緋色 3
今日も穏やかに晴れ渡った空の空気を肌に感じながらニコ・エリオットは、いつも通り、決められた時間に寮の玄関を出た。この時間感覚はもう体に染み付いていた。
すると、間髪いれずに門の前に車が横付けされる。
その車はたかだか職場まで10分足らずの道のりを移動するには、いささか大袈裟過ぎに見える、黒光りの高級車だった。
運転手は門の前にぴたりと車を止めると、素早く外へ出、門兵と敬礼で挨拶を交わす。そして
「ご苦労様です」
と、お互いに言い合った。
その声を聞いてニコは
「ああ、また今日も自分の足で歩かせてはもらえないのだな」
と思う。
「これじゃあ、まるっきり籠の中の鳥だ」
ニコはそう心の中で呟くと、少し首をうなだれた。
ニコは今日ほど自分の非力を、今の境遇を、悲しく、また悔しく思ったことはなかった。
だからなのか、いつも当たり前のように踏み出していた一歩がなかなか踏み出せない。
「ラシェットさん……」
でも、それも一瞬のことだ。
ここには兵の目がある。滅多なことはできない。
変な行動を起こせば、皆の命が……
そのことが頭をよぎると、結局ニコはいつも通り、運転手に促されるまま、大人しく車の後部座席に乗り込むしかなかった。
ニコが座ると、運転手がドアを閉める。とても静かで丁寧な閉め方だ。
この人はいつもそうだった。もうかれこれ一年近く送迎をしてくれているが、彼はいつもニコに対して恭しく接してくれる。
それはニコが盲目だからというのと、エンジン技師として高名だからというのもあるかもしれないが、おそらく彼の元々の性格だろう。
それにきっと、この人はなぜ自分がこんな状況に置かれているのか、その本当の理由を知らされていないのではないか?
ニコは今日初めてそのことに思い至った。
パタンとまた静かにドアが閉められる音がした。すると間も無く車が静かに動き出すのを感じる。
車が発進したことを自覚すると、ニコは程よい硬さのシートに諦めたように身を任せ
「僕は……たぶん、ナーウッドくんを捕らえるための罠だったんだ……」
とひとり心の中で呟いた。
それは、ニコが一晩考えて、今ようやく行き着いた結論だった。
そう、ようやくだ……いくらなんでも遅過ぎた。
ニコは目が見えないので窓の外を流れる景色を見ることはできない。
しかし、長年の経験で得た体の感覚と、車のエンジン音、それにタイヤの擦れる微かな音やシャフトの軋みなどから、今車がどちらに曲がったのかを察知することはできた。
車は寮を出て、すぐに右に曲がった。そして左。そうすると大通りに出る。そこを右へ、しばらく道なりに進む。そうしたら研究所のある方向へまた左に曲がり、細い路地に入るのだ。
いつもの場所から、いつもの場所へ。決められた時間帯の、決められた道のり。
この一年余り、ニコの人生の全てはそこにあった。
それはひどく歪められ、貶められ、可能性の限定された年月と言っていい。
でも。それでもニコがここまでやってこれたのは、ひとえに仲間達のためだった。
サマル、ヤン、イリエッタ、ケーン。皆の命が懸かっていると思えばこそ、こんな生活も甘んじて受け入れることができていたのだ。
しかし、それも昨晩ラシェットがニコのもとを訪れたことによって一変してしまった。
ラシェットは言った。サマルはあの城から逃げ出したのだと。そして、他の皆の安否はまだ確認されていないと……
それでニコは気がついてしまったのだ。本当はニコがここにいようがいるまいが、ショットの言うことに従おうが従うまいが、そんなことは関係なかったのだと。
「ショットはきっと皆の利用価値がなくなったと判断すれば皆を殺すだろうし、僕も殺すだろう。僕達はショットという人間を知っている数少ない証言者なのだ。だから、生かしているからには何か特別な理由があるはずで、そしてそれは僕がここでこんな生活を送っていることとは、まるで関係がないことなんだ……」
ニコはそこまで考えて思った。
ラシェットが昨夜、皆の安否が確認できないと言ったということは、おそらく皆はまだ生きている可能性が高い。うまく言えないが、そんな感じがする。そして、それはきっと自分がここで大人しくしているからではなく、サマルやナーウッドがあの城から逃げ出したりして、必死に頑張っていることや、あのラシェットという人がサマルを助け出そうとしていることによって生じた、何かしらの利用価値のために辛ろうじで皆はショットに生かされているのだと。
それは、ニコにとって悲しい事実だった。
もちろん、皆がまだ生きている可能性が見えたのはとても嬉しく思うし、必死に頑張っている友人達をニコは心から応援している。
しかし、一方で妙な虚しさを覚えずにはいられなかった。
ニコは今まで皆のためにと思い、頑張って耐えてきた。でも、それは徒労に過ぎなかっただけでなく、そんな頑張っている友人達を捕まえるための罠として用意され、強制されていた、偽物の犠牲だったのだから。
「結局、僕は何にもできていなかったんだ……」
ニコは目に涙を浮かべた。そして、また昨日のラシェットの言葉を思い出す。
「確か、ラシェットさんはサマルくんが自殺しようとしていると言っていた。だから、そんなことを言う彼を助けたいんだと。そして、僕の話を聞いて、皆のことも助けるって…助けてあげたいって言ってくれた。それなのに。それなのに僕のせいで……僕は、僕はどうしたら……」
ニコは自分を責めた。
昨日あんなことがあって、それにより自分の置かれた状況についてもっとはっきりと分かってきたのにも関わらず、またいつものようにこの車に乗り込み仕事に向かっている自分を、心の底から責めた。
でも、ダメなのだ。
足は一歩も外に動かないし、口は一言も聞けない。
体は熱くなったり、寒くなったりを繰り返し、頭は爆発しそうなくらいにぐちゃぐちゃだ。
それなのに、どこかで自分を守ろうとする防衛本能が働いている。僕はこのまま、ここにいればいいんだと。
そうすれば、少なくとも僕のせいで皆が死ぬことはない。僕も死ぬことはない。それにもし、いつかそういう日が来てしまうのならば、それは僕の手で起こしたくはない。僕は関係ない。僕は被害者なんだ。僕は無力なんだ。
僕には何もできないんだ……
ニコは自己嫌悪に陥りながらも、そういった考えを捨てられないでいた。
それは無理からぬことだった。誰だって、自分の手のひらの中に友人の命など握りたくはない。人は自分一人の面倒をみるのだって必死で、それだけで手一杯だとよく感じるものだ。とくに若いうちは。
しかし、人が生きていくこととは、本当はそんなことではないのだ。いつか必ず、多かれ少なかれ誰かの命を手のひらの中に抱え込んでいかなくてはいけない時が来る。それは、こんな深刻な状況ではないかもしれないけれど、命を守っていくということを自覚するという点においては、それほど変わらない。
要は自分と自分を取り巻く人達への責任、また、それに対する心構えの問題なのだが、この時のニコはそこから完全に目を背けてしまっていた。
ニコはうなだれていた顔を上げる。
しかし、そこに何が見えるわけでもない。
そのことに今まで不自由を感じたことはたくさんあったが、とくに不幸だと感じることはなかった。でも、今回ばかりは考えてしまった。
「これならいっそ僕もショットの術とやらにかかって、皆と一緒に捕まってしまいたかった」
と。ニコは初めて自分の目が見えないことを不幸だと思った。
そう思っていると、車が大通りを左折し、研究所方面へ向かうため細い路地に入ったのを感じた。
もうすぐ研究所についてしまう。こんな気持ちのまま、僕は何を支えに仕事をすればいいのだ。ニコがそう身勝手な思いを馳せていた、その時。
ニコは車が急停車するのを感じた。
あれ?どうしたんだろう? とニコは思う。なにせ、今まで一度たりともこんなことはなかったのだ。
ニコが不審に思い、体を起こすと運転席の方から
「どうしたんですか、お嬢さん。危ないですよ。こんな道路の真ん中にいては」
と言う運転手の声が聞こえた。
彼は窓を開けながら話しているようで、どうやら道路に誰かいるらしい。しかし、運転手の口調からするとそれは女性で、とくに怪しげな人物でもなさそうだ。事実、
「ごめんなさい、実はこのあたりに落し物をしちゃって、それを探すのに夢中で……」
と言う少女の声が聞こえてきた。
「あ、そうだったんですか。それは失礼しました。しかし、私も先を急がねばなりません。よろしければ、ここを通らせていただきたく……」
運転手はそう言いかけたが、その語尾は突如不鮮明なものになる。
ん? 今度はなんだろう?
と、ニコが思っていると、また少女の声がして、
「いいえ、まだここを通らせるわけにはいかないわ。だから、まずは車のドアの鍵を全部開けてちょうだい。今すぐよ」
と言った。
その声は先ほどまでの穏やかな声とは、正反対の厳しい声だった。心なしか命令するような響きまである。
「あっ」
ニコは思わず声を漏らし、体を強張らせた。
昨日あんなことがあったばかりなので、ニコはわかったのだ。
これは偶然なんかじゃない、狙いは僕なんだと。
でも、いったい誰……
ニコが怯えていると、運転手が全てのドアのロックを解除する音がした。すると、間髪入れずに
「よっと。ちょーっとお邪魔するぜぇ」
と言いながら助手席に男が乗り込んでくる音がした。
ニコが驚きのあまり
「えっ、あ、あなたは…あなたは誰?なんでこんなことを……」
そう男に向かって聞くと
「勘違いしないで。別に私達はあなたを助けに来たわけでも、殺しに来たわけでもないんだから」
と、ニコが聞いた方向とは違う方向から、先ほどの少女の声がした。
どうやら少女はいつの間にか、ニコのいる後部座席に乗り込んできていたようだ。
ニコはその方向に顔を向ける。しかし、それ以上の反応はできなかった。
その様子を見て少女は話を続ける。
「あなたニコ・エリオットさんよね?私はキミ・エールグレイン。で、前に乗った人はカジさん。私達は二人ともラシェットの友達よ」
「えっ?ラシェットさんの?」
ニコはまた驚いた。
「ま、厳密に言うと俺はまだ友達じゃねぇけどな。ま、友達になる予定ではあるけどよ」
助手席に乗ったカジという男が重ねて言う。それを聞き、ニコはほっと肩の力を抜き、緊張を解いた。
「そうですか、ラシェットさんのお友達……はぁ、よかった……」
「その様子だと、やっぱりあなたは昨日ラシェットと会ったのね?」
しかし、少女の方の口調はと言うと、一向に和らぐ様子がない。そのことでニコはまた別の緊張をしてしまう。
「あ、はい。あ、会いましたけど……」
「そ。それで?ラシェットはその後どうなったか、あたなは知っているの?もし知っているなら、私に教えてちょうだい」
「そ、それは……」
ニコは言葉に窮してしまった。
それはこの少女の声があまりにもトゲトゲしいことと、目が見えなくてもわかるくらい睨みつけられていると感じたから、というものもあったが、それ以上に昨日の顛末を何と言って説明していいかわからなかったからだった。
「あ、あの…その……」
何と言えばいいのだろうか?
正直に言って怒られやしないだろうか?
少しくらい言い訳をした方がいいのだろうか?
ニコが思い切れずモゴモゴしていると、キミは容赦なく
「ねぇ、時間がないの。何か知っていることがあったら、さっさと言いなさい。私はね、あなたが迷っているのなんて待っていられないの」
とニコに畳み掛ける。
ニコは体をビクッと縮こませた。
それを見かねてカジは
「おいおい、何もそんなに急かさなくてもいいだろうが。ニコさんだって、急なことで戸惑ってるんだからさ」
と言う。
「うるさいわねぇ。あんたに聞いてないわよ。私はこの人に聞いてるの」
キミに注意され、ニコは血の気がさっと引き、頭はまた熱くなった。
しかし、それでやっと思い切る気持ちになれた。
ニコは息を整え、頭を勢いよく下げる。
そして、
「ごめんなさいっ!ぼ、僕のせいなんですっ!僕が、僕が罠だって気づいていなかったから、ラシェットさんは…ラシェットさんは昨日、アストリア軍に連れて行かれてしまって……」
と何とか声を絞り出してキミに言うことができた。
「アストリア軍?」
キミとカジは声を揃えて繰り返す。
それを聞いてニコは
「はい……」
と、震えながら答える。心臓はまだバクバクしていた。いったいどんな叱責の言葉が飛んでくるのだろうかと。
「アストリア軍。やっぱりそうなのね」
しかし、頭を下げるニコの態度には全く触れず、キミは言った。
「ああ。嫌な予感が的中しちまったな。一番救出が難しい相手だ。きっと、ラシェットさんはサウストリアにある支部のどこかに収容されているはずだ。それを探り当てるのも大変だぜ」
カジは頭を掻く。
「ニコさんよ、ラシェットさんがどこの支部に連れて行かれたか、それはわからないかい?」
カジのその質問にニコは首を横に振り
「いいえ、すいませんがそこまでは……」
と答えた。
「わかったわ。それじゃあ、この調子でもう一つ答えて。昨晩あなたはラシェットと何を話したの?例えば、手紙のこととか、ショットのこととかの話はした?」
ニコは「ショット」いう言葉に反応し、顔を強張らせる。そして、思い出すように
「はい。しました……サマルくんの手紙の話も、ショットの話も」
と言う。
それを受けてキミは
「うん。それで、ラシェットはどんなことを聞いた?そして、あなたはラシェットにどんなことを教えたの?」
と改めて聞く。
「ラシェットさんは、まず、サマルくんの手紙にある島のことと、それの手掛かりになるという遺跡について話してくれました。だから僕はそれについて、たぶんその手掛かりになる遺跡とは「アスカ遺跡」のことだろうとラシェットさんに教えました」
「アスカ遺跡?」
「はい。ここからずっと東に行ったところにある古代アストリア時代の遺跡です。昔、皆で調査に行ったことがあって、そのとき確かそんな記述があったと思うんです。だから、そうお教えしました。でも、あの遺跡の古代文字は判読が難しくて、専門家がいないとたぶん手に負えないとも……」
ニコは言う。それにキミは頷く。
ニコは何も自分を責めようとしないキミの態度を不思議に思いつつも、だんだんと普通にしゃべれるようになってきていた。
「そう。わかったわ。じゃあ、ショットのことは?」
「ショットのことは……」
ニコはそこで一度言葉を切る。しかし、すぐに意を決して
「ショットについては、すいません、僕もよくわかっていないんです。ですからラシェットさんには、僕の友達が捕まっていることと、その時にショットが使った奇妙な術のことについてしかお教えできなかったんです」
と答えた。
「奇妙な術?」
カジは言った。
「はい。でも、これは僕が見たわけでも、推理したわけでもなくて……全てナーウッドくんから聞いたことなんです。それによると、ショットは珍しい緋色の目をしていて、その目には人を操ることができる力があるらしいんです」
「えっ?」「は?」
二人は思わず大声を出した。
そして、しばし沈黙する。
ニコの言葉を聞いて一番驚いたのはキミだった。
キミはみるみるうちに険しい顔になり
「そ、そんな。まさかショットは……ショットは守人だというの……?」
と小さな声で呟いた。
それを逃さず聞いたカジは
「守人?」
と頭の中で反芻する。
「ど、どうかしましたか?」
急に二人が大人しくなったのでニコが恐る恐る聞くと、キミはぱっと正気に戻り
「ねぇ、ショットってどんなやつなのっ!?年齢は?特徴は?いったいどこの生まれなの?」
とまたニコに詰め寄った。
「えっ?わ、わかりません。ショットは声からしてたぶん中年の……30代後半くらいの男で、特徴もその目の色が一番の特徴なんです。他は中肉中背の男としか……どこの出身かも、その経歴すら明らかではないんです」
ニコがそう苦しそうに言うと、カジが
「まぁまぁ、お嬢ちゃん。気持ちはわからんでもないがよ、たぶんニコさんは本当にこれ以上のことは知らないと思うぜ。そのことは、お嬢ちゃん。あんたにはよーくわかるはずだろ?」
と言ってニコをフォローした。
その言葉にキミは引っ掛かるっものを感じつつも
「ふんっ。ま、それもそうね。それに今日は時間もないし」
と言って、なんとか自分を納得させた。
「そうそう、もうぼちぼち時間がないんだ。だから、最後にもう一つだけ聞かせてくれ」
「あ、はい。な、なんでしょう?」
ニコは額に汗を浮かばせながら、カジの方を向く。
「なに、サマルさんが書いていた論文のことさ。あれについては俺も色々と調べたんだが、全然手掛かりがなくてよ。何について書いた論文なんだかも、なんで握りつぶされたのかも皆目見当がつかねぇ。そこんところ、知ってたら是非教えて欲しいんだけどよ。大丈夫かい?」
カジが努めて明るく聞くと、ニコは
「あ、それは昨日ラシェットさんにも聞かれました」
と前置きをしてから、すんなり答えて始めた。
「サマルくんが書いていた論文は、あ、正確に言うとサマルくんとリッツくんの二人が書いていた論文なんですが、それはたぶん歴史についてのものだったと思います」
「歴史?」
カジは言う。
しかし、キミの方は歴史と聞いて、なにやら考え込むように腕を組んだ。
「はい。それもここ、アストリア王国についての歴史です。具体的にどういった内容だったかはわかりませんが、二人は随分と熱心に方々の遺跡を調査したり、文献を読み漁ったりしていたようです。でも、その内容がいけなかったみたいで……その論文を科学雑誌に持ち込んでから一ヶ月も経たないうちに、僕達は全員、ショットに捕まってしまったんです」
「うむ、それはその論文の内容がアストリアにとって何か不都合なものだったからってことか?」
カジが聞くと、ニコは首を振る。
「わかりません。でも、おそらくそうとしか……それ以上の共通点は僕達にはないはずですから」
「なるほど、機密事項の保持のために捕まったとなると、そりゃよっぽどの秘密だな。だからこそ、サマルさんとリッツ王子は発表までは二人だけで書くと決めたのかもしれない。うーん……でもそうすると変だな。じゃあ、なんでリッツ王子は捕まってないんだ?真っ先に捕まってもおかしくない立場だろう?」
カジは首を傾げた。するとニコは
「カジさんは、リッツくんを知っているんですね?」
と言った。だからカジも考えるのを止め
「ああ。知ってるぜ。ま、最近は嫌な関わり方をしちまって、あのボンボンにはちょっと腹が立ってるけどな。それと、俺は昨日ナーウッドさんにも会ったんだぜ?」
と笑って言った。
「えっ?ナーウッドくんに会ったんですか?」
それを聞いてニコの顔が少し明るくなる。
「ああ。城下町でな。ま、色々大変そうだったけど、元気でいたぜ」
「そうですか、ナーウッドくん……」
「それと、お前さんがここにいることも、それが罠だってことも気づいてた。だから、その点は安心していいと思うぜ」
カジが付け足して言うと、ニコはますます安堵の表情を浮かべ、よかった、気がついてくれてたんだ、とひとり呟いた。
「あ、それでリッツくんの方は?」
「リッツ王子のことは正直よくわからねぇんだ。ま、ここ一年ばかり怪しげな連中とつるんでるのはわかったんだけどな。本格的に調べようと思った矢先に上司が飛ばされちまったのよ」
カジがそう言うとニコはそれに続けて
「怪しげな連中って、昨日部屋に来たトカゲとかいう人もそうなんですか?」
と質問する。
「ああ。そうだぜ。ま、どういった理由で一緒にいるのかは、わからねぇがな」
「そうだったんですね……昨日、あいつがアストリア兵を呼んだからラシェットさんは捕まってしまったんです」
「そう。やっぱりやつの仕業だったのね」
キミは久しぶりに口を開いた。
すると、それを聞いてニコが何かを思い出したかのように
「そういえば、昨日トカゲはラシェットさんをショットと接触させるのが目的だったとか、手紙は処分しなければならないとか、色々としゃべっていました。僕にはよく意味がわからなかったのですが、ラシェットさんと随分色々と話し込んでました」
と言った。
それを聞いてキミが
「ラシェットとショットを接触させる?それにどんな意味あるのかしら……」
と疑問を口にしかけた時。
コンコンコン
と窓をノックする音がした。
キミが窓を開けると、そこにはミニスが立っていて
「そろそろ、限界よ。見つからないうちに早く切り上げた方がいいわ」
とキミに耳打ちした。
「わかったわ。ありがとう。そうしましょう」
そういうとキミはドアを開けた。そして体を半分外に出すと振り返り、ニコを見た。それをニコは気配で感じることが出来た。
「じゃ、色々と教えてくれてありがとう。助かったわ。あなたはこのまま何事もなかったかのように、仕事に行って構わないわよ。後は私達に任せて」
キミはきっぱりとそう言った。
その言葉にニコは少なからずショックを受けた。
え?僕を、僕を助けてくれるんじゃなかったのかと……
「あ、あの」
車を去ろうとするキミに何とか声をかけようと思った、
その時。
バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ……
と、街中にけたたましい音が鳴り響き始めた。
その音にニコも、キミも、カジもミニスも動きを止める。
そして、全員が辺りを見回し、耳を澄ませる。
しかし、そんなことをしなくても、その爆音がだんだんと大きくなっているのは容易にわかった。
「なんだなんだ?」
既に外に出ていたカジは言う。
「飛行機みたいだけど、何か違うわね」
その隣に立って、ミニスも言った。
それを聞いて、ニコは
「飛行機じゃない……これは…これはヘリコプターです」
と呟いた。
「へり、コプター?」
カジは間抜けな声で聞き返す。
「ってなんだそりゃ?」
「飛行機みたいに空を飛んで移動するものなんですけど、僕も少し耳に挟んだだけで、あまり詳しくは……」
とニコが言っていると、その物体はもう遠目に見える所まで来ていた。
それは誰も見たことのない形状の、ものすごい速さで移動する機械だった。
それ以上の言葉は誰も持ち合わせてはいない。
しかし、ニコだけはここにヘリコプターなる物が現れたことの意味を正確に推し量ることができた。
「間違いない、このエンジン音は。あれには……あれにはおそらくショットが乗っています!」
「なっ!なにっ!?ショットが?」
全員にまた緊張の色が滲んだ。
「ちっ、もうお出ましかよっ」
カジは吐き捨てる。それに続きミニスが
「まずいわね。あいつがここに来たってことはたぶん狙いは」
と言いかけると、キミが
「私達じゃないわね。狙いはラシェットだわ」
と言った。その声色にはとても迫力があった。
「じゃ、じゃあ、あれを追っていきゃあ」
「ええ。たぶんラシェットさんの所に案内してくれるわね」
「でもよ、それじゃあ、まるっきり後手に回っちまうぜ?」
「仕方ないじゃないのよ。私達はもともと後手に回ってるんだから。それよりも、これからどうするのか、本気で考えないとまずいわよ」
二人が言い合っているとキミは
「そうね。とにかく今、見失ったら大変だわ。すぐに追いかけるわよ。その後のことはその時決めましょ」
そう言い、近くに立って新聞を読んでいたヒゲの方を見た。すると、ヒゲも新聞を畳み、歩き出す。
皆がそうやって、おもむろに歩き出すとニコは車から身を乗り出して
「あ、あのっ!」
と言った。
それを聞いて全員が振り向く。しかし誰も声を発する者はいなかった。
「あ、あの……」
それでまたニコは言葉を失ってしまう。その様子を見てキミが
「私達の用はもう終わったわ。ありがとう。それとも、まだあなたは私達に用が残っているのかしら?」
と聞いた。
しかし、その言葉にもニコはうまく答えることができない。
その心情を察しながらもカジとミニスはあえて、何も口を挟まなかった。
これから先はニコ自信が踏ん切りをつけ、決めるべきことなのだ。
「僕は、僕はどうしたら……」
「あのねぇ」
そこまでだった。こうしている間にもヘリはどんどん先に進んでしまっている。だからキミは
「そんなことは自分で決めなさいよっ!あなたが私達について来ようが、今まで通りここに残ろうが私達はどっちでもいいわ。言っとくけど、私は別に昨日のことで、あなたのことを責めたり、恨んだりしてないわ。だって、仕方ないことだもの。あなたは脅されていたんだろうし、罠にされていることにも気づいていなかったんだから。でもね、はっきり言ってここから先はあなたが自分の責任で決めていかなければいけないと思うわ。たとえ、あなたの選択のせいで多くの友達が命を落とすことになったとしても。その覚悟があるのなら、私達について来なさい。そうでなければ、今まで通りここで震えながら待っているといいわ。私達が皆を救い出すまでね」
と一気にまくしたてた。
それを聞いてカジは頭を掻く。もっと、優しく言ってあげられないものかねぇと。ま、仕方ない。お嬢ちゃんもラシェットさんのピンチで気が立ってるんだ。
カジは歩き出す。そして、振り向かずにニコに手を振った。
それに釣られるように、他の3人も歩き出す。
もう誰も振り向く者はいなかった。
その様子をただ呆然と眺めるニコ。
いや、彼にその光景が見えていたわけではない。しかし、彼の心の中には、それ以上に寂しい風景が広がっていた。そこにはニコ以外誰もいなかった。ただ狭く、暗い空間。
「うっ…ううっ……」
ニコは力なく車の中に戻った。
そして、これ以上その風景を直視したくなかったので、俯き、ひたすら涙を流した。涙はいったいどこからやってくるのか、止めどなくニコの瞳から零れ落ちる。その涙を拭うのも忘れ、ニコは後悔した。今までのことを、昨日のことを、そして、たった今さっきのことを。
「ラシェットさん……」
ニコは自分でも気づかないうちにそう呟いていた。それはきっと、ニコが欲しかったからに違いない。どこの誰かも知らない彼の友人達を助けたいとまで言ってくれた、あのラシェットが示した「勇気」というやつが。
そう。このとき彼に欠けていたのは、一歩を踏み出すための「勇気」だったのだから。




