坑道
昨夜なかなか寝つけなかったナーウッドだったが、彼の体内時計はにわとりのように正確で、ぴったり朝4時に目を覚ました。
長年、固い石の上で寝るのに慣れた体は全く痛くないし、筋肉も凝り固まっていない。だから、ナーウッドはさっと起き上がることができる。
起き上がると彼はリュックから鍋を取り出し、すたすたと何処かへ歩いていく。ランタンはまだ眠っている二人のために置いていった。
真っ暗で何も見えない中をナーウッドは歩く。でも、全くなんの手掛かりもなく歩いているのではない。ナーウッドは以前ここに来ていた頃の記憶と、彼の類まれなる五感を使い、その臭いと音を頼りに歩いていた。それは岩の壁の間から滲み出る水の臭い。それが僅かな流れになって滴り落ちる水の音。ここには地下水が滲み出ている所があるのだ。
「よし」
ナーウッドはその場所に着くと、鍋を壁にひっつけ水を集める。とても綺麗で冷たい水だ。ナーウッドは鍋に少し水が貯まると、それを手に注いで飲む。味もおいしかった。それを確認するとまた鍋で水を集める作業に戻る。
そうやって水を鍋いっぱいに汲むと、元来た道を引き返す。帰りは簡単だった。何と言ってもランタンの光が目印になる。
ナーウッドが二人の元に戻っても二人はまだ眠っていた。でも、彼は構わずにガスバーナーで水を温め始める。そして、リュックから紅茶のティーパックとカップを出した。朝食の代わりだ。これを三人で飲もうと思い、ナーウッドは水を汲みに行ったのだった。
普段、このような状況では極力食料を使わないようにするナーウッドが、なんでそんなことをしたのか? それは彼自身にもよくわからなかった。
それは彼の元々持っている親切心からかもしれないし、ただ単に気を利かせただけかもしれない。紅茶は地上での毎朝の習慣だったというのもあるとは思う。でも、それ以上にナーウッドはきっと、この眠っている二人に、久しく忘れていた仲間意識というもの抱くようになっていたから。そうに違いないのだ。
命を助けてくれたミニスと、ずっと探し続けていた守人であるキミ。
そんな二人だからこそ、ナーウッドは急激に心動かされた。
しかし、その動きがあまりに急だったから、まだ彼には十分に理解しきれていないのだろう。それ故の疑問だったのだけれど、この疑問もナーウッドの中では
「まぁ、今回は道のりの短い遺跡だし、食料も水も十分に足りる。だから朝の紅茶くらい、いいだろう」
という、なんともつまらない食料観点からの判断だということになってしまった。ナーウッドはこういう感情には本当に鈍感で、いつも人をやきもきさせたり、誤解させたりする。
お湯が沸けると、ナーウッドはミニスとキミを起こすべく、二人の体を揺すりながら
「おい、もう夜明けだぞ。起きて、紅茶を飲んだら出発だ。いいな」
と言った。
もうすっかりしゃっきり起きていたナーウッドと、まだ少し眠いキミと、まだすごく眠かったミニスは目をこしこししながら紅茶を飲んだ。紅茶は人の神経をリラックスさせる、それにカフェインで頭もすっきりさせてくれる、とても良い飲み物だなとナーウッドはいつも思う。
そして、それが片付くとナーウッドの指示で出発。3人はまた昨日の隊列になり、歩き出した。
この階は、今歩いている広場だけを見ても、昨日までの切り出した石を積んだ作りの通路とは違い、どこか自然の石の層をそのままくり抜いたような、そんな作られ方をしている。ぱっと見、自然に出来た洞窟のようだが、よく壁を観察すると、所々にノミ跡があるから人工物に間違いはなさそうだ。
それにしても、よく掘ったなという感じではある。昔の人の労力というものは本当に恐ろしい。おそらく現代人とは基礎体力が違うのだろうが、現代人の方が遥かに栄養状態は良いはずなのだ。なのに、情けないことだが、もうとてもこんなことはできないし、したくもないなと思う。
「あと、少しで石の部屋の前には着く。問題は石の部屋に入れるのかどうかと、入れたとして、中がどうなっているかだ。もし、その先がとても長い道のりになりそうなら、一度帰って装備を見直さなきゃならないし、もし危険だらけの場所だったら、それなりの覚悟が必要だ…とにかく、ここから先は何が起きるかわからない。その辺はお二人さんは大丈夫か?」
ナーウッドは歩きながら言った。
それにキミとミニスはうんと頷く。
そんなことはとっくの昔に覚悟していると言わんばかりに。
その二人の表情を確認すると、ナーウッドはニヤリと笑って
「ふっ、そうだ。そうこなくちゃな」
と言う。
「ねぇ、その部屋に入れるかどうか、私にもまだわからないんだけど、それよりもまず、サマルさんの書いていたヒントとなる記述。それが、どこにあるのかを探さないといけないんじゃない?まさか、部屋の中じゃないものね?」
すると、キミが聞いた。それにナーウッドは
「ああ。前は、あの部屋には入れなかったからな。でも大丈夫だ。そのことなら大体見当がついてる。それはきっと石の部屋、その扉に刻み込まれているレリーフのことさ。当時は解読できない部分が多かったが、サマルはその後も随分熱心に研究を続けていたみたいだからな。もし、そんな記述があるとしたら、まずそこに間違いないだろう」
と、ちょっと振り返って答える。
「ふーん、わかったわ。じゃあとにかく石の部屋を目指せばいいのね?」
「そういうことだ。あとは、その記述が何なのか、俺の探している物が果たして部屋の中にあるのか、なんだが……」
「その記述の内容はざっとでも知らないの?」
ミニスは難しい顔をしているナーウッドに聞く。しかし、ナーウッドは難しそうな顔のまま
「悪いが、当時の俺にもよくわからない部分が多かったんだ。だから、もう一度見てみないことには何とも言えない」
と煮え切らない答えを言うから、キミとミニスはえー!? またー? と言い、
「本当にプロフェッショナルなの?」
「ねぇ? 怪しいものよね」
とナーウッドをジロジロと見た。もちろん今回のは、からかい半分に言っているだけなのだが、ナーウッドは冗談が通じ難い男なので、顔を少し赤くし、
「だから、散々言ったが古代文字は基礎研究も進んでいない分野だから、解読が難しいんだ。そう簡単に読めるものじゃないんだ」
と必死に弁明するから、二人は笑ってしまった。
なんとなくだが、昨夜のこともあり、二人にもナーウッドのことがほんの少しずつ、わかり始めてきたのかもしれない。
あまり協力関係だとか難しく考えず、単に友達になればいいのだ。
サマルを殺そうとしているということも、その理由をまだ言えないということも、ナーウッドを信用しないということには値しない。信ずべきは彼の善良性、その何気ない仕草であり、普段の行動と言葉なのだ。
口には出さないが、本当の信頼関係とは、もしかしたらそういうものなのかもしれない。
きっと皆、知らず知らずのうちにそうやって考えているのだ。それはこの場の雰囲気でなんとなく察した。
「あっ、まただ…」
しばらく進むとまた別れ道、というか幾つもの坑道の穴にぶちあたった。今度のは、かなりの数の道がある。二択、三択ではない。
これでは、どの道が正解なのか、調べるのが大変だっただろうなと、二人は他人事のように思う。
そう思うのもキミとミニスの二人は、今度もまたナーウッドが正解の道を知っているに違いないと気楽に考えていたからで、実際にナーウッドと目が合うと、彼はコクッと頷き、一つの坑道へとまっすぐに向かう。そして、そこでなにやら地面を手で触って調べ始めた。
「何を調べるの?」
ミニスが近寄って聞いてみる。すると、ナーウッドは
「地面のすり減り具合を見ているのさ」
と言い、一旦そこで言葉を区切るとすくっと立ち上がり、隣の入り口に移動する。
「ほら、よく見てみると微妙にすり減り方が違うだろう?石の地面の遺跡ではこういうところを見ることができるから便利だよな」
ナーウッドは地面を指差しながら、そう言うのだが、ミニスにはその意味がよくわからなかった。だから、首を傾げるとナーウッドは続けて
「いいか? こういう風にたくさんすり減っているってことはだな、その分多くの人の行き来があったってことだ。そして、それは当然、正しい道が一番多くの人の行き来があったに決まっている。俺はそういうところを見ていたのさ」
と教えた。
「ふーん、なるほどねぇ……」
その説明でミニスも納得がいった。
「じゃあこの道が正しい道なのね?」
ミニスが道の先を指差して言うとナーウッドは
「ああ、そうだ。念のため確認したが、間違いない」
と答える。やっぱり道を知っている人がいると話が早い。でも、キミは気になったので
「ねぇ、その方法で道を間違えたこととか、今までなかったの?」
と聞いてみた。するとナーウッドはああ? と言った後、涼しい顔で
「いや、あるぞ。すり減ったところがフェイクだったことがな。あの時はかなりキツい目に遭わされた…でも、あれは比較的新しい、地上の遺跡だった。だから、この地下のような古い層の遺跡ではそういったことは滅多にないから大丈夫だ。なんなら、そう覚えて貰って構わない」
と答えた。
別にキミはそんなことを覚えるつもりはなかったが、
「そう。わかったわ。覚えておく。ありがとう」
と言っておいた。
「よし、じゃあ行くぞ。あと、前にも言ったが、ここからは絶対に俺の足跡の上しか踏むなよ。それと、壁に手をつくのもなしだ。いいな?」
そう言って、二人に再度注意事項を確認する。それに二人が、もう何度目になるかわからない同意をすると、ナーウッドも頷き、満を持してランタンをその道の先へとかざした。
すると、その光のあたった奥の方の壁と床が、ざわざわざわと動いたように見えた。
それに、ミニスは思わずビクッとなる。そして、そんなことには気が付かないかのように、自然と出発しようとしたナーウッドの足を
「ちょっと、ストップ!」
と言って止めた。
「なんだ、どうした? ……具合でも悪くなったのか?」
ナーウッドは振り返ると、不可解そうにミニスの顔を見て言う。
でも確かに、その瞬間のミニスの顔色はあまり優れなかった。なにせ、見たくないものを見てしまったのだ。それは、顔色も悪くなる。
「そ、そうじゃないけど。い、今何か見えなかった? こう、ざわざわーって……」
ミニスがざわざわーっとジェスチャーをしながら聞くとナーウッドは
「ああ、あれか。あれはただのネズミだ。気にすることはない」
と何だそんなこと、という感じで言う。
「ネ、ネズミって……あんなに大量に!?」
「ああ。だから言っただろ? もうすぐ遺跡らしい光景が見られるって。この先がそうなんだ。それに、ネズミだけじゃない。蜘蛛と蛇とサソリとコウモリも大量にいるぜ」
ナーウッドが親指で道の先を指しながら気軽に言う。それにミニスは
「うるさいわねっ!聞いてないわよ、そんなこと!余計なことまで言わないで!」
と、自分で聞いておいて逆ギレするかのように叫んだ。それにナーウッドは思わず顔をしかめる。彼の耳にはミニスの声は大き過ぎるのだ。
「し、仕方ないだろ。事実は事実だ。それに、ここだけは絶対に通らなきゃいけない。そこをわかって我慢してくれ」
その剣幕にナーウッドにしては珍しく、下手に出てミニスを説得した。その困り顔にミニスは諦めてトホホ…と肩を落とす。でも、諦めながらも
「なんで……こっちも掃除しておいてくれなかったの……」
と、ナーウッドのいう綺麗好きな仲間に、文句を言わずにはいられなかった。
道に踏み込むと、確かにそこは蜘蛛の巣とコウモリやネズミの糞、それにわけのわからないアストリア大陸の虫の巣窟だった。
認めたくはないがそうだった。
下に落ちている石や何やらの死体や骨の間からは、うぞうぞと蠢く赤く長いムカデみたいなのやら、バカでかいダンゴムシみたいなのが、いっぱいこんにちはしている。
だから、ミニスは肩を縮こませ、つま先で立って歩く。余程嫌なのか、後方の警戒という普段から自然とできていることすらも忘れ、前を歩くキミの背中にギュッとしがみつき、目もろくに開けていない。ミニスの心の中は「早く、早く終われ!」ということでいっぱいだった。
しかし、一方のしがみつかれている方のキミはというと、意外にも冷静でちゃんとナーウッドの足元を見て、その跡の上をしっかりと踏みしめて歩いている。
だからこそミニスが適当に歩いても大丈夫なのだが、その背中にしがみついている大人の女性のことを思うと、キミはどこか怖がるのがバカらしくなって「別にただの虫じゃない」と思っていたというのも本音だった。
本当はキミだって虫は嫌なはずなのに、妙に強気になっているのはそのためだ。でも、せめてジーンズを穿いてくればよかったなと、ハーフパンツにタンクトップ、それにカーディガンという今の格好のことだけは後悔していた。
「ねぇ……まだなの? まだ着かない?」
「うるさいな、まだ10分も経ってないんだ。そんなにすぐ着くはずがないだろ。それにこっちは動物の糞で見え難くなった床を見極めるのに必死なんだ。時間だって、余計に掛かるに決まってる」
ミニスの声にナーウッドが反応する。それにはミニスと、さすがにキミもため息をついた。
「いいか? ここにいるやつらはこっちが踏んづけたり、何かしない限り害はないやつらばかりだ。見た目はちょっと悪いが、決して話してもわかり合えない連中じゃない。そう思え」
ナーウッドは言う。でもそんな言葉は慰めにも何にもならなかった。ミニスは性格なんてこの際どうでもいいから、まずは見た目をどうにかしてくれとさえ思う。
「うう……、キ、キミちゃんはよく大丈夫ね。そ、尊敬するわ……」
ミニスがキミの耳元で呟く。それにキミは
「私だって嫌だけど、しょうがないじゃない。とにかく、頑張りましょ」
と励ましで応える。もう、どちらが大人なのか、まるでわからなかった。しばらくはこの状態が続きそうだった。
「よし、次はこっちだ。足元、気をつけろ」
そう言ってナーウッドは分かれ道を確認すると迷わず右に曲がる。それにぴったりとキミはついて行った。見るとこの坑道もやはり進むほどだんだんと天井が低くなってきていて、ナーウッドの身長ではもう屈まないと、上に頭が着きそうだった。
「あっ、ちょっと待って…置いていかないでっ……」
先ほどから少しだけ慣れてきたのか、なんとかキミの背中から離れて歩いていたミニスだったが、そのペースは相変わらず上がらず、キミとナーウッドに置いていかれそうになっていた。だから、なんとか追いつこうと小走りになる。それにナーウッドが
「おいおい、急ぎ過ぎるな。それよりも足跡を慎重に辿るんだ。待ってるから」
と慌てて声を掛ける。
「はいはい、大丈夫よ。そのくらいは、ちゃんとわかって……」
と、ミニスが言いかけた時だった。
ぴとっとミニスは頭の上に何かが落ちてきたのを感じた。
「ん?」
それに一瞬、理解が及ばなかったミニスだが、すぐに恐怖に全身を硬直させる。感じたくはなかったが、まだ落ちてはいない。まだ確かに頭の上に何かが乗っている。そんな感触があった。
「………」
恐怖に言葉の出ないミニス。
すると、その様子を遠目に見ていた二人が
「あ? どうしたんだ? ゆっくりでいいから、早くこっちに来るんだ」
「どうしたの? ミニスさん。何かあった?」
と言う。
その言葉、特にナーウッドの言った「ゆっくりでいいから、早く来い」という言葉にミニスは矛盾を感じなくはなかったが、そんなツッコミすら言葉にならない。本当は助けて欲しいのに、口が震えて何も言えないのだ。
そんなことをしていると、頭の上のやつがカサッと動いた。ミニスは心の中で叫ぶ。
「勘弁してくれ」
と。
「おい、本当にどうしたんだ? そっちに行こうか?」
ナーウッドがまた声をかける。それに、ミニスはようやく少し我に帰り、意を決して腕を動かした。
頭の上のやつを捕まえるべく。
ただでさえ、自分のせいで遅れているのだ。これ以上は迷惑をかけられないし、それにこんなことでは、帝国陸軍諜報部の面子に関わる。本当はそんなことはないし、何も捕まえなくとも、ちょっと手で振り払えばよかったのだが、やはりこの時のミニスは冷静ではなかった。
ミニスはそーっと腕を挙げ、頭の上のそいつをガシッと捕まえた。全身に鳥肌が立ったが、なんで自分にそんなことができたのか……ミニスは恐る恐るそいつを見た。
「げっ……」
ミニスは思わず声を出す。そいつは見たこともないほど大きい、蜘蛛だった。どうりで軽いわけだ。しかし、その毒々しい色といい、形といい、絶対に危険生物である。そう思うとミニスはぽいっとそいつを捨てた。
「おーい。大丈夫かー?返事くらいしろー」
ナーウッドがまた心配そうに言う。それにミニスは
「ごめんなさい。ちょっと蜘蛛がいたから……」
とようやく返事をした。それにナーウッドは
「蜘蛛? だから、そいつは見た目は悪いが、特に害はないんだ。攻撃的な性格でもないし、毒だって大したものじゃない。刺されても、2日くらい気分が悪くなるだけだ」
と応える。それを聞いてミニスはまた色々とツッコミたくなったが、疲れたので止めた。
もう、どうでもいい。早くここから抜けて、暖かい風呂に入りたい。
ミニスはそう思ったのだ。
「……ふんっ、何よ、蜘蛛くらい。なめんじゃないわよっ」
いくらか捨て鉢気味ではあったが、そんな気持ちになり、ミニスは歩き始める。
が、その最初の一歩目でいきなり
カチッ
と、何かを踏んだ。
ミニスはやはり全然冷静ではなかった……
すると、ミニスの頭上から
バサバサバサーッ
と大量の蜘蛛が降り注ぐ。
あの頭に乗っかったやつと同種類の蜘蛛だ。たぶん親戚だろう。今日はみんなで、お出掛けだ。
ミニスは完全に真っ青になった。もう、毒が大したことないとか、そんなのは関係ない。今にも気絶しそうだ。しかし、
「キャーーーーーーッ!!」
と最後の気力を振り絞って叫ぶと、ミニスは全身を揺すって暴れた。とにかく派手に。そうやって蜘蛛を振り払いたいらしいのだ。しかし、その様子を唖然として見ていたナーウッドは
「バ、バカッ!あんまり暴れるな!落ち着け、じゃないとまた……」
と言う。しかし、そのアドバイスも少し遅かった。
「キャーッ!もう、やだやだやだやだ、離れて……離れなさいよっ!」
カチッ
「あっ……」
キミとナーウッドの二人は声を揃えて言った。
蜘蛛を振り払おうとしたミニスの肘が、壁に埋め込まれていた何かのスイッチを押してしまったのだ。すると、遠くの方からなにやら
ゴゴゴゴゴゴコゴゴゴ……
という音が聞こえ始める。
何かが、こちらに向かって来ているらしい。それが何なのかはわからないが、今度は蜘蛛が落ちてくるというようチャチな仕掛けではないようだった。
でも、ナーウッドだけはすぐにそれが何なのか理解して、
「……走れ」
と呟く。
それにえっ? と言うキミとミニス。
「いいから走れっ!死にたいのかっ!!」
「!?」
それ以上の言葉は不要だった。
キミとミニスの二人が地面を蹴り、走り出したのを見ると、ナーウッドも二人を先導するように全力で走り出す。
もう、床の罠など気にしている場合ではなかった。そんなの踏んでもいいから、とにかく全力ダッシュ。
でなければ、全員溺死だ。
そう。後ろから迫ってきていたのは、大量の水。おそらく地下水脈の水だろう。広場で滲み出ていたのは、その一部だったのだ。だから、ナーウッドはすぐに勘付いた。これは水の音だと。しかし……
「ちっ……ダメじゃこのままじゃ…」
ナーウッドはちらりと後ろの二人を見て思った。二人とも全力で走ってはいるが、遅い。特にキミはまだ年齢的にも身長的にも、ナーウッドの速度に遠く及ばない。これではダメなのだ。間に合わなくなる。
「ええいっ、遅い!」
「あっ!ちょっと!」
「わっ、何すんのよ!」
ナーウッドは痺れを切らして、なんと二人を両脇に抱えた。いくら女性とはいえ、二人を軽々とである。そして、全力疾走。しかもそれは、馬かチーターに抱えられているかのように速かった。ナーウッドは、ぐんぐんとスピードを上げ、みるみるうちに坑道を駆け抜ける。
「うそっ……なんて馬鹿力…?」
ミニスは驚く。そして、ナーウッドの顔を見ると
「次は右、次は左……」
と、口の中でもごもご言っているのが聞こえた。そうやって、道を確認しているのだ。
前屈みになりながら、そう呟くナーウッドの顔は真剣そのもの。ものすごく集中しているのがわかる。こういった瞬時の集中力も、どこか野生の動物を思わせた。
ミニスは後ろを見る。
ナーウッドの駆ける後ろでは、先ほどから踏みまくっている罠という罠が次々に飛びかっている。毒矢、槍、蛇、刃物、硫酸、落とし穴……などなど。
なんで、正しい道にもこんなに罠を仕掛けなければならないのか。もう理解不能だった。これでは、もはや趣味だ。こんな自然石の壁に、こんな多くの罠を仕掛けるなど、さぞかし大変だっただろう。だから、きっと楽しんで作っていたに違いない。ミニスは昔、ここの罠に掛かってしまった善良な守人がいなかったことを、切に願った。
「ちっ、まだだ。まだついて来やがる……」
ナーウッドは耳を澄ませ、そう吐き棄てる。
そして、右へ、左へ。
坑道はミニスが思っていたよりも、ずっと長い道のりだった。行けども行けども出口が見えない。ナーウッドは短い道のりだと、常々言っていたがとんでもない話だ。また騙されかけた。
ミニスはどこまでも続く、虫だらけの景色を見ながらそう思う。というか、
「なんだ、こんなことができるなら最初から抱えてもらえばよかったわ」
とすら思っていた。
ナーウッドは今度は左へ、左へと曲がり、長い下り坂へと入る。
すると、後ろを見ていたキミが、
「あっ、来た」
と言った。それを聞き
「げっ、本当だ!」
とミニスも振り返って言う。
もの凄い勢いの水流だ。それがうねりをあげ、坂道を下ってきている。追いつかれるのは時間の問題だと思われた。
「ねぇ、もっとスピード出ないの!?」
「く、車みたいに言うなっ!これが限界だ!」
ナーウッドは振り向きもせずに叫ぶ。叫ばないともう声も聞こえないのだ。額から玉のような汗が吹き出ている。
「でも、このままじゃ……」
キミが言う。しかしその言葉にナーウッドは
「大丈夫。もうすぐだ。もうすぐ、あそこに着く……」
と、苦しそうだが、希望があるように応える。
「あそこ? あそこって、まさか石の部屋?」
ミニスは期待を込めて聞いた。でも、ナーウッドは
「いや、その手前の渓谷だ。ほら、あそこだ」
と言い、前を見るように促す。
すると、そこにようやく出口が見えた。
「やった!出口!」
出口を見て表情を明るくするミニス。
しかし、渓谷とは、どういうことだろうか?
二人にはそんな疑問が残ったが、考える暇もなく、ナーウッドはその出口を通り抜けた。そして、そこにあったのは……
「なっ……」
二人が思わず絶句するような深い谷間。
向こう岸までゆうに20メートルはあろうかという広い岩の割れ目だった。
なんとそこで道は途切れていたのである。
橋もなければ、ロープもない。迂回する道もない。これでは、せっかくここまで来たのに、あとは水に流され谷間に落ちるだけだ。
「い、行き止まり? そんな……どうなってるのよ、ナーウッド…」
とミニスが言いかける。が、そんな言動もナーウッドのとった驚きの行動に引っ込んでしまう。
なんと、ナーウッドはスピードを全く落とさぬまま、谷間に突入しようとしているのである。
それに、気が付いたミニスは
「なっ、バカッ!あんた本気?飛び越えられるとでも思ってるの!?」
と抗議し、体を拗らせて抜け出そうとする。しかし、それをナーウッドは力尽くで押さえ込み
「いいからっ!俺を信じろっ!死なせはしないっ!」
と力強く言った。
その言葉にミニスは暴れるのを止める。
そんな二人のやりとりを聞きながら、後ろを見ていたキミは
「ナーウッド、早くっ!来たわよっ!」
と、警告する。大きな水流の塊はもはや、すぐ後ろまで迫っていた。
後ろは洪水、前は崖。
でも、ミニスは信じるしかなかった。
そのナーウッドは言葉を。そして、そんなナーウッドは言葉を反芻しながらミニスは、なんでそんなことを力強く言えるような人が、サマルだけは殺そうというのか、と関係ないことを考えてしまった。
三人はあっと言う間に、渓谷の目の前まで来た。
やはり、何もない。下を見ても深過ぎて何も見えない。ただ、闇が広がるのみだ。
そこにナーウッドは突入する。その瞬間、ミニスと、それにキミも思わす目を瞑る。しかし、一歩、二歩、三歩と走るナーウッドのカタッ、カタッ、カタッという音は聞こえてくるが、落ちる気配はまるでない。
ようやく二人はゆっくりと目を開けてみる。
そして、そこで目にしたのは、ナーウッドが空中を走っている姿だった。
「えっ……な、なんで?」
そう思い、ミニスは下を見る。するとそこには目もくらむような谷間と、ランタンの光を微かに反射する透明な板状のものが重なって見えた。
「こ、これ……ガラス?」
ミニスは半信半疑で聞く。その声にナーウッドは
「そうだ。とても頑丈で透明度の高いな。たぶん、度胸試しのつもりなんだろうが、なんにせよ凝った作りだと、最初は俺も思ったよ」
と言った。その意外な答えにミニスはなんだ、そんなことか…と思った。それならそうと、初めから言ってくれればいいのに。
ザバァァーーという音が聞こえてきたのでミニスは後ろを見る。押し寄せてきていた水が手摺りも何もない、ガラスの橋から谷間へと落ちていっている音だった。なるほど、これでひと安心と言うことか。
もう水が追ってこないのを認めると、ナーウッドはスピードを緩めた。でも、二人を降ろそうとはしなかった。ついでだから橋を渡りきるまで運ぶと言うのだ。二人はお言葉に甘えることにした。
橋を渡っていると、やがてランタンの光に照らされて、例のレリーフが刻んであるという石の部屋の扉が、はっきりと見え始めた。
「よし、もう少しだ」
ナーウッドは自分を励ますためか、それともいよいよ扉の中に入れるかもしれないという興奮のためか、そう言う。そして、自然と早歩きになり、橋を渡りきった。
そこで、二人を降ろす。
「ありがとう、助かったわ」
「うん、ありがとう。案外頼りになるのね」
ミニスとキミに礼を言われ、ナーウッドはなんだか照れくさくなった。だから、
「礼を言われるまでもない。協力してもらっているのはお互い様なんだからな……それよりも、ここからが本題だ」
と言って、さっさと扉の方へと歩き始めてしまう。
それを、見てミニスとキミはくすっと笑ってしまった。
辿り着いた石の部屋の前は、やはり休憩したあの広場と同じような作られ方をしていた。しかし、違うのは大きな扉のある方の壁面。その壁面だけが全体に黒く、ツルツルした石で作られているのだ。たぶん、あの石でできた構造物の中、そこが全部部屋になっているのだろう。だから『石の部屋』。まだわからないが、なんとなくそんな感じがした。
「ここだ。ここが石の部屋への入口だと思われる扉……そして、これが…」
「石版ね」
ナーウッドが手を触れていた台のようなもの。そこに歩み寄り、キミは言った。
それにナーウッドが嬉しそうにニヤッと笑う。
「ああ、そうだ。大丈夫か? これ以上はさすがに俺もわからない」
ナーウッドは腰に手を当てて言う。すると、キミはうんと頷き
「大丈夫よ。なんとかする。あとは私に任せて」
と言うと、ナーウッドと入れ替わりに石版の前に立った。
そして、深呼吸をすると、おもむろに石版に手をかざし、なにやら囁き始める。
それはミニスには全く聞き覚えのない言語のように思われた。しかし、妙に心地がいい。
まるで歌うように。キミは言葉を紡ぐ。
「す、すげぇ……これは古代アストリア語……いや、もしかしたらそれ以前の古代ユーグリッドの……」
ナーウッドは思わずそう漏らす。
でも、キミは相変わらず、そんなことにはお構いなしに、その歌を唐突に終わらせると石版から手を離した。そして
「さ、出ていらっしゃい。お互いに自己紹介しましょ」
と石版に向かって言ったのだった。




