4-9.愛おしさだけは忘れない
自分の名前はグリュテ。それはわかる。遺志残しということも、知っている。でもただそれだけだった。どこでどうやって遺志残しになったのか、そして自分の衣の裾を掴んで泣いている男の人は、誰なのか。それがどうしても思い出せない。
自分の名を呼ぶ三人の男女たちにも、見覚えがない。思い出せず、グリュテは困って声を上げようとするけれど、やはり漏れ出るのは空気だけ。どうして声が出ないのか、その理由も定かではない。
でも、と頭の中にある薄霧の向こうになにかあるような気がして、グリュテは頭を悩ませた。わたしはこの人たちを、知っている気がする。特に、肩を震わせうつむく男性のことは。見ているとなんだか、心の中がとても温かくなり、動悸すらしてくる。
病気にでもなったのかな、そう思いながら、グリュテは裾を握って離さない男性の手を静かに外し、角灯を持って船から下りた。どうして自分は、こんなところにいるのだろう。
どこかで遺志残しの仕事があったのかもしれない。そうも思うが、そもそも遺志残しとはなんだったか。それすらちょっとあやふやで、グリュテはほんの少し戸惑う。
心配そうな顔を作ってくる三人に対し、角灯を両手で持って、尖った隅で砂に字を書く。
――声が出ません。
「一体あなた、なにをしたの?」
――わかりません。
「グリュテ、あんたが黒を押しとどめたのかい?」
――それもわかりません。
「グリュテよ、あの白い光は、ぬしのか?」
――白い光ってなんですか?
結構、矢継ぎ早に質問されるというのは苦しいものだ。特にその返答を文字で書くなら、なおさらに。すぐに波に消されてしまうし、砂も柔らかいから崩れてしまう。
「……一度、酒場に行こうよ。あたしたちを助けてくれた場所があるんだ。そこで話を聞こうじゃあないか」
赤髪の人の言葉はどこか辛そうで、グリュテは申し訳なさで一杯になった。
「セルフィオよ、傷がしみる。いい加減出てこぬか」
黄色の髪の人が優しくいうと、白藍の髪を持つ男性がのろのろと顔を上げた。自分を見る目に涙があって、思わず胸が高鳴った。やっぱりどこかおかしい、とグリュテは角灯を落として胸に手をやる。セルフィオ、その名前がどこか聞き心地がいい。
風邪のときの動悸や火照りとは、また違ったなにかがあった。優しく、穏やかで、それよりも激しい鼓動。この感情を、グリュテはどこかで感じている。もやがかって上手くいい表せないのだけれど。
ともかく、どこかもわからない場所にいるよりかは、この人たちについて行った方がよさそうだ。ゆっくりと歩き出す四人のあとを、グリュテものんびり歩き始める。砂の感触が気持ちよかった。どこかで感じたことのある感触に、ちょっぴり気分がよくなる。
くねった道を進み、見慣れぬ場所を歩くことに、なぜか不安はなかった。ぴったりと横にくっついてくる男性が、まるで自分を守るかのように歩幅を合わせはじめてくれたことに、感謝の気持ちも覚える。狭い道に二人並ぶと肩が相手の体に触れてしまうのだけれど、そこから通じる体温が、やけに心地いい。しっくりくる、といった方がいいだろうか、グリュテは悩む。
途中、死にかけた兵士と思しき誰かが運ばれていく様子を見た。仲間になにか伝えようとしているのか、グリュテも気になって兵士に意識を集中させてみる。無駄だった。光も、死の間際にある念も、なにも読み取れはしない。
遺志残しとは、それらを読み取る職業だったはずだけれど、と小首を傾げてしまう。こときれた兵士の名を叫ぶ仲間の悲痛な声が、むなしく周囲にこだました。死んだ兵士の光も念も、やはりなにも見えず、聞こえない。おかしいな、と思いながら、グリュテは心の中でかすかに覚えていた祝詞をつぶやく。懐かしい誰かがよく唱えていた祝詞だが、その誰かというのも曖昧で思い出せそうにない。
どうしてわたしは、こんな言葉を知っているんだろう。そう不思議に思いながら、兵士たちの嘆きをあとにした。ここは戦場なのだろうか、そんな疑問もわいてくる。よく見れば黄色い髪の人、青紫の髪の人は武具を持っていて、甲冑が傷ついている。肌に傷もある。
横をそっと見ると、暗い顔をしたままの男の人も、そこら中に傷を作っていて、どうしてかその姿に胸が痛んだ。でも、同時に安堵も浮かぶ。不可思議な感覚にグリュテは目をまたたかせ、そっと胸を押さえる。
見知らぬ酒場に連れられて、でもそこにいた老夫婦は、自分のことを知ってるみたいで驚いた。二階に通され、二つあるうちの部屋、奥側に通される。一緒に来たのは白藍の髪を持った男の人で、でもすぐに、隣の部屋に呼ばれて行ってしまった。
なんとなく寂しい、そう思って、グリュテは心の動きに若干、疑問を覚える。寂しいだなんて感情、一体どこから来るのだろう。
とりあえず机にあった椅子に座り、窓から白い月を見る。なにか思い出せそうな色合いに、グリュテはしばらく悩んでやめた。お祭りでもやっているのか、やけに人々が騒がしい気がする。見ている限りは誰もが嬉しそうで、グリュテもなんだか気分が高揚してくる。お腹も空いた。
壁は薄いのか、誰かの泣き声が隣から聞こえた。赤髪の人の声だ。グナイオス、と何度も何度も呼んでいる。泣き止め、と困ったように答えるのは、黄髪の人の声。シプったら、そう呆れた声は、青紫の髪の人が発したものだろう。
シプ、グナイオス、どこかで聞いたことのある名前に、グリュテは自然と胸元に手をやった。なぜそんなことをしたのだろう、なにかがついていたと思しき鎖が、首にかけられている。でも、そこにはなにもなく、なんとなく落ち着かない気持ちに駆られる。ここになにかあったはずなのに、疑問に思いながらも鎖を外した。懐の隠しにそれを入れる。
部屋の扉を叩かれて、グリュテは振り返る。誰かが入ってくる気配は、ない。外にたたずんでいる気配はあるのだけれど。そこで返事ができないことを思い出し、グリュテは扉を開けた。黄髪の巨体を持った男性が、照れたように赤髪の女性を胸に抱いている。
「グリュテ、あんた、全部忘れちまったんだね」
涙を流す女性の言葉にそうみたいです、と答えようとして、声が出なくて代わりにうなずく。忘れる、といわれてなにを? とも感じたけれど、確かになにかがない感じがする。
「セルフィオと話をしてくるといい。我らはここにいるから」
また、うなずく。空っぽになったなにかを、セルフィオという人は知っているのかもしれない、そう思ったから。
部屋を出ると、青紫の髪の女性がちょうど、隣の部屋から出てくるところで鉢合わせした。ばつが悪そうな、どこか気遣われるような顔つきをされて、グリュテは目をしばたたかせた。下に行ってる、彼女はそう言い残し、階段を降りていった。
部屋の扉を叩く。どうぞ、と中から返された穏やかな声音に、また鼓動が早まった。中に入ると、椅子に座った白藍の男性、セルフィオと呼ばれた男性と目が合う。哀しげにほほ笑まれ、グリュテの胸は今度は痛く、棘が刺さったみたいになる。
「座って」
うながされ、寝台に遠慮なく腰かけた。藁でできた素朴な寝台は居心地がいい。
「手を貸してくれるかい」
いわれて、グリュテは左手を差し出した。覚えのない赤い指輪が、蝋燭の明かりにきらめいた。その輝きがどこか、懐かしい。とても大切なもののように感じる。
優しく下から手を重ねられ、感じたことのあるぬくもりに、ちょっとグリュテは面映ゆい気持ちになる。彼、セルフィオはそっと、宝石のようにも見える不思議な空色の瞳を閉じた。
(聞こえるかい、グリュテ)
あ、とグリュテは頭の中に響いた声に、思わず口を開けた。これは、と思い出せる。白の殊魂の術だ。そう、わたしは、と同じく目をつむり、手の温かさに集中する。わたしは白を持っている。
(聞こえます)
(よかった。君の声が聞けて。白の殊魂のことも覚えているんだね)
(はい、覚えてます)
(君がなにかしたんだね。夢を見て、それから飛び出したとシプはいっていたから)
(ご、ごめんなさい。それは忘れてしまったんです)
(君を守ると約束したのに、すまない)
辛そうな声音に、そっと目を開ける。手を繋いでいれば、より鮮明に意思の疎通はできる。セルフィオの左手に、自分のものと同じ形をした指輪があって、グリュテは少しいぶかしんだ。でも、やはりそれがとても大事なもののように思える。なんだろう、そう、とても大切なものだ。
セルフィオの瞳が開けられ、空色の宝石みたいな目が軽く、弧を描く。親しげなほほ笑み、優しい笑み。胸がおかしくなりそうなほど鳴り響き、頭の奥でちかちかとなにか、光がまたたく感覚がする。これは、と突然のことにもかかわらず、はっきりとグリュテは思う。忘れたままではいけないものだ。
(俺が君の騎士だということは、覚えているかな)
頭の奥底で、なだらかなさざなみの音がした。青い海を見ながら、肩を抱かれた感触が伝わってきて、グリュテの顔は火照りを帯びる。吐息が漏れた。優しい感情を次々に思念で送りこまれて、グリュテはその一つ一つに思いを馳せる。
二人で旅をしたこと。自分のことを気遣ってくれたこと。二人で話し、手を今のように絡め合ったこと。自分を守るために戦ってくれたこと。ぬくもりと愛しさが胸の動悸を頂点にしたとき、心の中に白い光がはじけた。
――そうだ、この人は、わたしの騎士様だ。
(セルフィオさん)
名前がするりと出た。胸の鼓動が速くなる。
(セルフィオさんです)
(うん)
(セルフィオさんはわたしの、大好きな騎士様です)
そう答えた瞬間、手を引かれ、セルフィオの胸の中で抱きしめられる。これ以上なく強く、固く、慌てたグリュテが体を動かしても外れないほどに。でも、いやだとは微塵も思わなかった。むしろ胸から伝わる暖かさ、ぬくもりがあまりに心地よく、グリュテは自然にほほ笑んだ。グリュテ、と何度も名前を呼ばれてうなずく。涙が自然と出てくるけれど、辛さなんてない。喜びの涙があふれ出し、セルフィオの胸を濡らしていく。
(もう一度いうよ、グリュテ)
きつく抱きしめられながら、甘い痺れに身を委ねていたグリュテに、耳元でセルフィオがささやいた。
「俺は君が、好きだ」
これ以上ない熱い吐息に愛おしさがにじみ出し、グリュテのつま先までもが痺れた。
わたしもです、そう伝えて二人、見つめ合う。手を絡ませ、もう二度と離れないようにと強く結んでもう一度、抱きしめあった。二人の胸の鼓動が重なり、グリュテは抱きしめられながら泣いた。他のなにを忘れてもいい。でも、この愛おしさだけは忘れないでいたい。
何度だって、とグリュテは心に強く誓う。恋をしよう。この人に恋をしよう。生きている限り、何度だって、忘れずに。