方面に戻すことも難しかった。

 

 中には頑強に抵抗する赤軍部隊もあったが、他のとの連携に欠ける以上、大海の小石に過ぎなかった。

 

 たった6週間でスモレンスクが陥落し、夏にはレニングラードが包囲され、秋口にはウクライナで信じられないほどの部隊が包囲降伏を余儀なくされた。

 

 そしてこの時ドイツの戦争リソースの過半が、北アフリカでのイタリアの惨敗という要素を受けて半ば偶然にソ連戦に注ぎ込まれていた効果が発揮された。

 これはソ連が中華地域からの兵力引き抜きが遅れた事と重なって、決定的な結果を導き出したからだ。

 もし北アフリカでの戦闘でドイツが深入りしていれば、1万両の輸送車両トラックが東部戦線ではなく北アフリカに投入されており、戦局にも重大な影響を及ぼしただろうと予測されている。

 無論この数字はかなりの誇張を含んでいたが、ドイツが全力をソ連との戦いに投じたことは間違いない。

 

 鉄道網が整っているとは言えないロシアの大地では、トラックの存在は死命を制したのだ。

 ロシアの大地での戦いは、ナポレオン戦争同様に補給の戦いでもあったからだ。

 


 そして決定的な戦略的事件が、例年よりも遙かに早い冬の到来の中で起こった。

 

 11月29日のモスクワ陥落である。

 

 例年より早い「泥将軍(雨期)」と「冬将軍(寒波)」の到来で苦境に立ったドイツ軍だったが、「タイフーン」と呼ばれる作戦が発動されると、ウクライナでの戦いよりも多数の兵士をより短期間で包囲殲滅して、各所で進撃路を切り開いた。

 そして熱病のような将兵の熱烈な進撃とそれを可能とした物理的な要素が、首都モスクワの陥落という巨大な事件を生み出した。

 数は多いが訓練の足りていない俄仕立てのソ連兵は、連続する敗北で士気が落ちていた事もあって、ドイツ軍を押しとどめることが出来なかった。

 

 なお、ソ連にとってのモスクワは、単に首都や政治の中心地というだけではなかった。

 重工業の中心地の一つであり、中央集権国家とって不可欠な情報網の中枢でもある広域鉄道線の集中点ともなっていた。

 まともな自動車用道路がモスクワ=スモレンスク間にしかないとすら言われるソ連にとって、鉄道は伝統的な河川網と並んで最も重要な交通手段だった。

 ウクライナの失陥と合わせれば、ソ連の戦争経済は初期に於いて半減以下になったと断定しても良いだろう。

 

 しかもモスクワが戦場になるに伴い、首都機能は11月半ばにクイビシェフに移動したが、巨大なソビエト連邦を支える軍組織、官僚団、共産党の移動は困難を極めた。

 持ち運べない書類の山は、燃やすこともままならないので、爆弾で吹き飛ばしたりもしたと言われる。

 

 そして中央政府がある程度の機能を取り戻すまでの間は全ての命令系統も混乱し、統制の取れた反撃はもちろんの事、防衛もままならくなっていた。

 この時、縦からの命令系統が絶対だった組織の欠陥が、これ以上ないぐらいにさらけ出されることになった。

 

 加えて、政治的に見て首都モスクワの陥落は、ソ連の強権的な中央集権と政治体制そのものが大きく揺らぐには十分な事件だった。

 当然ながら共産党の求心力は低下し、一時は居場所すら定かでなくなった独裁者スターリンの政治指導力も大きく低下した。

 このためドイツ占領地域では、共産主義に反抗的な民衆はこぞってドイツに協力した。

 共産主義の圧政は、ロシアの人々からも十分過ぎる以上に恨まれていた反動が如実に現れたのだった。

 

 これらの要因により、その年の冬季反攻はまともに行うことができず、ソ連軍は南部戦線での限定的反攻を行ったに止まった。

 


 一方で、日本での俗称である「独ソ戦」の開始により、国際社会の図式も激変した。

 

 それまで不可侵条約を結んでいたドイツとソ連が戦争を始めた事で、ソ連も連合軍の一員となったからだ。

 しかもソ連は、マンチュリアや東トルキスタンなど自らの衛星国も連合軍の資格があると言った。

 無理矢理動員されたとはいえ、東部戦線で共にドイツ軍と戦っているからだ。

 そして、強大なドイツに対して一国でも味方が多い方がよい連合軍側としては、ソ連側の申し出を受け入れざるをえなかった。

 この結果、マンチュリア、東トルキスタン、モンゴル、プリモンゴルの各共産主義国が、何の障害もなく連合軍入りを果たした。

 しかもここでは、中華民国が開戦までドイツと蜜月関係にあった事も関係しており、対中華民国包囲網としても機能した。

 

 当然と言うべきか、中華民国は窮地に立たされた。

 数年前までドイツと事実上の同盟関係にあって、一夜にして連合国となった共産主義国と戦っているので、連合軍の敵として認定される恐れがあったからだ。

 この場合、新たにイギリスや日本も敵とせねばならず、有力な海軍国にまで攻撃されたとあっては、とてもではないが勝ち目はなかった。

 何しろ中華民国そのものである国民党の支持基盤は沿岸都市部、特に上海にあった。

 仮に上海を英日が攻撃する事は、それこそ児戯に等しかった。

 

 しかも当時中華民国に兵器や物資を供給していたのは、生産力に余裕のある日本と、戦争特需で盛り上がりを見せているアメリカだった。

 つまり敵とされたその日から、中華民国の近代的な戦争継続が不可能になる事を意味していた。

 

 このため中華民国は、ただちに各国との戦闘停止と各種和平条約の締結に動いたが、当然だが短期間での結論と成果は出なかった。

 政治的変節は、国際的に嫌われると同時に疑われるものだからだ。

 

 また物理的にも、北東アジアの共産各国軍が中華民国深くに攻め込んでいて、撤退問題と国境認定の問題が長引いたためだ。

 当然現地ソ連義勇軍や軍事顧問団の撤退と転進も遅れ、モスクワ陥落など東部戦線にも少なからず影響を与えていた。

 中華民国の変節が、モスクワ陥落にも作用したと言われるのはこのためだ。

 ヒトラーは防共協定を空文化したとき中華民国と蒋介石を悪し様に罵っていたが、この場合に限り感謝してもよいだろう。

 


 そして余裕が出来たのが、イギリスだった。

 

 日本のお陰もあって早期に北アフリカからイタリアを追い出せたし、何よりドイツが全力を挙げてソ連に攻め込んだ事は大きな余裕をもたらしていた。

 1942年2月には、ドイツ本土に大規模な戦略爆撃(1000機爆撃)を開始できたほどだった。

 そして一日でも長く、一兵でも多くソ連にドイツ兵を拘束するため、無理を押してソ連への援助を開始した。

 同盟国の日本にも、極東側からの援助を積極的に行わせた。

 

 日本人は、日露戦争以来関係の悪い赤いロシア人の支援にはあまり乗り気では無かったが、国益と戦争の勝利を優先することになり、9月にはシベリア鉄道を通じた援助が開始されることになる。

 このため日本の博多からソ連領プサンには無数の船舶が行き交うようになり、シベリア鉄道は以後100両編成のキロメートル単位の長大な列車が常にうごめくようになる。

 

 そしてイギリス自らの余裕分は、まずは英本土防衛力の強化、海上交通路防衛の強化に回された。

 さらにそれでも出た余裕をドイツに対する戦略爆撃に投じた。

 爆撃の効果が高いとは言えなかったが、ドイツの戦争リソースをブリテン島侵攻から彼らの本土防空へと大きくシフトさせた効果は高いと判断されていた。

 

 また、戦争全般に関してはソ連が思いの外不甲斐なかったが、一番期待していたアメリカが国民の戦意以外の面で順調に総力戦体制を固めつつあることはそれなりに頼もしかった。

 アメリカは、いずれ十分な準備を行った後に参戦する筈だからだ。

 でなければイギリスは勝者とはなれず、アメリカは貸し付けた莫大な借金を回収できなくなってしまう。

 無論、アメリカがヨーロッパ市場を得ることもできない。

 アメリカが参戦するのは、既定路線だった。

 


 最初から律儀に戦争に参加した日本軍の方も、イギリス人の目から見ても大いに役立っていた。

 日本の戦争貢献度は、戦争半ばにして先の世界大戦を上回ると判断されたほどだった。

 独ソ戦開始以後になると、戦略的にも日本本土周辺の安全が確保されたとして、海軍を根こそぎ地中海に持ってくるようになったので、イギリスは地中海をほぼ日本海軍に任せて、自らは本国近辺に艦隊主力を集中できるようになった。

 

 なおこの時期の日本海軍は、実質4万トンに達した16インチ砲9門搭載の新鋭戦艦 《長門》《陸奥》、条約時代までに建造された高速戦艦 《伊勢》《日向》、旧式巡洋戦艦 《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》の合計8隻を主力としていた。

 うち旧式巡洋戦艦2隻(《比叡》《霧島》)がイタリアの人間魚雷のおかげでアレキサンドリアで大破着底状態とされたが、6隻でも十分以上の戦力だった。

 イタリア海軍も、タラントで新旧1隻ずつの戦艦が着底したままだったからだ。

 しかも日本海軍は、新鋭の大型空母 《翔鶴》、中型空母 《飛龍》《蒼龍》と、他にも軽空母3隻を地中海に持ち込んで、艦載機を中心に据えた新しい理論に基づいた艦隊を運用していた。

 艦載機の運用数は、イギリス海軍を上回る300機にも達していた。

 イタリアばかりか、ドイツ軍占領下のクレタ島なども攻撃し、枢軸軍を大いに翻弄していた。

 

 しかも日本本国では、より大型の戦艦2隻(4万5000トン級)、大型高速空母2隻(3万トン級)を中心にして、大量の艦艇が3交代24時間操業体制で急ぎ建造中だった。

 艦艇だけでなく、各種輸送船舶も戦時標準船を設定してものすごい勢いで建造し、建造量はイギリスを凌駕していた。

 

 このため1941年秋の時点で、巡洋艦以下の艦艇を合わせても、日本単独で既にイタリア海軍を十分圧倒できるだけの戦力をヨーロッパに持ち込んでいた。

 それ以前に、イタリア海軍は今までの戦闘で半壊していた。

 しかもイタリアは国全体で燃料不足であり、潜水艦や護衛艦艇以外での活動が低調だった。

 既に地中海の制海権は、日本海軍を主力とする連合軍のものだった。

 

 このため前線の日本海軍将兵の間では、不甲斐ないイタリア軍を「ヘタリア」と呼ぶことが流行ったという。

 

 そしてイギリス軍も日本軍もアメリカのレンドリースを受けることで、兵器から後方支援体制に至るまで日に日に強化されていった。

 日本軍将兵の言うところの「ルーズベルト給与」は、日本という軍隊を別次元の装備に押し上げるほどだった。

 

 また1941年秋になると太平洋ルートを通じて、ソ連にもレンドリースがもたらされるようになった。

 同時に日本の対ソ支援も本格化し、アメリカと日本の動きはモスクワ陥落によって加速する事になる。

 

 あと連合軍にとって必要な事は、アメリカが本格参戦するだけだった。

 そうすれば、ロシアの深みに嵌っているドイツ打倒は叶うのだ。


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