追跡 4
とくにこれといって特徴のない平凡なホテルの部屋も、一丁の銃が構えられる事によって、まるで別の空間に様変わりする。
物の持つ緊張感というのはそういうものだ。
何もない真っ白な部屋に、一脚の椅子が置いてあるだけで、人の意識は自然とそこに集中する。そして、あたかもその椅子に何か特別な意味や寓意が込められているかのように人は思う。
それはただの椅子で、そこはただの部屋なのに。
きっとこれは人間の発明だ。
しかし、それも日常の中ではあまり意味を成さない。こういったことはどこか日常を離れた場所の方が、より劇的な効果を得られるものらしい。
だからなのか、トカゲはキミに銃口を向けられたところで別段、緊張も萎縮もしなかった。
トカゲにとってみればこの状況こそ、まさに長年慣れ親しんだ「日常」と言っていいものだったからだ。
「クックックック、教えろ。ですか」
むしろトカゲは笑いが込み上げてくるのを抑えることができなかった。まさか、ラシェットに出し抜かれただけでなく、その連れの小娘にまでこうも驚かされるとは正直、思ってもみなかったのだ。
久しぶりの仕事の高揚感も相まって、武者震いがする。
そんな様子のトカゲをキミは睨みつけ、油断なく銃で狙う。その横のシュナウザーはただ立って見ているだけのようだ。トカゲがまた口を開く。
「クックック、あなたもラシェットさんも、教えろ教えろといいますがねぇ。わたしがそう簡単にお教えするとお思いですか?」
トカゲはわざとラシェットのことを引き合いに出す。そうすることでキミに揺さぶりをかけることができると一瞬のうちに見て取ったからだ。こういう駆け引きはトカゲに分があった。
「ええ。もちろんタダで教えてもらおうなんて思ってないわ。代金はこの銃の弾丸か、このヒゲのナイフよ。どちらでも好きな方を選びなさい?」
キミは少し頭に来たように言う。
その言葉のトゲトゲしさから、トカゲはこの不利な状況の中のわずか2、3分のやり取りで、自分が一定のポイントを稼ぎつつあることを知る。
「おお、怖い怖い。そんなことを若いお嬢さんが言ってはいけませんよ。クック、私はこの通り、なかなか可哀想な中年なんですから」
トカゲは余裕の表情で笑った。それを見てキミは
「あっそ。つまり教える気はないのね?」
と凄んだ。
「クックック、だから先ほどからそう言っているじゃありませんか」
トカゲは呆れたような仕草を見せ、答える。すると
「ふーん、そう」
と言い、キミはあっさりと銃を下ろした。
「おや?」
トカゲは意外に思い、キミの表情を窺う。
が、それが合図だったのだ。
突然、今まで何もせず突っ立っていたシュナウザーが、トカゲに向かい嵐のように襲い掛かった。
「おっ!?」
その一閃をトカゲは体を捩って躱す。
ギリギリの反応だった。もう一瞬気がつくのが遅れていたらやられていただろう。
トカゲがうまく反応できたのは、シュナウザーの体つきをよく観察していたからだった。それだけでトカゲはこの男が只者でないことだけは察していたのだ。しかし、いかなる理由でこの小娘とこのような男が一緒に行動しているのかまではわかりかねた。
鋭い角度とスピードの攻撃。それをトカゲは二撃、三撃と凌ぎ続ける。すると
「むっ?この男……」
とトカゲはその男の動きに心当たりがあるのを思い出した。
間違いない、この男はアストリアではそこそこ有名な殺し屋、ロウレン・ムルア、通称シュナウザーだ。
なるほど。だとすると、彼はきっとペンギンの雇ったという男のうちの一人なのだろう。
「シュナウザーさんっ。クックック、あなたほどの方が、こんな小娘に肩入れをするのですか?」
避けるだけで精一杯だったが、トカゲは皮肉を言った。その言葉に、シュナウザーはこめかみをぴくっと動かす。だが、それだけだった。動きの滑らかさに変化はないし、怒りに任せて大振りになることもない。トカゲはそのことを
「流石ですねぇ」
と思ったが、それと同時にどこか腑に落ちない気持ちもした。
中でも一番引っ掛かったのはシュナウザーの目つきである。
普通殺し屋や裏の稼業に携わる人間は大体、目で見分けることができた。しかし、トカゲはシュナウザーのことを最初に見た時は、彼のことに思い至ることができなかった。それは目つきが違っていたからだ。
トカゲはそのことがずっと気になっていた。シュナウザーの目にはまるで精気が感じられない。攻撃的になっている今の状態では、少しまた違っていたが、やはり迫力に欠ける感じがした。
「これはいったいどうことなのでしょうか……これでは、まるで……」
そう思い、トカゲは隙を窺うと、なにげなくキミの方を見てみた。
そして、そこで目にしたものにトカゲは雷に打たれたような衝撃を受けた。
「バッ、バカな!あ、あれは、あの目はっ!」
あまりの予想外の出来事に、トカゲの動きが一瞬止まる。
しかし、この高度な戦闘においてはその隙だけで十分だった。
「あっ」
気づいた時には遅過ぎた。
トカゲはシュナウザーの鋭い一刺しを肩にくらってしまった。
ナイフがぐいぐいトカゲの肩に食い込む。全身に焼けるような痛みが走った。
「しまった……」
トカゲはその痛みよりも、その油断に歯噛みした。
シュナウザーはナイフを抜き取り、次の攻撃に移ろうとしている。
「クック、弱りましたねぇ……」
苦しそうに呟きながらトカゲは後退し、窓際まで来た。肩を押さえるが、傷口からはどくどくと血が流れ出てくる。その様子を見てキミが
「さぁ、その傷じゃ、もう逃げられないんじゃないの?大人しくラシェットの居場所を教えなさい。そうすれば、傷の手当もしてあげるわ」
と言った。
それを聞いてトカゲはしばらく黙り込んだ。
しかし、ついには
「クックックックックックックックックックック」
と堪らず大声で笑い出した。それをキミは眉をひそめて眺める。さすがにまだトカゲを見慣れないのだ。
「笑ってないで、さっさと答えなさい!ラシェットはどこにいるのっ!?」
キミはまた銃を構える。
しかし、そんなことには目もくれずトカゲはキミの瞳だけを見ていた。
クックック、まさかこんなことがあるなんてねぇ。思いもしませんでしたよ……クック、ラシェットさん、あなたは本当にとんでもないお人だ。
「黙ってないで何とか言いなさいよね?」
「クックック、いやぁ。お嬢さん、参りました。降参です。しかしですね、私にも事情というものがあるのですよ。だからラシェットさんの居場所をお教えすることはできません」
両者の間にまた沈黙が訪れた。
トカゲはわかっていたのだ、こうなってしまったら困るのはおそらく彼女の方であろうと。そして、もし彼女が自分の予想通り、あのショットと同じ「守人」だとしたら次にしてくることはたぶん……
トカゲは痛みを堪えじっと待った。すると果たしてキミは動いたのだ。
「そ、なら仕方ないわね」
と。
そのタイミングがトカゲの勝負どころだった。そこで、この駆け引きの明暗が分かれる。
「クックック、私を殺すおつもりですか?いやぁ、ますますおっかないお嬢さんだ。しかしですね、その前に私にもひとつ聞きたいことがあるんですよ」
トカゲはゆっくりと思ってもいないことを言う。
「聞きたいこと?」
「ええ。そうです。それさえ教えていただければ、ラシェットさんの居場所をお教えしましょう」
「ふーん」
それを聞くとキミはまた不機嫌そうになった。そして
「わかったわ。じゃあそれには答えてあげる。そのかわり、あなたが先にラシェットの居場所を言いなさい。私が答えるのはそれからよ」
ときっぱりと言った。
するとトカゲはそれを聞いてニヤニヤ笑い、
「クックック、それは虫がいい話ですねぇ。私はただ、あなた達お二人が手紙を隠したという砂漠の遺跡の場所を教えていただきたいだけなのですがねぇ……」
とまたゆっくりと言ったのだった。
「えっ……」
するとキミの顔は見る見る強張っていき
「……それ、ラシェットから聞いたの?」
と思わず口走ってしまった。
その言葉を待っていたのだ。
トカゲは我が意を得たりとニタァーと笑う。
キミもそのトカゲの表情を見て、やっとその嘘に気がついた。
「だ、騙したわねっ!」
キミはものすごい形相でトカゲの目を見る。
「おっと」
そこからトカゲは辛ろうじで目を逸らす。そして後ろを振り返ると窓を開け放ち、窓枠に飛び乗った。地上7階の冷たい風が勢いよく部屋に流れ込む。その姿をキミとシュナウザーは部屋の中ほどから見上げた。
「クックック、どうもありがとうございます、お嬢さん。親切に教えていただいて」
トカゲは笑う。
キミは悔しさとラシェットを疑ってしまった後悔から目に涙を貯めていた。しかし、今はそこをぐっと堪えてトカゲを睨む。でも、トカゲは全く目を見てくれなかった。まるで、この目の力のこと知っているかのように。
「くっ、そこからなんて逃げられないわよ。落ちたら助からないわ」
「クックック、それは嫌ですねぇ。私はまだ死ぬわけにはいきませんから。しかし、ここしか逃げ場はありません。ですので……」
「ここから失礼しますよ」
そう言うとトカゲは、ぴょんと窓から飛び降りてしまった。
「えっ!?」
キミはあまりのことにすぐに窓に駆け寄り、下の覗く。しかし、そこにトカゲの姿はなかった。地上にも落ちた形跡はない。
どういうこと……?
キミにはまるでわからなかった。振り返り部屋の中も見渡す。やはりそこにもトカゲの姿など影も形もなかった。
「あー、もうっ!唯一の手がかりだったのにっ!」
キミは悔しさのあまり大声で叫んだ。しかし、そうしたところでラシェットの居場所はわからない。
「まだよ……まだ、なにか方法が残っているはず。だとしたら……」
キミはすぐに頭を切り替え考えた。でも、まともな考えなど少しも浮かんでくる気がしなかった。
「くっ」
心なしか眩暈もした。
どうやら力を継続して使い過ぎたらしい。このままではヒゲのコントロールも切れてしまう。ここはいったん、部屋に引き上げて何か糖分を摂取しなければ。そうすれば、また良い考えも浮かぶかもしれない。
そう結論を出すと、キミは
「さ、行くわよ、ヒゲさん。悔しいけど、もう一回立て直しよ」
とシュナウザーを伴い、さっさと部屋を出て行った。
それから念のため一分間ほど様子を見た後、トカゲは
「お、行きましたかねぇ」
と窓枠をよじ登って出てきた。
実は飛び降りたフリをして窓枠に取り付いていたのである。肩を刺されているため、かなりしんどかったが、そうするより道はなかった。
また今回も、リッツからもらったこの「光学迷彩」という機能のお陰で助かったわけである。
「ふーっ、でも充電がギリギリでした……もう明日の夕方辺りまでは使えませんね」
トカゲは服についた埃と砂をパンパンと叩いた。そして服を脱ぎ、刺された傷口を確かめる。目を逸らしたくなるような痛々しさだったが、仕方ない。自分で処置を始めた。
「こうなったら、早くここを出なければいけませんからねぇ。クックック、おお、痛ててて」
処置は思いのほかうまくいった。どうやら小娘もここに戻っては来ないようだ。
「さて」
トカゲは部屋を出た。
行く先はまだ決まっていない。このままここでラシェットが本当にアストリアに送られるまで見守るべきか。それとも一度リッツの元に戻り、小娘のことを相談するべきか。はたまた、手紙の回収を優先して遺跡の捜索を開始すべきか……
トカゲは歩きながら考える。そして、どれもこれも重要なことだから、すぐには決められないと思った。
しかし、遺跡に関してだけは、トカゲにはどうにもならない問題だった。なぜなら、たとえ遺跡を見つけたところで、きっと中には入れない。そうリッツから聞いていたからだ。
「うーん、どうしますかねぇ……」
トカゲは一人呟く。
歩く度に肩が痛んだ。でもこれは、たかが小娘相手だと高をくくっていた自分への戒めにもなる。
「そういえば、ペンさんともう一人のお知り合いの方はどうなったんですかねぇ……シュナウザーさんにやられてしまったのでしょうか?」
トカゲはロビーに出た。そこにもあの娘の姿はない。だから安心してそこを突っ切り、ホテルを出た。
時刻はもうとっくに深夜だ。
「夜は落ち着きますねぇ」
トカゲはまた、道端の石ころになったつもりで俯いて歩く。
道行く人は少なかったが、誰もトカゲのことなど、目に入っていないようだ。
それでもいいんです。
とトカゲは思った。
だって、この世界はあまりにも広く、私はこんなにもちっぽけです。
そう思っても、もう寂しくも何とも思わない今の自分をトカゲは誇らしく、また、くすぐったくも思うのだった。