5-1.恋という名の新しい病
アーレ島ではできなかったので。そういって妹弟子の遺志残しの服と鈴を渡してくる全身鎧の騎士の姿を、キリルはねめつけるように見た。
「箱は?」
「アーレ島が現在どんな状況か、あなたもご存じのはずだ。箱は最期、グリュテが鍵を壊し、中を見た」
「なるほど」
ではあなたも、と言外に含めて、キリルは鼻を鳴らす。死に損ないの騎士は動じない。キリルの部屋の中、張り詰めたかのような緊張が漂う。キリルは机を指で叩き、立ちつくす騎士を見上げた。全身灰色のいけ好かない奴、そうキリルは思う。
「グリュテの最期は、どんなものだった」
「あなたの妹弟子は、最期には遺志残しであることも忘れて、首を吊った」
「首吊りか。意外な最期だ。森か? 宿場か?」
「林で。遺体は焼いた。ただ、この二つは俺が預かっていたものだから」
キリルは鼻に皺を作り、唇をつり上げた。
「そういうことにしておこう」
「事実をいったまでのこと」
「『詞亡王』が出たことで天護国との小競り合いは終わった。話し合いで解決、というには犠牲は多かったが。六人委員会と国は、カトリヴェ島での出来事を重く受け止めた」
騎士の嘘につき合う暇はない、そういうようにキリルは渡された妹弟子、グリュテの鈴を軽く鳴らす。
「だが、あの出来事はいわば血統だけが使える術があってこそ。奇跡なんてものじゃあない。エコーの再来と疑われたあいつが死んだのなら、もうどこの国も追うことはしないだろう」
騎士はなにも答えない。ふん、ともう一度鈴を指先で弾くと、キリルの聞き慣れた、もう二度と聞くことがないだろう懐かしい音がこだまして、部屋に響いた。
「真珠もなくなったか?」
「グリュテがそれも壊した。正確にいえば燃やした、ただそれだけだ」
「それでいい。それなら」
安心だ、と続けようとして、キリルは小さく咳払いをする。
「意外だな」
「なにがだ、死に損ないの騎士」
「君は彼女を欺いた一人だと思っていた」
キリルは騎士の言葉に鼻を鳴らした。なにもわかってない、そういいたげに。
「欺かれたのは僕の方だ。師匠にな。けれどそれも国の決定なら従うまで。エコーという存在のことを聞いたのは、あれが出立して大分経ったあとだ」
「なるほど、出張所で名前を聞いたという彼女の話と符合する」
「どこまでいっても国がつきまとう、遺志残しとはそういう職業だ」
「群島国ならではの因縁、というやつかな」
「ただの愚痴だ、忘れてくれ」
滅多に使われない暖炉に、キリルは蝋燭を無造作にとって火をつけた。その中に惜しげもなく、遺志残しの服と鈴を放り投げる。かがり火が火の粉をはぜ、みるみるうちに服と鈴を炭に変えていく。
「遺志残しのグリュテは死んだ。結果よければ全てよし、それが国の方針だ」
ぽつりとつぶやくキリルに、騎士はやはりなにも答えない。
「わざわざこれを届けに来たのか?」
「騎士としての最後の勤めだ」
「なるほど、ご苦労」
キリルは机の中から袋を取り出し、騎士に見せる。
「これは?」
「報酬だよ。おまけのな」
大分厚い札束を見て、騎士は少し迷ったようだが、素直にそれを受け取った。
これはキリルが実費で出したもので、師には騎士がいるどころか、来たことも伝えていない。むしろ連絡を受けたとき、師がいないときを見計らって日にちを指定したのはキリルの方だった。
「これからどうする気だ、死に損ないの騎士」
「答える必要が?」
「確かに、ないな。ああ、これは僕の独り言だから忘れてくれても構わないが」
キリルは立ち上る火に視線をやりながら、声を小さくして続ける。
「白持ちでもなんでも、大抵受け入れるのは神権国だ。あそこは北国だから寒いかもしれないけれど、慣れればどこでもやっていけるだろう」
「知っている。数回、行ったことがあるから」
「ここから二人じゃあ旅費も大変だろう。少しでも足しになればいいが」
札束を腰布の隠しに入れる騎士が一瞬、その手を震わせたように見えてキリルは笑う。
「嘘つきの騎士に改名したらどうだ」
「彼女の話にあったとおり、なかなか鋭いね、君は」
兜から覗く空色の瞳が、少し優しげなもののように思え、キリルは腕を組んだ。わかりやすいんだよ、そんな文句にも似た言葉をこらえるように。
「よろしく伝えてくれ」
「残念だけれど、それはできない。君のことを、彼女は忘れてしまったから」
「忘れた?」
ちょっと惚けるように騎士を見て、それからキリルは声を出して笑った。驚いたように騎士が背筋を正す。自分でもびっくりだ。笑い声を上げるなんて、何年ぶりのことだろう。
「おかしいかい?」
「おかしいとも」
笑いは止まず、腹が痛くなって、くつくつとくぐもりながら腹部を押さえる。
十年。つき合って十年の己を忘れ、しかし一の月程度のつき合いしかない騎士を彼女は選んだ。悔しくないわけではない、けれどそれも病のせいなのだろう。恋という名の新しい病の。
「それがいい。新しい生活に、余計なものはきっといらないだろうしな」
まるで恥じ入るように、騎士は視線をそらすようにして軽くうつむいた。