2-5.食事と世辞
宵の空に丸い月が浮かび、くっきりとした白い輪郭が浮かぶ。窓から覗くほの白い月に見とれたいところだが、グリュテの集中は慣れない酒場で落ち着かず、食事にもほとんど手をつけていない状態だった。
「魚は苦手なのかい?」
群島国主流の蜂蜜酒ではなく、葡萄酒を入れた筒盃を傾けながら、眼前のセルフィオがたずねてくる。気遣いにあふれた声に、グリュテはちょっと笑って木でできた食刺をようやく取った。
「こういうところに慣れてないから、少し緊張してるだけです。魚、好きですよ」
賑わいの盛りも盛り、帰ってきた海の男たちがそこら中にひしめいていて、彼らが漂わせる酒精だけで酔ってしまいそうになりながらも、円形の机に置かれた料理の数々へじっと目をこらした。葉っぱでくるまれたサバの香草焼き、魚のあらで出汁をとり、そこに多数の香辛料を入れた辛みあるあら汁。その他にもセルフィオが頼んだ羊肉の薄焼きや山羊乳を発酵させたたれと和えた果物の盛り合わせなど、種類も豊富で量も多い。
「少しでも多く食べておかないと、体調に響くからね。食べられるときに食べておいた方がいいよ」
「はい。あ、このサバ、美味しい」
口に含むとほろほろと崩れていくサバの絶妙な味加減に、グリュテは小さい口を一所懸命動かしていろんな料理を味わった。どれも学舎では滅多に出ない献立で、果物の盛り合わせの酸っぱさに顔をしかめてしまう。食匙であら汁をすくい、辛さでごまかす。辛いのは得意だが、酸っぱすぎるものはどうも苦手だ。
セルフィオもようやく酒を堪能し終えたのか、肉を中心にゆっくり食事を取っていく。兜の口のところが開けられていて、見えた顎には髭がない。意外と若いのかもしれない、と口調や肌の様子から想像するけれど、踏みこんだ話をするには勇気が足りなかった。
酔っ払った男の一人がなにやら、歌詞と音程が怪しげな歌を歌い始めた。豪快に笑ってはやし立てる男たち、そして店のものも大きい酒場の一階をせわしなく動いていて、誰もグリュテたちに気を留めようとしない。
「凄い人ですね。ここ、いつもこうなんでしょうか」
「旅人もよく来る酒場はみんな、こんな感じだよ。琴弾きがいないのが不思議なくらいだ」
「琴弾きさんとはあまり会わないんですよね。たまに、大道芸人の一座を広場で見るくらいですし」
「これからいやでも会えるさ。琴弾きの詩は場を賑やかすに欠かせない。村人たちの楽しみの一つだからね」
なるほど、とセルフィオの言葉にうなずきながら、あら汁に入っていた野菜を噛みしめる。少し苦みもあるけれど、口の中がさっぱりする青臭さで癖になる。
「セルフィオさんは、ずっと旅をしてきたんですか?」
「そうだね。天護国に神権国、連邦国……行ってないのは統合国だけかな」
「群島国の感想はどうですか? いい国だと、わたしは思うんですけど」
「うん、陽気な人が多い。気楽にたずねられるいい国だよ」
「天護国と比べたら?」
蜂蜜酒を舐めるように飲むグリュテの言葉に、セルフィオは少し迷ったようだった。近くにあった巾で口を拭き、無造作に横に置いて少し考えるように視線をそらす。
「俺は、こっちの国の方が好きかもしれない」
世辞なのかもしれない声はどこか含みを帯びており、けれど言外にあるなにかをグリュテは読み取ることができなかった。ここまで感情を読み取ることのできない相手は、珍しい。もしかしたら、無意識のうちに遠慮しているだけなのかもしれないが。
「海も川も豊富だし、火山もある。人も気っぷがよくて明るい。いい国だと思うよ」
つけ加えたようにいわれて、グリュテは返答に困ったけれど、曖昧にほほ笑んでみせた。優しい人だな、と素直に思う。
ほんの少しの間、周囲から切り離されたかのようにグリュテたちが座る机は静寂に包まれた。沈黙が苦にならない相手というのは、グリュテにとって楽だった。しばらく食事に専念する。羊肉をもらい、食べてみる。柔らかくて粒胡椒も香ばしく、肉特有の臭みがない。サバもちゃんと自分の分を食べ終え、心の中で手を組み、『精死神フリュー』に祈りを捧げた。祝詞を口に出すのはやめておく。遺志残しだと気づかれたら厄介だ。とはいえ、騒ぎは未だ止むことなく続いており、ほとんど誰もがグリュテたちに気を払っていないけれど。
セルティオの食べっぷりは、見ていて気持ちがよくなるものだった。早すぎず遅すぎず、かといって乱雑でもなく、馬鹿丁寧でもない。ほどよく、しかし次々と料理を平らげていく様を見つめている自分に気づき、慌ててごまかすように筒盃を取り、顔をうつむかせた。
食べ終えたセルフィオはもう一度巾で口を拭うと、すぐに顔を隠すように開いた兜の顎部分を上げた。
「今日はここに泊まる。二階に部屋を取ってあるから、そこで持ち物の整理をしよう」
「はい、わかりました」
「安部屋だから、一緒に寝ることになるけれど。藁や毛布は君が使ってくれていい」
くぐもって聞こえる声に、グリュテはなぜか一瞬慌て、それからすぐに気を取り直す。雑魚寝など、遺志残しでは当然やってきたことだ。どうして取り乱したのかグリュテ自身も不思議に思うが、素直にうなずいておく。
食事を終えたグリュテは、セルフィオと共に洗面台などを主人から借り、簡単な身支度を済ませて二階の部屋へと入った。角灯ではなく蝋燭が数本、壁にあつらえられただけの石造りの壁からは、夜気が隙間風となって小さな音を立てている。奥の角には昼間干されたと思しき藁と毛布が、申し訳ない程度に窓際へ添えられていた。
買っておいた食料品や薬軟膏、グリュテが持っていた手荷物、それらをセルフィオと一緒に見て誰がなにを持つかを決めた。やはりセルフィオは青の殊魂を、最低中以上の力を持っているらしく、荷物の大半は彼に預けることになってしまったが。石は土と同じ性質で、ここならグリュテも隠しの術が使える。整頓していた際、キリルから渡された箱に手を触れてしまって思わず指先が震えた。
『罪とる手』。グリュテが思い、魅了される死とはまったく別の死をもたらす道具を持っているのは気が進まないが、これがなければ一大事だ。さすがにセルフィオへ預けるわけもいかず、最大で伸ばせる手の届くところに、他の荷物とは分けて置いた。
セルフィオもグリュテの向かいで己の影をまさぐり、色々と整頓しているようだ。己の影にしまえる青の殊魂を羨ましく思うグリュテに気づいたのか、セルフィオが顔を上げる。
「君は、見たところ黄色と赤を持っているね? 野営のときは君の出番が多そうだ」
「あ、はい、そうです。任せて下さい、いつもやってましたから」
そんなに大きい術は使えないけど、と心の中でつけ加える。火をおこしたり風をなびかせたり、石を作ったり水を沸き立たせるというのは、基本、その色の殊魂があれば誰でも使える初歩中の初歩だ。グリュテも赤と黄色を持っているから、火と石を操るすべには長けている。野営準備の手際のよさは、キリルに素直に褒められたことがある程度くらいの自信はあった。
「セルフィオさんは、青を持ってますよね?」
「そう、青」
「青玉ですか?」
聞いてしまってから、思わず口を手で塞いだ。相手の殊魂を聞くというのは褒められたことではない。相対する人間の殊魂を知るというのは、全てにおいて大きな強みとなる。傭兵たちの中では、自分の殊魂が相手にわからないようにするため、髪を草で染めているものもいるくらいだ。戦いを尊ぶ騎士相手に、礼を失したといっても過言ではない。
「す、すみません、わたしったら、余計なこと聞いちゃって」
「いや、いいさ。俺が使えるのは青だけ。殊魂も青だよ」
「はい……ありがとうございます」
「互いになんの術が使えるか知っておいた方が、なにかと便利だからね」
気にした様子もなくセルフィオの言葉にグリュテは少し悩み、それから決意したように、それでもこわごわと口を開いた。
「あの、わたし、他にももう一つあって」
「白だろう? 象徴媒体を持っているんだから、それくらいはわかるよ」
「え、あの、いやな気、しませんか?」
「どうしてそう思うんだい?」
あまりに気楽な様子で逆に問われ、グリュテの目は二度、まばたきを繰り返す。白持ちだと聞いて興味も嫌気も見せなかった人間は、これがはじめてだったから。
白は貴重だ。白の殊魂を持つ人間は比較的多い、とささやかれている群島国だが、それでも絶対数が少ないことに変わりはない。約百数名の遺志残しがいる学舎でも白の殊魂を持つのはグリュテだけだったし、結構な島を見て回ったけれど、同じ白を持つ人間と会ったことはついぞない。
「心を読まれたりするとか、考えたりしませんか?」
「君は、そういうことをするのかな?」
からかうようにいわれて、勢いよく首を横に振る。幼いときは無意識に、そんなぶしつけなこともしてしまっていたけれど、師にいわれて制御できるようになってからは一度もない。それに、人の心を、考えを読んでしまうというのはあまり気持ちのいいものではなかった。遠慮ない自分への嫌悪感が伝わる瞬間、あれには慣れそうにない。
「なら俺は気にしない。逆に人前でなにかいいづらい話があるとき、頭の中でささやいてくれればそれにも答えられるだろう? 白も悪いものばかりじゃあないよ」
「よかったです、そういってもらえて」
多分に、旅の中で白の殊魂持ちに会ったことでもあるのだろう。セルフィオの声には慰めの欠片ではなく事実を述べている節があったし、その穏やかさにほっと胸を撫で下ろす。服の上から真珠をなぞるグリュテに、騎士は人差し指を立てた。
「そうだ、君にもこいつを紹介しておこうか」
神に捧げるは宴への供物、姿成せ闇。
第二等殊魂術の宣言を終えた瞬間、セルフィオの体がほんのり青く灯ったと思えば、足下の影から火に薄められた影と同じ濃さの闇を持つ一匹の猫が現れる。その瞳は藍色で、尻尾と足の先が影とくっついている。
「猫、ですか。影の術ですよね?」
「そう。こいつは君の姿を覚えた。君の影の中にも潜み、俺が術を発動させれば、いつでも君の様子を俺の目で確認できる。万が一離れたときには、この猫が君を見つけ出すだろう」
「便利ですね。でも、蛇じゃあないんですね。『天体神クリウス』は蛇をつかさどるって聞いてますけど」
「蛇は苦手なんだ」
本当かどうかわからない口調で笑うと、セルフィオはちっ、と小さく舌を鳴らす。猫が伸びていたグリュテの影に入りこむようにし、消えた。
「これで大丈夫。と、いっても俺と君が、そう離れることはないと思うけどね」
「も、沐浴のときとかも、見られちゃうんでしょうか」
「個人的な事情がある場合、先にいっておいてもらえると助かるよ。発動させずに済むからね」
「は、はい」
どうしよう、とグリュテは迷う。昼間、着慣れぬ外套を羽織っていたものだから汗をかいており、体のあちこちがべたついている。せめて本格的な出立の前に、体は清めておきたい。沐浴とまでもいかなくても、体を拭いておきたい、そう考えてしまう危機感の薄さに気づき、大分心が落ち着いていることを察した。それほどまでに、セルフィオへ背中を預けることを許している自分がいる。たった半日、行動を共にしただけなのに。
「さっそく、なにかの事情かな?」
困ったようにまごつくグリュテへ、内心を察してくれたような声音でセルフィオはいう。
「首都なら<妖種>も入ってこないから安心だけど。なにかあったかい?」
「えっと、そのぅ、体を拭きたくて」
「ああそうか。それなら水をもらってこよう。それならここでも拭けるしね」
「そこまでしてもらうわけには……ご主人さんに、わたしがもらってきます。一階にいるご主人さんにいえばいいんですよね」
「寝しなの酒を買おうと思っていたところなんだ。ついでだよ、君はここで待っていて」
「す、すみません。ありがとうございます」
気にしないで、とセルフィオが部屋から出て、物置部屋より少し大きい程度の一室に、グリュテはぽつんと一人になった。まるでどこぞの令嬢みたいに自分を扱ってくれるセルフィオの実直さに、少し気恥ずかしさを覚える。遺志残しとしてではなく、一人の女人として対応されることに、グリュテは慣れていない。
とりあえず部屋の隅に置かれた藁を二等分し、端と端に運ぶ。心持ちセルフィオの方を多くしたのは、男性の方が重さがあるからで、他意はない。寝床を作ることも遺志残しとしてやってきた通例のことだ。自分の分の藁は大分減ったけれど、寝られないほど少なくはない。大きな毛布も二枚あったから、それで藁をくるんで縛る。
そうこうしているうちにセルフィオが戻ってきて、木桶に入った水を届けてくれた。彼はしばらくの間部屋の外で待機してくれるらしいから、急いで清潔な布を手荷物から取り出し、服を脱ぎ、火の術でぬるま湯にしたものにつけて体をぬぐった。真珠も最後に拭き取り、部屋を出てすぐにいたセルフィオを呼び戻す。
部屋に入って扉を閉めたセルフィオが、いつもの寝間着姿に着替えた自分をじっと見つめるものだから、グリュテは小首を傾げた。
「あの、なにか?」
「それは寝間着だね? ここは首都だから構わないが、出立した以降はできるだけ、普通の服を寝るときも着てくれているとありがたい。なにかあったとき、すぐに対処できるように」
「あ、そうですね、いわれてみれば。わかりました、明日からはそうします」
グリュテは、セルフィオのもっともな言い分に顔を赤らめた。やはりもう少し、着替えを持ってくればよかったかもしれない、とも思うも、やはり現地で調達していった方がいい気もする。
「明日は早い、そろそろ寝よう」
「はい。お休みなさい、セルフィオさん」
「お休み、グリュテ」
うなずいて、奥に作った、自分用の寝床に丸まるようにして寝そべった。