2-1.意外と辛い
意外とつまらないな、とグリュテは机の向こう側から覗く海と昼の空を見ながら、一人寝台に座り、ぼんやりしていた。部屋にいるよう指示されて二日経つ。ちょうど暦は『瞑夜神の月』から『嬌娯神の月』に入ったところで、今が夏真っ盛り。一年中常夏の首都・スマトでもこの月にとれる魚の量や種類は桁外れだ。
「市場、盛り上がってるのかな」
漏らした声が、どこか恨めしく聞こえたものだから、グリュテは自分でも驚いた。休みでもなく、ほぼ軟禁状態になって二日半、提出するための日記を書く気力もわかない。
告死病、そう六人会議で宣告されてもグリュテには違和感を覚える他なかった。師たるジノヴォス、それにキリルにいわせれば、それこそ告死病の初期段階だというらしいけれど。
告死病とは、遺志残しが稀にかかる病だ。死者の念を読み取りすぎたために死という概念に取り憑かれ、死を尊び、惹かれ、少しずつ自傷行為をはじめていく上、最期には自害を選び自ら命を絶つ不治の病。ここ十数年は患うものはいなかったらしく、だからこそ師も六人委員会も慌てたのだろう。おかげでグリュテは今、遺志残しの仕事から外され、委員会が下す決定を学舎の中で待つだけになった。
遺志残しの服と鈴、香炉も没収された。今、グリュテが着ているのは町に下りるときのために買ってあった麻と綿で作られた長衣で、袖は二の腕を半分隠すくらいにしかない。群島国特有の細かい刺繍が中央に入っている一張羅で、お気に入りの服を着れば少しは気分も違うかと思ったけれど、まったく効果がなくてグリュテの気分は沈む一方だ。
色とりどりの綴織り、工芸品の首飾りに腕輪、本や紙が散乱する部屋の中、机に向かう元気もない。本を読む習慣もあまりないし、ただ眼下に見える海の様子を見、船の数を無駄に数える時間が続いた。
死はそんなに悪いものなのかな、そんなふうに思いながら、食堂から持ってきた包みを開く。薄切りにした林檎と木の実を砂糖で焼き固め、肉桂をかけた棒状の菓子を少しずつ食べながら、海が輝く様を黙って見つめた。周りに動揺があってはならないため、彼女は仕事の失敗から謹慎処分になった、そういうことになっている。口をはばからない同業者たちの一部が、食堂に行ったとき、彼女へ無駄食い扶持、とささやいてきたのを思い出す。確かに今のグリュテはその通りだし、似た処分をこれまでもいくつか受けていたから、彼らの言葉にも納得できる。
甘さと独特の香辛料が口の中に広がって、好物の味にほっとした。でももし、遺志残し組合から離脱することになったら、自分はどうやって生きていけばいいのだろう。明確な未来の様子を浮かべることができず、これも告死病のせいかな、と首を傾げる。
将来のことがまったく想像できないことを、しかしグリュテはなんら不安に思わなかった。白の殊魂があるため、きっとまともなところで働くことはできないだろう。娼館行きか、それとも野垂れ死にか。多分後者かな、と思うグリュテは逆に清々しい気分になった。行き先が決まっているなら、そこにたどり着くまでだから。
そう考えていくと、なんとなく気分が落ち着いていく感じがした。貯金だって少しばかりある。死ぬまでの間、旅をしていろんな諸島を渡り歩いてもいいかもしれない。最期は誰にも迷惑をかけないよう、静かな場所で。
そこまでを夢想し、菓子を頬張っていたグリュテの部屋の扉が数回、叩かれた。
「グリュテ、いるかね。入っても?」
ふぁい、と口いっぱいに菓子を食べてしまったものだから、変な声が出た。木の扉を押し開き、入ってきたのは師であるジノヴォスと、様々な手荷物を抱えながら彼につき従うキリルだった。グリュテは菓子を咀嚼しながら頭を一つ下げる。
「お前、なんだその態度は」
「キリル」
相変わらず小言を口にしたキリルを、ジノヴォスが優しい声音で止めた。菓子を食べ終えたグリュテは寝台から立ち上がり、もう一度ぺこりと礼をする。
「こんにちは、お師匠様。キリルさん」
「お前は、その、変わらんなあ」
「そうでしょうか? これでも身の振り方、考えてたんですよ」
「ろくでもないことじゃあないだろうな」
「ちゃんとしたことですよ。ここを出たら、旅でもしてみようかって。北西側、雪降るんですよね。見てみようかなとか」
扉に鍵を下ろしたキリルが、また渋い顔をした。ジノヴォスは大きな鷲鼻を撫で、困ったようにほほ笑む。
「旅をするのは、仕事が終わってからかね」
「え?」
意外な言葉を言われて、グリュテは大きな目をまたたかせた。仕事、ということは、病持ちの自分をまだ使う気があるのだろうか。それともなにか、特効薬でも見つかったのか。
「委員会が決定を下した。お前には遺志残し最後の仕事をしてもらう」
「はあ……」
「告死病は、かかった人間の精神に左右されるのさ。いつ、その、最期をだね、迎えようとするまでの期間もまったくばらばらで、そこまで至る長さに規則性がないのだ」
ジノヴォスが机の側にあった木の椅子を掴み、太い体躯をそこに下ろす。木のきしむ音が、混乱するグリュテの耳にはやけに大きく響いた。キリルは立ったまま、部屋の様子を見て呆れた顔を一瞬だけ作り、でもすぐに真顔になった。
「机を借りるぞ、グリュテ」
「あ、どうぞ」
キリルは手にしていた大きな巻物を広げるため、机の上にあったペンや本を次々と下ろしていく。手際の良さに感心しているグリュテを惹きつけるように、ジノヴォスが口を開いた。
「これから告死病は、一の月、二の月、と症状を重くさせていく。早くて一の月が回る頃までに死を選ぶものもいたらしい。文献がほとんど残っていないからね、この病に関してだけは。わかっているのは」
ジノヴォスが三本、指を立てた。
「一、目標が明確にあるものの病状の進行は、遅い。二、軟禁や監禁状態にあるものの死は、逆に早くなる。そして三つ目……これは琴弾きたちが詩にしているような程度のものらしいのだがね」
「はい」
「三、定かではないが、告死病から治ったものがいるらしい、ということだ」
「え。あの、不治の病だと教えられた記憶がありますけど……」
「最後の話は琴弾きたちの話の種になっているようなものだ。ほとんど信憑性がない」
「キリル、お前ね」
「本当のことです、師匠。慰めに似た言葉をかける時間は、僕らにはない」
あ、と一見冷たいキリルの声にある焦りを感じ取り、グリュテは小さく唇をほころばせた。キリルは、兄弟子は、自分に残された時間を大切にしようとしてくれている。やはり不器用だけれど、彼は優しい。そんな彼の死を想像したことがあるだなんて、口が裂けてもいえないし、いわない方がいいだろう。
「これを見ろ、グリュテ」
机の整頓を終えたキリルが、急かすように巻物を上に広げた。地図だ。ジノヴォスも立ち上がり、机を三人で囲む。
「ここにあるのが今いるスマト。ここから歩きや牛車、船を使い、お前には」
「アーレ島に行ってもらうよ、グリュテ」
「アーレ島、って確か、戦場の最前線ですよね?」
ジノヴォスが指し示した小さな島を見て、グリュテは頭をなんとか回転させる。
天護国と群島国、互いの国が主張し合う海上領域線のちょうど真上にあるのがアーレ島だ。ひっきりなしに小競り合いを起こしているその島には、本島やこないだグリュテたちが訪れた島とは比べものにならない数の死者が出ており、遺志残しが行くことは許されていない。気が狂うからだ。死者の念によって精神的に疲弊するものが多く出て、倒れたものも数知れず。ゆえに、数年前から遺志残しがその島を訪問することはないとされていた。
「そんなところで、わたし、どうすればいいんですか?」
「アーレ島で死者の念と声を聞き、書き取り、そこにいる兵士たちに渡すんだ」
「あの、それ、死ぬ前に死ねっていってるものじゃあ……」
「それは表向きの任務だ。実際の任務は別にある」
キリルはグリュテの、小さな抵抗と抗議を無視した。
ジノヴォスが、懐から手のひらに収まる程度の小箱を取り出す。黄銅と飾り彫りでできた、豪奢な箱だ。緻密に掘られた神と思しきものたちの顔は、その表情が遠目からわかるほど生き生きとしており、これだけで半年ほどは仕事をしなくても暮らせるくらいには高価だなものだというのは、いわれなくてもわかる。
「これ、鍵がついてますよね、中身はなんですか?」
「『罪とる手』だ」
さしものグリュテも、キリルのこわばった言葉に驚き、肩を跳ね上げさせた。
『罪とる手』、それは生きたまま生命の殊魂を抜き取るとされる術具で、噂でしか存在しないものとされている幻の存在だった。この術具だけは黒に近い性質を持ち、しかしその力は『詞亡王』よりもひどい、そうグリュテははじめて聞いたときに感じていた。
生きたままあらゆる生命の殊魂をとり、それを鉱石に変えるという『罪とる手』は、命の尊厳を無視する。殊魂を抜かれたものはもちろん死ぬし、鉱石と化した殊魂が砕け、摩耗するまで坐に還ることを許されない。命の輪廻を無視した檻に閉じこめる術具。それが、こんな場所に存在するということがグリュテは怖かったし、いまわしいものにどうしても感じてしまう。
「こんなもの、なにに使うんですか」
「アーレ島近辺で天護国がよく出陣させている騎士団を、知っているかね?」
「二脚翼竜騎士団、でしたっけ。空から攻撃してくるっていう」
「お前には群島国最前線の砦まで、これを届けてもらう任務がある」
「これを使って、どうにかしようっていうんですか? 騎士団が乗る<妖種>の魂を」
「実際、これを使うかどうかは現場の判断に一任される。お前は運ぶだけだ」
悲鳴みたいな抗議に、しかしキリルは動じない。厳しい顔のまま、懐から大量の札束を取り出し、地図の上に乗せる。見たこともないくらいの金額だ。グリュテの貯金とは比べものにならない。
「支度金、そして旅費だよ。この任務はある意味国の作戦、ともいえる。素性の知れない人間や一般の兵士には任せられない。そこで出てきたのがお前なんだよ、グリュテ」
ジノヴォスの緊張がこもった声に、グリュテは押し黙った。ぎゅっと手を握り、難しい顔で地図をにらみつけてしまう。
国仕えである遺志残しに、なんらかの大任が授けられるということは、多くはないけれどないことでもない。でもそれは、キリルのような首領を務めたことがある人間や、すでに弟子を持っているジノヴォスみたいな年季が入った遺志残しに託されるものがほとんどで、正直、告死病であるという自分が、そんな大役をこなせるとは思えなかった。
「わたし、自信がありません」
「十年遺志残しをやってきたんだ、大丈夫さ。キリルについていって、いろんな知識を蓄えただろう。もう、首領を任されても普通はおかしくないんだよ」
「でもわたし、病気でしょう? そんな人間にこんな難しいこと、できませんよ」
途中で自害するかもしれないし。続く言葉を飲みこんだけれど、内心の思いは伝わったようだ。悲しむように、慈しむようにジノヴォスはまなじりを下げた。けれどキリルは甘えを許さない、そんな顔つきのまま、閉ざしていた口を開いた。
「別にお前一人に託された仕事じゃあない」
「え? どういうことですか」
「お前の監視役、というより、お前の任務を助けるやつにはもう、目星がついている」
いって大金の半分以上を、用意してきたのか違う紙袋に入れるキリルは、袋を無造作にグリュテへと押しつけた。
「死に損ないの騎士がお前と行動を共にする。国と委員会の決定だ。あきらめて身支度をしろ」
しにぞこないのきし、そうつぶやいてジノヴォスを見たけれど、師は小さく頭を振るだけで、グリュテは手渡された袋を持って小さなため息をついた。遺志残しての最期は、想像していた以上に辛いものとなりそうだ。