3-5.滑稽な恋
「待たせたね、フィオ」
少しだけ時間をおいて、シプが部屋に入ってきた。群島国南部には珍しく、軽そうな羽根と毛でできた毛皮を羽織っている。それでも胸の膨らみや足の長さは扇情的で、女性も惹きつける魅力がある。
「久しぶりだな、シプ。硝子のことは、その、すまない」
「あんたは謝ることしかできないからね、いつも。あきらめてるってもんさ」
快活な笑顔だった。入り口近くの羽布団に寝そべる姿は美しく、足のつま先までもが一個の造形品みたいだった。グリュテは自分のつま先を見てみる。泥で汚れていて、例えようもなく醜いような気がし、そっと足下を外套で隠した。
「そっちの子は? 迷惑料代わりって連れてきたわけじゃあないだろうね」
いわれて、グリュテは驚き顔を跳ね上げた。シプと目が合う。真っ赤な双眸に見つめられ、グリュテはまたちょっと下を向いた。
「顔もいいし、初物そうだ。あたしのところでよければ引き取るよ」
「違う、彼女は俺の依頼人だ。訳あって護衛を引き受けた」
「そいつは残念。なに、死に損ないの騎士に護衛? 変わったことをする子だね」
「彼女の上司に頼まれた。刺客はそのおまけだ」
「刺客ねえ……」
上司に頼まれた、その言葉にグリュテの胸は抉られたように痛む。そう、セルフィオとは依頼でつき合って旅を一緒にしているだけだ。楽しく話したことも、グリュテの病を気遣ってくれるのも、全部依頼のため。全ては『罪とる手』をアーレ島に運ぶための。
居心地の悪さが頂点に達し、ついにはグリュテは知らずのうちに立ち上がっていた。
「あの、わたし、部屋から出てていいでしょうか」
「さっき襲われたばかりだよ、グリュテ」
「で、でも、グナイオスさんって方もいますし、大丈夫だと思います」
「だが、いくら二つ名持ちの傭兵といっても」
「まあね、あいつはうちの用心棒だから。下手な真似はしないさね。でも、外に出るのは止しときな。部屋を覗かなければ館のどこにいてもいいからさ」
セルフィオはまだどこか、不思議そうに、というより納得していないように首を傾けていたが、グリュテはシプの言葉にうなずいた。ここにいたくない、そんな気持ちが強すぎて、足早に部屋を出る。後ろで話をはじめた二人の様子が、親しげなものに思えることが胸苦しかった。
部屋を出てため息をつき、辺りを見渡すと、ちょっとした角のところに巨躯が見え隠れするものだから、グリュテは目をまたたかせた。あれは、グナイオスだ。こちらをちらちらと見ており、目が合った。彼は慌てて隠れるように、角に引っこんでしまう。子供みたいな姿に思わず吹き出す。右側の角に行くと、明後日の方向を向いてそっけない顔つきを作っているグナイオスがいた。
「グナイオスさん、さっきはありがとうございました」
「お、うむ。いやなに、命の恩人を見捨てるのは寝覚めが悪いからな」
「ここでなにをしているんですか?」
「み、見張りだ。シプの近辺を守ること、それが我の役割だからな」
はあ、とグリュテは答えるしかできない。用心棒だっけ、とシプの言葉を思い出す。
「グナイオスさんは、シプリーンさんの用心棒なんですか?」
「この館、店を守ることも我の仕事ぞ」
「違うでしょう、ばか。この館の警護は勝手にやってるだけじゃあないの」
なぜか自信ありげに胸を張るグナイオスの言葉を、奥からやってきたノーラが咎める。きついいい方、とキリルのことをなんとなく思い出してノーラを見つめていると、彼女は不機嫌そうに濃淡を描く瞳をすがめた。
「あなた、なんで潜密院に追われているの」
「え、どうしてそれがわかるんですか?」
「素直ね、あなた。自国の諜報員のことくらい知ってるわよ」
「せんみついん、とはなんだったか」
グナイオスの言葉に、ノーラは絶句し、呆れた顔を隠そうともしなかった。天護国の諜報機関、とノーラがいうと、ああ、とわかっているのかわからないような、そんな声でグナイオスは間の抜けた返答をし、グリュテを見下ろす。セルフィオより背が高い。
「ぬしの名前は?」
「あ、わたし、グリュテといいます」
「グリュテよ、あのもの、あの騎士とシプは、どういう関係か?」
そんなのこっちが知りたい、と思わず口が言いそうになるが、わかりません、とだけ答えておく。それを聞いて、壁に背を預けたノーラが腕を組み、疲れたようなため息をつく。
「厄介ごとが増えるのはごめんだわ。私には関係がないけど、またいつ潜密院が来るかわからない。それで損害を被るのはシプだしね」
「素直にシプが心配、そういえばいいではないか、ノーラ」
「あなたみたいに愚直じゃないの。グリュテだったかしら、あなた、いろいろあるんでしょうけど、シプに迷惑だけはかけないでちょうだい」
「は、はい」
念押しをされてしまい、しかし決定権はグリュテにはない。奇妙な沈黙が降りる。ノーラの背は自分より少し高く、でもよく見るとまだ、冷たいおもてに幼さがある。年の頃でいえば二十歳か下かぐらいだろうか。よくわからない人だな、とグリュテは思い、それでもなぜか、今は沈黙を友とすることができなかった。
「あのぅ、ノ、ノーラさんとグナイオスさんは、ここに来るために船を?」
「話す必要がない」
「うむ。シプがカトリヴェ島まで行く予定なのでな。その護衛も兼ねてだ」
すげなくいったノーラの目が、遠いどこかを見るような、なにかを哀れむようなものに変わった。彼女がいうとおり、グナイオスは正直というか、なんなのか。さすがのグリュテも心配になって、曖昧にほほ笑んだ。
「カトリヴェ島ですか。行き先、同じですね」
「あんな辺鄙で物騒なところになんの用があるわけ?」
「上からの命令で、ちょっと」
嘘はいってない、とグリュテは心の中で自分にいいわけをする。卑屈な笑みと見たのだろう、ノーラは少しこっちをにらんできたが。
「シプも人がいいんだから」
それだけいって、ノーラはそれ以上の追求をしてこなかった。グナイオスはまだ大部屋の方を心配そうに眺めており、グリュテも同じように角にくっつく。
セルフィオとシプは、一体なにを話しているのだろう。想像もつかない。二人の姿を思い描いて、また心臓がちくりと棘に刺されたように痛む。告死病は、と胸を押さえ、閉ざされた扉をじっと眺めた。食欲以外にも体の変調を来すのか、キリルに聞けばよかった。
小さく頭を振ってグナイオスを見る。実直で、真面目そうな太い眉をしかめ、部屋を見つめる姿に落ち着きはなく、グリュテは首を傾げた。
「あの、グナイオスさん。さっきからどうして部屋を見つめてるんですか?」
「ご、護衛としてだな。シプが心配だからだ」
「シプが好きだから、っていっちゃいなさいよ。変なところで奥手なんだから」
ノーラのあっけない言葉にグナイオスは図星を突かれたようで、ぐ、と小さくうめく。
「好き?」
「そ、そうだ。だから気になる。ぬしもあの騎士に惚れているのではないか、グリュテ」
人のよさげな顔を真っ赤にさせて、照れくさそうに笑うグナイオスの言葉があまり、頭に入ってこない。
好き。誰が、誰のことを好き? グリュテは同業者や師、キリルの姿を思い出し、最後に出てくるセルフィオの姿だけに胸が高鳴ることに驚いた。
自覚はあるのか、キリルの言葉を思い返す。同時に笑ってしまいそうになって、手で口を覆った。
告死病患者の恋。しゃれにもならないほど滑稽で、ばかみたいだ。死を望んでおきながら、心のどこかで恋をも求める。手が届きそうにない遠い恋を。頭が混乱し、髪を掻きむしりたくなって、その欲求をこらえるので精一杯だ。でも、と同時に震える手で唇をなぞる。いくら描こうとしても、セルフィオの死に様が浮かんでこない。むしろ考えたくなくて思考が止まってしまう。自分の死や今、目の前にいる知り合いになったばかりのグナイオスやノーラの死はいやというほど鮮明に、思い描くことができるのに。
「む、もしかして我は余計なことをいったか?」
「い、いえ……びっくりして」
「頭ですることではないからな、恋愛というのは。気づけば好きになっているものだ。我はシプに一目惚れしたが」
グナイオスの豪快な笑い声が響き、グリュテがなにかをいいそうになった直後だった。
金属がなにかにぶつかる音が、近くの部屋から届く。それはセルフィオとシプがいた部屋からだ。扉を開けてシプが飛び出す。グリュテの方を見て手招きする。
「ああ、グナイオス、あんたもいたね。ノーラも。早く来とくれ」
なにごとかとグナイオスと共に目を合わせている間に、ノーラは早足でそちらに向かっていた。ノーラの後ろに続き慌てて二人、部屋へと駆けつける。
部屋の奥には、うつ伏せになって倒れこんだセルフィオがいた。
「セルフィオさん!」
全身から血が持って行かれた気がした。急いで駆け寄り、甲冑に手をかける。セルフィオはただ震えながら、左腕を押さえるようにして苦しげな息を繰り返すだけだ。
「突然倒れたんだよ、苦しそうでね」
「さっきまで大丈夫だったのに」
心配そうなシプの言葉に、しかし床を見るが鮮血はなく、グリュテはただセルフィオに声をかけるしかできない。それを押さえ、グリュテを引き剥がしたのはノーラだった。
「どきなさい。グナイオス、手伝って」
ノーラがしゃがみこみ、入り口近くでまごついているグナイオスを呼んだ。
「な、なにをするんですか?」
「毒かもしれない。遅延性の」
毒と聞き、グリュテははっとする。一撃は食らった、セルフィオはそういっていた。
「鎧、脱がすわよ。ほら早く、グナイオス!」
「承知した」
立ちすくむグリュテをよそに、ノーラとグナイオスが力をこめ、セルフィオをひっくり返す。ノーラとグナイオスは顔をしかめながら、胴から首元、胴と腕、それらの留め具を慣れた手つきで外していく。やめろ、と小さくうめくセルフィオの声を無視して、ノーラが兜を脱がせたとき、長い髪と顔があらわになった。
「……嘘」
グリュテはつぶやく。思った以上に精悍で、それでも整った顔立ちに驚いたのではない。
肩以上まである長い髪の色は、青と白色を混ぜて濁らせたような、白藍色だった。
殊魂は青、そういっていたはずなのに。
グリュテはなかば呆然と、シプに怒鳴られるまでセルフィオの素顔をじっと眺めていた。