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砂漠の星 郵便飛行機乗り  作者: 降瀬さとる
第2章 動く人達編
75/136

暇な男、忙しい男 1

その男は仕事以外の時は背筋を伸ばして歩かなかった。


ちょっと猫背なのである。


もちろん自覚はあった。

だからこそ仕事の時は意識して、ビシッとそれらしく振舞っているが、普段道を歩く時は別だ。そんな無駄な体力と集中力を使うようなことはしない。それに本人にしてみれば「猫背」なんてのは、本当はどうでもいいことなのだ。


まぁ、今は正確に言えば任務中にあたるが、なに、誰が見ているわけでも、期待しているわけでもない。

そんなことよりも、今は考え事をする方がずっと大事だった。

そして、考え事をする時は、ただぼーっと、漫然と歩くに限る。そうすると、自然と姿勢は猫背になってしまうわけだ。


でも軍においては、時にはそういった立ち居振る舞い方一つが、出世に大きく響いてくることもあるから、彼はそこは納得して、本部や会議室にいる時は注意して頑張っているのである。


つまり要領だ。


彼はそういったポイントを見極め、いつも大事なことだけを追いかけてきた(つもりだ)。

それがあってのスピード出世であったし、仕事の成果でもあった。


そして彼はいつの間にか「キレ者」などと呼ばれるようになり、部下からも頼られる存在になった。

自分では「キレ者」などではなく「怠け者」の間違いではないか? と思っている彼にとっては、これは全く信じられない事態だったが、とにかくその信頼に応えられるだけ応えてみようと努力することに決めた。


軍というところは徹底した縦社会だ。

何はともあれ襟章の柄がものをいう。


そして、それは主に年長者の特権であって、若者がそれを望むならば、ひたすら成果主義の競争の中に身を置き、任務を追いかけ続けなければならない。

特に彼のような平民出の若者は尚更辛い目に遭うというのは、もうある種の通過儀礼のようなものだ。


軍における期待の応え方とは、総じてそういうものだった。


そして、その中で権力を求めた若者達は揉まれ、ふるいにかけられ、ある者は切られ、ある者は自ら諦めていくのである。


でも、彼はそれが嫌いではなかった。


成果主義? 上等だ。と。


彼はそんな出世争いを、特に歯を食いしばるわけでも、血反吐をはくわけでもなく、割と飄々と勝ち残って見せた。

少なくとも周囲にはそう映った。


実際、結果が目に見えるとなると、やる気も出たし、何よりわかりやすいと彼は思った。

何か目に見えない「将来性」とか「才気」とかで判断されるよりはずっといい。

今、自分はどれだけ頑張ったか、その「結果」という目にはっきりと見えるものに対し、「将来性」などというのは、あまりにもふわっとし過ぎていて、余程の者でない限り、軍では見向きもされないのだ。


そのせいもあってか、帝国軍のエリート候補達はいつもピリピリしていた。が、そんな雰囲気すらも、意外に彼の肌には合った。


だから彼は帝国軍を、仕事を愛した。


彼は軍にいる時だけは「怠け者」ではなく、名実共に「キレ者」になれたのである。


そうやって彼、リー・サンダースは少尉にまでなったのであった。

そして、次の出世である「中尉」昇格も目前まで迫っていた。


のだが……


「なんで俺はこんな所で暇を持て余してんだ……?」


リーは上着のポケットに手を突っ込みながら、そう思う。


こんな所というのは、ここメルカノン大陸一の工業都市コスモのことである。

そして、リーは現在、コスモの中でも特に都会にあたる巨大アーケード街の横の小道を一人歩いていた。


「全く不可解だ……」


もう一度思った。

さすがにため息こそつかなかったが、リーはこちらに来てからの10日間、ずっとその気持ちが消せないでいた。


ため息をつかないのは、今回、リーがここに来たのは一応曲がりなりにも任務を仰せつかってのことだったからで、その任務とは


「コスモ重工業社が新規開発中の飛空艇技術を偵察せよ」


というものだった。


なんと言うか、取って付けたような内容である。こう言っちゃ悪いが、リーが着任するような仕事ではなかった。

彼はセント・ボートバルにおいて、他にいくつも重要な任務を抱えていたし、それは現在の軍にとって大事な仕事ばかりだと思われたからだ。


「なのになぁ……」

リーは地面を見つめ、呟く。


そうなのだ。それらを全て放り出して、尚且つ閑職にまで追いやるには、彼はいささか惜しい人材のはずなのである。

…まぁ、自分で思うのもアレだが、仕方がない。変なものは変なのだから。


この不可解な扱いの原因は未だ不明だった。

だが、ケチのつき始めははっきりしていた。


ラシェットである。


あの日、あの友人が珍しく早朝に訪ねてきた時だ。


本当に珍しいことだった。

そもそもラシェットと会うこと自体、あいつが軍を辞めてから、確か3回目だったと思う。

だからこれはきっと何かあるなと思った。

ラシェットという男は、自分でも気がつかないうちに厄介事の種をあちこちに蒔いてしまうプロのようなやつなのだ。


「気がつかないうちに」というのがミソだった。


それでは誰も責められないし、彼も反省できない。というか、反省のしようがない。

誠にそれだけでも厄介である。


初めのうち、リーはラシェットのこの悪い癖を確信犯だと思っていた。だが、付き合いを深めるにつれ、それは勘違いだと知った。

ラシェットにはちょっと間が抜けているところがあるのだ。それを知った時、リーは思わず笑ってしまった。

普段は澄まして、つまらない冗談ばかり言っているくせに、ラシェットはすぐに人の嘘や噂に騙されたり、利用されたり、見返りのない人助けに借り出されたり、そんなことばかり繰り返しているのである。


リーはそんなラシェットのことを心の中で

「カッコつけのお人好し」

と称した。

しかし、性格としてはそれでよかったかもしれないが、そんなことではとても上ではやっていけない。

それはわかりきっていたことだった。


だからこそ、ラシェットは軍の中での出世争いに、日に日にうんざりしていったのだと思うし、またそれとは逆に軍の縦社会、権威主義には鈍感なまでに楯突いていったのだと思うのだが……なんにせよ周りには迷惑なことばかりだった。


けど。それでもやはりリーはそんな彼が嫌いではなかった。


リーだって誰だって、帝国軍の権威主義がおかしいことくらい、十分わかっているのである。

違いは、ただそれに乗っかって自分も権力を得るのか、自分の正義感に従い、乗らずに反対するのか、それだけだ。

そして世間では前者を「キレ者」と呼び、後者を「バカ」と呼ぶ。

たったそれだけの問題。


リーは自分もそうするかどうかの問題は別にして、ラシェットのバカさ加減には好感を持っていた。特に同期連中はそういう意見のやつが多くて、ラシェットに呆れ果てていたのは、エリサとクラウスくらいだ。


「ラシェットはどうかしてる。あんなことを言って全てを捨てるなんて……じゃあ、なんで私達は今まで必死に頑張ってきたの?」


そう言ったのも確か、エリサだった気がする。

まぁ、普通に考えればその通りだ。何も悪いことをしているわけではない。皆はただ、世の中のルールに則り、この国でのし上がろうとしていただけなのだから。


ラシェットとエリサは軍学校時代からずっと付き合っていて、二人とも第1空団に入った。

第1空団という所は特別で、それだけで今のリーと同等程度の権力が与えられる。その代わり、並みの戦闘能力と操縦技術、学習成績では入れない。

リーは学習成績は抜群だったが、他二つはまるでダメだった。この大雑把に分けた3つの要素のうち、戦闘能力と学習成績の国内一位をエリサが、操縦技術の一位を獲ったのがラシェットである。

だから、それだけを見ても二人の第1空団入りは妥当だと言ってよかった。エリサの言葉通り、二人ともかなりの努力を要したことだろう。

それを……


リーは昔を思い出しながら視線を空に移した。視界の端には大きく空に張り出したアーケード街の巨大な屋根が見えている。


「バカなやつだな……あいつは…」


リーは思う。俺だったらあんな何も変わらない、無駄なことを口にして、第1空団を追われるようなことはしない。

せっかく第1空団に入れたのだから、その中で出世し、団長になることを目指しただろう。まぁ、第1空団の団長というのは帝国でも五本の指に入る程の最高権力者で、いくら自信家のリーでも尻込みする程の目標なのだが……


まぁ、それは置いておくとして。

そんなことよりも、俺だったらあんなバカをしでかしてエリサみたいな、素直で美人でナイスバディな彼女に愛想を尽かされるなんてことは絶対にしないなと思った。

もし別れを告げられたならば…自分だったら地面に這いつくばってでも引き止めただろう。


「本当に。エリサはお前には勿体無い相手だったよな……ラシェット。ま、俺も今のエリサはちょっと勘弁だが……」


リーはラシェットが軍を辞めた後のエリサの変貌ぶりを思い出しながら苦笑した。

元々、上昇志向が強い女の子だったが、まさかあんなふうになるとはな……と。そして、そこまで考えて


「や、今はそんなことを考えている場合ではなかったな」


と、気を取り直した。


歩きながらついぼーっと昔を思い出してしまったが、リーにはこの任地で飛空艇偵察任務の他に、やらなければならないことがあるのだ。


今日はその報告書をまとめるために、事務所を目指しているところだった。

そうして着くまでに歩きながら考えを整理しておくつもりだったのに……また余計なことに頭を奪われてしまった。


リーはポケットに手を突っ込んだまま、改めてコスモの巨大なビル群を眺め、歩いた。

数年前までなかったと記憶しているビルが、にょきにょきと生え、どこかセント・ボートバルの景色と似てきたなと思う。


それのどこがいけないのかは、わからなかったが、とにかくリーはそれを何か不快な物を見るように見て、また俯いた。



ーー「おかえりなさい、少尉」

「ん、ご苦労様です」


リーが事務所に入ると、ここコスモでのリーの唯一の部下、ヤクーバ・カーチェル曹長、御年70歳が机に向かったまま笑顔で迎えてくれた。

ボサボサの髪も、伸び放題の眉も、もっさりとした口髭も全て真っ白な、小柄で、見た通り笑顔が素敵なダンディである。


70歳といえばもうとっくに退役している年齢だが、ボートバルには勤務態度や任務成績が良いと退役を遅らせることができるという制度があった。よって、ヤクーバ曹長は現役時代、余程勤務態度が良かったのだなと、リーは勝手に思っている。

しかし、それにしても70歳となれば、他に現役ではいないのではないかという程の大先輩である。だから、リーは階級は自分の方が上なのにも関わらず、敬語を使っていた。もちろん、不快でもなんでもない。


「今日は何か新しい資料が手に入りましたか? 少尉? 」

リーがドアを閉め机の前に来ると、ヤクーバは既に資料で埋め尽くされた机から目を離し、微笑んで聞いてきた。

それを見てリーもニヤッと笑う。

そして、

「ん、よくぞ聞いてくれました。曹長」

と言うと、鞄から何やらグシャグシャの紙束をどっさりと取り出し、またヤクーバの机の上に置いた。


「おおっ! よくもまたこれ程……」

ヤクーバは細い目を見開き、声を上げた。

「いや、資料集めにはちょっとしたコツがあるのですよ、曹長。私にかかればこんなものです」


ヤクーバに感心され、リーは上機嫌になって言う。

でも、それらは別に大して入手困難な資料ではなかった。量ばかり多いのもそのはずで、これらは全て


「コスモ重工業社と取引のある中小企業、町工場、卸業者などの仕入れ帳簿、輸出帳簿、決算表等の内部資料」


なのである。

実に細々したもので、その内容も多岐に渡り、公開されている資料から、非公開の資料、またはメモ書きのようなものまで、ごちゃごちゃと束にされていた。


リーはそれらの資料を独自のやり方で集め、ヤクーバにはここで、その精査をしてもらっているのである。

具体的に言えば、内部資料と公開資料との差異がないかどうかを見てもらっているのであるが、まぁ、しかし少しくらいの差異は当然あるものなのだ。

だから、一応念のためくらいの仕事でしかない。というか、これくらいしかリー達にできる仕事はないのだった。


一口に飛行艇技術の偵察と言っても様々な視点がある。部品や材料の調査もその一つであり、もっと大枠の設計を調査する場合もある。


そもそもの話、飛行艇と呼ばれる、長距離移動可能な大型飛行機の開発は、現在では全世界で、ある程度協力する形で行われている。

だから基本的には各国の開発状況は、調べるまでもなく全て公開されているのだ。

そして結論としては、飛行艇の開発自体、現代の技術力では到底不可能であり、少なくとも実用化まで後30年はかかるだろうというのが、全世界の共通認識なのである。


リーが暇な任務であるという理由はそこにあった。


偵察も何も、結論はとにかくなんでもいいのである。だって、まだどこも完成の目処も立っていない未知の技術なのだから。

ちょっとでもそれらしいことを調べて、それなりの形に報告書をまとめれば済む、お遊びのような仕事なのだ。

実際、こういう任務はよく駆け出しの諜報部員がやらされているのを見たことがある。それも報告書作成の「練習」の為にだ。


それを今、バリバリ仕事をしてきた少尉と、70歳のベテラン曹長がやっているのである。


この状況でため息を漏らさないリーは、さすが勤め人の鑑のような男だったが、それもそろそろ限界に近かった。


「さてと……」

リーはヤクーバに資料を渡すと、自分の机に座り、無駄な考えを押し出すために、昨日まで書きためていた別件の報告書に改めて目を通し始める。

しかし、全然頭に入ってこない。

だから仕方なくリーはコーヒーでも飲むことにした。もちろん、ここには気軽にコーヒーを頼めるような部下もいない。自分で淹れるのである。ちなみに、ヤクーバは緑茶党だった。


ボロボロの事務所の給湯室でリーはお湯を沸かす。

リーはここのことを心の中で「ボロボロの事務所」と呼んでいたが、一応この部屋にも

「ボートバル帝国陸軍諜報部コスモ支部特別臨時任務室」

というなんとも有難い正式名称がある。


その名前と住所を聞かされ、初めてここに来た時、リーは愕然とした。絶対に適当に決めただろうと……


まさに室内も見ないで決めたような部屋だった。そして、紹介された部下は70歳のお爺さんときた。


適当な任務に、ボロボロな事務所、お爺さんの部下。なるほど、飛ばされた男の定番である。


リーはここまであからさまだと、いっそ清々しいなと思った。


だから、このどうでもいいような任務も全力で当たってやろうと心に決めた。

いくら全世界で協力するとは言っても、どの国だって自国が一番に開発したい気持ちはあるのだ。隠していることはまだまだある。

実のところ、ボートバルだって飛行艇について、全ての技術や進捗状況を開示しているわけではないのである。

だったら、何かコスモでも掴めることがあるかもしれない。


幸い、ヤクーバはただの使えない爺さんではないことはすぐにわかった。きっと本部はよく調べもしないで、年齢だけ見てリーにあてがったのだろうが、リーにとってはラッキーだった。ヤクーバには尊敬できたり、見習うべきところがたくさんあったからだ。

次に事務所はボロボロだが、その場所だけは良かった。都心のど真ん中にあるので、資料集めがし易いのだ。それもリー達にはプラスに働いた。


「熱つつっ…」


コーヒーができたのでリーは机に持ち帰り、ついでに淹れたお茶をヤクーバにも持って行った。それを

「すいません、少尉。お気を遣わせて……」

と、ヤクーバは受け取る。

リーはや、ついでですから、と言い机に戻った。


まぁ、いくら頑張って上を見返したところで、すぐにセント・ボートバルに呼び戻されることはないだろうと、リーは思っていた。

きっと、戻れるかどうかは、時間が解決する問題なのだと。

何か事が進むまでリーはセント・ボートバルに近づくことすらできないのではないか? 行くと邪魔になるだろうと思っている人物、それも大物がいるのだ。


そして、その人物はリーとラシェットが関わることを警戒している。


そうリーは結論づけていた。


「俺がラシェットに協力すると、何かの邪魔になる」


その「何か」を求めるのもリーにとっては、この任地での重要な任務だった。


だから彼はまた、ラシェットへの報告書の作成に入るのだが……書くべきことは少なく、得られた情報はさらに少なかった。


まず、サマル・モンタナ氏とその仲間達の大学時代の話だが、それはもう知っている人がいないのか、ロクに聞けなかった。

それと、コスモ出身だというケーン・ダグラスの両親に至っては、訪ねてみたが会うこともできなかったのである。近所の人に聞くと、しばらく前からずっと旅行に行っているのだという。

それを聞いてリーは変だなと思った。

それはそうだ。息子の捜索願いを出しておきながら、自分達はのんきに長期旅行なんて、明らかにおかしい。

しかし、それでもケーン・ダグラスの両親の足取りは依然として掴めないままだった。無事でいることを願いたいが、この線は引き続き追うつもりでいる。

次にトカゲのこと、ジース・ショットのこと、サマル氏の論文のことなど、色々と手を尽くして調べようとしているが、なにせここはコスモだ。そううまくはいかない。環境も使える人手も人脈も、ボートバルにいる時よりずっと限られているのだから。


「参ったなぁ……」


リーはペンを置き、呟いた。

全くのお手上げではないが、どうも自分はボートバルでの便利な地位に慣れ過ぎていたらしい。ここにいると、何か手足を捥がれたような感覚すらあった。


……そういえば、自分の放った部下達はうまくやっているだろうか?

カジとミニスは首尾よくラシェットと合流できたのか? サーストン達はあいつにちゃんと手紙は渡せたか?


リーはふと、そう思った。


しかし、リーは可愛い部下達を心配はすれど、不安には思っていなかったので、それ以上は考えないことにした。

今は部下の心配より、自分のことである。

いつまでもこのままでは、それこそ部下に申し訳がない。


リーは別件の報告書から、今度は昨日までにまとめてもらっていたヤクーバの調査報告書に目を移し、読み始めた。

「ふむ……」

その報告書は率直に言って力作だった。

実に事細かに、品目が分けられ、再計算されている。

もうこれだけで十分過ぎるくらいの報告書で、これさえあれば本来ならこんな任務からは即刻、解放されるところなのだろうが、リー達はそういうわけにもいかない。


そう考えると、もはやこの報告書は二人の趣味の産物と言っても過言ではなかった。二人の仕事人間が作り出した、無駄に質は高いが行くあてのない無駄な資料。


リーはその資料をペラペラ捲りながら、もの凄いスピードで目を通していく。

作る方はかなりの時間と労力を割いて、資料を作成しているのに、読むのはあっと言う間だ。

だからこれをやると、いつもリーは部下から白い目で見られるのだが、彼はそこは厳しく接している。時間が掛かったとか、苦労したとかは関係ない、質が大事なのだと。でも、決して苦労を惜しむなよ、と。まぁ、評判が悪いのは変わらなかったが。


と、その時。


紙を捲るリーの手が止まった。


何か違和感を覚えたのである。


最初は何がおかしいのかよくわからなかった。だからリーは、また戻っては、進み、戻っては、進み、ページを行き来して資料の数字を精査した。


それでも違和感は消えなかったので、さらに昨日まで目を通していた資料も引っ張り出してみた。


そうして資料を読み始めてから30分くらい経った頃、


「んー……妙だな…」


と、リーは思わず声に出して呟いていた。


そこまで考え、仕方なくリーが、引き出しから算盤を取り出すとヤクーバが


「ほほっ、計算間違いではないですよ。少尉。既に私も何回もやり直してみましたから」


と、リーの疑問を見透かしたようなことを言った。だからリーは大人しく算盤を仕舞う。


「ん、そうですか……しかし、この差異は? 」

「はい。計算間違いではありません。しかも、気にするような額でもありません」

「……本来であれば、な」


リーは腕を組み、背凭れに寄りかかって言った。それにヤクーバも、はいと頷く。


「しかし、こう額が揃っていると逆に目立ちますね。ほっほっ」

「ん、そうだな。僅か1万ペンスと見るべきか、されど1万ペンスと見るべきか……」


リーは資料を持ち、ヤクーバの机の前に行った。そこでは、まだヤクーバが残りの書類の整理と分類を行っていた。肩の凝りそうな作業だ。しかし、それが面白いことを引き出しそうだった。


「この奇妙な差異の一致……そして、その企業の多さ……あえて報告しなかった理由はなんです?」

リーは聞いた。するとヤクーバは細い目をさらに細めながら

「まだ確証が掴めなかったからです。より多くの企業の資料を当たる必要もありました。こういうことは調べているのが知れると、すぐにまた隠されてしまいますので」

と言った。それにリーは微笑み、

「もっともですね」

と答え

「では、今日からは私も手伝います。書類を分けてください」

と言って手を差し出した。

でも、ヤクーバは意外にもその手を拒み


「いえ、ここは私は一人で十分です。それよりも少尉はもっと多くの資料を集めていただきたい。きっと少尉であれば、可能なのでしょう?」


と言った。

リーはそれも、もっともだなと思った。

だから、


「ええ。当然です。集めてきましょう」


と言い、銀縁のメガネをくいっとあげた。



その10分後にはリーは事務所を出ていた。

そして、コスモの都市地図を片手に歩く。


話は思わぬ方向に転がってしまったが、ちょうど退屈していたところだ。やはり仕事はこうでなくちゃいけない。

リーはあのヤクーバの作った資料の数字を思い出し、ほくそ笑んだ。もしかしたら、自分達は、今までずっと見過ごされていたところに、解剖のメスを入れようとしているのかもしれない、 そうワクワクしながら。


「ラシェット。お前には悪いが、俺はまず、このネタをものにして、堂々とセント・ボートバルに戻るぞ。そうなったら、俺もお前をもっと助けられるかもしれないからな……それまで。それまでなんとか頑張ってくれよ」


リーはそう思いながら、カンカン照りの空の下を早足で歩いた。


やっぱり彼は諜報部の仕事が好きで堪らないのだ。

だって、そんな顔をしていた。



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