朝
暖かい朝の光が射し込んできていた。
しかし、それは冷たい海の上でひたすら朝の訪れを切望していた、機上のラシェットの所へではなく、セント・ボートバル都内の某高級ホテルの最上階へ降り注いでいた。
大きい窓が並んだ廊下。
暖かく、見晴らしの良いその廊下を、背高帽をかぶり、タキシードを着た小人の男が、特に急ぐでもなく、ゆっくりとでもなく、トテトテと歩いていた。
爽やかな朝と言ってよかったが、この小男の景色を見る、目を細めた笑顔は爽やかさとは正反対のものだった。それは、どこか不吉な予感さえ感じさせ、この小男の心情はわからなかったが、とにかく致命的に朝日が似合っていないことは確かだった。
小男の歩く足元の絨毯はフカフカしていて、明らかに他の階とは差別化されていた。ここは最上級の客しか泊まれない、スイートルームが並んでいる階ということだろう。
そんな廊下を慣れた様子で歩く小男は、その真ん中くらいにある部屋の前で足を止め、
そして、コン、コン、コンとノックをした。
はっきりしたノックだったが、独特のリズムと強弱があった。人が真似しようとしても、容易には真似できないであろうという類のノックだ。
小男が少し待っていると、ドアが開き、中から女が顔を出した。
「あら、トカゲちゃん。いらっしゃい。でも、残念。リッツは今いないのよ」
ドアから半身を乗り出し、女は言った。
女の年は27、8といったところか。いや、もしかしたら見た目以上にもっと若いのかもしれないが、とても大人びていた。髪は暗い茶色のショートボブで、服は黒いノースリーブのシックなワンピースを着、首元にはさりげない細さの金のネックレスをしていた。そして、足元は裸足だった。
「クックックッ、そうですか。それで、リッツさんはどちらへ?」
トカゲは特に残念そうでもなく言った。
「兄上様のところよ。なんか、色々バレちゃったみたいで。お説教でもされてんのよ。きっと」
女は関心なさげに言う。
「クックッ、やっぱりそうでしたか。では、お知らせする必要もなかったですかねぇ。でもまぁ、一応、あの方は無事に逃げ延びたらしいと、リッツさんにお知らせください」
トカゲは笑いながら言った。それを聞いて、女は
「あの方って、なんとかっていう郵便屋さんのこと?」
と尋ねた。
「はい。そうです。クックッ、おもしろい方なんですよ?」
「へぇ、そうなの。じゃあ、リッツはその人を使って、兄上様の顔に泥を塗るつもりなのね?」
トカゲはそれを聞いて、にやにやと笑った。
「そうですね。まぁ、それだけではないのですがねぇ。クックックッ」
女はトカゲの笑い顔を平気で見ていた。もうすっかり慣れていたのだ。
「はぁ。本当に、あなたたちは内緒話が好きね。まぁ、私は全然興味ないからいいけど。あ、そういえば、リッツがナーウッドの方はどうなってるとか、なんとか聞いてたわよ?」
女が思い出したように言った。
「クックッ、すいませんが、ナーウッドさんの足取りはまだ掴めていませんので、そうお伝えください。なにせ、彼の方が事情を知っている分、厄介なんですよ。クックックッ」
「ふーん。わかったわ。帰ってきたらそう伝えておくわね」
「はい。くれぐれもよろしくお伝えください。クックックッ」
そう言うと、トカゲはくるりと後ろを向き、元来た方向へと帰っていった。
その後ろ姿を見送りながら女は
「まったく、みんな何が楽しいんだか」
と興味なさげにつぶやき、そしてまた部屋へと入っていった。
その二時間程前。海上。
僕はガタガタとかじかむ手を抑え、なんとか高度と方向を保っていた。
もう空は明るくなっていて、どんよりと黒い雲は影も形もなくなっている。
僕は高度を少し上げていた。
眼下には広く、深い青色をした海が広がり、遥か前方には大地が見えた。
地図とコンパスで確認するまでもない。
見慣れたグランダン大陸の最西端の景色だ。
いつ見ても安心感を覚える景色だったが、今回ほどその大地が懐かしく感じたのは初めてのことだった。
やがて朝日が昇ってきた。
地平線が黄色く染まり、雲も色をつける。
それがもう少し高くなると、光が直接僕のところまでやってきた。
朝の光が僕の顔を優しく温めた。まぶしかった。でも、僕は朝日をずっと見つめ続けた。
眼下に広がる海も、朝の光を反射して、きらきらと瞬く。
僕は久しぶりに勝利の喜びを噛み締めていた。
遥かに見える大地目指して、機体を旋回させた。燃料はなんとか保つだろう。僕は燃料ポンプのレバーをシュコシュコと動かしながら思った。
高度、エンジン、ジャイロスコープ異常なし。
もう一夜で何回確認したかわからないことを僕はまた確認する。
結局はこういうことなのだ。困難に打ち勝つには小さなことをコツコツと積み上げていくしかない。そのことを僕は郵便飛行機乗りになってから何回学んだことだろう。
「我慢って、そういうことかな」
僕は朝日に輝く大地を目にしながら、つぶやいた。それはラウル爺さんに向かってつぶやいたものだった。
そして、今こうして頑張っていることの先に、サマルが待っていてくれることを祈ってのつぶやきでもあった。
風はまだ強く吹いていた。僕はその風をうまく乗りこなし、大地を目指す。
その先をあと一時間程飛んだ所に、グランダン大陸最西の港町、タングスンがあるのだ。そこで、着陸し補給したい。そして、できれば風呂に入って、暖かい食事を取りたかった。朝日が出たとはいえ、身体は芯まで冷え切っていた。
しかし…
そんな悠長なことをしている暇があるのかとも思う。
僕はようやく自分の置かれた立場というものを理解し始めていたのだ。そして、それは僕自身の目的とは違ったところで渦巻いている、別の人間の目的が深く関与しているのだろうということも理解した。
僕の目的は言うまでもなく、サマルを見つけ出すことだ。そのための手段として、サマルの手紙を持ち歩き、トカゲからの手紙をアストリアに運び、Kに接触するのだ。
しかし、そんな僕の目的、もしくはそのための行動が気に入らない人間がいるらしい。それも帝国内に。
やっぱりトカゲの手紙をKに届けてしまうということは、帝国にとって不利益になるのだろうか。だから、帝国陸軍が動き出したのに違いない。でも、だとしたらなんで僕がセント・ボートバルにいる間に捕まえに来なかったんだ?それに、どうして正体を隠して作戦を?
また同じところで思考は暗礁に乗り上げた。
まぁ、いい。とにかく帝国領からは出たんだ。もう、そう簡単には陸軍も空団も出張っては来れまい。それに、飛行機の燃料補給と点検はどちらにせよ、しなきゃならないのだ。
僕は嵐を突破してきて疲れていた。だから、自然と結論は体を休める方へと落ち着いていった。
一時間後、町が見えてきた。
僕は無線で管制塔に連絡を取り、飛行場への着陸許可を得た。
僕は機体を旋回させ、着陸態勢に入る。
手元のレバーで、飛行機の脚と車輪を出すと、スムーズに出てくれた。どうやらあの嵐の中、ちゃんと故障しないでいてくれたらしい。僕はホッとした。
無事に港町タングスンの飛行場に着陸し、指定された格納庫にレッドベルを入れると、僕のもとへ、飛行場の係員がやって来た。
「お疲れ様です。旅券を拝見いたします」
「はい」
僕はコックピットから下りると、言われた通り懐から旅券を出し、係員に渡した。
係員は旅券をチェックしながら、僕の姿を見て
「大丈夫ですか?ずぶ濡れじゃないですか。まさか、昨夜の嵐の中を抜けてきたのですか?」
と驚いたように言った。
「はい、まぁ。そうです」
「よほど、急ぎの用だったのですか?」
「はい。そんなところです。燃料も微妙でしたし…」
僕はなんとも説明できなかったから、適当に答えた。しかし、係員は特に怪しんだりはしなかった。
「大変でしたね。あ、こちら旅券、ありがとうございました」
「あ、はい」
僕は旅券を返してもらうと
「あのー、という訳なんで、機体の点検と補給をお願いしたいんですが、いいですか?」
と係員に言った。
「はい、もちろんいいですよ。手数料込みで2500ペンスかかりますが大丈夫ですか?」
「ええ。問題ありません」
僕が言うと、係員は笑顔で
「かしこまりました。では、作業終了まで2時間ほど見て貰いますので、その間に宜しければシャワーを使ってください。隣の建物にあります。そこには食堂もありますので」
と言ってくれた。
「わかりました。ありがとうございます。では機体はお願いします」
そう言って係員と握手を交わしたあと、僕はお言葉に甘えシャワーを浴びるために、出口に向かい歩き始めた。
温かいシャワーを浴び、服を乾かすと、だいぶ人間らしい気持ちが戻ってきた。
その足で食堂に向かうと、そこには数人の飛行場関係者と、郵便飛行機乗りらしい男たちが、ある者は静かに、ある者達は談笑しながら食事をしていた。その中に僕の知っている顔はいないようだった。
僕はお盆を手に、まじまじとメニューを眺めた。ここで食事をとったことは数回あるはずだったが、あまり記憶にない。しかし、今の僕にはどれもこれも、うまそうに思えてならなかった。
結局、僕は〈肉団子とトマトのスープ〉と〈チーズトースト〉と〈フルーツパンケーキ〉、それと紅茶を注文し、席に着いた。
紅茶がポットにたっぷり入っていて、ありがたかった。湯気をふーふーしながら、僕はゆっくりと紅茶を飲んだ。乾いた喉にじんわりと染み渡った。
時計を見ると、点検が終わるまでまだ一時間以上もあった。
ジタバタしても仕方がない。
腹が減っては戦はできぬ。
僕はそう思い、チーズトーストにかじりついた。
小さなことからコツコツと。
突き詰めて考えれば、僕ひとりができることなんてあまりないのだ。もちろん、僕はひとりなんかではない。サマルやリーやジン、ファーガソンも僕の味方になってくれるだろう。
しかし、今の状況は自分で切り抜けるしかない。
僕は肉団子を頬張った。
準備だけは、しっかりしなければ。
どうやら、相手は僕がなんとかできる規模を超えた大きな連中らしいことは、なんとなく理解した。しかし、相手が誰であろうと僕はKと接触しなければならない。
そして、必ず……
僕は決意を新たに、もぐもぐと食事を続けた。
同じ頃。
その男はやれやれといった様子で、早歩きをしていた。男は黄金色の髪をかきあげ、灰色をした瞳で前方に鋭い視線を送っていたが、そこにはただ長い廊下が続いているだけだった。
男はある部屋の前で立ち止まると、鍵を開け部屋に入った。
「あら、おかえりなさい。リッツ」
女が言った。女はソファに座り、本を読んでいるところだった。
リッツと呼ばれた男は、その言葉には反応せず、女の向かいのソファに座り、何やら考え込むように難しい顔をしていた。
女はリッツの、そんな様子を気にすることもなく
「兄上様とは話はついたの?」
と尋ねた。するとリッツは顔を挙げた。
「話はついたかだって?よしてくれよ。話そうにも、兄さんは僕の言うことになんて、まるで耳を貸そうとしないんだから。もう僕達に話し合うことなんてないのさ」
リッツは呆れたように言った。
「あらあら、相変わらずね。なら、なんで呼ばれちゃったの?」
「手紙のことさ。どこから情報を仕入れたのかわからないけどね」
「ふーん」
女は興味なさそうに言った。
「あ、そういえば、さっきトカゲちゃんが来て、その例の手紙の彼、無事に逃げ延びたって言ってたわよ」
「そうらしいね。兄さん達が話してたよ」
リッツはソファに深くもたれかかった。
「僕の影響力はセント・ボートバル内にしか及ばないからね。あとは彼の実力に任せるしかない。なんとかしてKにあの手紙を届けてもらいたいよ。やっぱり、僕はもうこれ以上、兄さんには任せておけないと思ったからね」
女は足を組んで
「でもその郵便屋さん、もうグランダンまで逃れたんでしょ?なら大丈夫じゃないかしら?」
と言った。するとリッツはふんっと笑った。
「それが、大丈夫じゃないんだよ。どうやら兄さんは例の秘密を隠しておく気がなくなったらしいんだ。だから正体が明るみに出ようとも、自分の手駒を使ってラシェットくんを狙うだろうね。なんたってあの手紙が唯一の決定的な証拠なんだから。あれさえ無くなれば、あとはどうとでも言える」
そう言うとリッツは立ち上がり、バーカウンターの方へ歩いていった。
「あ、そうだ。トカゲちゃんはナーウッドはまだ見つかってないとも言ってたわ」
女は思い出して言った。
「そうか。わかった。まぁ、ナーウッドが現れるところは、だいたい目星がついてるからね。できれば早く接触したいけど、まだ焦ることはない」
そう言うとリッツはセラーから赤ワインを取り出した。それを見て、女も立ち上がった。
「でも、大丈夫かしら、その郵便屋さん。ちゃんとリッツの野望に沿うように動いてくれるかしら」
リッツは赤ワインのコルクを開けた。
「ははは、そっちの心配かい?確かに、彼は油断できない人物だよ。なんたって、僕とサマルくんが選んだ人物なんだからね。まぁ、だから実力は折り紙つきだよ。必ずや兄さんを出し抜いてくれるに違いない。そのあとのことは、そのあとのことさ」
リッツは2つのグラスにワインを注ぐと片方を女に渡した。
そして、
「じゃあ、そんなラシェットくんの健闘を祈って乾杯だな」
と言い、二人はグラスを合わせた。
ちりんっという心地よい音が、広い部屋に響き渡った。




