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2-10.痛みは甘美


 グリュテは近くでかけっこをしていた子供に図書館と、祈祷所の場所を聞いた。ここにはどうやら『陸海神(りくかいしん)ハーレ』と、グリュテが考えていたように『瞑夜神(めいやしん)ニックス』の祈祷所があるようだ。後者は図書館と同じ地区にあるらしく、ちょうどいい、とグリュテは安堵した。神殿がなくとも祈祷所にだって本はある。


 子供たちに食べようと思っていた葡萄を二つあげ、入り組んだ、それでもいわれたとおり裏道を使わないよう、慎重に影場を踏んで進む。住人たちの憩いの場所となっているのか、祈祷所近くには公園があり、人も数多くいた。


「お祈りしていこう」


 そうささやいたのは、影に潜む猫に聞かせるためだ。一体いつの間に、自分は人を欺く嘘をつくことに慣れたのか、グリュテにはわからない。それが成長と呼べるものなのかも。


 『瞑夜神(めいやしん)ニックス』の祈祷所には滞在するため出張してきた神官がいて、中も明るい。月の光を受けるためなのだろう、天上は硝子張りだった。今は日差しが降り注いでいる。


 神官に図書室の場所を聞き、寄付という名目でいくばくか多目に支払いをする。気をよくした神官は、角灯や書くものを貸し出してくれた。真っ白い円柱が並ぶ奥にある部屋に入ると、壁に取りつけられた蝋燭とグリュテの持つ角灯しか光源がなくなった。


 白のこと、白のこと。そう思いながら、垂直に並ぶ本棚をくまなく探していく。


 白の術が使えるようになれば、きっとなにかの役に立つだろうし、夢を見ることだって見ることができるかもしれない。あの茶色の夢は見ようと願っても見ることができず、ずっとやきもきしていたのだ。


「これ、かな」


 しばらく探し続けていると、目当ての本が見つかった。『瞑夜神(めいやしん)ニックス』に関する神話と伝承が書かれた、分厚い書物だ。術系統の本は残念ながらなかったけれど、殊魂術(アシェマト)は基本、神話や伝承を元に編み出されたと考えられている。元になるものがわかれば、第三等殊魂術(トリ・アシェマト)程度の術を使えるようになるかもしれない。祈祷所の本は貸し出しが許されていないため、近くにあった石造りの机と背のない椅子に腰かけ、早速本を開いた。


 本を読む癖がないグリュテには少し難しかったけれど、何度も頁を行き来し、必要だと思う項目を書き連ねていく。石造りでできた部屋は少しひんやりとしており、入りこむ風の涼しさもあってか、すらすらと作業を進めることができた。


 夢中になって書き綴り、頭の中へ叩きこむ。暗記は得意だった。理論は苦手だが。これなら術を発動させることもできるかも、そう手応えを感じて本を閉じようとしたとき、本の項目に気になる一文があって一瞬、手を止めた。


 ――『詞亡王(しむおう)』の前には白もまた、無力なり。


 しむおう、とつぶやいてその声が意外と大きく反響したものだから、グリュテは慌てて口を押さえた。周りを見、誰もいないことを確認してその一文を指でなぞった。


 セルフィオは『詞亡王(しむおう)』に会ったことがあるという。その話を未だ聞いていない。グリュテは彼に興味がある心を持っていることに気づき、なぜか胸も高鳴る理由を探した。見つからなかった。わからないままでいるというのは、とため息をつく。意外と気持ちが悪いものだ。気分も落ちこんでくる。


 グリュテは立ち上がって本を戻し、書き連ねた紙の束を懐のもう一つの隠しに入れ、図書室から出た。神官に借りたペンや角灯を戻す。そうして祈祷所を出たときにはもう、頂点近くにあった陽が傾き、すでに山の近くまでさしかかっていた。思っていた以上に熱中していたらしい。いけない、と急いで元来た道を戻る。図書館に寄ろうと思ったけれど、その理由もないのでやめた。


 宿の前まで行くと、セルフィオが立ってこちらを見ているのが見えた。急いで駆け寄る。


「すみません、遅くなりました」


 だが、彼はなにもいわない。無言でグリュテを見下ろしている。兜の奥にある空色の瞳がどこか冷たく感じ、一歩、軽く後退した。


「嘘をついて、図書館に行かなかった理由は?」

「み、見てたんですか」

「君を守ることが俺の義務だ」

「……わたしには、自由もないと?」

「勝手に死なれては目覚めが悪いからね」


 突き放すような物言いはグリュテの胸を抉り、しかし同時に、珍しく、グリュテにしては本当に稀なのだけれど、怒りをも覚えさせた。


「そっちこそ見てるだけじゃないですか。わたしがなにを考えてるかもわからない、知ろうともしないくせに」


 口から出た言葉は、グリュテ自身を驚かせた。心の中にあるもやが棘となり、自分自身でなくセルフィオを傷つける、無作為にうごめく茨のような声だった。だが、セルフィオはあくまで冷たく、冷静な瞳を崩そうとしない。


「君の意図を知る必要はないよ。俺は俺の義務を果たすだけだから」

「そうですね」


 グリュテはなぜかほほ笑んだ。あきらめたかのような笑顔が浮かぶ。


「セルフィオさんは、義務で、わたしを守ってくれているだけですもんね」


 まだなにかいおうとしていたセルフィオを置いて、グリュテは真っ平らな、なにもない暗い海原みたいな心情でそのまま宿に入った。人の多い宿場の中、給士人たちがせわしなく食事を運んでいて、魚や肉、きのこの焼かれた香ばしい匂いが充満している。酒の香りもするが、まだ酒精が空気をよどませる気配はない。


 グリュテは黙って髪をほどくと、食事をとることなく二階へ上がった。セルフィオが追ってくる様子はない。泊まる予定の横にある、手荷物が置かれている部屋に入る。一つだけぽつんとある、それでも大きい寝台に腰かけ、大きなため息をついた。


 命をかけてくれている相手に、ひどいことをいった気がする。でもそれは、グリュテの偽らざる本音だ。騎士の誓いというものは、と寝台に転がり、窓の外にある夕日を眺めた。告死病(こくしびょう)の相手だとしても、命をかけるに値するものなのか。


 自分が死んだあとは彼が任務を引き継ぐ。セルフィオ一人なら、もっといろんな対処ができるかもしれないし、『罪とる手』を安全に運ぶことができるだろう。今のグリュテは邪魔ものにしかなっていない。


 裏口の階段が見える窓の外を確認し、誰もいないことを確かめてから、グリュテは隠しの術を使って地の奥にしまった箱を取り出す。鍵のついた箱、中身が見えないもの。ひんやりとした箱は、まるでセルフィオの心のようだ。彼はきっと、グリュテに心を開いてはいない。


 箱を両手で持ち、膝に置きながら表面を撫でる。確固とした死がそこにはある。美しいもの、グリュテの気を惹いて止まないもの。箱を片づけ、もう一度横になる。懐から短刀が転がって、鞘のついたそれをそっと、抜き放つ。光沢のある刃に、自分の薄桃色をした瞳が映る。死体にも似た目をしているな、とぼんやり思った。刃の先を、指先で撫でた。


 皮膚が切れ、血が玉のような雫となる。痛みは感じない、むしろ脳天を痺れさせるほど甘美な感覚がグリュテの体を駆け巡る。治った手のひらの傷をうっとりと見て、そこをこじ開けたくなる衝動に駆られた。衝動が熱となり、グリュテの体内をほてらせる。


 指先でこれだ。手なら、腕なら、胸なら、どんなことになるのだろう。舐める血の甘さは蜂蜜酒よりもグリュテの口に合う。深く切った人差し指と中指の腹を舌先で舐め上げながら、グリュテが腕に刃を当てたそのとき、胸から光が漏れていることに気づいた。


 真珠がまた、勝手に輝いている。濃い光はたちまち、グリュテを眠りへといざなった。

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