相談
レッドベルはまるで、僕を待っていてくれたかのように微笑んだ。少なくとも、僕にはそう見えた。
僕はそんなレッドベルに駆け寄ると、ずっと帰りを待っていてくれた相棒の機体に抱きつき、頬ずりをした。きっと、出迎えに来てくれた犬に頬ずりするのもこんな気持ちなのだろう。レッドベルの機体はもふもふではないけれど、つるつるしっとりとしたワックスの匂いと冷んやりした感触がなんともなく心地良かった。僕も今度からはこのちょっと高そうなワックスを塗ってあげようと思った。
「おかえり……レッドベル。いや、むしろ僕が「ただいま」って言うべきかな?」
僕は胴体を撫でながら、そう心の中で呟く。
そして、ニコの方に振り返り、
「なんで、ニコさんがレッドベルを!?」
と、興奮気味に聞いた。
すると、ニコはまたふふっと満足そうに笑って
「ラシェットさんがサウストリアの空港に駐めていたのをショットが嗅ぎつけて、スクラップ処分にしようとしていたんです。僕もその動きを研究所の仲間から聞き及んで……それで慌てて知り合いのジャンク屋と空港関係者に連絡して、買い取ったんです。それで秘密裏に僕の研究所まで運んでもらって、今に至ります」
と掻い摘んで教えてくれた。
「そ、そんなことできるんですか?」
僕が驚いて聞くと
「はい。僕には飛行機研究のことなら、ある程度の予算と自由が与えられているんですよ。だから、このくらいのことしかお返しできませんが……」
とニコは言う。
とんでもない。僕にとっては何よりのプレゼントとなった。
まさかレッドベルがそんなことに巻き込まれていたなんて、僕は知りもしなかったのだ。もし、ニコがすぐに行動し、保護してくれなかったらと思うと胸が締めつけられるような想いがした。
「いいえ、これ以上のお返しなんてありません。本当に……本当にありがとうございます!」
僕はニコに向かって、改めてお礼を言った。
それでニコは満面の笑みを浮かべた。
「よかった……喜んでもらえて……」
そう、うるうると瞳を輝かすこの青年は、笑うと本当に無垢な少年のような美しさがあった。
それを見て、ニコの肩からもようやく重い荷が降りたのだろうと僕は思う。変な気遣いと苦労をさせてしまったことを申し訳なく思いつつも、そんな僕からの気遣いなどニコは望んでいないとわかっていたから、僕はただただ笑ってレッドベルを撫でた。
「すごい……ラースで主翼の修理をしてもらったけど……それよりも……まるで新品のように直ってる」
「はい。もちろん、飛ぶのに問題はなかったのですが、やはり一度折れた跡が少ーし残ってまして……つい気になって直してしまいました」
「その他には変わったところは……ありませんかね? ワックスとかは変わってますけど」
「ふふっ、さすがによくお気づきですね。このワックス、僕のおすすめですので是非使ってください。アストリア製の新商品です。空気抵抗の低下と耐水性にすごく優れているんですよ。それと、ボディのバランスや翼の角度などは飛び心地に直結する部分ですので、あえて手を加えませんでした。ですので、見た目は変わりませんが……」
そう言いながらニコは近づいて来ると、レッドベルのエンジン内臓部分に手を触れ、
「エンジンは少しチューンアップしてあります」
と言った。
「エンジンを!?」
僕は鼻息を荒くしてニコに近づく。あのジャジャ馬エンジンをどのようにチューンアップしてくれたのか、気になって仕方がないからだ。
「ええ。基礎部分は変えていませんが、一度バラしてから新しいパーツと交換し、改めて機構を見直してみました。旧クラフトタイプはボディの重量があるものなので、その分馬力のあるawh型のエンジンを積んでいるのですが、これは最新の型に比べると力を無駄にしている部分が多かったんです。だから単に最新の小さいエンジンに積み替えてもよかったのですが……でも、せっかくエンジンルームが大きいクラフトですからね。どうせならもっともっと機構を増やして、それで限界まで馬力を出してみようとカスタマイズしてみたんです」
「げ、限界まで馬力を……」
僕はその言葉にワクワクしながらも、顎に手を当て改めて考えてみる。
「それってつまり……前にも増してジャジャ馬になったってこと?」
そして、そんなことに思い至った。
考えている僕の表情は見えないはずなのに、ニコは何かを察したようで
「大丈夫ですよ。慣れればかえって以前より安定するはずです。それに、すぐに慣れていただけるようにボディのバランスは弄らなかったわけですし」
と言う。
なるほどね。確かに、これでボディのバランスまで変わってしまっていたら、まず乗りこなせなかっただろう。きっと本来なら時代遅れのボディと翼だから弄りたかっただろうが……さすがにニコは飛行機のことをよくわかってらっしゃる。
と、僕がしみじみ考えていると
「ねぇねぇ、ラシェット! こっちも見て見て!」
と、突然キミがコックピットから言ってきた。
いつの間にそんなところまで登ったのだろう。僕はニコとの話を一旦止め、キミの元へと向かう。
登り慣れたはずの機体だが、やっぱり病み上がりでは辛い。しかし、なんとか登りきった僕は
「ほらほら。ここ、ここ!」
とキミが指差す部分を覗き込んでみた。
すると、そこにはなんと操縦席の後ろにもうひとつ、小さな座席が増設されてるではないか。
「あっ! 席が増えてる!?」
「ね、ね? すごいでしょ!? これ、きっと私の席だよね?」
僕とキミが大声で騒いでいるとニコが下から
「はい、そうですよ。お二人で乗っていたと聞きまして、増やしておきました」
と言った。
なんてタイムリーな改造なんだと僕は思う。本当にニコは僕達と飛行機のことをよく考えてくれていたのだ。僕は思わず頬が緩んでしまう。キミもウキウキしている様子で、自分のために用意された座席をしげしげと眺めている。
けど、申し訳ないが……
「ねぇねぇ、ニコさん。この座席、もうひとつ増やせない?」
すると、僕が考えるよりも前にキミがまた無茶そうなことを言い出した。
「えっ? も、もうひと席ですか?」
その提案にさすがのニコも驚いたようだ。
「まぁ、時間をいただければ作れなくもないですが……でも、なんでです?」
「次からはナーウッドさんも、これに乗るのよ」
「えっ? ナーウッドくんも?」
ニコがナーウッドのいる方に振り向く。
ナーウッドはそんなニコの肩に手を乗せ、
「ま、そういうことなんだ。なんとかならないか?」
と言う。ニコはちょっと考え込んだ。
「うーん……ナーウッドくんが乗るとなると、キミさんとの体重差があるから、そこの辺のバランスを考えないと……けど、スペース的にはギリギリいけそうですから、やはり時間さえいただければ……」
「どのくらいかかりそうですか?」
僕がコックピットから降りて聞くと
「丸一日いただければ、なんとかしてみせます」
と言う。
なんとも頼もしい言葉だった。僕達はみんなで見合って頷いた。どうせ僕はあと1日2日は休まなければならないのだ。ここはニコにおまかせしよう。そういうことで話はまとまった。
そうして僕は病室に戻ることになり、ニコは格納庫に残って、早速作業に取り掛かってくれることになった。
キミとナーウッドはというと、またそれぞれ別々の事情聴取に呼ばれていった。
ーー病室に戻るとあっという間に一人になってしまった。
大人しく寝ていればいいのだろうけど、なんとなく手持ち無沙汰だ。さっき、起き上って歩いてみたらなんとなく歩けたこともあって、余計にじっとしていられない。せっかくゆっくりできそうなのに、困ったものだ。
「せめて、バルスさんの文庫本があればなぁ」
僕はそう思う。しかし、僕の荷物のほとんどはあの時、サウストリアのホテルに置いてきてしまった。そういえば、キミはあの僕の荷物をどうしたのだろう? あのリュックの中には預金通帳も入っていたのだけれど……。
「……」
ぼーっとしているとつい考えてもしょうがないことを考え始めてしまう。
僕の全財産のことを思うとそわそわしないでもないが、なんとかその考えを振り払うように僕は頭を振った。
そして、ひとつ大事なことを思い出したので、自分のジャケットを取った。
その懐から一冊のメモ帳を取り出す。
ボッシュさんからもらったメモだ。メモ帳と言うには少し大きいサイズだけど、懐に入るサイズだからそう心の中で呼んでいた。
ずっと気にかかっていたけれど、今まで目を通すタイミングがなかったからちょうどいい。この機に見ておこうと思ったのだ。
僕はベッドに戻るとメモ帳を開いた。
やはりそれは貰った時にちらっと見た通り、新聞記事の切り抜きとそれに関するメモ書きだった。それも、ボッシュさんの記事と古代文明や遺跡絡みのことがほとんどだ。
「へぇ……ボッシュさんって、色々な記事を書いてるんだなぁ……」
月並みだがそう思う。
しかし、ボッシュさんはなぜ、このようなメモ帳を作っていたのだろうかとも思う。
もちろん、仕事柄もあるだろうが、興味が古代文明や遺跡に偏るとは、今時の新聞記者には珍しいのではないか?
僕はページをパラパラと捲る。
興味は惹かれるが、今のところ目に止まるような記事はなかった。
と、
ガラガラ
唐突に扉が開いたので、僕は顔を上げた。
そこにはリーが立っていた。またあっという間にひとりではなくなって、僕は嬉しくなった。
「よ、どうだ? 調子は?」
「ぼちぼちだよ。お前は忙しいらしいな。そんな中、見舞いに来てくれたのかい?」
僕は言う。
すると、リーは笑ってメガネをくいっとした。
「残念だが、そんな暇はない。聴取だ。ラシェット。一緒に来てくれ」
どうやら、そういうことらしい。相変わらず、リーは仕事人間だ。
「はぁ、やれやれ。こっちは入院中だっていうのに……」
「すまないな。調印式の前に、どうしてもお前と話がしたいと、御指名なんだ」
「御指名って……誰の?」
僕はメモ帳を机の上に置きながら聞く。すると、リーは
「グリフィス王子さ」
とさらっと言ったのだった。
ーー僕はなんとか歩けるようなったから、リーの案内でその部屋の前まで来た。
なんてことのない普通の船室だ。本当にこんなところに王子がいるのだろうか? まぁ、リッツも大概変な場所にいたけれど。
リーに促され、僕は扉に手を掛ける。
「ラシェット・クロード、参りました。失礼いたします」
つい軍人時代のように大声で言うと、中から
「入れ」
と声がした。
それを合図に僕は扉を押す。
すると、中には確かに、車椅子に乗った見覚えのある美男子が机に向かっていた。
長いブランドの髪に、切れ長のブルーの瞳、透明に思えるほど透き通った白い肌。
その横にはビクトリアが控え、その奥にはダントンがいた。
さらに、グリフィス王子の真向いには……
「ダ、ダウェン王子!」
僕は驚きつつも、なんとか声と表情に出すのを堪えた。
今回の騒動の大本であるダウェン王子がなぜ、この場にいるのか……不安に思わなくもないが、ビクトリアがそう判断したのだから、僕などが口を挟むべきではない。そう悟って、僕は頭を下げ続けた。
「お呼びと聞き、参上いたしましたが……」
「そうだ。だが、そんなに改まることはない。面を上げよ」
グリフィスは柔らかく言った。
厳しいような言葉だか、ニュアンスは優しいのだ。
「はい。では……」
僕は顔を上げて、見渡す。
すると、自然とグリフィス王子、そしてダウェン王子とも目が合った。
ダウェン王子はふんっと鼻を鳴らす。なんとなくバツの悪そうな感じだが、僕からはとりあえず何か言うことも睨むこともしない。
「まぁ、こっち来て座って、ラシェットちゃん。悪いようにはしないから」
「はぁ……」
ビクトリアが言うから、僕はグリフィス王子の隣に用意されていた椅子に恐る恐る腰掛けた。いくらなんでもこんなに近くまで来たのは初めてだ。
「あの時以来ですか。あなたと、こうして顔を合わせるのは?」
僕が座るなり、グリフィス王子はそう話しかけてきた。
「え? はい、まぁ……」
僕は冷や汗を掻く。いきなりそうきたかと。
「あの時は、僕はどうかしていましたから……」
だから、なんとなく言い訳をしてみる。
すると、グリフィス王子は笑って、
「ははは、それは僕達も同じだ。ねぇ、兄さん?」
と言う。
その言葉にダウェン王子は、またバツの悪そうに鼻を鳴らすのみだった。
けど、僕はなんて答えていいのかわからない。はい、その通りですねとも言い難いし、全く否定もしたくなかった。
すると、グリフィス王子は話題を変えてきた。
「でも、今一番おかしいのは、僕達の弟の方だよ」
そう言ったのだ。そして、さらに続けて
「ラシェットさん。勝手な願いだとは承知であなたにお願いしたい。そのために呼んだのだ。弟を……リッツを止めてやって欲しい」
と言った。
僕はそれを聞き、
「本当に勝手ですね」
と言った。
つい口に出てしまったのだ。それにはさすがのビクトリアもダントンも、苦笑した。
「わかっている。言ってみれば、弟をああしてしまったのは、私達兄二人の責任が大きいのだから……だが、私達にはもう弟を止めることはできないのだ」
「止めるもなにも、もう戦争は終わったんです。あなたが自分の責任で終わらせた。もうそれでいいのでは? それに、リッツももういい大人です。あとは自由にやらせればいい。その結果、どうなろうが、あとはあいつの責任です」
「もちろんだ。だが、ことはそう単純ではないのだろう?」
王子は言う。
確かにそうだ。
サマルのことに関しては僕も未知数のことが多い。そして、リッツはサマルを助けることによってどうなるのかを知っているかのような口ぶりだった。きっと、グリフィスもそのことを誰かから聞いたのかもしれない。
「……わかってて、僕に言っているんですね? なら、卑怯です。そんなこと……言われなくとも僕は止めますよ」
僕がぶっきらぼうに言うと、グリフィスも困り顔になった。
が、次に頭を下げ
「助かる。よろしく頼む」
と言われてしまったから、僕はかえって恐縮してしまった。これでは、僕が悪いみたいじゃないか。
僕はため息をついた。
辺りに沈黙が流れる。どうやら、用件は本当にこれだけらしい。
「話はそれだけですか?」
僕がビクトリアに向かってぴしゃりと言うと、ビクトリアはええと言う。
「細かいことは、ラシェットちゃんの事情を考慮して、旅が終わってから聴くことにしたから。その辺は皆さんに感謝することね。キミさんや、ナーウッドさん、それにカジとミニス、あとそこのリーにもね」
ビクトリアが言うとリーは照れたようにそっぽを向いた。どうやら、皆が僕の負担にならないようにしてくれたらしい。本当に、僕の仲間は良いやつばかりで、頭が下がる。
「ご配慮ありがとうございます、ビクトリアさん。旅が終わり次第、必ず城に伺います」
「ふふっ、幸運を祈っているわ。じゃあ、お疲れのところ呼んじゃって悪かったわね。あとはゆっくりお休みなさい」
そう言われると僕は席を立ち、また扉に向かった。
後ろではグリフィス王子とダウェン王子が僕の背中を見つめている。
今までどんな話を二人でしていたのか、そしてこれからどんな話をするのか、僕にはわからなかったけれど、前向きな話だったらいいなと思う。
ダウェンには色々言いたいことがあったはずなのに、僕の言葉は胸に引っかかるばかりで、出てきてはくれなかった。
でも、きっとそれはこれからの会談で、アリが言ってくれるに違いない。
そんなことを思いながら僕は足早に部屋を出た。
なんとなく、もうここは僕の居場所ではないとわからされた気分だった。
ーーリーの案内で甲板に出してもらうと、空はまだまだ明るく、風は暖かかった。
リーは仕事に戻り、僕は隅っこで海を眺めた。
タバコが欲しい。久しぶりにそう思う。
けど、これからまたキミと旅をするならば、しばらくは禁煙だ。僕は我慢することにした。
見ると、海はどこまで青く、どこまでも続いていた。
そして、空も。こここそが僕の居場所だと勝手に僕は思っている。
願わくば、この海のようにどこまでも平和な時代が続けばいいなどと、柄にもなく考えてみた。
けど、そんなものはあり得ないのだと歴史は証明している気がしてならなかった。
なら、せめて僕の生きている間だけでも。
いや、せめて僕の子供が生きている間だけでも……。
そんな想いがどこまでも波のように続いていかないものか。
もし、そんな世界になれば……。
「サマル……お前もそう思うだろ?」
僕は知らず知らずうちに呟いていた。
後ろでは調印式の準備が着々と続いている。
やっぱり、今日は無性にタバコが欲しい。
明日からはもういらないから。




