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砂漠の星 郵便飛行機乗り  作者: 降瀬さとる
第2章 動く人達編
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緋色の研究

部屋の中は暑くもなく、寒くもなかった。

地下なのに不思議なものだ。どこからか不自然な風が吹いていて、部屋の中の空気を常に循環させているようだった。どこからかはわからない。この部屋は一見、密閉されているように見えるからだ。


でも、僕はそんなことは関係なく暑かった。いや、寒かった? そんなこともわからない。なにせ、額からは汗が吹き出ていたし、そのわりには体は小刻みに震えていたからだ。


まるで昨夜と同じような感覚だった。あのサマルの部屋で味わった、なんとも言えない不快な感覚。空気。それがこの部屋にも満ち満ちていた。


ゴクリと僕は唾を飲み込む。


そして、なんとか正気を保ち、ショットを睨み続けていた。


僕はこんなことで負けたくなかったのだ。

こんな不愉快なやり方で僕の動揺を誘い、僕をコントロールしようと模索するショットの思い通りにもなりなくなかった。

だから抵抗する。

たとえ、そんな抵抗の仕方なんてないと思われても僕は抵抗しようと思った。


だって、抵抗とはそういうものじゃないか。


僕はそう強く決意すると、今度は一転して、ショットを睨みつけていたその視線を外し、部屋の中を見渡す。

まずは観察することから始めようと。


部屋の壁も床も真っ白だ。

それは部屋全体が、つるつると光沢のある白い石でできているからだった。

とても硬そうで、継ぎ目なく、きちんと敷き詰められている石。それがこの部屋を冷たく、どこか無機質な印象にしている。

部屋の左側には大きなモニターが掛かり、作業台の上には様々な機械が置いてある。そこからベットに向かって何本ものケーブルが伸びていた。


「モニター」「ケーブル」


そういった言葉も、もう物を見ればすぐに出てくるようになっていた。なぜだかは、相変わらずわからないが、でもその思い出すスピードはだんだんと早くなってきている。そんな気がした。

しかし……まだ「思い出したこと」と自覚があるだけマシなのかもしれない。

もしかしたら、このままではいつかこの記憶を「全て最初から僕が知っていたこと」と、錯覚する日が来てしまわないとも限らないからだ。


もし、本当にそんなふうに、僕の以前の記憶が新しい記憶に、完全に塗り替えられるようなことになってしまったら……その時、僕のアイデンティティーというものはいったいどうなってしまうのだろうか?


ふと、僕はそんな不安に駆られた。


そして、それはとても恐ろしいことように思えた。

が、今はそんなことまで心配してはいられない。


なぜなら、今こそ僕は自分の心配よりも、他人の心配をするべき時なのだから。


僕はそう考えると、これ以上余計なことは思い出すなよと祈りながらも、観察を続ける。


壁に掛かっている大きなモニターは何を見るための物なのかはわからなかったし、同じく作業台の上に置かれた大小様々な機械についても使用目的はさっぱりわからなかったが、部屋に置いてある物の中では、おそらくそれらがメインの物だろうと思われた。あとは簡素な椅子が2つと木製の机、それとグレーの大きなソファ。それから、引き出しのいっぱい付いた大きな棚がひとつ。そして、パイプベッドが4つ置いてあるだけだったからだ。


そのベッドはひとつだけが空のままだった。そこには綺麗にピシッとシーツのみが敷かれていて、掛け布団は用意されていない。もうずっと使用していないのだろう。シワひとつない清潔なシーツだ。


僕はそれを見て思ってしまった。

 

もしかしたらあのベッドには以前……


僕がそう考えていると

「ふふっ、そんなに恐い顔しないでくださいよ、ラシェットさん。せっかく、僕の自慢の研究室にお招きしたのに。それではまるで僕がこの部屋で何か悪いことでもしているみたいじゃないですか」

とショットが言った。


僕はその言葉にぴくっと反応する。

でもすぐに、それもショットの僕に対する挑発だとわかったので、まずは深呼吸をして気分を落ち着かせた。今は間違いなく短気を起こす時ではない。そんなことになったら僕は目的を忘れ、ただ目の前のことしか見えなくなってしまう。それではダメなのだ。そんなことでは僕はきっとサマルもあの3人も救えやしない。


ショットとのやり取りの中で、もし僕が少しでも自分自身の優位性を確保できなくなってしまったら、きっとそこで全てが終わってしまうのだ。


ショットはそういう油断も余裕も持たせてくれない男のようだった。

なのにそうやっていつまでも気を張り、対等に話し合える相手をショットは求めてもいる。

僕には、ショットがそんな矛盾を抱えている気もした。


だから、とにかくここはひとつ、こいつのおしゃべりに強気で付き合ってやらなければならない……


「ふーん、そうかい。じゃあ、悪いことをしていないのなら、いったいここで何をしているんだ?」


僕がそういうと、ショットは満足そうに俯き、笑った。

ショットはそんなふうに、いつもヘラヘラと笑ってばかりいる気がする。まだ会って2日も経っていないが、その間もほとんどずっとそうやって、常に顔にヘラヘラしたお面を付け続けている。

僕はそういう人をまず信用したことがなかった。でも、そういう人はきっと他人に信用してもらおうなどとは、鼻から思っていないのではないかとも思う。


僕がこいつの顔からどうやって、そのへらへら笑いを取り去ってやろうかと考えていると、ショットが口を開いた。


「ふふっ、何をしているか、ですか。それはラシェットさん、とても一言では説明しきれませんよ」


「そうかい?僕は一言で、十分にこと足りると思いますけどね」


僕はそれを聞いて、腕を組み言う。そして、続けて


「人として、間違ったことをしていると」


と簡潔に言った。


それを聞いたショットは少し黙った。


しかし、やがて我慢できなくなったのか僕の予想通り、

「ふっ、ふふっ、ははははっ……」

と堰を切ったように大笑いしだした。


僕は腕を組んだまま、それを憮然として見守る。

それは自分が何か間違ったり、見当違いのことを言ったとは思わなかったからだ。

ショットはしばらくして、笑い終わると話し出した。


「ははは…いやぁ、ラシェットさん。あなたも、なかなか観念的なことを仰りますねぇ。ふふっ、意外でした」

ショットがそう言うと、僕は

「観念的?そんなこと知らないが、僕は当たり前の感想を言っただけだ」

と答える。それに、ショットはニッと口角をあげ、


「感想は結構!しかし、ラシェットさん。よくよく考えてみれば、確かにあなたの仰る通り、この実験には多くの観念的な部分が含まれていると思いますし、ひどく込み入った物事を、時には抽象的に考えなければいけない場面もまた、とても多いのです。そういう意味では……あなたのその、ごく普通の感想というものも案外無視できないものなのかもしれませんねぇ」


と分析的に言った。

僕はそれをチンプンカンプンのまま聞く。

でも、僕の言いたかった一番肝心な部分が伝わっていないように聞こえたので

「……それもよくわかりませんが、僕はこんなひどいことの何かひとつにでも、役に立つ気はありませんよ。僕はただ、こんなことは今すぐ止めろと言いたかっただけです」

と、今度はストレートに言った。


「ふむ。止めろ……ですか」

「ええ」


するとショットは

「……ふーっ」

と、大きくため息をついた。


「ん?」

それはたぶん初めて見るショットのため息だった。

僕の胃がまたムカムカし始める、人をバカにしたようなため息だ。


僕はまたショットを睨むように見つめる。

僕の後ろ、扉のところにはスコットが立ち、同じく状況を見つめているが、特に口を挟むつもりはないらしい。


ショットはなおも少し考えている様子だった。

そして、キョロキョロと周りを見回した後、くるっと後ろに振り向くと、ベッドのひとつを見る。そのベッドにはたぶん、女性が横たわっていた。

それを認めるとショットはそのベッドから伸びるケーブルを一本手に持ち、しげしげと眺める。


僕はその仕草を見て、ドキッとする。また嫌な予感がした。


ま、まさか……

僕はショットの意図を瞬時に理解し、

「おいっ、何をする気だっ。止めろっ!」

と叫んだが、もう遅かった。


ショットは僕の方を見ることもなく、躊躇わずにそのケーブルをジョイント部分から引っこ抜いてしまったのだ。


「あっ」

僕は息を飲んだ。


作業台の上に置いてある機械のひとつがピーーッという耳障りな高い音を発し始める。


その音が何を表しているか、僕にはわからなかったが、嫌に緊張を強いる音のように思えた。


「シ、ショット。お前っ…」

と僕が慌ててショットに近づこうとすると


「僕だって、止められるなら、さっさと止めたっていいんですよ」


とショットが顔を上げ、静かに言ったから、僕は思わず立ち止まってしまう。

その声には今までの茶化すような雰囲気はどこにもなく、有無を言わさぬ迫力があった。


ショットは緋色の目を鈍く光らせながら続ける。


「僕が止めないのは、サマルくんとの契約、そしてリッツくんとの約束があるからです。少なくとも、それらがまだ目に見える形で継続している間は、僕も彼ら3人の「意思の力」を信じて実験を継続していくつもりです。まぁ、端末も彼らが戻らなければ再利用できませんしね。維持費はかかりますが、それに比べればそんなもの、安いものです。次の実験のためのデータ採取にも役立っていますしね。だから、僕はこの実験を基本的には止めないで続けていくつもりなのですよ。しかし……」


ショットはそこで一度言葉を切る。そして、続けて


「実験というものは、何かの拍子で一人くらいはダメになってしまうものです。それは仕方ないのことでしょうねぇ。僕にも予想だにできない機材トラブルというものも、ある時にはあるのです。それに、もしかしたらそういった場合に取れる、死に際のデータというものも、案外有意義なものになるかもしれませんからね。ふふっ。それはそれで価値があります。このまま3人とも同じ実験を続けていくよりもねぇ」


と言った。


僕はその言葉を歯を食いしばりながら聞く。そして、ショットの目を真正面から見据えた。


ショットの目は本気だった。

それは自分の目的のためなら、どんなことすらも平気でやりかねない目だ。


なんだ?どうして、あんな目ができるんだ?

僕は思う。そして、それを認めると、今度こそ血の気が引いた。


僕だってサマルを助けるという目的のためなら、それは何でもやろうとは思っていた。

しかし、こんな形で誰かを犠牲にしようなんて、とても思えなかった。

それが僕の甘さなのか、覚悟の足りなさなのかはわからない。いや、たぶん一生わからないし、わかりたくもないことだろう。


なぜなら、そんな他人を犠牲にしてまで自分の友人を助けることを選ばせるという、そんな選択肢はそれ自体、最初から間違っていると思うし、それを強いる状況だって絶対におかしいと思うからだ。


「まっ、待て……」

でも、僕はそんなショットの力技による駆け引きに乗らざるを得なかった。

それは歯がゆいことだったが、なにせ時間がない。

それに、このまま黙って見ているなど、とても無理そうだった。


だから、僕は僕がこの場で切れる唯一のカードを切る。


そう。僕がこの世界でただ一人、犠牲にできる人。それは、僕だけなのだから。


「わかった!もう、止めろなんて言わないっ!僕にできることだって、何でも協力しよう!だからっ、だから早くそれを元に戻してくれっ!頼むっ、ショットッ!」


僕は覚悟を決め、ショットに向け、叫んだ。


それを黙って聞くショット。

僕にはその表情を読み取ることはできなかった。


だが、ショットはうむ、と頷くとすぐ、おもむろにケーブルをガチャリと元に戻した。

すると、機械のピーーッという音もすぐにしなくなった。


ショットはベッドを覗き込む。そして呼吸が再開されたのを確認すると

「いやぁ、危なかったですね。もう少しで後遺症が残るところでしたよ。ふふふ」

と、何事もなかったかのように、またヘラヘラ顔を貼り付けて言った。


僕はそれを聞きほっとすると、その場に崩れ落ちそうになった。でも、なんとか踏ん張って

「くそっ、お前は……」

と悪態をつく。

その様子を見たショットは満足げに笑った。


そして、

「ふふふ、ラシェットさん。あなたは私のことをもっと鋭く、理解していると思っていたんですがね」

と言う。それに対して僕は

「理解?お前のことを?けっ、できれば一生したくないね」

と答える。それにもなぜかショットは笑った。


「ははは、いや、まったく、そうですね。理解なんて、もしかしたらくだらないことかもしれません。じゃあ、それはよしましょう。でも差し当たり、当面は僕の言うことを聞いてもらいますよ。でなければ、さすがに僕も困ってしまいますからね」


ショットは実に愉快そうに僕に言った。僕はそれを聞き、うんざりしつつも


「……まぁ、仕方ないですね」


と言った。



「ふふふ、ご協力感謝します。では、まずこちらに座ってください」


僕がショットに従うことを了承すると、早速ショットはそう言って椅子を持ってきた。

そして、それをひとつのベッドの横に置く。

どうやら、そこに座れということらしい。だから、僕は黙ってそこに向かい、座った。


ベッドを覗き込むとそこには女の人がいた。ケーブルを抜かれてしまった彼女だ。

顔の上半分に透明なヘルメットのようなものをかぶっているが、表情は穏やかそのもので、眠っているようにしか見えない。しかし、髪は伸びきり、頬は痩け、化粧もしていないその顔は見るに忍びないものだった。

僕は思わず目を背ける。

とても嫌な、なんだかじめじめした気持ちになった。心に靄がかかったような感じがして気持ちが悪い。


すると

「おまたせしましたー」

と言いながら、上機嫌にショットが戻ってきた。手にはひとつ革のバックを持っている。それは女性用のブランドもののバックだった。僕はそのブランドも知っていた。アストリアの高級ブランドだ。

「では、まずはこれをどうぞ」

そう言うとショットは僕にそのバックを渡してきた。そして、自分はもうひとつの椅子に腰掛ける。僕はバックを膝に置いたまま、わけがわからず固まってしまった。

「このバックは?」

たまらず僕が聞く。するとショットは足を組み、筆記用具を用意しながら


「ああ、それは彼女の物ですよ」


と、ベッドの方を向き、なんでもないことのように言った。

「か、彼女の?」

僕はそれを聞くと顔をしかめた。


それはそうだ。なんだって僕に彼女の荷物を?


僕が疑問に思っていると、その様子を見たショットが

「そのバックを使って、今日はラシェットさんにお手伝いをしてもらいたいんですよ。だから持っていただきました。よければ中身も見てください?」

とまたわけのわからないことを言うから、僕は余計に困ってしまった。


「これを使って手伝い?なんですかそれは。それに、僕は許可なく勝手に女性の鞄の中身を見るなんて、そんな真似できませんよ。こんなの間違っている」


 僕がそう言うとショットは


「ふふっ、ラシェットさん、あなたのポリシーなど聞いていませんよ。しかし、まぁそうですねぇ、初日ですし……ではまずは、顔の観察の方から始めるとしましょうかね」


と言った。

「顔の観察?」


「ええ、そうです。まずはラシェットさん、このベッドに寝ている彼女の顔を見てください。そして、そこから受けた印象を僕に話してください。それもなるべく正直に。どんな些細なことでも構いませんから」


ショットはいたって真面目にそう言う。

しかし、僕にはそう言うショットの意図がまるでわからなかった。そんなことになんの意味があるのだろうかと。


「ふーっ、印象なんて……そんなものあなたにもそこにいるスコットさんにも、何かしらの印象くらいあるはずでしょう?なぜわざわざ僕に聞くんです?」

僕は聞いた。するとショットは

「詮索は結構です」

とにべもなく言う。


「とにかく、我々ではダメだったのですよ。そして、一番の適任であるはずのサマルくんは、それを断固拒否しました。だから、とりあえずあなたにも協力してもらう。それだけです」


ショットはボールペンを手で弄びながら言う。

僕はそのボールペンを見つめた。

彼女の顔を直視するくらいなら、ボールペンを見ていたかったからだ。

しかし、ショットは


「さぁ、早くしてください。ご自身の立場をわかっていらっしゃるのなら」


と言うから、僕は渋々ベッドに向き直る。

仕方ない。どちらにせよ今は言うことに従うしかないのだ。


僕は改めて身を乗り出し、ベッドの中を覗き込む。


そこにはやはり女性が横たわっていた。

元の体型は痩せ細ってしまっていてわからなかったが、もともと痩せていたのだろう。雰囲気からして、なんとなくそんな気がした。背は……160センチくらいだろうか。

腕も首も顔も肌は浅黒い色をしているが、長い間こうしているせいか、すこし不健康に白っぽく見える。元はきっともっと健康的な黒い色をしていたのだろう。そう思うと、それだけで胸が締め付けられる思いがした。


顔は、目元はくっきりとした二重瞼で、きりっとした長さも持っていた。鼻もたかく、唇は厚いことから見ても、アストリア南部系の美人だと思われた。その表情はあいかわらす穏やかだが、その眉の感じからして、元気で強気な性格の女性を思わせた。髪は伸びきってしまっているが、以前からロングだったのだと思う。その方が似合う気がしたからだ。


「くっ……」

そこまで観察して、やはり僕は目を背けた。

とてもじゃないが、これ以上は見ていられない。

そう思ったからだ。


僕が苦い気持ちを噛み締めているとショットが

「彼女は誰だと思いますか?」

と、一切遠慮することなく聞いてきた。


僕はショットを睨みつけたかった。

でも、それを聞いても僕は俯いた顔を上げることさえできなかった。

もう抵抗するのも面倒くさい……


だから僕は

「ジェラルダ・ヤンさん」

ときっぱりと言った。


「うむ…」

それを聞いてもショットは表情ひとつ変えず、ただ頷くだけだ。

ショットは質問を続ける。


「なぜそうだと?」

「さぁね、ただなんとなく…顔と名前の印象が一致しただけだ。それに、当たっていたとしても、ただの二択が当たっただけだろ?」

「ふふっ、そうですか。では、彼女の性格について、ラシェットさんの印象は?」

「たぶん、明るそうな人だ。それに芯の強そうな。きっと同性の友人はもちろん、異性の友人もたくさんいたと思う……社交的な性格だと」

「なるほど?あなたはそう思うのですね?」

「ああ。でも、合っているかはわからない」

「ふふっ、合っているかどうかは。僕にもわからないので、大丈夫ですよ。なにせ、サマルくんもこれだけは絶対に教えてくれませんでしたからねぇ」

「……そうか、サマルもこれを……」

「はい。ふふっ、しかしいいのですよ。きっと大体合っています。大体ね。さぁ、ラシェットさん。続けましょう」


そう言うとショットは、今度は僕にバックの中身を見るように促した。


だから僕は彼の意図に従い、黙ってバックの中身をベッドの脇に並べた。なかなかに最低な気分だった。今まで生きてきた中でも特に最低な。


バックの中身はやはりと言うべきか、その外見より幾分さっぱりしたものだった。

赤いハンカチに、ボールペン、大きめの手帳、簡単な化粧直しの道具とポーチ、文庫本が一冊、仕事の書類が一束、クリップ、ヘアゴム、サイドポケットにはキャラメルが入っていた。

それと、財布と革の名刺入れ。それらはバックとは違うブランドのものだったが、決して高過ぎない趣味のいいブランドのものだった。


バックに入っていたのは本当にそれだけだった。


僕がそれらを並べ、見ていると、ショットはいつの間に持ってきたのか、今度は僕にきちんと畳まれた服を手渡してきた。

白いブラウスに黒いタイトジーンズだ。それと黒く踵の低いヒール。

僕は受け取りたくなかったが、それを受け取る。僕は益々、最低な気分になった。まだ底ではなかったことに僕は辟易した。


なぜなら、僕の手に乗せられた服には、ご丁寧にも下着まで乗せられていたのだから。


僕はそれを広げるでもなく、そっとベッドの脇に置いた。

もうたくさんだった。


「おや?どうしました?」

僕が手で目を覆い、俯いているとショットが聞いてきた。なんとも自然な聞き方だった。まるで、授業中に「消しゴム忘れたの?」とでも聞くような気軽な聞き方だ。


僕はその言葉にゴシゴシと頭を掻き毟る。もうどうにかなりそうだ。こんなことに本当に何の意味があるのだろうか……


僕が黙っているとショットは

「ふーっ、仕方ありませんね……」

と小さく言った。


そして、自分の席からノートとペンを拾うと扉の所で待機していた、スコットの方へ行き


「しばらくひとりにしてあげましょう」


とまた小声で言ったが、こんな静かな場所ではそれも僕に丸聞こえだった。

スコットは

「え?よ、よろしいのでしょうか?」

と動揺している。


でも、僕はそのショットの意外な言葉にも、スコットの動揺にも、何の感情も湧かなかった。

心がヒクヒクと麻痺しているみたいだ。


「ラシェットさん」

ショットは大きな声で言う。

僕はその声に辛うじで顔を上げた。


「ちょっと休憩にしましょう!我々は上から何か食べ物と飲み物を持ってきます。何がよろしいですか?」

ショットは言った。でも、僕に食欲などなかったので

「何でもいい」

とだけ言った。


「ふっ、わかりました。では、行きましょう、スコットさん」

「は、はっ!」


そう言うと2人はまた重そうな扉を開け、部屋から出て行った。


するとこの部屋には僕とベッドのいる三人がいるだけになった。

息の詰まるような静けさの中に、微かに機械の動いている音がする。

彼ら3人の、消え入るような呼吸音も耳をすませば聞こえてきた。


僕は心の隅っこで

「逃げ出すなら、今かもしれないな……」

と思う。

しかし、もう僕はここから逃げ出そうなんて思えなかった。

なぜなら、ここから逃げ出すということは、彼らを見捨てていくに等しい行為だと思ったからだ。


「……はっ、これじゃあ、ショットの思う壺だな」

僕は苦笑混じりに呟く。そんな声さえこの部屋では隅々まで響き渡った。


僕はもう一度、気力を振り絞ってジェラルダ・ヤンと思われる女性を見た。

綺麗な人だった。そして、彼女はサマルとニコの大切な友達なのだ。


僕は涙が出てきそうになるのを、抑えることができなかった。

そして、


「サマル……ごめんな。こんな所で……ずっと…辛かったよな…」


と、思わず口にした。

誰に言うでもない、誰が聞いているわけでもない。すぐに空中に消えてしまう虚しい言葉。


僕は今更ながら大切な親友と連絡すら取ろうとしなかった8年以上の歳月を悔いていた。


でも、もう遅いのかもしれない。時は過ぎ去り、決して戻ることはない。やり直しは効かない。


今の僕はそんなふうに過去を眺めるしかなかった。

これからどうしようか、というポジティブな心も、今はどこか、遥か遠くへ行ってしまったようだ。


部屋の中の空気は相変わらず、暑いかどうかすらわからない。

それでもどこからともなく、風は吹いてきていた。


僕はその風を濡れた顔に感じながら、目の前の途方もない現実と、自分の無力さに只々、打ちひしがれた。

そして、ここから抜け出し、僕に手紙を出したサマルの感情とはいかばかりのものだったろうと、これもまた今更のことを考えずにはいられなかった……


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