砂漠
僕が不時着したのは広大な砂漠だった。
でも、僕にはまだその広大さにも、容赦ない暑さにも、それ故の過酷さにも、砂漠が時折見せる神秘についても思い至ることはできていなかった。
ただ、追っ手から逃げるだけで精一杯だったのだ。
だから僕は、普段空の上から見下ろしていた砂漠というものから得た印象以上の想像が欠けていたのかもしれない。
砂漠という場所はそうやすやすと人間の生存を許さないのだ。
人間が砂漠で生きるためには砂漠のことをよく知らなければならない。そして、砂漠と十分親しく付き合わなければならないのだが、そんなことにすら僕は気付けていなかった。
都会にも都会で生きるためのコツみたいなものがあるように、どんな所にも、そういったルールは存在するのだと思う。
そして、砂漠でのそれは、ものすごくシンプルなものだった。だが、それ故に過酷だった。
それは都会での生き方の様な、複雑なプロセスを経た上でのシンプルさや、過酷さとは違い、直接的に僕に問いかけてくるのだった。
僕はどうしてここにいるのか。
僕はどうやってここで生き延びるつもりなのか。
生き延びて、そして何がしたいのか。
何故にそれがしたいのか。
それを成し遂げたら、次はどこへ向かうのか。
砂漠は僕に色々なことを語りかけてきた。
それは、まるで時に厳しく、時に優しく指導してくれる、人生の教師の様でもあったし、僕を執拗に問い詰める尋問官の様でもあった。
僕はその問いかけに、なるべく丁寧に、誠実に答えようとした。
しかし、どうしてもうまく言葉が出てこないこともあった。暑くて、喉が渇いて、頭がうまく働かない。いや、それ以上に今までに考えたこともなかったことを考えさせられたのが、原因かもしれない。
だから、僕の中から思いもよらない答えが顔を見せることもあった。僕にはそれが、可笑しくもあり、怖くもあった。
そうやって僕は砂漠の真ん中で、どんどん自分自身の深い所まで降りて行っているような、そんな気分を味わっていた。
ズサァァァァ……
……
「いつつつつ…」
不時着の衝撃で体の節々が痛んだ。
ずっと無理をしてきた手と足は痺れたように動かない。おまけに久しぶりの激しい空中戦のせいか、頭もガンガンと痛んだ。振られすぎたのだ。
レッドベルの脚と車輪も半分ほど砂に埋まってしまっている。コックピットの中は砂だらけだ。
でも、僕は動かなければいけない。
今、敵に発見されたらまずい。
そう思い、僕はなんとかコックピットから這い出ると、トランクを開け、中からサンドカラーのカモフラージュシートを取り出した。
これも新たに仕入れておいた物だ。
そのシートをレッドベルが隠れるようにかぶせる。そして、その四隅を杭で地面に留めるのだが、下が砂では刺さらないため、四隅のヒモに杭を重し代わりに結び付けた。
その作業を僕は素早く終わらせると、自分もそのシートの下に身を隠した。
近くで見ればすぐにわかってしまうカモフラージュだが、上空からの探索には有効な目くらましになる。
僕はじっと息を潜め、追っ手が来ないかどうか上空の警戒を続けた。
腹と腕に触れる砂はとても熱く、さらさらしている。僕の額から、ぽたっ、ぽたっと流れ落ちる汗はすぐに砂に吸収された。シートの下は日陰だが、レッドベルのエンジンが持つ熱が抜けずに、このシートの中に充満しているため、まるで蒸し風呂状態だった。
どのくらいそうしていただろうか。
これだけ待っても来ないということは、追っ手はもう来ないのかもしれない。
もちろん、油断は禁物だが、僕は早く動きたかった。レッドベルの点検、修理を始めてしまいたかったのだ。
よし、と決意すると僕はそっと起き上がり、低い姿勢のままシートの下を移動した。
そして、まずは一番ひどくやられた尾翼の点検に入った。
「うーん…」
思っていたよりも手酷くやられていた。持ってきていた予備の装甲板を全て使って、なんとか飛べるまでに持っていけるくらいだ。しかし、やられているのはここだけではない。次に左主翼の様子を見に行った。
ここも思っていたよりも状態は悪かった。これでよくここまで無事に飛び、不時着できたものだと、僕は改めてクラフトタイプのタフさに感謝した。でも、これでは材料が足りない。この左主翼を修理しない限り飛ぶことはできないだろう。
「さて、どうしたものか…」
幸い、その他には致命的な故障は見られなかった。だから、装甲板もしくはそれに変わる板金さえ仕入れることができたらレッドベルは修理可能のはずだ。
僕は座りながら考えることにした。
この愛機をこんな所に置いていくつもりはない。では、どこで材料を仕入れることができるのか。それを知るためにも、まずは自分が今砂漠のどの辺りにいるかを知らなければ。
僕はリュックから、ノートとペン、地図とコンパスを取り出した。リュックの中には出発前に買ったケバブとコーヒーも入っていた。しかし、コーヒーはポットに入っていたから良かったが、ケバブの方はリュックの中でなかなかの大惨事を起こしていた。おかげでノートも地図もベタベタだ。しかし、食べるのには問題なさそうだった。
これから先、食糧と水の有無が僕の生命に直結してくるのだろう。しかし、ケバブは日持ちしそうにない。
「ええい、仕方ない。食べてしまえ」
と僕は地図を広げながら、ケバブに齧りついた。
僕はノートに今の季節と時刻、それとコンパスを使い太陽の位置を記録する。それを定期的に繰り返した。それでどこまで正確な位置がわかるのか自信はなかったが、闇雲に歩くよりはましだ。非常用の乾パンと水も3日分あった。おそらく、節約して食べればもっと保つだろう。いずれはここから歩き出さなければならないが、それはこの作業がひと段落する明日からでもいいだろうと、僕は判断した。
太陽の動きを記録する合間を縫って、尾翼の修理も行った。こちらの作業は日没までに完了した。あとは材料を手に入れ、左主翼を修理すればいい。
追っ手が来る様子は相変わらずなかった。だから、もしかしたらもう東側の軍の領域に入っているのかもしれないが、それにしたって今度は東側の軍が姿を見せないのもおかしい。まぁ、こんな何もない砂漠の真ん中に不時着した飛行機になんて気がついていないだけかもしれないが…
ふと見ると、夕陽が地平線の向こうに沈みだしていた。
僕は地図から目を上げ、しばしその光景に見入っていた。
砂丘の輪郭がオレンジ色に光り、そして様々な形の影を作り出した。
まるで街のようだった。砂と影が作り出した街。住人は今のところ僕一人しかいなかった。
少し風が吹き始めた。風が吹くと砂丘の表面の砂がふわっと舞い上がった。
夕陽はどんどん色を変えていく。それに応じて空と雲の色も変わった。黄色、オレンジ、赤、ピンク、空の青、砂の黄色とも混じり合い、複雑な色味を出す夕景。
僕はそれをしっかりと目に焼き付けていた。
やがて、一番星を引き連れて、夜が入れ替わりにやってきた。
僕はそこで我に帰り、星の位置を記録した。正座の位置も記録する予定だ。それと不時着する時に見た景色と飛行距離も擦り合わせて総合的に現在位置を把握する。僕にはそんな手しか残っていなかった。
完全に夜が訪れると、ぐっと冷え込んだようだった。
僕は寝袋を出し、その中に入ってシートの下から夜空を見上げた。
満天の星空だった。
故郷ライル村で見る夜空も素晴らしいものだったが、それ以上だ。ましてや、長年の都会暮らしで久しく星を見ていなかったから、星とはこんなに明るいものだったのかと感心した。
ランプを点けているのももったいなく思い、僕は筆記用に小さく点けていたランプすらも消し、寝袋を持ってシートの外に出た。
不用心でも構うもんか。僕は少し歩いて砂丘のてっぺんを目指した。
夜の砂漠は真っ暗ではなかった。星と月に照らされて十分に明るく、砂丘の色は少しピンクがかって見えた。
砂丘のてっぺんに到着すると、寝袋を置き、その上に寝っころがった。
無数の星が瞬き、いくつもの流れ星が通り過ぎた。
「綺麗だな」
と心から思った。
こうしていると、自分がとても、過酷な砂漠の真ん中にいるなんて信じらなかった。
もちろんそれはまだ水も食糧もあるという心の余裕からくるものなのだろうし、砂嵐も来ていない穏やかな夜だからそう思うのかもしれなかったが、そう思わずにはいられないほどの美しさだった。
空気はとても澄んでいた。まるで上空にいる時のように。そういえば、あの星達の光は夜、上空から見下ろす都会の光にも似ている。
そう考えるとまるであの星空こそが本当の地上であり、僕が今寝っころがっているこここそが、真の空なのではないかという気もしてきた。そうだったらおもしろいのになと僕は思った。
今日はここで寝よう。
僕は改めて寝袋に入り、目を瞑った。
目には眩しい星空の光が焼き付いていた。これでは目を瞑っているのか、それとも開けているのかすらもわからない。
それでも、僕はだんだんと眠りに落ちていった。
朝は夜明けと共に目が覚めた。
昨日記録した太陽と星の位置から大体の現在地を割り出した。それによるとやはり砂漠の真ん中よりも東部にいるみたいだった。そしてここから北北東に一日くらい歩いた場所にオアシス都市モンドールがあることがわかった。僕はそこを目指して歩くことを決意した。
一日で着くとは限らない。
だから水と食糧を多めに用意する。しかし、重くても邪魔になるので、ほどほどにした。その他にも必要なものをあらかたリュックに詰めむと、地図とコンパスを手にした。
そして、レッドベルにそっと手を当て
「じゃあな、すぐに戻ってくるから待ってろよ」
と言うと、僕は過酷な砂漠の旅へと足を踏み出したのだった。
道中、道標になりそうなものは何一つなかった。強いて言えば太陽の位置くらいだ。
僕はただひたすら、コンパスを頼りに砂丘を次から次へと越えて行く。
最初の数時間こそ、新鮮な砂漠の景色だったが、それ以降はどこまでも続くこの砂だけの景色にだんだんと不安ばかり募らせていった。
そして、思っていた以上にこの砂漠の空気が僕の喉を乾かせた。たぶん、この砂漠はかなり湿度が低く、乾燥しているのだ。足元のさらさらとした砂を踏みしめながら僕はそう考えた。しかし、それがわかったところで、余計に喉が乾くだけだった。
人はどのくらいの時間水を飲まずに歩き続けることができるのだろうか?少なくとも僕はまだ我慢できそうだった。
時間にして6時間ほど歩いた所で、僕は腰を下ろして休憩することにした。時刻は正午近い。太陽の光がいよいよ容赦なく僕を照らし始めた。
外套など持っていなかったから、僕は頭にタオルを巻き、首からはいつ砂嵐が来るかもわからないから、飛行機操縦用のゴーグルをぶら下げていた。
僕はごくごくと水を飲んだ。問題ない。まだたっぷりとあるのだ。僕はそこから周りの景色を眺めた。しかし、砂丘以外には何ひとつ見当たりはしなかった。
「下が砂だと思っていたよりも、歩くのが遅くなるな」
と僕は思った。これでは一日中歩き続けたとしてもモンドールに着くかどうか…
そう考えていたとき、僕ははたと大事なことに気がついた。
もし、着いたとしたって僕はどうやってレッドベルの所まで戻ればいいのだ?と。
あまりにもうかつだった。
確かに地図に印は付けてあるし、歩いてきた方角も時間もノートに記録してはいる。
しかし、それはあまり正確な情報ではない。そんな不確かな情報を元に果たして、この広大な砂漠から再びレッドベルを見つけることなどできるのだろうか。
僕には自信がなかった。
せめて、もっと深く足跡を残しながら歩くなり、何か目印になるものを途中に置いておくなりしておけば良かったのかもしれない。
「引き返すか?」
僕は考えていた。
僕はここまで6時間歩いてきた。今ならまだ間に合うはずだ。しかし、たかが6時間、されど6時間だ。戻るのには勇気がいった。
なぜなら、僕の考えが正しいなら、僕はモンドールにすでに6時間分近づいていることになるのだから。それをむざむざ戻るなど…やっぱり僕にはできなかった。
「もっとペースを上げて、今日中に着いてみせるさ」
と僕は思い、立ち上がった。
そして、またコンパスと地図を片手に砂漠を歩き始めたのだった。
しかし、この時の選択が、僕か犯した大きな間違いのうちのひとつだったと後に知ることとなる。
日が傾き、夕方が来て、やがて二度目の夜が来た。
ずっと歩き続けたのにも関わらず、モンドールはまだ見えて来なかった。
僕はそのことに少なからず落胆したが、まだ一日目だと思い直した。水も食糧もある。
僕は乾パンを食べ、氷砂糖を齧り、水を飲んだ。目の前には小さなランプが灯してある。その小さな火が思いがけず暖かい。
昼間はあんなに熱いくせに、夜はこの寒さだ。おまけに冷たい風を遮ってくれるものが何もない、吹きっさらしだ。
僕は寝袋を広げ、中に潜り込んだ。そして、うつ伏せになり、ランプの光を頼りに地図を見た。今どの辺りだろうか?僕は考えた。しかし正確な答えなどあろうはずがなかった。それでも僕が地図を眺めるのは、少しでも不安な気持ちを取り除きたかったからなのかもしれない。
空は相変わらずの綺麗な星空だった。
しかし、それを楽しめるほどの精神的な余裕はだんだんなくなってきていた。
翌日、昼過ぎまで歩き続けたところで、ようやく遠くにモンドールらしい建物が見えた。
僕はほっと胸を撫で下ろした。やはり僕の測量は間違っていなかったのだ。僕ははやる気持ちを抑えつつ、その方角へと歩き続けた。
見た感じではまだまだ遠そうだった。きっとまだ数時間はかかるだろう。しかし、モンドールに着いたからといって、そこがゴールなわけではない。僕はそこで、レッドベルの材料を買ったらまた、砂漠に残してきたレッドベルのもとへ戻らなければならないのだ。
まぁ、いい。その時は街で人とラクダ雇えばいいのだ。幸い、そのくらいの金はある。とにかく街に着きさえすれば、あとはどうとでもなるに違いない。僕はそう考えていた。
異変に気がついたのは3時間ほど歩いた時だった。
僕は思わず足を止め、まじまじと遠くに見える街を見た。
その姿はさきほどからずっと同じ大きさだった。近づいている感じでもなければ、遠ざかっている感じでもなかった。
僕はそのことを信じたくなかった。しかし、信じなければ僕はこのままどこまでも歩いて行くことになってしまうだろう。
あの街は蜃気楼だったのだ。
僕は近くの一番高い砂丘を駆け登った。そして、そのてっぺんから360度周りを見渡した。
そこには何ひとつありはしなかった。
あるのは僕が既に蜃気楼だと認めてしまったあの幻だけだった。
僕は思わず口を開きかけたが、なんと言葉にしていいかわからなかった。
その後も歩き続けたが、その努力もむなしく三度目の夜が来た。
ここにきて僕は認めなければならなかった。
僕の測量など何の役にも立っていなかったことを。
ただ僕はこの地図上のどこだかわからない場所をひたすら北北東に歩いていただけだったのだ。
僕は水を飲んだ。乾パンなんて齧る気にもならなかった。口の中はいつもパサパサだった。
引き返すか?
僕はまたそう思った。しかし、今さらもう遅すぎた。もうレッドベルの所まで歩く体力は残っていなかったし、なにより水が保ちそうにない。
そこで僕はもうひとつの大きな過ちに気づかされた。
レッドベルのトランクに残してきた水だ。
僕は大バカだった。後先のことなんて考えず、たとえ重くとも水だけは全て持ってくるべきだったのだ。
僕は自分の知識と判断能力を過信していたばかりではなく、砂漠のことをなめていたのだ。
でも、もうどうすることもできなかった。
水はもうなるべく口にしないことにした。
とにかく、このまま歩き続けるしかない。
それしか思い浮かばなかった。
この時の僕にはもう、気の利いた考えすら思い浮かべることができなくなっていたようだった。
翌日も、蜃気楼が僕を苦しめた。
それは様々な形となって僕の目の前に現れた。
緑の生い茂ったオアシス、ラクダをいっぱい引き連れたキャラバン、懐かしい故郷の風景。途中からは蜃気楼と僕の意識が見せる幻影との区別すらつかなくなっていた。
でも、僕はそれらを目にする度に、その方向を目指し歩いた。そうせざるを得なかったのだ。僕はどんなに小さな希望の光にも吸い寄せられていく虫のようだった。頭ではバカな真似はよせ、あれは幻だと何回も警告を発しているのに、僕は同じ徒労を繰り返し続けた。
また、日が傾きかけている。
残酷なことに4度目の日没が訪れてようとしていた。
僕は水を口にした。もうほとんど最期の水だ。しかし、それを口にしないことには歩き続けることはできなかった。
背中のリュックが重くのしかかる。僕はなんでこんないらない物ばかりリュックに詰め込んできたのだろう。僕はイライラしていた。僕が何よりも必要だと欲する水を置いてきてまでも、持ってくるものなんてこの砂漠では何もないと思われた。もう汗もろくに出てこなかった。
それから30分程歩いた所で、僕は膝を折った。
そして、うつぶせに倒れこんだ。
胸の内ポケットに入れてある手紙の感触が僕に伝わった。
そうか、これくらいだな、水よりも大事なものは。僕はそう思った。でも、もうダメかもしれないよ。サマル。ごめんな。せっかくお前が助けてくれた、僕の命なのにこんな終わり方をして。最後に頼ってくれたのにな、こんなどうしようもない僕を。僕はお前のためなら、どんな奴が来ようと残らず倒してやるつもりだったのに、まさかこんなことになるなんて思わなかったよ…もう一度会いたかったな。どこかで生きているんだろ?サマル?お前は自殺なんて柄じゃないもんな。今なんとなくわかったよ。あの手紙を僕に寄越した理由が。そういうことは僕にしかわからないもんな。だからだろ?付き合いが長いってそうことかもしれないな。たとえ八年会っていなくても変わらない何かがきっと、僕達の間にはあったし、現に今もあるんだよ。…でも残念だな。すまない。もう一度会って。もう一度会って、また、一緒にあの沼へ行って釣りがしたかったよ…
もう立ち上がる力は残されていなかった。
僕はそのまま気を失ってしまった。
………
「ラシェット」
誰かの声が聞こえた気がした。
僕は気を失いながら、夢を見ていた。
僕は夢だと気づいていた。
本当に久しぶりに見る夢だった。しかも、内容まではっきり意識できている。
辺りは真っ暗だった。
ここはどこだ?僕は周りを見渡した。
すると、正面からサマルが出てきた。しかし、それは僕の知っているサマルではなく、少し大人になったサマルだった。でもひと目で僕はそれがサマルだとわかった。
サマルは僕の目の前まで歩いてきて止まった。そして、僕にこう言ったのだ。
「本当にこんなところで、諦めてしまうのかい?」
と。さらに続けて
「君はそんなに諦めのいいやつじゃないはずだよ?ちゃんと思い出すんだ。いつも一緒に過ごした、あの中等学校時代のことを」
そう言った。
その次の瞬間。
僕達は校庭に立っていた。教室に座っていた。廊下を走っていた。図書室で本を探していた。サッカーをしていた。一緒に歩いて帰っていた。駄菓子屋のおばちゃんと話していた。サマルのお父さんと一緒にドライブに出掛けていた。僕の部屋で遊んでいた。ケンカをしていた。好きな女の子について話していた。自転車に乗っていた。そして、釣りをしていた。二人で笑っていた。
それらの風景が僕の中を一瞬で駆け巡った。
ピューー、ピュー
ビューーー、ビューー…
僕は風の音で目覚めた。
一面砂だらけだった。
僕はガバッと起き上がる。
辺りはもう夜で、真っ暗になっていたが、それ以上に辺りを暗くしていたのは砂のカーテンだった。
砂嵐が来たのだ。
なんで自分がこんな状況になっているのかを思い出すまでに、僕は一分近くを要した。
どうやら気を失っていたらしいと気づき、またその直前に考えていたことも思い出していた。
もちろん、夢のこともはっきりと覚えている。
僕は頭のタオルを口元に縛り直し、ゴーグルを装着した。
そしてゆっくりと歩き始める。
「そうだな。僕は諦めてなんかいられないんだ」
強く風が吹いてよろめくが、なんとか踏ん張り、次の一歩を踏み出す。
「負けていられないんだ。こんなところで」
僕はつぶやいた。
待ってろよ。こんな砂漠、すぐに抜け出してやる。
もう弱気な考えなど頭になかった。
僕はまた一歩足を踏み出し、砂の大地を蹴って前に進んだ。
砂嵐を抜けたのは30分後だった。
あのままずっと気を失っていたら、僕はきっと生き埋めになっていただろう。
あの状況で助かったのが奇跡的だった。
空はすっかり晴れ、また満天の星空がそこにはあった。
僕はそれを見上げながら、容器の底に僅に残っていた水を飲んだ。
最後の水だった。
これで明日からは何も飲むものがない。
しかし、意外にも心は落ち着いていた。
僕は寝っころがり、星を見つめ、目を閉じた。眠くはなかった、むしろ妙に頭がはっきりしていた。
大丈夫だ。このまま進もう。僕はそう思った。確信というものでもない。ただの勘だ。
しかし、この砂漠でこうして寝転んでいるとその勘というものが研ぎ澄まされていく感じがした。
サマル、ちょっと背が伸びてたな。顔も昔の幼さが残る顔から大人の顔になっていた。
僕は思った。不思議な遭遇だったなと。まさか一足先にこんな砂漠の真ん中で再会するなんてな。
タバコがあったら吸いたい気分だった。とにかく、僕はまたサマルに命を救われたようだった。
起き上がると僕は夜の間もひたすら歩き続けた。もう寝てもいられない。そうしている間にもどんどん水分は奪われていくのだ。
小さなランプを手にぐいぐい歩く。もう追っ手のことなんて頭から消えてしまっていた。
大きな砂丘を越えるときにてっぺんから周りを見渡した。しかし、何も見えるものはなかった。
まだ、歩き続けると朝日が昇ってきた。美しい朝日だったが、今の僕にとって太陽はあまり歓迎すべき相手ではない。それを横目に見ながら、なおも黙々と歩き続けた。
昼になっても見えるのは蜃気楼だけだった。僕は改めてこの砂漠の広大さに畏怖の念を抱いていた。僕はもう砂漠というものの、ある一面だけは理解し始めていた。恐ろしいところだ。しかし気高い。僕はもうあんな追っ手など屁でもないと思った。しかし、僕が無事にここから生還しなければ、ここでの体験も全て意味のないものとなってしまう。
今日もまた、夕方に差し迫ろうという頃だった。
僕は遠く前方に確かに人工物の陰を見た。それは蜃気楼なんかではなく、実物の建造物の柱だった。
「まさか、砂漠の民の集落か?」
僕は走った。久しぶりに目にする人間の気配に僕は興奮を抑えることができなかったのだ。
しかし、そこにあったものは僕を落胆させるのに十分なものだった。
「これは…大理石か?」
そこにあったのは、遥か昔に滅び、今は誰の目にも触れることなく砂漠にうち捨てられている古代の神殿の一部だった。さぞ大きな神殿だったのだろう、柱の太さを見ればわかった。そしてこの柱は本来はもっと長いのだろう。しかし、現在はそのほとんどが砂の下に埋まってしまっているのだ。
「はぁ」
僕は柱にもたれかかり、座った。気持ちを切り替えろと自分に命じたが、しばらくは無理そうだった。
しかし、それ以上に深刻だったのは体力の方だ。どうやら今度は気持ちの限界よりも先に、肉体の限界が訪れたようだった。
「ちくしょう…」
しばらく休んでから起き上がろうとしたが、どうしてもダメだった。
僕はまたうつ伏せに倒れこんでしまった。くそ、せめて水さえあれば。僕は悔しかった。でも、絶対に諦めたくはない…僕はうつ伏せのまま遥か前方を睨み続けていた。
その時だった。
遥か彼方の砂丘の陰から、ふたつの茶色い陰が現れたのは。
僕の喉がひっくり返ったような音を漏らした。
間違いない、あれは蜃気楼なんかじゃない、ラクダだ!
僕は起き上がって駆け出したかった。それができないのなら、せめて手を振って知らせたかった。しかし、体はもうピクリとも動かなかった。
喉が渇いて、声すらも出ないのだ。僕はあまりにも無力だった。涙さえ枯れて出やしない。
お願いだ。神様!
僕は前方を睨みながら、祈った。もう激しいほどに祈った。僕にできることはもはやそれしかなかったのだ。
しかし、僕はその目の前の光景をまだ信じられずにいた。
なんと、その2頭のラクダは僕のいる方へ真っ直ぐ向かってきたのだ。
ラクダの上には一人、人が乗っていた。
だんだん近づいてくると、僕はその人と目が合ったのを感じた。
そして、僕は確信したのだ。僕は助かったのだと。
その人は僕の目の前まで来ると、ラクダから下りて僕のすぐ傍まで来た。思っていたよりもずっと小柄な人だった。顔は濃いサングラスと顔中を覆う布でわからなかった。
その人が僕の後ろに回ると、背中に耳を押し当てられた感触があった。死んでいると思われたらしい。
「まだ、生きてる」
声が聞こえた。女性の声だった。それもだいぶ幼い声に聞こえた。
その人は急いでラクダの所に戻ると、ひとつの皮袋を持って帰ってきた。
そして、僕の目を覗き込んで
「大丈夫?飲める?」
と言い、皮袋から水を自分の手にすくい、僕の口元に差し出してくれた。
僕は今度こそ、死んでしまったのかと思った。天使のお迎えが来たと思ったのだ。
僕はその手からゆっくりと水を飲んだ。枯れたと思っていた目からは涙がボロボロと出てきていた。
美味しかった。この子の優しさが嬉しかった。全身が震えた。僕はまた命を救われたのだ。
「急いで飲んだらダメ。ゆっくり飲むのよ」
その子はそう言った。
これが僕とこの少女、キミ・エールグレインとの出会いだった。