2-2.彼女と騎士
遺志残しの組合、兼学舎は岩と木でできている。灰色の巨大な巻き貝のような形をしており、一般の組合とは違って、住居区画にも商店区画にも面していない。どちらかといえば議会がある政治区画の崖側にある。中は緩やかな曲線を描いており、螺旋状の階段と吹き抜けの広間、おのおのの部屋や学術所、食堂や図書館までもが設備されている。天辺に描かれた『精死神フリュー』を模した人物の顔は、案内所を兼ねている一階からは見えないほどに高く、三階に部屋を持つグリュテは毎回、祈ることを忘れる。
今のグリュテは、ジノヴォスから渡された遺志残しの服と鈴を着用していた。足の甲が見えるかけ紐つきの革履き物をぺたぺたと鳴らしながら歩くのは、表にある螺旋階段や通路ではない。避難用に作られた、裏口へ向かう階段だ。大金が入った懐の隠しをがっちりと両腕で固め、肩を縮こめながら角灯と手荷物を下げて階段を降りていく。
死に損ないの騎士、とやらは裏口を出た先にある崖で待っているらしい。怪しい、とグリュテは唇をちょっと小さく尖らせる。怪しい、と口に出してみると、まったく人気のない薄暗闇の空間に自分の声が反響し、思わずびくりとした。驚きながらも考える。死に損ないの騎士、そんな二つ名、聞いたことがない。
死に損なった、とあるのだから、もしかして自殺癖でもある騎士様なのだろうか。それともあまたの戦場を渡り歩き、敵味方共に畏れられているからそう呼ばれるものなのか。告死病じゃあるまいし、前者のはずがない。少なくともその病を患うグリュテと組ませるとしたら、前者では意味がない。そこまで考え、堂々巡りになる思考に飽きて、グリュテは小さなため息をついた。
裏口には崖と小さな桟橋、町に下りる遠道しかないため、普段使われることがない。グリュテもここを使うのははじめてだ。階段を踏み外さないよう、一歩一歩が慎重になる。
それにしても、と段を踏みしめ、グリュテは疑問に思う。白の殊魂を持っているけれど、そこは考慮してくれたのだろうか。制御する術は持ってはいるが、不意に出てしまうことが何度かあったし、相手の心証もよくないに決まっている。グリュテの瞳を見れば、殊魂に詳しいものならば、白が入っていることを看破するかもしれないというのに。
それとも、死に損ないというわけのわからない二つ名をつけられている騎士様からすれば、そんなことどうでもいいものなのだろうか。騎士といえば傭兵とは違い、国に殉ずるという心象しかグリュテの中にはない。堅苦しそうだな、とか、上手くやっていけるかな、とかそんな不安ばかりが募るけれど、キリルがいっていたようにあきらめるしかないのだろうか。
あれこれ考えていく内に、一階の広間に出た。ここにだけは松明がくべられていて、かがり火が暗闇の中はぜている。松明が四つ、左右対称につけられた壁の真ん中には扉がある。ここから外に出れる、すなわち、死に損ないの騎士が待っている。
もういいかな、とグリュテは大きく息を吐き出した。あれこれ考えても答えは出ないし、どうせ近いうちに死ぬのだ。ジノヴォスいわく、護衛と任務の助け、そして最悪の場合、グリュテの代わりにその任を遂行してくれるという騎士がいるのなら、自分ができることはせいぜい旅を楽しむことくらいで、最期の道のりだ、そのくらいの心を持つことを許容してほしい。
なけなしの勇気を振り絞り、扉をそっと開ける。崖にぶつかる波と潮風の匂いが届いて、頂点から少しずれた陽光がまぶしく、グリュテは目を細めた。勢いに任せ、そのまま扉を押し開く。
風は少し強く、グリュテの薄茶の髪が舞う。一瞬目をつむったあと、眼前に広がるのは青緑の海と遠くの帆船。そして、一つの人影だ。全身灰色の甲冑を着た、長躯の騎士の姿。
「……あれ?」
つい、口に疑問を乗せたグリュテの声が届いたのだろう、岩に座っていた騎士が立ち上がり、こちらを振り返る。それは、酔っ払いに絡まれたとき自分を助けてくれた、あの灰色の騎士だった。
「やあ。また会ったね」
どこまでも続く草原に吹くかのような、穏やかで優しい風のような声。間違いない、とグリュテは後ろ手で扉を閉めながら、小さくうなずいた。同時にほっとしている自分もいる。顔見知り程度でもないが、話をしたことがある人間がいて、グリュテの緊張は一気にほどけた。
「あの、あの、あなたが死に損ないの騎士さんですか?」
「セルフィオ」
「はい?」
「セルフィオと呼んでくれれば嬉しい。その二つ名は呼ぶときに、ちょっと物々しすぎるからね」
「は、はい。じゃあセルフィオ様」
「様はいらないよ。そんな大層な人間じゃあない」
「だ、だったらセルフィオさん……で、いいですか?」
「うん、いいよ、それで」
歩み寄るグリュテに苦笑したのか、牙のような装飾がされた肩当てがちょっと揺れる。陽は暑く、ほとんどが風通しのよい麻布でできた服を着ているグリュテがそう感じるほどなのに、顔も手も足も、全身灰色の鎧をまとった彼はそれでも微動だにしない。近づくと熱気は出ておらず、逆に冷たい鎧の冷気がグリュテの頬を撫でた。
その意味がようやくグリュテにもわかったのは、兜から空色の瞳が覗いていたからだ。彼は少なくとも、強さまではわからないが青の殊魂を持っている。水や氷に関する術を使い、中を冷やしているのだろう、そう思う。
「今日は真珠をちゃんと隠しているんだね」
「あ、はい。あのときは本当にありがとうございました」
「大したことはしていないよ、グリュテさん」
「あれ、わたしの名前」
「依頼人から聞いているよ。それに、こないだ君を呼ぶ誰かの声もしていたしね」
「そ、そうですよね。あのぅ、わたしのことは呼び捨てでいいです。そっちの方が落ち着きますから」
「わかった、グリュテと呼ばせてもらうよ」
優しく穏やかな様子に胸を撫で下ろし、それから慌てて大切に持ち歩いていた大金の袋を取り出した。角灯と手荷物は岩場に置いておく。
「これ、お師匠様から預かってきた依頼金です。確認して下さい」
紙袋を取る所作も落ち着いたもので、手甲に包まれた太い指の動きも丁寧だ。袋の中身を見た騎士がなにもいわないものだから、少し不安になって口を開いてしまう。
「あ、あの、なにか?」
「多いな。前金じゃあないのかい?」
「いえ、全額です。先に渡した方がいいかなって」
「こういうものは普通、前金を渡すのが筋じゃあないかな」
「そう思ったんですけど、でも、いつどうなるかわかりませんし、わたしが」
「君を守ること、それが俺に課せられた使命だ。まるで俺の腕を疑っているようないい方に聞こえてしまうよ」
「あ、ち、違います。そうじゃなくてなんて説明すればいいのか……」
いずれ自分が自害してしまう可能性、そのことを聞いていないのだろうか不思議に思い、同時に責められた感じがしてグリュテの挙動は怪しいものになった。慌てふためくグリュテの肩を、優しい力で騎士、セルフィオは一つ叩いた。
「ごめん。俺が少し意地悪だった。君は告死病にかかっているんだから、そう考えるのも変なことじゃあない」
「いえ、上手に説明できなくてごめんなさい。自分でも実感がわかないものですから」
「話にしか聞いていないけれど、そういうものなのか。自分がいずれ死んでいく、死を選ぶという気持ちは良くわからないな」
「騎士さ……セルフィオさんの二つ名だって、死に関するものでしょう? おそろいみたいなものだと思いますけど。それに、着ているものの色も」
セルフィオはなにもいわなかった。見上げるグリュテから視線を外すよう瞳を閉じ、肩から手を下ろす。そしてグリュテからそっと、少しだけ体を離した。
「出立の準備はできているのかい?」
「お師匠様とキリ、いえ、兄弟子さんが用意してくれました。全部隠しの術で地に隠してあります。少しの食料とか、替えの履き物とか」
「その服だと、少し目立ってしまうかもしれない。外套はあるかな? 群島国じゃあ少し風変わりだろうけれど、旅人に扮するなら、それが手っ取り早い」
「あります、ちょっと待って下さいね」
グリュテはしゃがみ、手荷物ではなく岩の凹凸がある場所に手を触れた。その手がまるで沼地に沈めたときのように入りこむ。黄色を弱の力で持っているグリュテは、地面や石から自由にものを出し入れすることができる。とはいえあまり強い殊魂ではないため、大量の荷物を隠しておくことはかなわないのだが。
頭巾がついた赤い外套を取り出し、セルフィオに見せる。セルフィオはうなずいた。グリュテはかさばる肩掛けを外し、くるむ形で着こむ外套を羽織り、ついでに出した木彫りの胸留めで中央をくくった。少し暑いが、耐えられないほどではない。
「うん、それならあまり目立たない。暑いかもしれないけれど、そのときは途中で服を調達しよう」
「わかりました」
「……別れの挨拶は、済ませてきたかな」
セルフィオの言葉に少し、首を傾げた。お世話になりました、準備立ててくれた師と兄弟子にはそれしかいっていない気がするが、十分だと思う。二人は奇妙に重苦しい顔をしてグリュテを見つめていたのに、あっけなさ過ぎだな、と感じる。二度と会えないだろう二人のことを、あまり考えていられなかったのが本音なのだけれど。
「大丈夫です、はい」
でもやっぱり、それ以外浮かぶ言葉が見当たらなくて、今から戻ってなにをいえばいいのかわからない。簡単な方が二人の心の重荷にならずに済むだろう。
「じゃあ、行こうか。南下していくから途中で牛車も使うことはあるけれど、基本は徒歩だ。期限は今から二の月、『時騒神の月』の末まで。邪魔が入らなければ、余裕を持って到着することができるから」
「よろしくお願いしますね、セルフィオさん」
笑って手を差し出したのだが、その手を取らず、セルフィオは代わりにその場で膝を突き、頭を垂れる。
「我が名、セルフィオの名にかけ、グリュテ。あなたを守り、戦うことを誓う」
仰々しく頭を下げられ、騎士の誓いを立てられて、グリュテは一瞬だけ胸が高鳴った気がした。でもそれも本当に刹那の間のことで、困りきったグリュテがたどたどしく許す、というまで、セルフィオは微動だにしてくれなかった。