記憶への旅 ー師弟
☆
山小屋に戻ろうと思い暗闇に行くと、そこにバルスがいた。
どうやら僕を待っていたらしい。
僕はそれに気づき、近づく。
「あれ? バルスさん? もう皆との話は済んだんですか?」
僕が戸惑いながらも、そう声をかけるとバルスは、片目を開け、
「まぁな。それに、あの連中はまだしばらくここにいるんだろう? 時間はいくらでもあらぁな」
と言った。それに僕は
「はぁ……まぁ、それもそうですが…」
と言い、頬を掻く。
そうは言いつつも僕には、なぜ今バルスがここにいるか、いまいちよくわからなかった。
するとバルスはそんな僕の様子を見て
「お前さんこそ、無事に会えたようだな。というこたぁ……もう向こうへ行くつもりだったんだろう?」
と指摘した。
なるほど。そういうことか。
それでやっと僕にも理由がわかった。彼はそんなことまで、すっかりお見通しだったらしい。
だから僕は素直に
「はい。そのつもりです」
と返事をした。それにバルスは真剣な顔をし、
「勝算はあるのか?」
と聞いてくる。
「そ、それは……」
しかし、その決意とは逆に、僕には勝算と言えるほどのものなど何もなかった。
けど、かと言ってこのまま何もせずにここにいるのも辛抱ならないのはわかりきっている……。
僕はとにかく、現実に戻り、全てをぶち壊してしまおうと思っていたのだ。
だが、考え得る限り、ショットに、引いてはアストリア王国に勝つ手段はない。
ヤン達を助けるのも一人では無理だ。一人で三人を背負えるはずもない。
そんなことは当然、理解していた。
理解しているのだ。
だから……僕はバルスに問いかけに、一転、うまく返事ができなくなってしまう。
空虚な闇に、一層静けさが重みを増したようなきがした。
すると、そんな僕の複雑な胸中を察したのか、バルスは逞しい腕を組む。そうしてじっと僕を見据えると、やがて真剣な表情を崩さぬまま
「小僧、男ってのはな………」
と言い、おもむろに話を切り出した。
「こうやると決めたならば、そん時は絶対に、何が何でも勝たなきゃダメなんだ。特に、お前さんみたいな歳になってしまったらなおさらなぁ。ガキの喧嘩ならいくら負けてもいいが、大人はもう後には引けねぇ。負けたなら、そん時は完膚なきまでに叩き潰される……そのくらい相手も本気で来るってぇことさ。残酷なようだけどな。だからな、誰かに反抗すると決めたなら、全てをかなぐり捨ててでも結果を求めろ。そして、お前さんに、もしその覚悟があるのなら……黙って俺の後についてきな」
そう言って、バルスは目を瞑る。
僕もその言葉を聞くと、咄嗟に目を瞑って、彼に同調した。
考えている暇もなかった。
それは「あらゆる人生の選択というのは、考えている余裕などなんだぞ」と、言わんばかりのタイミングの早さだった。
けど、僕は選んだ。辛うじで選ぶことができた。
このまますぐに、現実に戻るのでなく、バルスについて行くことを。
それは完全なる勘だった。
そして、もうひとつ、僕がバルスという人を信じているからでもあった。
僕は目をギュッと閉じ、意識を彼の方に集中し続ける。
「何が何でもか……確かにその通りかもしれないな……。でも、今の僕には、その「何が何でも」の武器が少な過ぎる……そして、それはきっと、何が何でもじゃあない。前にバルスさんが言っていた通り「只の無茶」なんだ」
サマルとの会話で熱くなってしまっていた頭が、バルスの言葉で冷えたのか、僕はそう思うことができた。
すると、やがて、僕の瞼の裏に、オレンジ色の光が満ちた。
☆
目を開ける。
すると、そこは夕焼けの差し迫る、海岸だった。
潮風が冷たい。この世界に来て、初めて寒さを感じた。かなり北に位置しているのか? 海も寒々しい濃い青をしている。
「ここは……知ってしるような気もするが、あまり見たことのない場所だな……」
見ると、バルスは隣にいた。
彼は僕の小さな独り言を聴きとったのか、口を開く。
「ここはな、メルカノン大陸の北西部。あまり人の寄り付かない寒冷地の、そのまた外れさ。冬になると多くの渡り鳥がやってくる野鳥の宝庫でもある。けど、観光客はなかなか来ねぇな。なにせここから最寄りの集落まで飛行機でも6時間はかかる。そんな所においそれと、人は来ねぇわなぁ」
「そ、そうですね……しかし、僕達はここに用があるわけですよね?」
「ああ。そうだ。海を見な」
そう言って、バルスは海を指す。
僕はまだわけがわからないままだったが、言われた通りに海を見る。
「知っての通り、ここはカンタゴ海の北部だ。この海のずっと先にナン大陸があり、その真ん中より少し手前にジュノーがある。お前さんはジュノーには?」
「はい。二度ほど仕事で。しかし、それ程急ぎの郵便ではなかったので、その時はボートバルから西進して、ナン大陸沿いに北上して目指しました。だから、ここの海のことはよくわかりません」
僕がそう言うと、バルスは頷いた。
「そうか。最近はそっちのルートも開拓されたんだったな。けど、俺達の頃はまだなくてな。こちらのルートをいつも通っていたんだ。寒冷地対策さえすれば、そこまで危険もないし、何より距離が短いから燃料を節約できる。キツくて報酬の高い仕事を生業とする貧乏飛行機乗りにはうってつけのルートだったわけさ。……しかし、時々戻って来ないやつもいた」
「はい。それ故にベテランの郵便飛行機乗りから、この辺りは「魔の海域」と呼ばれていた。だから新しいルートが開拓されたんでしたよね。少し遠回りになりますが、リスクを取るよりはいいと……しかし、その肝心の「リスク」の正体はずっとはっきりしなかった。なぜなら、あまりにも証言者が少なかったから。その嵐に出会ってもなお、生きて帰ってくる飛行機乗りが」
僕がようやくバルスの意図に気づき、そう言うと、彼は
「ほう……「嵐」ときたか」
と目を細めた。そして、
「やはり、首尾よく居場所を聞けたのだな? なら、話は早い。おい、お前さんも飛行機をイメージしろ。今すぐにだ」
と言い、広いスペースに移動して手をかざす。すると言葉通り、すぐに彼の目の前にかつての愛機である《アレクサンダー》の美しい機体が現れた。
「えっ? あ、は、はいっ」
それを見て、僕も慌てて意識を集中する。
そして、手をかざし、そこに《ゼウスト》を作りだした。
なんだか、以前よりも簡単にイメージに成功した気がする。それは、知恵の実の力を完全に把握し始めているからかもしれない。
そんなことを考え、自分の手のひらをまじまじと観察していると、バルスが、
「さぁさぁ、ぼーっとしとらんで、早く乗り込みなっ! あと一週間ほどで、どのくらい仕込めるかわからんからなぁ」
などど言う。それに僕は首を傾げつつも、
「ま、まさか……僕に、教えてくださるんですか!? そ、その……バルスさんの飛行技術を!?」
と、思わず驚きの声を上げた。そんな僕の反応に、バルスは当たり前だろうがと呆れ顔をする。
「昨日も言っただろう? 全てを教えてやると。それに、お前さんはあの場所のことを知ったら、後先考えずに突っ込みに行くに決まっとる……それは自殺行為だからな、若者の愚行を放ってはおけまい? それに、俺にはまだお前さんに教えられることがたくさんありそうだ。だとしたら、後はお前さんの覚悟次第ってことだが……その覚悟もさっきみせてもらった。お前さんは、この俺を信じてついて来てくれたんだからな」
「バ、バルスさん……」
僕がそう言うと、バルスはちょっと照れくさそうに、鼻を擦った。そして、それを誤魔化すように、今度は服装をイメージを使って操縦服に変えると、勢い良くコックピットに飛び乗る。
「さぁっ、水臭いのは、もうなしだ。言っておくが、俺は厳しいぞ? でもな、ちゃんと一週間ついて来られたら、お前さんのその考えなしの「只の無茶」を「勝算」に変えてやる! いいなっ? 絶対にへばるんじゃねぇぞ?」
そう言って、親指を立てるバルスを見て、僕はビシッと背筋を伸ばした。
そして、彼同様、素早く操縦服に着替えると、
「はいっ! よろしくお願いします!」
と、深々と頭を下げ、ゼウストに意気揚々と飛び乗ったのだった。
ーー上空。
久しぶりに乗るゼウストの中で僕は計器類をチェックし、地図を膝の上で開いて、その上に重し代わりにコンパスを置いている。初めて飛ぶ空域で慣れない際に行う、僕のいつもの癖だ。地図とコンパスを見比べていると、バルスの声が聞こえてきた。
「いいか、まずは出現する海域、その正確な位置を地図と計器を用いて把握するんだ。といっても、俺が再現してやれるのは、実際に俺があの嵐に遭遇した時のもの、その僅か一例だけだ。だから場所は前後する可能性が高い。しかし、誤差はあるかもしれないが、パターンとして大きく外れることはないはずだ。それに、一度でもちゃんと把握しておけば、応用が効く。そのことを忘れるな?」
「はいっ、了解です」
声は、僕の駆るゼウストから少し離れたところを並んで飛ぶ、アレクサンダーから聞こえてきた。
しかし、無線機などを使っているわけではない。
頭の中に直接、声が響いてくるのである。
それは、所謂テレパシーみたいなものだろうが、こんなものまで使えるとは知らなかった。
バルス曰く、一定の近距離で、尚且つお互いに知らないと使えないらしいのだが、確かにそんな使用条件ならば、話しても手間は同じだ。でも、エンジンの爆音で常にうるさい飛行機のコックピットの中おいては、非常に便利なものだった。これならいつもみたいに、声を張り上げないで済む。
「よし、じゃあ、始めるぞ? 俺がその時の気候をイメージで再現する。ちょっと遠目から始めるが、その時の雲の動き、規模、風の向きなどを肌で感じろ。最初はアドバイスはしねぇからな。墜落してもいいから、体に叩きこめ」
バルスは険しい口調で言う。
僕は飛行機の訓練で、墜落してもいいからなどと言われたのは初めてだったので、つい笑いそうになってしまった。けど、バルスはあくまで真剣に言っているのだ。それはわかっていたので、僕は気を引き締め、操縦桿を強く握ると、
「了解。ここは仮想世界、失敗も成功も何でもあり、でしたよね?」
と、昨日バルスから言われたことを、そのまんま返した。
「ははは、そうだ。やっとわかってきたな? でもな、決してイメージには頼るなよ? 飛行機の操縦だけは自力でやるんだ。でないと、体には染みつかないからな」
「わかりましたっ! では……行きます!」
「おう、行ってこいっ!」
僕達がそう言ったのが合図になった。
突然、辺りの空気の流れが止まったかと思うと、空の彼方から、この辺りのものとは思えない、暖かい空気がぶわっと流れ込んできたのである。
「おっ……と」
そんな挨拶代わりの突風で、もう機体はバランスを崩す。しかし、それをフットレバーを使い、なんとかカバーすると、僕は風の向きをよみながら、操縦桿を横に倒して前進を試みた。
いくらかつて乗り慣れたゼウストとはいえ、レッドベルとは勝手がかなり違う。その感覚のズレを機体性能で補っているのだが、それでもこの凶暴な風に乗るのには、なかなか骨が折れた。
「ちっ……この距離でこれかよ……こんなの、本当に突入なんてできるのか?」
思わずそう漏らしてしまう程の風の厚み。
これはもう、布団にぶつかったどころの感触ではない。もはや石の壁にも匹敵するほど、突き抜け難く思われた。
僕はちらっと計器類を確認する。
大丈夫だ。なんとか立て直した。このまま、通常飛行で乗り切る……
僕はちょっと高くなり過ぎているエンジンの回転数を気にしながらも、それしか方法はないと思い、身を屈めて、スロットルを入れ続ける。
こと風に乗ることに関しては、やはりレッドベルの方がやりやすい。だから、ゼウストでこの風に挑むのなら、エンジンの手助けは必要不可欠だと思ったのだ。
けど、それを見透かしたように、
「小僧、あまり機体の性能に頼り過ぎるな。お前さんの、本来の相棒はそんな乗り方をする機体じゃないだろう? それに、今の段階からエンジンを消耗すると、最後の最後に痛い目に遭うぞ」
とバルスが言ってきた。さすがは歴戦の飛行機乗りだ。よく知っている。
僕だって、それはわかっている。わかっているのだが……
「はいっ、でも……これよりも馬力を落とすとなると、機体の自由が効かなくなります。それこそ、この機体よりもずっと細い風の道を、読み続ける他ない……」
「そうだ、わかってんじゃねぇか。結局はその細い風に乗って行くこと以外、嵐に近づく方法はねぇんだよ。この嵐はな、内側に巻き込む風と、外側にはじき出す風が、複雑に絡み合い、しかも決して相殺することなく出来上がっているんだ。だからな、その編み目を見極めるのさ。それには、エンジンの馬力っていうのはかえって邪魔になる場合が多い。そのエンジンの力はな、いざという時のためにとっておけ」
バルスはそう言う。
けど、僕の左手は、スロットルを離す恐怖に固まってしまい、動かなくなってしまっていた。
そして、そうこうしている内にも、エンジンの回転数は上がり、機体はギシギシと軋みながらも、西進を続けている。
バランスはいい。しかし今この力任せの操縦から、切り替えたら……
「あっ……」
僕がそう考えていると、雲の切れ間から、嵐の本体がちらっと顔を見せた。
それは、まだだいぶ距離があるのにも関わらず、物凄い圧を持って、僕の目に飛び込んできた。
色は白に近い灰色。普通の嵐はもっと黒っぽい色をしているのに、その凶暴な嵐は、とても綺麗な色をしていた。けれど、その綺麗さとは裏腹に、今にも爆発し、全てを掻き消さんとする様は、僕に恐怖というよりも、素直な畏怖の念を抱かせた。
「こ、これが……自然の産物じゃない? ……人工物だっていうのか……?」
その姿が見えたのはほんの一瞬だった。
僕が惚けていると、すぐ次の雲が来て、視界を埋めてしまう。
でも、それだけで僕を決意させるには十分だった。
あんな規模の嵐とあっては、どの道、馬力で突破するなんて不可能だろう。バルスの言うとおり、嵐の中心に至る風の道を読んで進むしかない。そして、そんなことができるのは、あの嵐が人工物たればこそなのだ。
きっと何処かにパターンがあるはず……。
つい忘れがちになってしまうが、こういう時は自然の方が、余程人間に容赦のないものなのだから。
「図体ばかり、デカイ野郎が……それで勝ったと思うなよっ!」
そう心の中で叫ぶと、僕はスロットルレバーを低位置まで下げ、手を離す。
そして、機体ごと持っていかれそうになる操縦桿を両手で必死に抑え、制した。
エンジンの音が薄れ、切るような冷たい風と、南国にいるかのような暖かい風の交じり合う轟音が、僕の耳に響き渡る。それに耳を澄ませながら、眼前の雲の流れをつぶさに観察した。
「ジャイロよし……平行は保てている。あとは……内側へっ!」
思い切り操縦桿を倒すと、風を受け、機体が今までになくスピードに乗る。しかし、そのスピードに驚いている暇もなく、今度は分厚い空気の壁が眼前に迫る。そこを、また踏み止まり、別の風に乗る。そしてまた壁へ、その繰り返しだ。
これはかなり神経に堪えそうだった。
しかも、少しでも無理をすれば、すぐに操縦桿に物凄い負荷が掛かる。僕の手がイカれるか、操縦桿がぶっ壊れるか、そのどちらが先でもおかしくはないといった感じだ。
「くっ……まだか? まだあの嵐に辿り着きもしないのかっ……?」
僕は雲の切れ間に、その姿を探す。しかし、雲を掻き分けども掻き分けども、その姿はあれ以来、一向に近くなる気配がなかった。
「ちっ…」
僕は堪らず、閃光弾で行く先を照らす。
しかし、それでも雲の中に消えた閃光弾の光は、すぐに僕の後ろへと去っていった。
「くそっ、この道じゃあ……この風の道じゃあ、ないって言うのか?」
そう思い僕は、進路を変更しようとスロットルに手を伸ばす。そして、エンジンをフル回転させると、また強引に別の風に乗り移ろうとした。
が、そこまでだった。
強引に中に入ろうとした結果、ゼウストはその左翼を雲に囚われた。
「くっ…しまった…!」
そして、僕がその失策に気づき、必死にフットレバーで立て直そうとしたのも虚しく、僕とゼウストは、嵐の外側に弾き飛ばされ、為す術もなく、濃い青色の海に叩きつけられたのであった。
ーー「はははは、まぁ、最初はこんなものだろう。良くもなく、悪くもなかったなぁ」
バルスに最初の海岸に戻してもらった僕は、その言葉を情けない気持ちいっぱいで聞いていた。
服はもちろん、もう乾いている。怪我だってしていなし、まして死ぬなんてこともあり得ない。
が、そうはわかっていても、あそこまで派手に墜落したことは今まで、一度もなかったから、正直少し怖かった。あんな深い深い海に飛行機ごと叩きつけられるなんて、いくら仮想世界とは言え、ゾッとしない。あのまま、どこまでも沈んで行くのかと思った。
「それ、褒めてるんですか? それとも貶してるんですか?」
僕がコーヒーを飲みながら聞くと、バルスは益々笑い。
「いやいや、その両方だ」
と言う。僕はなんだかため息が出てしまった。
「はぁ……それなりには自信があったんですけどねぇ…あれは、話に聞いていたよりも、ずっと厄介な代物です……」
「まぁ、そう肩を落とすな。この俺ですらあの中心には辿り着けなかったんだ。それを、一発で成功させられたとなっては、もう俺の教えることがなくなっちまうわ」
「ま、それもそうですけど……」
僕はそう言いつつも、飛行機に関してだけは負けず嫌だったので、まだ納得がいかない。しかし、あれはすぐにどうこうできる相手でもないとも、感覚でわかっていた。だから、
「質問ですが、僕が飛んでいた場所は間違いだったのでしょうか? それとも、あのまま我慢して飛び続けるべきだったのでしょうか?」
と、ひとまず聞いてみた。が、
「いや、それに関しては俺もなんとも言えねぇな」
とバルスは言う。
「俺に教えられるのは、正しいルートなんかじゃない。それを発見するのに必要な技術だけだ」
と。
僕はそれを聞き
「ふふっ、それもそうですね……」
と笑った。
そうだ。バルスだってその答えを知っているわけではない。しかし、以前の経験から、あの道筋だけは提示してくれたのだ。
つまり、内側に向いている風に乗る。そのために、飛行機をもっと自由に乗りこなし、風を読めるようにならなければいけない。
さっきみたいにビビっていてはいけないのだ。
ここは仮想世界だ。失敗したって、死ぬことはない。何度でも何度でも挑戦できる。
僕はそう思い、コーヒーカップを握る。そして、
「じゃあ、もう一回行きましょう。まだ、夜になるまで少しあります」
と言い、立ち上がった。
それに、バルスもニッと笑い、
「一回と言わず、まだ三回は飛べるぞ。さ、どんどん落ちまくって、しっかり記憶しな。あの風の流れをな」
と言う。
僕はそれを聞きながら、やっぱり落ちるのが前提なのか、と思わないでもなかった。
そうして、その日の特訓は、日が完全に沈むまで続けられ、結果として僕はさらに3回も墜落させられたのだった。
これが現実だったら確実に命はあるまい。僕はあの時、すぐに現実に戻っていたら、いったいどうなっていたことかと、冷や汗を掻いた。そして同時に、この稀有な師弟の縁に心から感謝した。
ーーその夜。
「どうだ? 俺の故郷の味は? なかなかのもんだろう?」
焚き火に彼特製の串肉料理を突っ込みながら、バルスは言う。
僕はその焚き火の暖かさと、手にした肉料理の香ばしさを感じながら、
「はい、とても美味しいです。これはなんて言う料理なんですか?」
と聞いてみた。すると、バルスはいつもの人懐っこそうな表情をして、
「はははっ、名前なんぞないわい。これはな、俺のおふくろの味なんだ。この肉に染み込ませたタレが癖になるだろう? うちの家庭独特のものでなぁ……なんとか、これだけは教えて貰っていたのさ…」
と言った。
「へぇ…バルスさんのおふくろの味、ですか」
それ聞いて、僕はライル村でのバルスとの会話を思い出していた。
確か、バルスさんも僕と同じように、故郷に帰っていなかったことを……
僕はもう一口肉を齧った。
別に腹が減っているわけでもない。疲れているわけでも、寒いわけでも、眠いわけでもない。
ここでは、こんな休息など不要なのだ。
しかし、僕とバルスは自然とこうやって休むことを選択した。時間はない、やることは山積み、にも関わらずだ。それは、夜間は飛行訓練に適さないというのもある。が、それ以上に彼は、こうして語り合うことの中にも、何かしら受け取って欲しいものがあると思っているに違いないのだ。
それは今まで、色々な人に教えてもらってきた経験から、わかっていた。
だって、そういう人達のことを思い出すとき、真っ先に思い描くのは、こうして一緒に食事をしたり、笑いあったりしている時の姿なのだから……
「ほんと…美味しいですね」
「だろう? そうだっ、あの嵐を突破することができたらな、記念にこの秘伝のタレのレシピも教えてやろう。どうだ? 是非知りたいだろう?」
「ははは、そうですね。知りたい……かもしれません」
「かもしれないじゃない。絶対に知りたい、ってそう言っておきゃあいいんだよ。まったく、最近の若僧は……」
そんな冗談を言い合いながら、僕達は食事を続けた。すると、なぜだろう、不思議と先ほどよりもずっと心が軽くなった、そんな気がした。
食事が済み、寝るのも勿体から、夜間の特訓はどうしますか? と聞くと、バルスは
「それについても、ちゃんと考えてある」
と言い、すくっと立ち上がった。
そして、目を瞑ると、手を前にかざす。何かをイメージしているようだ。
「なんだ? 今度は? また飛行機を出すのではなさそうだが……?」
僕がそう思っていると、バルスの右手の中に黄色い光が満ちた。それを今度はビュンと前に振りかざす。
すると、バルスの手の中に、一振りの直剣が現れていた。
見たこともない、漆黒の刃を持つ剣だ。
「そ、それは……?」
「ふはは、これはなぁ、古代の特殊な金属で加工された直剣さね。このように、夜はひたすらイメージの特訓と、この武器を用いて俺と模擬戦をしてもらう」
「イメージと、模擬戦、ですか?」
「ああ、そうだ。お前さん、現実に戻ったら『転移』を使うだろう? しかし、いくら転移が使えるようになったところで、肝心の「倉庫」に何が入っているか知らなんだら、何の意味もないからなぁ。今の内にそれを教えておいてやろうと思ってな?」
「て、『転移』に、「倉庫」? そ、そうか……そういえばそうですね…」
僕はバルスの言葉を聞いて、記憶を探る。すると、確かに僕は現実に戻れば、その力を行使する権限を得ることになると思い出した。そう。かつて、古代人達が当たり前のように使っていた、あの力を。
「ふむ。しかしな、小僧。現実の世界での転移はイメージだけでは成り立たん。無から有を作り出すことはできないんだ。お前さんができるのは、現実のどこにあるのかもわからない、古代の倉庫から、必要な品を取り出すことだけだ。それも、知っている品をなぁ」
「なるほど。特訓の意味は理解できました……しかし、僕はその…いいとして。バルスさんは、なぜそんなことまで、詳しくご存知なのですか?」
僕はどうしても、そこが気になったので聞いてみる。しかし、バルスは
「言っただろう? 小僧、俺はちょいとズルをして、この世界にいるんだとな」
と、また話をぼやかし、決してそのわけを言おうとはしなかった。
そして、また手をかざすと今度は
「じゃあ、続きだが……古代にはこんな武器もある……」
と、左手に剣の柄のような筒を呼び出した。
僕はそれを見て、
「剣……ですか? しかし、刀身がない」
と言う。
しかし、バルスがその柄に力を込めると、次の瞬間、手の中の筒状のものから、なにやら緑色の光の束が刀身のように伸びたのだ。
「なっ……そ、それは!?」
僕は驚いたが、バルスはいたって涼しい顔で
「これはな、<光剣>ってものでな。どんなに業物の剣でも、紙切れのように切断してしまう、恐ろしい武器だ。ほらっ、試しにこの直剣でかかって来な」
と言い、僕に漆黒の直剣を渡して来た。
「わっと…」
僕はその剣を受け取る
その剣は僕が思っていたよりもずっと軽かった。しかし、その切れ味の良さは見ただけでわかる。もし、こんなものが量産出来てしまったならば、その軍隊は狭所の白兵戦において、一番の脅威になるだろう。
僕はそんな剣は試しに振る。懐かしい感覚だ。剣を取るなんて何年ぶりだろう。
「さぁ、どうした? 遠慮はいらないぞ。死にもしないし、痛みもない。なんとも味気ない勝負だが、その分本気が出せるだろう?」
僕が躊躇っていると、バルスがそう言った。
それを、聞き僕は
「わかりました。では、本気で行きますよ…」
と言い、剣を構える。
両手で、右下段にだ。
これは主にリンダとの模擬戦の時に編み出したものだった。これが、僕が一番速く初撃を放てる構えなのだ。防御は捨てたも同然だが、そもそも力の乏しい僕はリンダの剣を受けきれなかった。だから、足で避けるしかない。そして、もし初撃を外したら、あとはひたすらヒット・アンド・アウェイで耐える……持久戦に持ち込むのだ。だから僕はいつも皆に「ラシェットと模擬戦をやると疲れるから、嫌だ」と言われたのだ。そう言われても仕方ないとは自覚はしていた。それに……
「こんな戦法は所詮、模擬戦止まりだ。到底実戦向きではない……だったらっ!」
僕はそこまで考えて、素早く地面を蹴った。そして、体を捻りながら、低く低くバルスに迫る。
その勢い、突進の早さに、バルスも多少驚いたようで、目を見開いた。
しかし、彼の足を自然を退かせるまでには至らなかった。もし、彼が一歩でも足を退いたのならば、その隙をついて側面から切り込もうと思っていたが、退かないのであれば、まずは渾身の一振りを正面から叩き込むしかない。
僕はバルスの見開いた目を見る。その視線の動きを。どちらから切り込むと予想しているのかを。
それによって、僕の選択する剣の軌道は変わる。
下からか? 斜め? 真横?
バルスの視線に変化はない。僕は迷った。しかし、すぐに心を決め、
「てやぁぁぁぁー!」
と、ほぼ真下から切り上げにかかる。
しかし、バルスはまだ、棒立ちのままだった。
「これは、いけるっ……!」
そう思い、剣を振りぬいた、その瞬間、
バルスの持っていた光剣が、スッと動いた。
そして、なんと僕の振った直剣に掠ったかと思うと、それをいとも簡単に両断してしまったのである。
「なっ……!?」
カランカランと地面に転がり落ちる漆黒の刀身。
僕の渾身の切り込みは、たった少し光剣に触れられただけで、敢え無く、破られてしまったのだ。
僕は驚きのあまり、まばたきを忘れ、地面に転がった剣を見ていた。すると、額にびっしょりと汗を掻いているバルスがふーっと息を吐き出す。
「そうだった……お前さんが第1空団の団員だったことをすっかり忘れておったわ……久しぶりに死ぬかと思ったぞ……さすがの腕だわい…」
「い、いや、そんなことは…実際に、僕の負けですし。でも、あの光剣の威力…凄まじいですね……」
僕が呆れていうと、バルスも同意してくれ、
「そうだろ、そうだろ」
と言う。
「こんなふうにな、古代の兵器がたくさん詰まった倉庫が現実の何処かには存在してんるんだ。それを、悪用されては困るが、しかし利用しない手はない。これらの武器はきっとお前さんを助けてくれるはずだ……だからな、戦闘訓練をしながら色々と教えてやろうと思っていたんだが……どうやらお前さんに戦闘訓練は必要ないらしい。少なくとも、俺が教えられるこたぁなさそうだ。ま、手間も省けていいわな。と、いうわけでこの光剣以外にも、有用な兵器はたくさんあるから、それを順にレクチャーしてやる。いいな?」
「あ、はいっ! 是非、よろしくお願いします」
僕は大きく返事をした。
本当は戦闘訓練もつけて欲しかったが、あまり無理を言ってもいけない。時間がない割に、やるべきこと、覚えるべきことがたくさんあるのだ。贅沢ばかり言ってはいられない。
しかし、寝なくてもいいのは助かった。現実ではこうもいかないだろう。
そして、夜が明けたら、また飛行訓練だ。
「待ってろよ、サマル。必ず……僕がそこに行く」
そうやって、特訓一日目の夜は更けていった。