2-7.お悔やみ
予定していた次の町、テアーヒには寄らず、馬を潰す勢いで森の中を突っ切った。その勢いは乗馬にこなれたグリュテの飲みこみもあってか早く、半日で森の出口近辺までおとずれた直後だったが、途中で馬が潰れた。いや、潰されたといっていいだろう。
どこからか放たれた風の刃に、セルフィオが乗っていた水妖馬の足が切り裂かれ、青緑の血飛沫を舞わせる。歌声のような悲鳴に、セルフィオは馬を捨てて飛び退く。グリュテも慌てて降りた瞬間、彼女の水妖馬も額のこぶを風の刃に突き刺され、弱点を突かれた馬はいななきと共に光の粒になる。
死を示す美しい青と緑の光、苦痛を感じ見てグリュテは恍惚となるも、すぐにセルフィオに突き飛ばされた。立っていた地面に突き刺さるのは二つの短刀。直撃したら、と土ですり切れた片手を見て思う。確実に死んでいた。
「宴と供物在りて成るは闇・『暗被』」
セルフィオの省略宣言と共に第二等殊魂術が発動すると夕日が、木々が、地面が消えた。周囲が闇に包まれ、それは瞼を閉じたときよりも暗い。グリュテの周りだけがそうなっているのか、剣同士が激しくぶつかり合う音だけが届く。ついで、なにかが倒れる音。グリュテは暗闇の中、座りこみながらそれでもはっきりと目にする。緑の殊魂が坐に還る翡翠のような粒を。
次第に感覚は鋭敏なものと化し、腹から血を流し、絶命した男の姿までもが浮かぶ。紺鼠色の軽装をしている男の無念が伝わってくる。剣を打ち合う音は止まず、でもそれはグリュテの興味を誘わない。脳裏に直接入りこむ死が、快感に近い甘い痺れを呼び起こす。
「死に損ないの騎士!」
セルフィオを罵るかの勢いで叫ばれた声音は男のもので、聞き覚えがない。セルフィオはなにもいわず剣を繰り出しているのだろう。やり合ううちにセルフィオの集中が途切れたのか、周りが一気に明るくなる。闇が消える。夕暮れの森が視界に広がり、近くにあった大樹のもと、凄まじい速さで交戦しているセルフィオと男の二人が見えた。
深く頭巾をかぶった男の、いまいましげな赤い瞳がこちらを見た。目が合う。
(愚か者が!)
途端、こめかみが疼く。頭に入ってくるのは男の声と思しき声、そして激しい憎悪。怨念よりも凄まじい混沌とした感情に、グリュテの胸が痛む。胸を掻きむしるグリュテはそのとき、首からかけてある真珠がほのかに、ごく小さな光を発していることに気づいた。
隙を突いたセルフィオが剣をすくうように逆手で持ち、剣の柄で男の脇腹を強く叩いた。呼気を吐いた男はそれでも倒れない。踏みとどまり、腰をひねってセルフィオの一撃を正面から受け止める。
曲刀を弾き飛ばされた男は軽く舌打ちをし、信じられない高さまで跳ぶ。地離れの術、グリュテはうずくまりながらそれだけを理解する。相手は、赤と黄色の殊魂を持っている。
大樹の枝に登った男はそのまま、後ろを向かず飛び去り、後退していく。セルフィオは追求しない。周囲を警戒するように剣を構えたまましばらく、そのまま動かなかった。
梢が揺れる音も次第に遠のいていき、辺りにグリュテが感じられるくらいの気配はない。死の淵にいる水妖馬の悲鳴がか細く、森の中にこだましていた。
「行ったか」
風が吹き、葉が落ちてからようやくセルフィオは脱力するように呼気を吐いた。
「大丈夫かい、グリュテ」
グリュテは答えない。手から伝わる甘い痺れが快感を起こすものだから、左手をじっと見た。突き飛ばされたときにできた切り傷から、血が滴っている。赤い玉を作るそれを、舐めてみる。味覚がおかしくなりそうなくらい甘く感じた。頭痛すら止ませるほどに。
「グリュテ」
「……あ、はい、大丈夫です」
少し厳しいセルフィオの言葉で我に返り、顔を上げる。視界の片隅に入る真珠はもう光を発してはおらず、グリュテはようやく立ち上がりながら、周りを見渡してみた。足の腱を切られた馬が、地面に転がりうめいている。
「馬をやられてしまったね。向こうも考えることは同じか」
哀しそうに首を振ったセルフィオは、でも穏やかな声音のまま持っていた剣で、水妖馬の額にあるこぶを突き刺した。止める間もない。水妖馬は歌声のようなか細い、最期の声を発して青緑の光の粒になっていく。悲嘆を感じ取ったグリュテは、その光と声に、ほう、と吐息を漏らす。美しい。夕暮れの薄紫の空へ、青と緑の光が立ち上っていく幻想的な光景に、グリュテは手荷物を持つことも忘れ、しばし見とれた。
「あのまま生かしておくのはかわいそうだからね」
残酷なことをした、そうつけ加えるセルフィオの言葉に、グリュテは首を傾げ、頬に指を添える。
「自分で手を下すセルフィオさんは、優しい人だと思いますけど」
「殺すのも死ぬのを見るのも」
セルフィオは鞘へ剣を戻しながらつぶやいた。
「俺は好きじゃない」
かたくなな言葉の底になにかあるような気がして、グリュテはセルフィオを見つめた。でも、なにも読み取れはしない。二人の間に確固とした見えない壁があるようで、その奥に踏みこめないグリュテはなぜか、寂しいと感じた。
○ ○ ○
その日は、森の出口から出てすぐの宿場に泊まることになった。木でできた二階建ての宿場にはグリュテたちの他にも客がいたけれど、旅商人と思しき女性のおもては暗く、宿場の主人の声にも張りがない。なにかあったのかわからずまごつくグリュテをよそに、セルフィオは主人と話しはじめている。グリュテでもわかるほど重苦しい静寂の中、かすかに身じろぎすると左手につけられた鈴が響いた。
それを聞き取ってか、机の上で祈るように手を組んでいた旅商人が真っ青な顔を上げる。
「間違っていたらごめんなさいね。もしかして、遺志残しの方?」
「わたしのことですか?」
旅商人に急に話しかけられ、でも忌避を思わせる声音ではなかったものだから、グリュテは迷った末に小さくうなずいた。女性は隈ができた茶色の目を潤ませて立ち上がり、グリュテの外套の裾を小さく握ってくる。
「護衛をしてくれていた剣士の人がね、<妖種>に殺されかけたの。もう、だめなんだって。喉もやられてしまったから、声が出せないの」
「えっと……その、お辛いですね」
「彼の言葉を、組合に伝えておきたいの。長く連れ添ったから……あなたたち遺志残しって、最期の声を聞けたりするんでしょ? 聞き取ってくれない?」
女性の嘆願は悲痛さを帯びていて、無碍にできない迫力があった。グリュテはちょっと困ってセルフィオの方を見た。セルフィオはうなずき、側にいた宿場の主人が痛ましそうに顔を伏せる。重い沈黙は、きっと死に瀕した客がいるからだとグリュテでも理解できた。
「わかりました。最期の想い、読み取りますね」
グリュテは腹をくくった。今まで単独で仕事をしたことはないけれど、順序や祝詞は頭にしっかり入っている。女性が泣き出しそうな顔をして、でも少し固く結ばれていた唇をほころばせる。
こっち、と女性が招くように二階に上がり、グリュテはその後に続きながら、手荷物から羽根ペンと紙束を取り出す。軋みをあげる広い通路を歩きながら、香炉をつけていないことに気づき、女性に香炉と薬草があるかとたずねてみる。一番奥の部屋で止まった女性は中にある、とだけつぶやいて扉を押し開いた。
寝台に寝そべり、小さな呼気を漏らす剣士の体はそこら中が包帯で巻かれていた。横にある机の上には、気つけの薬草が焚かれている香炉が煙を出していたけれど、傍目にもわかる。もう、なんの意味も成していないことを。剣士の緑の瞳は、すでにここではない、どこか遠くを見つめていて、死の陰りが深く暗く顔に宿っている。
剣士の虚ろな瞳が、ほんの少しだけ動く。グリュテの横にいる女性の方に。
「彼のお名前は?」
「ジュッカ」
震える手で女性が剣士の手を握る。濃い、死の陰りと臭いはグリュテの頭を痺れさせようとしてくるけれど、仕事なのだといい聞かせそれを追いやる。グリュテは左手の鈴を大きく鳴らすため、左腕を持ち上げて空気をかき回すように宙で円を描く。本来なら甘やかな香を焚くのが筋だが、読み取ることに支障はない。
部屋にまんべんなく、鈴の響きがこだましたと同時に、グリュテは腹の底からできるだけしっかりとした声を出す。
「剣士ジュッカの名はここに。されど魂は神の御許に。鈴の音はしるべ。十二神の加護を受け、冥府の川へゆく旅路の道しるべ。迷うことなかれ。ねぎらいは全て神の座の元に」
剣士のまぶたがゆっくりと、鈴の音と祝詞の余韻に浸るかのように閉じられていく。鈴の音に消されていた呼気が止まると同時に、剣士の体から立ち上る淡い緑の輝きが、グリュテの瞳に入りこむ。
グリュテは茶色の墨壺を出し、羽根ペンにそれをつけた。突っ伏して鳴き声を上げる女性の横で、グリュテは剣士の体から浮き上がる緑の光に集中した。
穏やかな死だった。女性を守れたことの喜び、安堵、幸せになってほしいという願い、それらが言葉と化して頭の中に入ってくる。戦場の死者とは違い、安らぎのある死にグリュテの体は、甘美な優しさで震えそうになる。立ち上る光の粒子に見とれながら、グリュテは言葉を必死で紙に書いていく。確実に想いを伝えるために。最後に名前を書き連ねてペンを止めたとき、すでに光は完全に溶け消えていた。
嗚咽を漏らす女性の横、グリュテは光のまたたきに惚けながらも、『精死神フリュー』の祝詞を終わりに添え、もう一度鈴を鳴らした。羽根ペンと墨壺は机の上に置いておく。
「終わりました」
漏れ出た吐息は、疲れからくるものではない。むしろ頭はさえざえとしている。
「とても穏やかに、苦しみなく。十二神、どの加護も受けて滞りなく、剣士ジュッカの魂は坐に還られました」
本当にきれいな死に方でした、そう思わず口にしそうになって、慌てて空気と共に飲みこむ。紙の束に書いた最期の思いを渡そうと、女性の震える肩に手をかけたけれど、その手を振り払われる。
残されたものを慰めるための遺志残し、でも、同時に死者の忌憚ない想いを受け止める遺志残しとしては、他にやれることは少ない。お悔やみを、とつぶやいて、グリュテは紙を置き、ペンや墨壺を手にして部屋から出た。