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砂漠の星 郵便飛行機乗り  作者: 降瀬さとる
第3章 ラシェット・クロード 時の試練編
95/136

記憶への旅 ーあの頃 1

サマルの言葉はもちろん気になる。


しかし僕の目は、グラウンドを必死に周回する男子達に、すっかり釘付けになっていた。


白い半袖に、緑色のハーフパンツ。見慣れた、ダサめの体操服。

それを腰で穿いている奴もいれば、きちんとシャツを中に入れているやつもいる。学校に決められた服装の中で、せめてもの抵抗だということは、経験上よく理解していたが、今見るとなんとも恥ずかしい。少し遠くを走る当時の僕なんて、サイズを工夫し、ほんの少し着崩すという何とも中途半端な態度をとっていたから、なんだか余計に滑稽に思えてならなかった。


これは、サマルが僕に見せている記憶なのか……?


そんなことを考えながら、僕はサマルの言葉通りでもないが、少しずつ思い出す。


まず、この場に女子の姿がないのは、体育だけは男女別々に授業を行っていたからだった。

よくよく考えれば不思議なことだが、まぁ年頃の男女だ。夏にはプールもある。しかも、中等学校の三年生ともなれば、そろそろ運動能力にも差が出てくる時期だ。

それでも男女で分けるなんて、大人の勝手な気の遣い方だと僕なんかは思うが、こんなやり方も、教師の面倒を思えば、仕方ないことなのかもしれなかった。


そうだ。

そして、僕達が男子だけ(それも比較的大人しい学年の男子)なのをいいことに、その年から僕らの体育教科兼、生活指導担当教師になったザンマンの、厳しい、というか理不尽なしごきが、この時にはもう始まっていたのだった。


「おいっ! そこっ! 何をやってんだっ! 遅れるんじゃないっ!」


とその時、件の体育教師ザンマンの叱責する声が僕らの斜め前方辺りから、グラウンド全体に響き渡った。見ると彼は、花壇の前に仁王立ちでふんぞり返り、手に持った竹刀を掲げ、当時の僕達を脅すように指している。それを見て僕は、ああ、そうそう、あんな顔だったなぁと思う。


年は今の僕より少し上、30前後だろうか? しかし、その顔はゴツゴツとしてイカツく、ちょっと老けて見えた。ぴったりとしたポロシャツを着たその胸板は厚く、身長だって有に180センチ以上はあるように見える。

今となっては、あのくらいのガタイの兵士でも気遅れはしないし、それどころか、僕はもっと厳しい猛者を相手に散々模擬戦やら実戦を繰り返してきたので、ザンマンなど敵ではないと思うが、やはり当時としては、その大柄な体育教師は生徒達の恐怖の的だった。


しかも悪いことには、その前の年にザンマンが担当していた学年が問題児ばかりの当たり年で、その一年で溜まりに溜まったストレスを、この年担当になった僕達の学年に全力でぶつけてきていたから、彼の指導は余計に厳しかった。

もちろん、僕達は当時からそれをなんとなくわかっていて、ザンマンの理由なき理不尽なしごきに対し、腹立たしく思ってはいたのだが、あの強面相手に誰も抗議できずにいたのだった。


「うっ…うぅぅぅ……」

「おいっ! 聞こえんのかっ! さっさと集団とペースを合わせろっ!」


僕の視線の先。竹刀を地面に叩きつけながら怒るザンマンの声を余所に一人、男子の集団から遅れをとり、よたよたと必死な形相で走っているメガネの生徒がいた。


「あっ、あいつ……」


僕は思う。


そうだった。


なんで今までずっと忘れていたんだろう?

あいつはいたじゃないか。

たぶん、その年の5月頃にうちのクラスに入ってきた転校生……


「こらっ! マグノアリアッ! どうしたっ! 返事をせんかっ!」


ザンマンはなおも五月蝿く怒鳴り散らす。

けど、必死に足を動かすその生徒が、とても返事などできそうもないことは、傍から見ていても明らかだった。むしろ、彼はあえて返事をせず、倒れそうになりながらも、それでも必死に皆に追いつこうとしている。僕にはそんなふうに見えた。


「うっ……はぁ、はぁ、はぁ……」


「ちっ、またあいつかよ」

「まったく……転校生が…足を引っ張りやがって。こりゃ、きっとまた『連帯』くらうぞ…」


そんな彼にクラスメイト達からまで、冷たい言葉が飛ぶ。

それは30名ほどいる生徒の一部の声だったが、それに反対の意見を言う者はいなかった。皆、口には出さないが、概ねその意見に依存はないと言うことだ。

もちろん、僕もサマルも。

なにも、彼を積極的に陥れようとは思わなかったけれど、彼がこの理不尽な走りこみにおいて、ザンマンに余計な「口実」を与えていることは動かしがたい事実だったからだ。


「よし。そうか。今日もナメた態度を貫き通す気だな? わかった。じゃあ、これはまたクラスで連帯で責任を取ってもらうしかないな。いいか、お前らっ! マグノアリアの体力向上の為だっ! もう三周追加っ! ペースは落とすなよっ!」


「……ほらきた。ったく、クソ教師が」

「こらっ! 何か言ったか!?」

「いえっ、何もー」

「ちぇっ、あいつの体力が向上する前に、こっちの体力が先に付いちまうよ」


そうして、男子達は文句を言いつつも、もう三周走り切り、それから体育の授業に移っていった。


しかし、その間も周回遅れになっていたジース・マグノアリアは、今にも倒れそうになりながら、残りの距離を走っている。その姿は、考えようによってはいい笑いものだった。だって、一人だけぽつんと走らされているのだ。ザンマンは連帯責任とか言っていたけれど、これでは連帯も何もない。クラスをバラバラにするだけ。引いては単に弱者を作るだけだった。


思い出す。


「確かに……こんなこともあったな……何で今まで彼のことをすっかり忘れていたんだろう? それも、彼に関わる日常的な事柄まで、まるで霧に包まれたみたいにぼんやりとしている。嫌な記憶だから、忘れたかったのか…?」


「いや、そういうことじゃないよ、ラシェット。君にとって、これは決して嫌な記憶なんかじゃない。ほら」



サマルがそう言うと、今度は僕達は教室の中にいた。


あの授業の後だろうか? 下敷きでパタパタと首元を扇ぐ男子の姿がちらほらと見える。皆、着替えて制服姿。上は開襟シャツに、下は黒い学ランだ。教室には既に女子も戻ってきており、皆、セーラー服の夏服を着ている。女子は全員で20人ちょっと。クラスの男女を合わせると全員で50人を超える大所帯だ。だから、教室には机が所狭しと並んでいる。


その窓ぎわの後方の席に当時の僕が、その斜め前にサマルがいた。僕は何とも無表情な感じで窓の外を眺め、サマルは紙に定規とコンパスを使いながら、何かを書いている。たぶん、今度作ろうと思っているルアーの設計図だろう。そう言えば、サマルは暇さえあればそんなことばかりしていた気がする。


「はぁ……それにしてもよぉ。こう毎回じゃあ、さすがにたまらないよなぁ?」

「本当だよ。偶にはさぁ、もうちょっと根性見せて、頑張ろうとか思わないわけ? なぁ、転校生よぉ?」


クラスの一角からこれ見よがしな声が聞こえた。

それはきっと窓際の隣の列の一番前、ちょうどサマルのいる列の先頭にいるジースにも、聞こえるであろう大声だった。

さらにその声に反応し、一部の男子から笑い声も上がる。

僕はそんな無邪気な悪意にやれやれと思うが、当時の僕は顔を窓の外から教室内に向けたものの、何も口出しする様子はないみたいだし、サマルに至っては手を休めもせず、設計図作りに夢中のようだった。そして、当のジースは気まずそうに席に座ったまま首を縮込ませている。


「ご、ごめんよ。僕……全然、体力がなくて……」


ジースは消え入りそうな声で、何とかそう言った。けど、それを待っていたかのように、最初に声を上げた男子が

「でもよ、そろそろ体力も付いてきただろうよ? もうすぐ二ヶ月だぜ? お前が転校してきてから」

と言い、その生徒の机に集まった男子の一人も

「そうだぜ。その間にどれだけ余計に走らされたことか。あとはさ、気合いでカバーしてくれないと。じゃねぇと、いつまで経っても俺達のクラスはあいつのいいおもちゃだぜ?」

と、便乗するように文句を言う。


「き、気合い……?」

その意見に、ジースが困惑した様子で言うと、またその集団から


「そうそう。気合いだよ。お前、いつも気合いのなさそうな顔してるもんなぁ。なんか……そう。気の抜けた科学者の幽霊みたいな顔してるっ」


と大きな声で悪口が飛び出した。


「あははは」

「きゃはは、やだ、なにそれー」

「なんか、しっくりくるなぁ」


それが合図になって、クラスに嘲笑が沸き起こる。ざっと見積もってもクラスの半数の男女が声を上げて笑っていた。その中には、この悪口に賛同しないと空気を読まないと思われるんじゃないかとか、こういう時はあの集団に合わせる方が得だし、イケてると思われるかも、という打算の笑いも多分に含まれているような気がした。


そんなクラスを包みこむ嫌な空気にジースは益々縮込まり、当時の僕はというと、笑いこそしないものの、何も言わず、ただしかめっ面をしているだけだった。


「おいおい、昔の僕よ。もっと何かあるだろう?」


僕は思わずそう漏らし、冷や汗を掻く。本当に、未熟な学生時代の考えというものは、今となっては想像するのも恐ろしい。このクラスの暗黙の空気という、皆の共同幻想も、見ているだけでうんざりさせられた。

僕は教室の時計を見る。こういう時に限って、休み時間はまだ10分も残っている。

クラスの笑いがなかなか止まない中、僕がいい加減イライラしていると、


「ちょっと、言い過ぎなんじゃないの?」


と、教室の真ん中辺りから、よく通る女子の声がした。

その声に、笑い声が止まる。そして、おもむろにその女子は立ち上がった。あ、あの顔にも覚えがある。このクラスの委員長の女子だ。確か、名前は……


「おー? なんだなんだ? スズミナ、お前、そいつの肩持つのかよ?」


そうだ。スズミナ。サト・スズミナだ。


「まさか、気でもあるのかー?」

ヒューヒューという、おちゃらけた声も上がり、

「ちょっと、サトッ。やめときなって……」

と、スズミナの席の周り友人からは、彼女を止めに入る言葉が出る。

しかし、スズミナはその両方の声を

「ふんっ」

と言って一蹴し、

「大体ねぇ、寄ってたかっていじめて、そっちの方が男らしくないのよ」

と言った。そのスズミナの態度に周りの友人達はあちゃーとなる。


「人聞きの悪い。別にいじめてなんかいねぇよ。ちょっと、からかっただけさ。転校生があまりに運動音痴だからよ」

「それがいけないって言ってんのよ。それに何? その転校生って言い方。それだけでも、マグノアリアくんは傷つくわ。ちゃんと名前で呼んであげて」

「マグノアリアなんて、呼び難くてしょうがねぇよ。転校生のがしっくりくるんだよ。それかいっそ、幽霊くんか、科学くんだな」


ここでまた笑いが起こった。しかし、スズミナはまだ負けじと続けるみたいだ。


「もう、すぐにそうやって……素直にジースくんって呼べばいいじゃないの?」

「嫌だよ。俺達はまだそんなに親しくねぇ。まぁ、どうしてもそうして欲しいんなら、まずはちゃんと走ることだな。もうのろまの連帯責任はゴメンだ」

「あのねぇ、だから……」

「ああ、もう、うっせーな。大体これは男子の問題なんだよ。女子が口出しするんじゃねぇ!」


「じゃあ、男子の僕から一言いわせてもらうけどさ」


と、そんな険悪なムードの中、突然外野から声を発したのは、なんとサマルだった。

しかし、サマルは紙に設計図の線を引くのを続けたままだ。そんな顔を俯けたままの状態で、サマルは話に割り込んだのだった。


「ん? なんだ、サマル。お前まで何か文句あるのかよ?」

「いや、文句ってわけでもないけどさ。ただ…誰にでも得手不得手はあるってことを言いたかったんだ」


そう言うとそこで初めて、サマルは顔を上げ、その男子生徒の方を見た。


「なぁ、お前、この間の機械科学と物理のテスト。それぞれ何点だった?」

「な、なんだよ、藪から棒に……」

「いいからさ。何点だった?」

「40点と51点……」

「完全に赤点だね」


そこで今度はクラスに別の笑いが起きた。それに、その男子生徒はうるせぇと言う。

サマルは話を続ける。


「これには、笑っていられない人がもっといるはずだけど?」


と。すると、笑いはぴたりと止んだ。


「だろう? それでもこのクラスが放課後のあの面倒くさい補習を免れているのは、ジースくんがそれぞれ97点、98点の学年トップの点数を叩きだして、このクラスの平均点を底上げしてくれているからに他ならない。だったら僕は、走るのが他人より少しくらい苦手だからって、大目に見てあげてもいいと思うんだけどなぁ? それが得手不得手ってことさ。そうじゃないかい?」


教室に静寂が訪れた。

そう言われると、もう誰も反論する者はいなかったのだ。そして、やっと静かになったと満足気な顔をすると、サマルはなぜか、


「ラシェットはどう思う?」


となんと僕に話を振ってきた。僕は内心すごくドキドキしたが、当時の僕は相変わらず無関心そうな顔で、


「そうだな……そもそも僕は気合いどうこうっていうのが、あのザンマンの理不尽な走り込みに賛同してるようで納得いかないな。本当に追及すべきなのは、ザンマンの不適切な指導方法なんだし」


と、はっきりとそう言った。

僕の意見にも「そうだそうだ」と一部から賛同の声があがる。そして、僕は続けて


「ま、どっちにしろ、僕はトラック三周分くらい追加されても、別にどうってことないから、ジースくんは無理しなくてもいいと思うよ」


と何でもないことのように言ったのだが、それに別のクラスメイトが


「それはお前が陸上部だからだろうが」


とツッコミ入れると、またクラスに笑い声が上がった。その笑い声はやっと明るいものになり、クラスの雰囲気も、それでなんとなく和んだ気がした。

そんな様子を見ながら、サマルは僕に笑顔を向け、当時の僕はサマルに向かい苦笑していた。

すると、その数分後に、数学の教師がやってきて、いよいよこの話題はひとまず収束となったのだった。

けど、その話題の中心、ジースだけは、まだちょっと浮かない顔をしていた。


「ふーっ、昔の自分を見るっていうのは、ヒヤヒヤするな……」

「ははは、確かにそうだね」



時は流れ、次に僕とサマルは放課後のグラウンドに来ていた。


その隅っこの方では当時の僕がランニングウェアに着替え、準備運動をしている。

僕の母校の陸上部は弱小もいいところだった。

部員は僕を含め7人しかいなかったし、そのうちの4人は幽霊部員だった。その日も僕の他の部員はまだ誰一人来ていなかった。というのも、僕は早くトレーニングを終わらせて釣りに行きたかったので、毎日、一人だけ時間を前倒しして練習をしてから、それも無理からぬことをだった。


と、そこへ

「やぁ、ラシェット」

と、サマルがやって来た。そして、その隣にはジースの姿が。


僕もだんだん思い出してきていた。

そうだ。この日からだった。

僕達三人が一緒に行動をし始めたのは。


「ん? どうしたんだ? サマル。機械科学部の方はサボりか? それに……」

僕がジースに顔を向ける。すると、サマルが

「いや、実は折り入ってラシェットにお願いがあってね?」

と言った。僕はそれに首を傾げた。


「お願い?」

「ああ。このジースくんを鍛えてやってくれ。もっと走れるように」


当時の僕は「は?」という顔をした。しかし、今まで大人しかったジースが頭を下げ

「お、お願いします。もう、皆の足を引っ張りたくはないんです。どうかっ……」

と言ったから、それで僕の心は決まったようなものだった。


「うーん……そっか。じゃあ、結構厳しめで行くけどいいかい?」

「あっ、はい! よろしくお願いします!」


僕達はそんなことを言い合っていた。


「そうだったな……ここから、毎日ジースと走りこみをしたんだ…」

僕が思い出しながら言うと、サマルも頷く。

「ああ。でも、本当になかなか上達しないんだよな、ジースのやつ。まぁ、体質なんだろうね? 病気ってわけでもないのに、筋肉がつきにくい。まるで、今まで何一つ体を動かしたことがないみたいに……」


僕とサマルはサッカーゴールの横に座り込み、話した。

こうしていると、放課後という時間はなんて清々しい時間なんだろうと思う。仕事終わりの夜とも違う、言わば、青春の生まれそうな気配が漂っている気がした。


そんな僕達の目の前を僕とジースがゆっくりと走り抜け、当時のサマルはそれをにこやかに見守っていた。



僕がジースを特訓するようになってから1ヶ月経った頃に来た。


が、それでもまだ彼は、体育の前の走りこみについて行けていなかった。あの一件があって以来、さすがに大っぴらに悪口を言う奴はいなくなっていたが、また影で文句が出始めていた。もうすぐ夏休みに入る時期、グラウンドは灼熱地獄。そこを走らされるのだ。確かに文句が出るのは必然だった。


「おい、ラシェット。お前の特訓の成果、全然出てねぇじゃねぇか」

「本当にちゃんとやってんのかよ?」

「五月蝿いなぁ。ちゃんとやってるよ。いつもグラウンドで走ってるのが見えるだろう? そう簡単には、いかない時だってあるんだ」


僕達が話しながら走っていると、

「おいっ! そこっ! 無駄話はするなっ! もう一周追加するぞっ!」

と、ザンマンが吠える。

ほんと、大人気ないったら、ありゃしない。

しかし、僕達は大人しくそれに従い、黙々と走り続けた。


そして、その日の走り込みも、ジースの怠慢を理由に連帯責任とやらを取らせた後、なんと奴はこともあろうに

「まったく……お前達のクラスはいつまでも体力が付かないな。よし、仕方ない。次の授業からは、スペシャルメニューを導入してやる。いいか? 他のクラスではやっていない、厳しい練習だぞ? 有難く思え。はっはっはっは」

と言ったのだった。

それにクラスから、声に出せない舌打ちや文句が噴出したのは、言うまでもない。



「ほら、見ろよ。いつかこうなると思った」

まだ女子も戻っていない、体育後の教室で、またあの男子生徒がそう言った。

それに、僕とサマルは露骨に嫌な顔をする。ジースは今にも泣き出しそうになっていた。


「誰が責任取るんだよ。誰が」

さらにそう文句が出ると、サマルが

「そんな議論はおかしいよ」

と言い、僕も

「ああ。バカげてる。責任なんてどうでもいい。おかしいのは、ザンマンの頭の方だ」

と言う。

しかし、男子生徒はこの前の仕返しとばかりに張り切り、


「じゃあ、そう言うんならラシェット。お前からあいつにガツンと言ってやってくれよ。こんな指導方法は間違ってるってな」


と言ってきた。

すると、それに同調する声も出、クラス中がガヤガヤと言い争いになる。

それに、サマルは苦々しい顔をしているが、やがて当時の僕が、


「わかった」


と言うとその声はピタッと止んだ。


「お、おいっ、ラシェット!? それはいくらなんでも、マズイんじゃ……」

僕の隣では、サマルが発言を撤回するように言っている。しかし、僕はそれに首を横に振った。


「いや、いいんだ。僕もあいつには、いつか抗議してやろうと思ってた。この機会にガツンと言ってやる」


僕はそう言うと、ガタッと席を立ち、教室の出口へと向かう。その行動に、この僕ですら思わず

「おいおいおい、お前っ、何処に行くんだよ」

と声を出す。

もちろん、向こうには聞こえるはずもないが、僕はなんだか照れくさくて仕方がなかった。なぜなら、僕のこれから行こうとしている所が分かりきっていたからだ。


「おいっ、マジかよ……」

「今から行くのかっ……?」


そんなクラスの驚きを背に僕は教室を出る。それを後から「しょうがないなぁ…もう」と言いつつ、サマルが追う。そんな二人を見送ったクラスには妙な静けさが訪れていた。



そして、職員室。


ザンマンがなにやら嫌がる女性教諭を相手に、セクハラまがいの世間話をしている所へ


「失礼しますっ!」


と、大声で僕が入ってきた。

それに、職員室中の教師がこちらを向く。

しかし、僕はそんな視線を気にすることもなく、真っ直ぐにザンマンの方へ向かった。

そんな僕の様子に只ならぬ気配を察知してか、教師もその場にいた生徒も、みんな黙り込んでいる。


「ザンマン先生」

僕がザンマンの机の前まで行き、気をつけをすると、

「んん?」

と、ザンマンはじろりとこちらを見上げた。

その隙に話し相手をしていた女性教諭はすすっといなくなる。


「なんだ、クロード。もう始業のベルが鳴るぞ? 用があるなら放課後にしろ」

「いえ、申し訳ありませんが、あんな授業のあった後だから言いたいのです」

「あんな授業……だと?」

「はい。ジース・マグノアリアくんのことです」


僕がきっぱりと言うと、ザンマンは一層、目を吊り上げた。そして、机に立てかけてあった竹刀を手に持つ。今や彼のトレードマークとなっていた、それを持たないと不安で仕方がないのか? と僕は思う。たぶん、当時の僕もそう思っているに違いなかった。


「なんだと……? 俺の指導方針に文句があるとでも言うのか?」

「文句ではありません。意見です」

「そんなの、どちらも同じことだっ!」


そう言うとザンマンは僕の肩をピシャリと力一杯打ち据えた。今の僕なら慣れっこだが、中学生相手にあれは、見ているだけで痛そうだ。しかし、僕は気をつけの姿勢を崩すことなく、


「叱責は覚悟の上ですが、これだけは言わせていただきます。あれは指導などというものではありません。公然といじめをしているようなものです」


と言う。それにまた逆の肩に竹刀が唸った。


「あれは、れっきとした指導だっ! クラスから落ちこぼれを出さん為のなっ! それを……言うに事欠いて、いじめだと!? 調子にのるのも、大概にしろっ!」


僕の顔や腕にも、竹刀が打たれる。

どうやらザンマンは余程頭にきたらしい。周りの教師や生徒達の目なんてお構いなしだ。しかし、それを止めようとする教師すらいなかった。僕はそれを悲しい気持ちで見ていた。


「お言葉を返すようですが、彼はそもそも落ちこぼれなどではありません。理系の成績は学年トップです。それが少し運動ができないくらいで、あの仕打ちとは……先生こそ、率先して落ちこぼれを作ろうとしているのではないですか!?」


「な、なんだとーっ!?」


それでもめげない僕にトドメを刺すべく、ザンマンが怒りに任せ竹刀を振り上げる。それを職員室の外から見守っていたサマルが止めに行こうとするより前に、


「いい加減にしなさいっ!」


と一喝し、あっという間に止めてしまった人物がいた。


「あっ……」


僕もザンマンもサマルもそちらを見る。


そこに立っていたのは、白衣を着た保健室の先生、アンナ・レート女史だった。

赤い髪の毛に、スラッとした体。そして、なにより気の強そうな整った顔立ち。彼女は男子生徒達のマドンナ的存在。そして、ザンマンも彼女に気があるのは、生徒達の間では、周知の事実だった。


そんなアンナ先生がハイヒールをカツカツと鳴らしながら僕達の方に近づいてくる。それを見て、ザンマンは


「ア、アンナ先生……こ、これは、その…ち、違うんです。ちょっと、こいつが生徒の権限を逸脱した物言いをしたものですから……」


と、なにやらごにょごにょと言い訳を並べ始めた。

しかし、アンナ先生はそんな言葉には耳を貸さず、


「私にはこんな指導方法こそ、教師の権限を逸脱した行為に思えますけどねぇ? ザンマン先生?」


と言い、僕の切れて血の出た頬を撫でる。

その言葉には、さすがのザンマンも頭が冷えたのか、何も言えずに黙ってしまった。それを見て、アンナ先生はため息をつくと、

「スズミナさん、ちょっと手伝って。クロードくんを保健室に連れて行くわよ」

と、偶然その場に居合わせたスズミナを呼び、くるっと向きを変え、職員室の出口へと歩き出した。


「えっ? あっ、はいっ……ほら、クロードくん。行こう?」

「あ、う、うん……」

僕もそれで初めてその場にスズミナがいたことに気がつく。スズミナに腕をとられ、職員室を出て行く時、ふと後ろを振り向くと、ザンマンは顔を真っ赤にして怒りに震えていた。

それを見て、僕はいよいよこの対立は根が深くなったなと、せっかく助けてもらったはいいが、アンナ先生の介入に複雑な気持ちを抱いていた。



「痛つつつっ……」

「おいおい、大丈夫か? ラシェット」


保健室の椅子に座り、上半身を裸にされた僕はアンナ先生に消毒液を塗られている。その横にはサマルとスズミナ。僕の体には、痛々しい切り傷や痣が、たくさんできていた。


「ほんと……ひどいことするのね。クロードくんの言ってたこと、間違ってないのに…」

「ははは、ありがとう、スズミナ。そう言ってくれるだけで助かるよ」

「しっかし、あいつあそこまで頭が固いとはなぁ。マジで脳みそ筋肉で、できてんじゃないか?」

「こら、サマルくん? そんなこと言ってたら、あなたまで先生に睨まれるわよ? ……はいっ、消毒おしまいっ。ほら、次は包帯してあげるから、後ろ向いて」


そんなことを言いながら、僕達は悩んでいた。

こんなことを続けていたら、埒が明かない。それどころか、益々ザンマンの教育的指導は、ひどくなる一方だろう。


「はぁ……」

誰ともなく、ため息が漏れた。始業のベルはとっくに鳴っており、今頃教室では、僕達の話題が持ち上がっているかもしれない。


「やっぱり、ちょっと早まったかなぁ……」

僕が弱気で言うと、サマルとスズミナは、

「そんなことないよっ、僕は胸がすーっとしたぜ!」

「そうよ。クロードくんは、間違ってない」

と、否定してくれる。


と、その時。

ガラガラガラ、と遠慮がちに保健室の扉が開かれた。

全員がそちらを見る。

すると、そこにはジースが立っていた。なんだか、申し訳なさそうな顔をしている。それで、僕達はすぐに察した。きっと、いたたまれなくなってここに来てしまったんだろうな、と。


「あれ? ジース…?」

僕は言う。それにジースはすぐに頭を下げ

「ご、ごめんよ。クロードくん……その、僕なんかの為に……特訓までしてもらってるのに、僕、全然上達できなくて……」

と言った。


そんな様子を見て、僕達は苦笑した。

なんだそんなこと。

そんな空気にジースも気づいてくれたようで、顔を上げる。

そして、僕が手招きをすると、ジースは僕達の側まで来てくれた。


そこで僕が

「ジース。悔しくはないか?」

と聞く。

「えっ?」

その問いに戸惑うジースに僕はさらに、

「はっきり言って、僕は悔しい。すごくね」

と言った。


僕とジースの目がぴったりと合う。


すると、やがてジースもこくっと力強く頷くと


「……うん。僕も悔しい。すごく悔しいっ……!」


と言ってくれた。

その言葉に僕とサマルは目を合わせ、確認する。

その言葉を待っていたと。


そして、満を持して僕は言った。


「よし。じゃあ、今日からまた猛特訓だ。絶対に、ザンマンがぐうの音も出せないほど、走って走って走り抜いて、あんな理不尽な仕打ち、跳ね返してやるんだっ! 暴力なんて卑怯な手を使わず、真正面から、正攻法でなっ!」


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