旅立 3
嵐については軍人よりも、冒険家や郵便飛行機乗りの方が、僕に多くのことを教える。
それは、軍人が主に人間や兵器と戦うのに対し、冒険家や郵便飛行機乗りはいつも、この大地と天と戦わなければならないからだ。
僕は、「ラウル爺さん」と郵便屋仲間に呼ばれていた古株のパイロットとよく一緒に酒を呑み歩いた。
ラウル爺さんが僕の何を気に入ってくれたのかはわからないが、出会ったその日のうちに
「おい、小僧。ちょっと今から酒に付き合え」
と言ってくれ、一緒に飲みに行ったのを今でもよく覚えている。
ラウル爺さんは天涯孤独の独り身で、この仕事一筋50年という人だったから、もしかしたら単に話相手が欲しかっただけかもしれないが、僕は全然、迷惑と思ったことはなかった。
ラウル爺さんは普段はとても無口な人だったが、酒が入ると陽気なおしゃべりへと変貌した。特にそれが飛行機の話となると、止まることなく、際限なしに話題が出てきた。だから、僕はそのラウル爺さんの言葉にしっかりと耳を傾け、頷いたりしていればよかった。そして、わからないことがあれば遠慮なく質問もできた。僕が質問をすると、決まって
「なんだ、小僧そんなことも知らないのか」
とラウル爺さんはさも嬉しそうに笑い、快く答えを教えてくれたのだった。
そうしたラウル爺さんとの交流によって僕は、同僚よりもずっと早く郵便飛行機乗りとして成熟していった。これは間違いないことだと思う。
なにせラウル爺さんは、世界中の大地、空、海、山、川、雲、風を知り尽くしていた事に関しては世界一だった。ラウル爺さんはただの無名の老パイロットだったが、僕は今でもそれを確信している。彼と並ぶほどの知識と経験を持っていた人がいるとしたら、あの大冒険家バルスくらいだろうが、そのバルスと顔見知りだったらしいラウル爺さんは
「あんな奴と一緒にするんじゃない」
とおもしろくなさそうに言っていた。僕はバルスに興味があったから、色々尋ねてみたのだが、バルスについてラウル爺さんはそれ以上何も語ろうとはしなかった。
郵便飛行機乗りの仕事の選び方には2つのタイプがある。ひとつは、簡単だが報酬の少ない仕事を、コツコツと月に何回もこなし稼ぐタイプ。もうひとつは危険を伴う困難な仕事だが、その分報酬が高いものを積極的に選び、月に1、2回しか仕事をしないタイプだ。
ラウル爺さんは明らかに後者のタイプで、僕もその影響からか当時も今も、後者に近い選び方をしている。それに関してラウル爺さんは
「経験の少ないうちは、安全な仕事を選ぶべきだ」
と苦言を呈したが、当時、僕はそれをあまり聞き入れなかった。僕はラウル爺さんが話すような世界に飛び込んでみたかったし、軍人を辞めたばかりで人生の目標を見失っていた僕は、わざと死地に赴き、その気分を紛らわせてしまいたかったのかもしれない。
でも、ラウル爺さんは、そういう危険な仕事の前には必ず僕を呼び出し、細々と地図に註釈を付けてくれた。その註釈のおかげで何回命拾いをしたことか。
結局、僕は死地に赴くには、いささか覚悟が足りなかったのだと、後になって痛感した。
だから、それ以降は多少仕事を選ぶようになった。
ある時、いつも週に1、2度飲んでいたラウル爺さんと、互いの仕事の都合から2ヶ月近く会わない日があった。僕は8日に一度くらいはボートバルに帰って来ていたが、噂によるとラウル爺さんはもう3週間以上帰ってきていないらしかった。だから郵便仲間達は
「ついに爺さんにも、お迎えが来たか?」
と口々に言っていたが、僕にはどうもそうは思えなかった。
僕の勘通り、その2日後にラウル爺さんは帰ってきた。
しかし、いつもとはだいぶ様子が変わっていた。
いつもは余裕たっぷりといった感じで、空の王者を自認しているかのように振舞うのが、帰還後の常だったが、その日は、目が落ち窪み、頬はこけ、自信に満ちた微笑も見られなかった。むしろ一気に何歳も老け込んだ様子で、黙って椅子に座り、何やら考え事をしているみたいだった。
その雰囲気に誰も話かけることはできなかった。僕ですら、何と言って話かけるべきかわからなかった。そして、僕は話かける機を逸したまま翌日、次の仕事へと飛び立った。
僕がその仕事から帰り、ひとりで食事をしていると、それを待ち構えていたかのようにラウル爺さんがやって来た。
ラウル爺さんは僕が心配していたほど、もうやつれてはいなかったが、いつもとはどこか雰囲気が異なっていた。それは鋭く光る真剣な目のせいだった。
「おい、小僧。仕事終わりで悪いが、今からうちに来い」
そうラウル爺さんは言った。僕は疲れてはいたが、そのラウル爺さんの雰囲気を見ると断ろうなんて思えなかった。
初めて入るラウル爺さんの部屋は一言で言うと殺風景だった。
かなり古いアパートの部屋。一つしかない窓からは、しっかりと光が差し込み、部屋の中を煌々と照らし出している。入っている家具は、書棚とベッドと机と椅子、それに小さめのタンスとジャケットを掛けておくコートスタンドだけだ。キッチンにはやかんとマグカップとティーポットと皿が2枚置いてあるだけのようだった。壁には一枚の写真も絵も飾られていないし、もちろん花だってなかった。
そして、それら全てがきちんと整えられ、掃除も隅々まで行き届いていた。ベッドもきちんとベッドメイクされていたことから、ラウル爺さんの几帳面な性格が伺われた。
しかし、それと同時にこのラウル爺さんの生活の寂しさというものが、見るほどに僕に伝わってくるのだった。そして、それは飛行機乗りという仕事を愛してしまったが故に抱え込んでしまった寂しさなのだということも。
「まぁ、そこに座れ」
ラウル爺さんは押入れから座布団を出し、床に置くと僕を促した。僕は遠慮がちにそこに座った。
ラウル爺さんは何から話そうかと考えている様子だった。だから僕はラウル爺さんが話し始めるまで黙って待つことにした。
待ちながら僕は書棚を眺めた。そこには、古そうな飛行機関連の本とラウル爺さんの航空日誌、それとラウル爺さんが書いた地図や空図がびっしりと並んでいた。
空図とは、雲や風の流れを詳しく書いたもので、ある特定の場所、特定の季節では、同じ方向に風が吹く場合があるから、それを記述したものを持っていると事前に風の向きや、雲の発生具合を知ることができ便利で、それを記述しておくのも飛行機乗りの勉強の一環なのだ。
「ここにある本は全部くれてやる」
僕が書棚をぼんやりと眺めていると、ラウル爺さんは言った。
「欲しければ、日誌も地図も空図もな。もうわしには必要ないからな」
僕は驚いた。
「必要ないって、もう飛行機には乗らないんですか?」
それを聞いてラウル爺さんは鼻で笑った。
「そうじゃない。これはもう、わしには必要ないと言ってるんだ。もう全て体で覚えてしまったからな。これらはもう、わしを決して前には進ませてくれないんだ。だから、お前さんに譲ろうと思ってな。それに、わしにはこれぐらいしか譲るものがないからなぁ」
申し訳なさそうに頭を掻きながら、ラウル爺さんは言った。
僕は引退しないなら、一体どうするのだろうかと思った。しかし同時に、それを話すために僕をここに呼んだのだろうなと思ったので、またラウル爺さんの言葉を黙って待つことにした。
すると、やがてラウル爺さんが
「わしは、この世界の空を知り尽くしたと思っていた」
と、語り始めた。
「しかし、それはわしの自惚れだったと、この間の仕事で思い知らされた。そういう雲に遭遇したんだ。あそこまで、自分の思い通りにならない、雲と風は本当に久しぶりだった。まるで、誰かが操っているかのような不規則な風向きの変化、雲の濃淡。気圧の急変。わしは慌て、混乱し、取り乱した。しかし、最後の理性でなんとか引き返したんだ。わしはきっとあれ以上、あの空域を飛んでいたら帰って来れなかったろう」
ラウル爺さんはその時の情景を思い出しているのか、そこで言葉を切った。
「それほどの嵐だったのですか?」
僕は尋ねた。ラウル爺さんは顔を上げた。
「ああ。しかし、あれは果たして嵐だったのかすら、今でもよくわからない。わしはあんな雲は初めてだった。少なくとも普通の嵐ではなかったと思う。だから、わしは引き返し、帰還するしかなかった」
ラウル爺さんは苦々しげに言った。
「そ、それはどの辺りの空域だったのですか?」
「メルカノン大陸の遥か西に、ジュノーという大きな島があるだろ?その少し北で遭遇したんだ。ジュノーに行く仕事だった。しかし、今までジュノーなら何回も行っている。でも、あんなものに遭遇したのは初めてだったし、聞いたこともなかった」
ラウル爺さんはショックを受けたように語りながらも、少し興奮しているようだった。
「それで、仕事は失敗してしまったんですか?」
と僕が言うと
「誰に向かって言ってんだ。仕事はちゃんと、その雲が過ぎるのを待ってから済ませてきたんだ」
そうラウル爺さんは言った。
なるほど、だから帰りが遅くなったのかと、僕は思った。
「仕事が無事に終わったのなら、それでいいじゃないですか。それに、嵐は迂回したり、やり過ごすのがセオリーだって、いつも言ってたじゃないですか」
僕がそう言うと、ラウル爺さんは
「まぁな。そうなんだが…今回のは、ちょっと違うとわしは思ってな」
と何やら考えるように言った。そして、
「だから、明日からもう一度、その雲の正体を確かめに行くつもりだ」
ときっぱり言った。僕はまた驚いてしまった。
「えっ?でもまた同じ所に発生しているとは限らないし、偶然に発生した珍しい嵐だったかもしれないじゃないですか?」
僕は強くそう言った。しかし、ラウル爺さんはもう心に決めているようだった。
「ははは。それならそうと確かめたいじゃないか。しかし、わしの勘ではあれはそんなもんじゃないと思うぞ。未知の力とでも言うかな。わしは前回、飛行機乗りとして50年やってきて、これが最後の宿題だと思い、断腸の思いで逃げて帰って来たんだ。これで確かめに行かなかったら、今までの自分の仕事に対する情熱は嘘だったことになっちまう。それだけはな。いや、むしろわしには、それしかないんだ。お前さんなら、わかるだろ」
わかる気はした。でも僕は、そんなことはないんじゃないですか?と言いたかった。しかし、それが口から出ることはなかった。
この寂しい部屋で毎日暮らしているラウル爺さん。飛行機乗りの仕事に情熱を注ぎ、そこで輝いていたラウル爺さん。その両方を知ってしまった今となっては僕に彼を止める言葉なんてあるはずはなかった。
「なぁに、帰ってこないと決まったわけじゃないんだ。でも、もし帰って来れなかったら、小僧、ちゃんと本を受け取っておくれ。頼んだぞ。じゃあ、最後の酒に付き合ってもらうとするか」
そうして、翌日ラウル爺さんは最後のフライトに旅立って行った。
それからもう一年以上経つが、ラウル爺さんはまだ戻って来ていない。飛行機の残骸が見つかったとも聞いていない。
僕は約束通り、全ての本、日誌、地図、空図をもらい受けた。まだ、生きているかもしれないから、一応「借りた」と心の中では思っている。今では、この本や日誌達がラウル爺さんに代わって、僕の師匠となった。
「コンパス、高度計、ジャイロスコープ、エンジン回転数、異常なし」
目で確認すると心の中でそう言った。
僕は大陸に沿い、南西に向け操縦桿を操っていた。
空はまだ、特に変わった様子はなかった。しかし、情報が正しいならこの先、ボートライル大陸とグランダン大陸との間の海上に嵐が発生しているはずだ。
少し時間が経っているから、多少移動はしただろうが、海上なら山や丘陵を気にすることなく低空飛行ができる。もしくは、大きさによっては迂回できる可能性だってある。
だから、それよりも今はこのボートライル大陸の空域から一刻も早く離脱することだ。
僕は正体こそ隠していたが、帝国陸軍が動いてきたことに少なからず動揺していた。なぜならそれが、もしかしたら帝国軍が誇る最高戦力、帝国飛行師団も動いてくるのではないかということを示唆していたからである。
僕はとりあえず燃費のことは無視して、ほぼフルスロットルで航行していた。
「このまま大陸沿いに南西に行って、山にぶつかる手前で、南東に旋回、海に出る。そして、嵐の大きさが小さければ迂回だ。しかし、嵐が大きく、迂回していたら燃料がもたないとなれば、もう突入して低空飛行で凌ぐしかない。また、空団の追っ手が来た場合にも突入だろう。もし、4機編成なんかで来られたら、僕に勝ち目はないからな」
僕はそう考えを巡らせていた。
一時間ほど南西に進んだあと、僕は機体を南東の海へと向かわせた。
と言っても、何が見えているわけでもない。空も大地も海も真っ暗で何も見えない。僕はただコンパスと地図を頼りに進んでいるだけだ。僕の視界に入る光はもはや、計器類を照らすライトだけだった。
海に出た途端に風に湿り気が混じり始めた。僕は飛行機の高度を少し下げ、スピードを緩めた。
もし、順調にいけば7、8時間程でこの海を越え、グランダン大陸に着くはずだ。
燃料にはもうあまり余裕がない。そうなってくれればいいがと思っていた、その時。
突如機体を、分厚い布団にでもぶつかったのではないかという衝撃が襲った。
「きたか、嵐が」
僕は操縦桿を必死で押さえ込みながらつぶやいた。ものすごい力だった。少しでも気を抜いたら持っていかれそうになる。
そして、今度は機体を激しい上昇気流が襲った。
ブワッと空中に持ち上げられるような感覚。この力強さは、小さい嵐なんかじゃないぞと操縦桿を握りながら僕は思った。
視界の上の方でちかちかと稲妻が光った。最初は目の錯覚かと思ったが、違うようだ。この暗闇の中では何が本当に見えているもので、何が錯覚なのかわからなくなることがよくある。
僕は突風や上昇気流をやり過ごすと、少し高度を上げた。そして、上空に向かい、機体左右翼部に一発ずつ付いている照明弾を撃った。そして、その光が映し出したのは
そこそこどころではない、かなり大きな嵐の一部だった。
僕はそれを見て、また少し高度を下げた。
もう方向性は決まっていた。
追っ手は来ている様子はないが、こんなものを迂回していたら燃料が保つかわからない。
嵐に突入しようと決めたのである。
僕はもう一度、コンパスと地図を確認した。
方角は間違いない。目印がないのが心配だが、このままの方向、このまま速度だ。
10分ほどで、激しい雨が降り出した。
急いで出てきたために、操縦服を着ていないのが辛かった。顔を風防の中まで引っ込め、操縦桿を強く握る。
風も一段と強くなってきた。僕が風に操縦桿で対抗すると、機体がギシギシと軋み、激しく振動した。雲の中ではあちこちで稲妻が光った。
でも、僕がこの状況の中でできることは、コンパスを見て、しっかりと操縦桿を操ることと、ときおり計器類を確認し、あとはひたすら前方の暗闇を見つめることだけだった。
乱気流が機体を襲うと、僕にまで物凄い圧力がかかった。体は全身ずぶ濡れだった。しかし、集中を解くことは即ち死を意味していた。僕はあとどのくらいの時間こうしていればいいのか。30分だろうか。1時間だろうか。僕は考えていた。
僕はどうして、こんなことをしているのだろうかと。
ここに今持っている2つの手紙は僕をどこに案内しようというのだ?
僕は嵐の中で、まるで自分が手紙を届けているのではなく、自分が手紙によってどこかへと届けられているのではないかという錯覚に陥っていた。しかし、僕にはそれが真実のように思えてならなかった。
乱気流が襲う度に両手に力を込め、操縦桿を操った。フットバーは最初からずっと踏ん張ったままだ。そういえば、ラウル爺さんは
「嵐ってのはな。我慢比べなんだ」
と言っていた。
まあいい。
我慢しようじゃないか。
我慢して、嵐を抜けた先にきっと色々な希望があるはずだ。
たとえ、嵐を抜けた先が、また嵐でも。
僕は風防越しに前方を見つめた。
そして、光を探した。
いつか来るであろう朝日を思い描きながら。




