2-11.脆い騎士
茶色の浜辺を、グリュテは誰かに手を引かれ、大股で歩いていた。歩きは早く、靴の中にたくさんの砂が入る感触までもが現実味を帯びていた。辺りは夜なのか、やけに暗い。さざなみの音と潮風の匂いまでした。
前を見てみる。誰かがいた。年の頃は今のグリュテと同じか、少し上だろうか。背丈からして男性のように感じた。グリュテを引っ張る腕の力も強い。膨らみのある股下とぴったりと肌に張りつき、筋肉を見せる中衣はどこかで見たことがあるような気がした。誰かは軍靴にも似た膝までの靴をはいており、砂を蹴り上げる勢いで先へ、先へと進んでいる。
グリュテが後ろを向くと、そこには炎と思しきものが立ち上がり、茶色の煙が遠くから天に昇っていた。
そして、そこだけ色がある。天に昇る煙に紛れ、赤や青、黄色、緑といった光が粒子になって螺旋を描いている。殊魂の色、そう直感で理解する。茶色の中、浮かび上がる死の色は美しさを増し、グリュテの気をこれでもかといわんばかりに惹きつける。知らない誰かの顔が次々と浮かび、中には三つ編みの老婆の姿もあった。
誰かがそれでも手を引っ張って止まないものだから、グリュテは盛大に転んだ。口の中に砂が入る。じゃりじゃりとした感触も、苦い味もする。誰かは一度手を放し、グリュテを起こそうと手をかけてくる。
上体を起こしたグリュテは、あそこにいきたい、といった。あそこに、みんないる。
差し伸べられた手が震えた。怯えと警戒がない交ぜになった複雑な感情を、グリュテは読み取る。遺志残し、と誰かがつぶやいた気がした。声は聞こえない。顔も見えない。そこだけ影に塗りつぶされたように。
誰かがグリュテを無理やり立ち上がらせ、それでもグリュテは背後を振り返る。
宙に浮かんで、かすんでいく老婆がこちらを見ていた。優しい声が、そこだけはっきりと聞こえた。
――いきなさい。
○ ○ ○
そこで目が覚め、グリュテははっと起き上がる。ぽろりと額から、乾いた手ぬぐいが落ちる。すぐ側で人の気配がして素早く横を見ると、水桶を側に置いたセルフィオが石の机の上に突っ伏していた。少し耳をそばだてると、規則正しい寝息が聞こえてくる。
グリュテはうたた寝どころか、大分寝ていたらしい。窓の外にはもう月が浮かんでいる。
セルフィオはきっと、グリュテが熱を出したと思ったのだろう。実際少し、体が熱いけれど、だるさは感じない。指には包帯まで巻かれている。途中まで自分を見てくれていたことに気づき、グリュテは恥ずかしい思いで胸が痛くなった。
こんなによくしてくれているのに、それ以上なにを望むのだろう。殊魂術を使っていても暑い群島国を、重いはずの甲冑を着て旅をするだけで、セルフィオの体力は奪われているに等しい。それだけでなく、野営のときも彼は睡眠を削り、自分を寝かせてくれていた。いろいろと動いてくれているにもかかわらず、とグリュテは手ぬぐいを握りしめる。
自分のことしか考えてない。全部セルフィオに頼って、八つ当たりなようなことまでしたのに、それでもセルフィオは優しい。この優しさだけでいい、とグリュテは静かに起き上がり、セルフィオの背中を見つめた。短刀はいつの間にか片づけられており、手元にない。しばらくこのまま寝せておこうと、部屋を出ようとしたときだ。
「どこに行くんだい」
背後からセルフィオの、少しくぐもった声がしてグリュテは肩を跳ね上げた。
「お、起きちゃいましたか?」
「うん。足音で気づいた」
グリュテはこわごわと、振り返る。上体を起こしたセルフィオの放つ雰囲気に険はない。いつもの穏やかなものに戻っていて、それだけが嬉しくて、でもやるせない気持ちでグリュテは頭を下げた。
「ごめんなさい。ひどいこと、いってしまって」
「いや……俺も少し、いいすぎた。すまない」
「セルフィオさんが謝らないで下さい。あれは、その、本当のことですけど、本当じゃないんです」
なにをいっているのかさっぱりだったけれど、グリュテの誠意は伝わったようで、セルフィオはうなずいて立ち上がる。
「きっと俺たちには、会話が足りてなかったね」
「……はい」
「じゃあ、無駄話をしよう。任務のことばかりじゃあ、窮屈だ」
はい、ともう一度、グリュテは何度も首を縦に振った。それから二人で部屋を出、一階の酒場に行った。夜に漁業をしているためか、人の数はまばらだった。それでも旅人に人気の場所ということもあり、旅行者と思われる人間たちが、楽しげに酒を酌み交わしている。
奥まったところに二人用の机があるから、そこに座る。琴弾きが来ると思しき場所に誰もが集中しているためか、奥の場所はグリュテたちだけだった。酒をそれぞれ頼み、料理を注文する。魚介類がおすすめだというので適当に。石を削り出して作られた椅子はひんやりとしており、気持ちがよかった。
セルフィオは珍しく口数が多かった。天護国のことを含め、旅をしてきた場所の特徴どころか、来た料理の一つを指して、この貝は苦手だ、そんな個人的なことまで。グリュテも負けじといろいろ話した。薬草や香草にはちょっと詳しいとか、学舎で遺志残しの勉強をしていたときの様子、師や兄弟子のこと。琴弾きがいつの間にか来訪し、海をたたえる歌を響かせ、喝采を浴びていたことにも気づかず、二人はたくさんのことを話した。
そうすると、今まで知らなかった一面が見えてくる。セルフィオはあまり、高級すぎる食べ物が苦手だということ。偏食ではなく、様々なものを食べ飲みするが、好物というものはあまりないこと。旅の途中、気軽に<妖種>へ近づいて大群で襲われそうになったという逸話を聞いて、ちょっと抜けたところもあるんだなと、貝の汁焼きを食べながらグリュテは笑った。
「熱のほうはどうだい? 体は重かったりしないかな」
「はい、大丈夫です。少し調べ物をしていて、もしかしたら頭が疲れちゃったのかもしれません」
「なにを調べていたんだい? 祈祷所に行っていたようだけれど」
「えっと、その、実は。最近変な夢を見るんですよ」
「どんな夢?」
「おばあさんが出てくる夢で。知らない人もたくさんいて……どこかの集落の夢です。それが気になったんですよね。変に色あせてるし」
「そう」
急に会話が途切れ、グリュテはきょとんとした。セルフィオは苦手だといった貝を食刺でつつきながら、なにかを考えるように、それから意を決したようにその貝を口にした。
苦い、とつぶやいて葡萄酒で無理やり流しこむものだから、グリュテはつい吹き出す。
「子供みたいです、セルフィオさん。兄弟子さんだったら無言で食べてますよ」
「君はその、キリルという人の話が多いね。年上なんだっけ?」
「はい、五歳上で、だから二十一歳かな。セルフィオさんは? 今おいくつなんですか?」
「今年で二十七」
十一歳も年上であることに驚き、辛い汁をすくっていた匙を落としそうになる。でも、いわれてみれば確かに落ち着きも穏やかさも、どちらかといえば師に近いものを持っている、とグリュテは一人納得した。
「あの、どうしてセルフィオさんは、そんな色の甲冑を着ているんですか?」
寝るとき大変そう、とつけ加え、前から気になっていたことを勇気を出して聞いてみた。
魚の塩焼きを口にしながら、セルフィオは笑う。
「『精死神フリュー』を信仰しているから、という理由ではないね」
「じゃあ、お悔やみですか?」
「それもあるかな」
机の端を指で叩き、窓の外を見つめるセルフィオの瞳は、どこか遠い目をしていた。
「仲間が死んだ。『詞亡王』によって『詞亡くし者』にされたんだ」
突然の告白に、グリュテの胸は大きく脈打つ。それでもまるで、吐き出したい思いに駆られるような口調でセルフィオは、グリュテの内心を無視して話を続ける。
「何人も、組んでる相手がね。そういうことが重なった。そのたび俺は逃げた。戦って死んだ仲間もいる。なのに、俺はこうして生きている」
自嘲するように、セルフィオは見えている唇を歪めた。
「騎士失格、呪われた身、いわれて当然の言葉だ。俺は騎士に向いていない」
「そんな」
「事実そうさ。傭兵で構わないとも思ったけれど、死んだ仲間がそうさせてくれない」
グリュテを見つめる瞳は優しいが、グリュテではなく別の誰かを重ねているようで心が重い。
「俺は死んだ分の仲間たちのために、騎士を続けている」
だから、と申し訳なさそうな瞳でグリュテを見直し、セルフィオは少し背中を丸めた。
「死ぬのも殺すのも嫌いなんだよ、本当は。それこそ逃げなのかもしれないけれど」
グリュテには答えるすべがない。葡萄酒が入った筒盃を傾けながら、セルフィオは誰ともなく続ける。
「それでも俺は、生きていなくてはいけないんだ」
「生きる……」
「そう。グリュテ、俺は君にも生きていてほしい。それこそ告死病だとしても」
生きていてほしい。いわれた瞬間、体が氷柱に突き刺されたように総毛立った。
胸が激痛を感じ、顔が歪んだ。胃が引きつり、変な味の液体が喉元からせり上がり、足下が震える。突然の猛烈な吐き気と抑えられない震え、そして体の熱が、グリュテを机から立たせた。
「グリュテ?」
「すみません、吐き気……」
途中までいうのが限界だった。小走りで駆け出し、琴弾きの歌を背中に酒場から出る。人の視線を背に、セルフィオのかけ声も無視して『夜光亭』のすぐ側にあった広い裏路地、暗い海が漂う場所に出、海へ向かって思い切り食べていたものを吐き出した。
苦しい、そんな気持ちを無視して、体は震えたまま体中のもの全てを出そうと躍起になっている。気持ちが悪かった。生きる、その言葉を聞いただけで胸が押しつぶされそうな激痛に襲われる。食べ物を出し切っても気持ち悪さがぬぐえない。粘っこいなにかがまとわりつき、体の中へ入りこむ奇妙な感覚。
グリュテ、と自分を見つけたセルフィオが駆け寄ってくる。しゃがみこんだグリュテの背をさするセルフィオの手つきは優しく、伝わってくる冷たい手甲の感覚は、本来ならば心地よいはずのものなのに、なぜかいまわしいとしか感じなかった。
「体の具合が悪いんじゃあないのかい? 少し、熱っぽかったから」
「いえ、風邪の前兆でもないです。胃は丈夫ですし、わたし」
差し出された手ぬぐいを受け取り、口を拭いて礼をいう。どうしてだろう、先程まで近くに感じられたセルフィオが遠く感じる。薄い瘴気みたいなもやがかった空気が、セルフィオとの間にあるような気がした。
生きる、生き残る、生を感じさせる単語を放たれ、思い返すたびに胸が締めつけられた。浮かんだ吐瀉物を見つめ、その中に、消化されきっていない小魚の形があってグリュテの胃はひりつくように痛む。そこで、ふと気づいた。
「これって、もしかしたら」
告死病の進行。その可能性に思い当たり、グリュテは思わず手で口を覆う。セルフィオもそう感じたのだろう、空色の瞳を曇らせながらこちらを見つめている。
「一度、スマトに連絡を入れた方がいいかもしれない」
「スマトに、ですか?」
ようやく収まった動悸に安堵し、でもしゃがみこんだまま、セルフィオの提案に首を傾げた。
「君の師か兄弟子に連絡を取ろう。文献がない病とはいえ、少しばかりは進行の状況がどういうものなのか、その答えがあるかもしれない」
「そう、ですね」
グリュテは考えこむ。軟禁、もしくは監禁されていたものの病状の進行は早い、そう師はいっていた。とするなら、もしかすれば以前、告死病にかかった遺志残しをそのような目に遭わせたことがあるのだろう。手記や日記が秘匿されている可能性も少なくない。
「でもわたし、赤の象徴媒体を持っていないんです。声を届かせるためにはこの距離なら、一個はないと……」
「ここには残念だけど、媒体は売っていない。売っているとすれば、もう一つの港町だ」
「その、お金もあんまりないですし」
無理をしなくていい、そういう意味をこめて笑ったのだけれど、セルフィオは珍しく激しく首を横に振った。駄々をこねる子供のように。
「だめだ。君がここにいるうちは、俺が君を守りたい。どんなことをしようと」
それは今までの仲間のために? そう聞こうとしてグリュテは止め、代わりにほほ笑んだ。隔たれた空気の中、それでも強く伝わる暖かいものを感じて。
「本当に優しいんですね。セルフィオさんは」
「……自己満足だよ」
夜の海のさざなみに、かき消されそうなほどの小さな声で、セルフィオはつぶやいた。
少しうつむき加減の騎士を見て、グリュテは思う。死に損ないの騎士は、今まで会った誰よりも優しく、その分脆いのかもしれないと。