3-7.死にたいくせに
飛沫を上げる青い海が、眼前に広がっている。さざなみの音、椰子の木がこすれる音、砂を踏む音までもが明確に耳に入り、グリュテは一瞬、どこにいるのかといぶかしんだ。振り返ると小さな小舟があり、それから降りてきたようだ。岸辺の近くには切り立った崖、空には丸い月が浮かんでいる。見覚えがある場所、見慣れてしまった場所にいる。
ここはどこ、と幼いグリュテはつぶやく。自分の声がはっきりわかった。
中央島。後ろから、セルフィオの声がする。振り返ると、青い外套に身を包み、目深く頭巾で鼻先までを隠した青年がいた。白藍色の髪も、空色の瞳も見えない。
君は今日から、ここで暮らせ。いって、セルフィオはグリュテの手を引いた。
おばあちゃんはどこ? そう聞くと、セルフィオの体が大きく震えた。
殺した。
固いセルフィオの声の意味がわからなくて、グリュテは首を傾げる。
お父さんとお母さんは?
死んだよ。
死ぬ、と聞いてもよくわからない。どこからか、老婆の声が聞こえる。みんな、そこにいるから大丈夫。グリュテは自分の胸を見た。白い真珠が輝いている。
みんないるから、大丈夫だって。
グリュテの声に、しかしセルフィオは振り向かない。ただ急ぐように、それでも慎重に宵闇の中を進み、崖にできた獣道のようなところを歩いて行く。グリュテの足は痛みにも似た疲れで痺れ、途中から、引っ張られても動かなくなった。
もう少しだ。セルフィオはこいねがうような声音で、グリュテを引きずろうとする。
グリュテは子供特有の駄々をこね、その場にしゃがみこむ。
セルフィオが不意に両手を伸ばし、グリュテを抱えた。外套からは錆のような臭いがする。でも、とても温かい。抱きかかえられ、視線が高くなってグリュテははしゃぐ。崖の上にそびえる建物が見えた。
あそこまで行けば、もう大丈夫。
おにいちゃんはいかないの?
俺は、いけない。
なぜだかとても寂しそうな声に聞こえ、グリュテはちょっと涙ぐむ。
潤んだ瞳で前を見る。そこには、見知った建物があった。貝殻の形をした、大きい建物。
中央島の遺志残し組合。その学舎だった。
あそこにいって、とセルフィオがいう。もう目と鼻の先だ。地面に下ろされ、グリュテは前に進もうとして振り返る。セルフィオは立ったまま動こうとはせず、ただグリュテを見つめている。
いくんだ、君だけは。
優しい声に安心し、グリュテは前に進む。大きな門がある。どうしたらいいんだろう、そう思って振り返ると、そこにセルフィオの姿はもう、なかった。
それがあまりに心細く、グリュテははじめてそこで泣いた。
○ ○ ○
目を覚まし、潤む視界で最初に見たのはこちらを見下ろし、怪訝そうな顔をしているノーラの顔だった。空色の目、でも、セルフィオの瞳のものより深く、濃淡を描く瞳に、グリュテは一瞬惚け、それからあふれる涙を腕で拭った。
「……大丈夫?」
意外にも優しげな声で問われて、また涙が出る。でも、グリュテはただうなずいた。
「わたし、どうして」
「倒れたんですって。心労がたたったんじゃない」
いって、ノーラは側にあった机に戻る。グリュテは起き上がり、しばらく片手で体を抱くように腕をつかんでいた。夢の中で抱きかかえられたときの温かさを思い出し、一つため息をつく。
「あの騎士、セルフィオだっけ? 良くなったみたいよ」
「本当ですか?」
「私が嘘をつく必要ってあるの?」
逆に問われ、同時に冷たい口調でいわれてしゅんとする。確かに、彼女が嘘をつく利益が見つからない。部屋の窓から、雨の音が聞こえた。かなりの豪雨なのだろう、窓を叩く風雨の音はやかましく、でも、自分がどこにいるのかわからなくて周りを見た。
「あの、ここって」
「私の部屋。部屋が満室だからって、シプが。さすがにグナイオスと一緒にするわけにはいかないでしょう」
はあ、と生返事をし、寝台に腰かけて立ち上がる。いつまで寝ていたのだろう、角灯の明かりがすでに部屋を照らしている。でもそれより、セルフィオの様子が気になって気もそぞろに部屋から出ようとし、振り返ってノーラの背を見る。彼女は振り返らない。
「あの、お邪魔しました」
「邪魔されました」
正直な人、と思いながら、後ろ手で扉を静かに閉めた。二階の露台から客と娼人たちの笑い声が響いて聞こえる。数回、水を汲んだりするのに行き来していたから、セルフィオのいた部屋の場所の目処はついている。甘い香りが漂う通路を、なるべく目立たないように進んでいるうちに涙も止まり、視界がはっきりしてくる。
あの夢、とグリュテは歩みをにぶらせながら考えた。やっぱりセルフィオさんだ。そして幼い自分の姿。真珠だけを持って、遺志残し組合の前に置き去りにされていた、師の言葉がよみがえる。だとすると、自分とセルフィオは遠い昔に会っている。
そうなると、あの老婆はやはり自分の祖母なのだろうか。父と母の姿も、いつか見た夢の中にあったはずだけれど、老婆の印象が強い。真珠をくれた優しそうな人、そんな心証しかグリュテにはわかないのだけれど。
ともかく、セルフィオと話そう。そう思ってグリュテは角を曲がり、いつもの部屋まで戻った。ちょうどシプが、グナイオスの耳を引っ張りながら部屋から出てきたのが見える。
「おやグリュテ。あんた、大丈夫かい?」
「はい、疲れていたみたいで」
「そりゃそうさ、食事もろくにとってないんだから。ちゃんと食べないとだめさね」
いいながら、シプは意味ありげににやりと唇をつり上げた。
「ちゃんとフィオとお話しよ。あんたなら、その意味がわかるだろう」
「わかります」
今なら、ちゃんと。そううなずいたのを見て、シプはグリュテの肩を叩き、グナイオスの耳を引っ張ったままグリュテが来た道を戻っていった。ちょっとグナイオスが嬉しそうにしているのはなぜだろう。痛くないのかな、そんなことを思いながら、閉じられた扉の前に行く。
深呼吸を繰り返し、迷った手を、勇気を振り絞り動かして扉を叩く。中からどうぞ、とセルフィオの声がした。もう一度呼吸を整えて、意を決し、グリュテは部屋に入った。
寝台に、上体を起こしているセルフィオがいる。目が合う。空色の瞳が優しく弧を描き、グリュテ、と彼は小さくつぶやいた。
「心配をかけたね」
「はい、心配しました」
グリュテは正直に、自分の心を吐露した。遠くから雨の音をかき消す客たちの声がした。
沈黙が辺りを包んで、でもそれを破ってグリュテは部屋の奥、机にあった椅子を寝台の横に運んで腰かける。水の入った木の筒盃に口をつけ、渇いた喉を湿らせた。セルフィオは薄い羽織を裸身にまとっただけで、日焼けしていない肌にいやでも目が行く。
「俺のことは、どこまでシプに聞いたんだい?」
ようやく開かれた口から出た穏やかな声音に、グリュテは少し、悩んだ。
「えっと、シプさんのお父さんが、セルフィオさんを助けたって。その人がお師匠様なんだってことを」
緊張もあって、グリュテは一張羅の服の裾をつかんだ。セルフィオの瞳はどこかを見つめるように遠く、そう、とだけ返される。
「あとは、特に……」
「他にはなにも?」
「はい。あの、セルフィオさんの口から直接聞きたくて」
「君に黙っていたことがいくつもあるな、俺は」
水の入った筒盃を少しずつ口に運びながら、セルフィオは悩むように、迷うように小さく首を傾げた。白藍色の髪が揺れ、グリュテの意識はどうしてもそれに向けられてしまう。
「どこから話していいんだろう。シプには、ちゃんと話せと怒られてしまったけれど」
「あの、あの、セルフィオさんは白を持ってるんですよね?」
「……うん。俺の殊魂は青月長石。君と同じで白を持っている。ほとんど白の力はない」
「どうして、その、黙っていたんですか?」
同じ白の殊魂持ちなら、自分を欺く必要なんてないはずなのに。咎めるような声音に、それでもセルフィオはかすかに笑む。切れ長の瞳が軽く弧を描き、こちらを向いた。
「君は、どこまで見た?」
セルフィオの問いかけに、グリュテはちょっと考える。見た、とあるのだから、やはり夢の中のことの話だろう。あれは、紛れもなく過去の話なのだ。
「セルフィオさんと、いつものおばあさんが夢に出てきました。おばあさんを、セルフィオさんが殺したことも。セルフィオさんがわたしを中央島に連れて行ってくれたことも。あの夢はわたしの昔だったんですね」
「そう、君が見た夢は現実だ。昔にあった事実。君と俺は、昔に会っている。それを隠したくて殊魂のことは話さなかった。特徴的だろう? 俺の髪は」
「はい。夢と髪の毛を見るまで、セルフィオさんのことを昔会った人だとは、全然思わなかったです。でも、セルフィオさんはいつ、わたしだってことに気づいたんですか?」
「スマトではじめて君と出会ったとき。象徴媒体を見たときに、もうわかっていた」
「どうしてそれなのに、依頼を?」
「まさか告死病の遺志残しが、君だとは思ってなかったからね」
セルフィオの顔が、苦み走った笑みに変わる。
「君だと知って、それでも守りたいと思った」
「どうしてですか?」
「君の祖母を殺したのは、俺だから」
木でできた筒盃を握りしめ、セルフィオはかすれた声でつぶやく。まるで自分を罰するような、罪を告白するときの死刑囚みたいな重苦しい声だ。
祖母といわれて、繰り返し頭の中で老婆の姿を思い描いてみる。真っ白な三つ編みの髪、痩せがらの体つき、自分を見つめる優しく、暖かい笑顔。懐かしさはある、親しみも。けれど実感がわかなくてグリュテはううん、とうなるような声を上げた。
「俺は君を連れて逃げた。遺志残しの組合に、君をおいてきたのも俺だ」
「じゃあ、わたしを助けてくれたんですね」
燃える集落から。言外にそう含んでグリュテはほほ笑んだのだけれど、セルフィオはグリュテの言葉を否定するかのように激しく頭を振った。
「集落を燃やしたのも俺たちだ。君の家族も含めて全員殺した。それが任務だったから」
「任務、ですか」
「そう、天護国の潜密院。そこに所属していたんだよ、俺は。ティゲニーはそのときの相棒だ」
泣き出しそうな笑顔だった。セルフィオはそんなおもてを作り、吐き出すような口調で続ける。
「でも、君の祖母を殺す代わりに、頼まれた。君のことを。見逃すことを」
嫌気がさしたんだ、そう続けるセルフィオは悔しげで、形のよい唇を強く噛んだ。
「『罪とる手』があの、君の住んでいた集落にあると聞かされた。嘘の情報だったけれど、姿を見られたからにはみんな殺すしかないと、そういわれて、そうした。でも、もうだめだった。俺は、ティゲニーを置いて一人、逃げ出すことを選んだんだ」
顔を背けるセルフィオの肩は震え、握った筒盃から水がこぼれる。とめどない感情があふれるかのように。
「俺は騎士でもなんでもない。ただの卑怯な人殺しだ」
また沈黙が降りて、少しの間、セルフィオの言葉だけがグリュテの耳に響いた。
「ティゲニーさんとは、長いつきあいのある方だったんですね」
「兄弟みたいな関係だった。稽古も、寝るときもずっと一緒だったよ」
「話してくれて、ありがとうございます」
グリュテは笑う。遠慮せず、卑屈でもない素直な笑顔のまま、セルフィオの震える手を握った。セルフィオが伏せるように目をつむり、力なくうなだれた。
「礼をいわれるようなことは、なにもしてない」
「いいえ、私がここにいるのは、セルフィオさんのおかげです。昔も、今までも、セルフィオさんは私を守ってくれたんです」
わたしの騎士様なんですよ、ささやくようにつぶやいて、握った手に力をこめる。ちょっと冷たい手の甲が、びくりと跳ねる。跳ねて、まるで壊れ物を扱うかのような手つきで指が開かれ、手のひらと手のひらが触れあう。指が絡まり、二人の手が結び合わさる。
つむっていた目が開かれ、空色の瞳がグリュテを見た。きれいな目、グリュテは思い、笑みを深めた。ただ、うなずく。許したいと思うこと、生きていてほしいと願うこと、共にいたいと感じること、全てを受け入れたいと考えたこと、それらに名前をつけたなら、きっとそれは今のグリュテが抱く感情の源だ。
「ありがとう、グリュテ」
セルフィオがこわごわと、ぎこちない笑みを浮かべていった。ありがとう、ともう一度。
手のひらから伝わる体温は熱を帯び、次第にグリュテの胸を痛ませる。愛おしく、同時にいまわしい生の象徴はグリュテのつま先から頭の芯までを痺れさせ、臓腑の全てが揺れ動くみたいな気味の悪さを与えてくる。それでも手を離したくない。
頭の中であざ笑う、偽物のセルフィオの声がする。死にたいくせに。そう、とグリュテはぬくもりを全身に伝えながら心の中で笑う。わたしは死にたい。でも今は生きたい。この人と共に生きていたい。いずれすぐにおとずれる死の、その直前まで。




