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フェイズ01「日本敗北」

 1905年の1月頭、旅順要塞が陥落して日本側にも、少しばかり戦争への勝利の希望が出てくるようになってきた。

 世界も、日露戦争に対して、日本の判定勝利という雰囲気を持ち始める。

 旅順要塞の陥落は、それだけの価値ある事件と考えられていたからだ。

 

 対するロシア側にも、戦争の長期化に伴う内政不安もあって、若干の焦りが出てくるようになっていた。

 それでもロシアには世界最強の陸軍と、太平洋に向けて航海中の本国艦隊が存在していた。

 

 そして1月末、ロシアの半ば伝統となりつつある冬季反攻が開始され、「黒溝台会戦」が発生する。

 

 当初限定的な攻勢を開始した現地ロシア軍だったが、ロシア軍総司令官クロパトキンが、いつもの保身や嫉妬を前提とした心理と慎重さが重なった結果、ちょっとした思いつきから積極的姿勢を示す。

 そして自らの功名心から、日本軍に対して総攻撃を実施するに至る。

 

 戦闘は熾烈を極めたが、全戦線で攻勢を行ったロシア軍に対して、冬の本格的戦闘はないと言う前提で動いていた現地日本軍は対応が遅れ、気が付いたときには全ての戦線に火がついていた。

 

 そして自軍左翼に多数の増援を送り込んでいたところに、クロパトキンの本隊が戦力の低下した日本軍主力に襲いかかり、勢いに任せて日本軍の前線を突破していった。

 

 結果、日本軍は戦線が全面崩壊して総退却を余儀なくされ、主力部隊は壊滅的打撃を受けてしまう。

 

 一連の戦闘とその後の撤退行動の中で、総兵力の約半数(約9万人)を失う結果となった。

 それに引き替えロシア軍側の損害は、許容範囲(約3万人)で収まった。

 ロシア軍の完全な勝利であり、ロシア軍としてはようやく満足のいく、そして当然の結果を勝ち取ることができた。

 

 しかし事は戦術的な勝敗だけでは済まなかった。

 

 当時の日本軍には、予備兵力と呼ぶべき部隊がほんとど存在せず、戦費など様々なものの不足もあって本国に待機している部隊もごく僅かだった。

 これに引き替えロシア軍は、正面戦力で日本軍を圧倒している上に、後方にも豊富な予備兵力も持っていた。

 砲弾量も日本軍が1発もないような状態に対して、ロシア軍はそれなりの数を確保していた。

 

 つまり戦闘後、日露の兵力差は約三倍に広がった。

 

 戦線が支えられなくなった日本軍は、戦線を縮小しつつ遼陽まで敗走。

 この間もロシア軍は追撃を続け、日本軍の損害はさらに増えていった。

 日本軍は、旅順から転進してきた第三軍の増援で何とか戦線が安定させるも、前衛兵力は戦闘前の半分以下にまで低下してしまう。

 

 そして両者一息ついた2月頭、「第二次遼陽会戦」が発生する。

 

 そのまま追撃してきたロシア軍の猛攻の前に、日本軍は当初は陣地構築と機関銃による弾幕射撃などで何とか踏みとどまった。

 損害の絶対数も拮抗したほどだった。

 しかし兵力差は如何ともし難く、ロシア軍の増援部隊の攻撃によって結局は戦線を突破され、さらに敗退を重ねる事になる。

 前線での兵力差は、既に3倍どころか5倍近くに開いていた。

 最早まともな戦争と呼ぶべき段階を過ぎつつあり、日本側としては急ぎ同盟国を通じた講和の仲介を進めるようになる。

 

 一方、さらに敗走と後退を余儀なくされた日本軍残余は、多くが朝鮮半島北部山岳地帯に後退して、一部が死守部隊として残った他は朝鮮半島内での防衛線の準備に入った。

 一部は大連、旅順方面に後退して南山地域に再度布陣する。

 狭い地域や山岳部なら、兵力の激減した日本軍でも何とか戦線維持が可能だったからだ。

 

 この時点で日本が講和への働きかけが国際的な動きを産みだしたが、生意気な有色人種国家への勝利に乗じるロシアは、日本に降伏を求める以外で当面相手にしなかった。

 イギリスに対する優位を獲得するためにも、ある程度日本を叩いておかねばならなかったので尚更であった。

 

 ロシア軍は山岳部よりも平野部での進撃を優先し、また旅順陥落の雪辱をはらすために進撃を続行。

 遼東半島先端部付近では激しい戦闘が行われたが、犠牲を省みないロシア軍の猛攻撃の前に日本軍は崩れ、ロシアは3月までに旅順を奪回する。

 旅順艦隊以外の負けを、ロシアが全て取り返した瞬間だった。

 

 この時点でロシアもようやく講和に対して積極的となり、日本に対して降伏と賠償を前提とした講和を提案する。

 

 この頃までに現地日本陸軍の戦闘部隊のうち約七割が失われ、軍事的能力のほとんどを喪失していた。

 戦死及び捕虜の数も20万人を越えた。

 日本本土で動員されたばかりの2個師団が急ぎ大陸に派兵されるが、その程度では戦線を押しとどめるのも難しかった。

 

 ロシアは、旅順奪回を受けて自国優位の講和姿勢を強化して日本に圧力をかけ、既に始まっていた講和会議において賠償金を前提にした降伏を迫るようになる。

 バルチック艦隊が東アジアに近づいている事も、日本への圧力として大いに利用した。

 

 日本政府のほとんども、立て続く敗北とバルチック艦隊への恐怖から終戦活動を活発化していった。

 

 各国も戦争の潮時であることを察して、賠償金支払いのための借款を含めた日本の説得に動く。

 またイギリスは、日本のためではなく自国権益のための行動を活発化した。

 

 ロシア軍の朝鮮半島各地への進軍が、日本軍に降伏を決意させる。

 

 4月8日、日本とロシアは戦闘停止。

 事実上の戦争は終わりを告げた。

 

 5月末、ロシアがバルチック艦隊を旅順、ウラジオストクに回航。

 バルチック艦隊は無傷で入港した。

 ただし日本海軍が健在だったためか、それ以上動くことはなかった。

 後で分かった事だが、この時点でバルチック艦隊は長旅で艦艇も乗組員も疲れ切っており、完全な整備が完了して乗組員の休養が済むまでまともに戦える状態ではなかった。

 

 それはともかく、両国の海軍主力が日本海で睨み合った中で講和会議が進んでいく。

 

 以下が会議の結果だった。

 


・ポーツマス講和会議(アメリカ・ポーツマスで開催)

 ロシアは、日本が持っていた朝鮮半島の全権利の譲渡を受ける。

 朝鮮に対する優越権も得る。

 

 日本は、賠償としてロシアに千島列島を割譲する。

 

 日本は、賠償としてロシアに賠償金5億ルーブルを支払う。

 


 講和会議の席上で、日本は領土を寸土も侵されていないとして、日本本土の領土割譲は断固拒絶した。

 ロシアは当初、千島列島、北海道の割譲と佐世保の租借を要求するにはしたが、海の向こうの土地を得ることには主に心理面で消極的で、交渉の取引材料という以上に無理強いはしなかった。

 だが逆に、賠償金は曲げず要求した。

 ロシア側は、自らの戦費であった20億ルーブルを当初要求するが、交渉の結果朝鮮の権利譲渡などもあって、5億ルーブルに落ち着いた。

 日本側にとっては高額すぎる金額だったが、戦争に負けた以上これが限界だった。

 そして5億ルーブルが、日本が短期間で支払える(他国が日本に借款する)限界の金額でもあったので、ロシアも受け入れざるを得なかった。

 

 戦争全体の国際的評価は、「概ね予測通りの結果」という程度だった。

 一度は旅順要塞を落としロシア太平洋艦隊(主に旅順艦隊)を一度壊滅させ戦後も自国艦隊の大多数が残ったのだから、日本は十分に善戦したと高く評価された。

 ロシアの体面に傷を付けたとして、それほど悪い評価は受けなかった。

 むしろ、アジアの弱小国がロシア相手によく戦った、という同情が集まった。

 戦争以後は、ロシア近隣諸国との外交は大いに進展もした。

 また白人国家に一矢報いたとして、有色人種にごく細いながらも一筋の光を与えたことは、その後の世界情勢にも大きな影響を与えることになった。

 

 また同盟関係にあるイギリスなどが、自国権益のために日本の立場を擁護した。

 このイギリスの姿勢こそが、日本が得た一番の外交得点だっただろう。

 

 日本にとっては、まさに棚ぼた的な外交得点だったが、この時は最大限に効果を発揮したと言える。

 イギリスの側も、ロシア海軍の半分が潰れてロシア陸軍も相応に疲弊し、ロシアの太平洋の突進が鈍ったので、結果にはそれなりに満足した。

 この点では、日本が当面の海軍力を保持したことも重要だった。

 イギリスにとって、日本の利用価値を残させる重要なファクターとなったからだ。

 また日本がロシアで革命運動を激化させた事は予想以上の成果であり、ロシアの適度な弱体を行った日本をイギリスは評価した。

 

 そしてイギリスは世界世論を煽って、ロシアに対するヨーロッパ世界からの脅威論を強めさせた。

 

 しかし勝者となったロシアは、旅順要塞の陥落や第一次太平洋艦隊壊滅など、無視できない戦術的敗北と損害を受けていた。

 また国内では、日本が煽った革命の危機も起きたため、東洋の小国に勝ったからと言って安易に浮かれている場合ではなかった。

 

 このためロシアは、アジア極東では当面の安定を求め、日本との間にもロシア優位ながら協商関係を成立させた。

 

 しかしまた、北東アジア情勢でロシアが圧倒的優位に立ったこともまた確かな事実であった。

 

 なお、日本の戦争債を大量に購入したアメリカは日本の敗北を残念がったが、日本が負けた以上どうにもならなかった。

 明確に約束事を交わした訳でもないので日本に表立って文句を言うわけにもいかず、応援していた手前むしろ慰めなくてはならない立場となった。

 

 そして日本政府としては、戦費と賠償金という巨額の借金返済のため、このままアメリカの好意を受け続けるよう努力するしかなかった。

 

 日本が戦争に勝つか引き分けに持ち込めばまた違った道もあったかもしれないが、日本と日本を取り巻く歴史の道筋は非常に狭い物であった。

 


 明治維新以来、日本人が目指した坂の上の雲は、まだまだ遠く空の彼方をゆったりと流れていた。


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