4-1.黒の手に
夢なのか、現実なのか、グリュテには判別がつかない感覚があった。
木々が生い茂る中で、誰かが倒れている。血だまりの中に伏せている男は灰色の衣を着ており、震える手で土を握り、必死に起き上がろうと顔を上げたとき、グリュテは思わず悲鳴を上げた。
ティゲニーだ。脇腹を焼き焦がし、無理やり傷を塞いだ男の顔に生気はなく、ただ憎しみと近づいてくる死への兆候だけが強い。声を上げたのにもかかわらず、ティゲニーはこれっぽっちもグリュテには気づいていないようで、這いずるように先へ、先へと進もうとしている。
グリュテは意を決し、近づいてみた。その瞬間、木の幹に体の一部が素通りする。驚いて振り返り、木の枝にちょっと触れてみる。掴めない。草木はどれもグリュテの体を通り過ぎるように――いや、グリュテの体が煙になったかのように、どこもかしこもすり抜けてしまう。
普段の夢とはまた違うことに気づき、混乱するグリュテをよそに、ティゲニーはグリュテのすぐ側にある木に体を預けた。呼吸は荒く、口から出る血も鮮やかで、しかしグリュテにはどうすることもできない。
(憎い)
グリュテの頭に直接、ティゲニーの思いが入りこんでくる。セルフィオの姿が入りこんでくる。幼いときの姿を思い描いているのか、その思考すらグリュテは見ることができた。
廃城のような砦の中、二人笑い合う姿。食事を分け合う姿。剣をぶつけ合う姿。どの彼らも今より若く、幼さを残した顔をしていて、一緒にいたときの記憶なんだ、そう思う。
あらゆる場所、暗がりから目標と思しき人間を殺していく様に、グリュテは目をつむる。セルフィオとティゲニーはいつも、共にあった。でも、こわごわと目を開け、その惨劇に目を傾けているうち、グリュテは気づく。セルフィオの顔が陰りを帯びだしていることに。
(妬ましい)
あらゆる負の感情を混ぜこみ、こり固めたらこんな声になるのだろうか。それほどにティゲニーの声音はおぞましいものだった。
いつも夢で見ている集落、十年前焼かれた故郷が目の前に浮かんだ。セルフィオを呼ぶ声が響く。焼かれた老婆、エコーの死体と側にあった真珠を見て、それからセルフィオが使っていた剣に目を見開くティゲニーがいる。
近くにいた仲間、だろうか、その誰かは真珠を見てうなずく。でもそれは、グリュテが持っている真珠と大きさも細工も違う。ティゲニーがなにか、必死でその誰かに熱弁を振るい、殴られた。打たれた感触がグリュテにも軽く伝わり、思わず頬に触れる。
達成した、と誰かはいった。ティゲニーを助け起こそうともせず、そのまま燃える集落をあとにする。それに続くティゲニーは何度も何度も、捨て置かれた剣を振り返って見ていた。
(今更、我らが人であれるはずがない)
自嘲したのだろう、今、目の前にいるティゲニーは肩を震わせる。あの鳩のような笑い声はくぐもっていて、鮮明に聞こえはしなかったけれど。
ティゲニーはようやく立ち上がり、おぼつかない足取りで、脇腹を押さえながら木に掴まりつつ歩き出す。
月明かりの中、うっすらと見える影は、非常に濃い。それは影のようで、でもどこかが違う。闇よりも濃く、影よりも深い、黒だ。
黒色のそれは影を模し、ティゲニーへぴったりと張りつくようにつきまとう。粘つくようなぬめりを帯びた、泥のような黒は次第に形を変え、ティゲニーの姿とは別のものになっていく。
冷気の塊がグリュテの体を震わせる。足がすくみ、体中が総毛立つ。毛穴のあらゆる場所から冷気が入りこみ、胸をわしづかみにされている感触にグリュテは怯え、恐怖した。
妬みと恨みと怒りに支配されているティゲニーは気づかないのか、背後で立ち上りはじめた黒い煙、泥のようなものに目もくれず、歩くことに躍起になっている。
その粘つく黒の泥は人の形となった。セルフィオの背姿に。
はじめてそこで、なにが起きたのか気づいたティゲニーは振り返り、驚愕の顔を作る。
黒は優しく手招く。冷気をまといながら、同時に溶岩のような熱さを帯びた、甘い誘惑の手。セルフィオ、とティゲニーがつぶやくのが聞こえた。
違う、とグリュテは声を漏らす。それは、良くないものだ。
グリュテの言葉は届かない。黒い粘着質の泥は、セルフィオの両手から、髪の部分から、細い糸のようなものを出し、惚けるティゲニーの体を包んでいく。包まれたティゲニーの手が、足が、体が、髪が、目が、少しずつ色をなくしていく。黒に変わってゆく。
『詞亡王』。グリュテがつぶやいた瞬間、セルフィオの体の原形をとどめていない黒が、こちらを見た。
グリュテは絶叫した。
○ ○ ○
目を開けた刹那、グリュテは飛び起きる。心臓が激しく鼓動し、体中から汗が垂れて止まない。心に突き刺さるような冷たさと熱さは未だグリュテの背筋を撫でているし、手と足の震えが止まらない。
黒、あれは間違いなく黒の王――『詞亡王』の姿だ。思わず両手を見る。日焼けのしていない手のひらは汗を掻き、指先までもが細かく震えていた。でも、無事だ。黒色はグリュテの体を冒すことなく、夢の中に現れただけだ。けれど、あれは本当に夢なのだろうか。今までとは違い、奇妙に現実味を帯びていた。無意識にティゲニーの心に入ってしまったのだろうか、とも考えた。今は上手く、白が制御できる状態にないから。
きれいじゃない、とグリュテは顔で手を覆う。あんなの、全然美しくない。魂を冒され、自分が自分でなくなる姿に、なんら感動を覚えない。死の一つでもあるけれど、とキリルの言葉を思い出す。過程を見るものだ、グリュテ。そう、わたしは、と泣き出しそうになる瞳を必死でこすりながら、キリルにいわれた言葉を思い出す。死のもう一つを、見ていなかった。
死が安らぎであることに異論はない。美しいものだと今でも、心のどこかで思う。だが、黒が与える死はそんなものを遙かに超えて、グリュテの心をおびやかす。
震える瞳が、ぼろぼろの鏡台をとらえた。自分の顔をじっと見る。隈ができていてひどい顔をしている、そう思う。シプがいってくれたきれいさなんて、どこにもないように思えた。
ここは、アーレ島に最も近い宿場町で、ティゲニーを追い払ったあとセルフィオと共に深夜におとずれた場所だ。遠くから誰かの、苦しげな寝息が聞こえるほどに部屋の間取りは狭く、同時に壁も薄い。それでも部屋を確保できたのは幸運といっていいだろう。セルフィオと二人で一部屋だが、食料の一部とティゲニーが落とした武器を渡すことで女将の機嫌もよくなった。
夢と思しきものから覚め、グリュテの胸はまだ脈打つようにひどい鼓動を打っているのだけれど、藁でできた寝床から身を起こし、必死に小刻みに揺れる足を叩く。セルフィオは部屋の中におらず、窓もない部屋でグリュテは一人、寝間着が肌にこびりつく気色の悪さに顔をしかめた。
セルフィオが出してくれた水が桶の中にあったから、それを使って体を拭こうと思った。手荷物も全部地の術で隠してあったから、床の石畳に手を突っこんで荷物を取り出す。固い感触に手が触れた。びくりとする。あの、黄銅の箱だ。グリュテは布と箱を取り出すと、箱を寝床の上に置き、体を軽く拭いて遺志残しの服に着替えた。
そのとき部屋の扉が叩かれる。どうぞ、と答えると、セルフィオが入ってきた。体のそこいらは包帯で巻かれており、鼻をつく薬軟膏の香りがするが、大傷を負った様子はない。それだけは純粋によかったと思え、ほっと胸をなで下ろす。
「どこへ行ってたんですか?」
「傷の手当てと包帯を替えにね。それよりグリュテ、君の方こそどうしたんだい? 顔色が悪いようだけれど」
セルフィオが扉を閉めてそう聞いてくるものだから、グリュテはちょっと迷った。さきほど見た夢のようなものを、セルフィオに話すべきかどうか。でも、本当のことかどうか、グリュテには見当がつかない。無駄な心配はかけさせたくない、そう考え、グリュテは曖昧に笑った。
「ちょっと、夢見が悪くて」
「……過去のことかい?」
「違いますよ。大丈夫です」
セルフィオがもう一つの寝床のような藁に座り、こちらを心配そうに見つめてくるものだから、グリュテはもう少し、笑みを無理やり深めてみせた。セルフィオは空色の瞳をすがめたが、それ以上追求してこない。
「その箱は?」
「確かめたくて。この中に『罪とる手』があるっていわれてたんです」
グリュテの言葉に、セルフィオは眉を寄せる。大きくため息をつき、箱をにらんだ。
「ティゲニーの言葉を真実とするなら、それははったりか」
「そう思うんです。あの、短刀、ありますか?」
「中を見るつもりかい?」
セルフィオの言葉にうなずいて、グリュテは箱を手に取った。軽く、精緻な細工がされた大事だったもの。でも今や、真実を裏づける証拠にしかならないものだ。
セルフィオは蝋燭の明かりでできた影から短刀を取り出すと、立ち上がり、手を出してくる。
「叩き割るなら、俺の方が力があるだろうから」
「お願いします」
グリュテは迷わず箱をセルフィオへ渡した。開けてはいけない、そういわれてなんかない。心の中でいいわけじみた言葉を繰り返し、セルフィオが箱を床に置く姿をじっと見た。
金属がぶつかり合う音が数回響き、鍵が壊される。あまりにあっけないほど、簡単に。
「中を、見るよ」
「……はい」
グリュテの方に箱を向け、セルフィオの手がゆっくりと、小箱の蓋を開けていく。だが、グリュテに緊張はない。真実を知ることの方が大事で、その答えがこの中にある。