旅立 2
酔った頭はまだはフラフラだったし、胃はもたれて気持ち悪かった。
しかし、廊下の物音は気のせいではないだろうと僕は思った。
これも長年の訓練で染み付いてしまった習慣だった。僕はいくら自分の体調が万全でなくとも、自分の勘だけは疑わないようにしている。
自分を信じ切れず、その判断を誤ってしまうか、そうでないかは兵士にとって重要な分岐点であると、とある教官に口酸っぱく言われた記憶があるからだ。
僕はなるべく静かに、しかし素早く起き上がると、ブーツを履き、掛けてあったジャンバーを着、リュックを肩にかけた。そして、ジャンバーの内ポケットから一丁の、旧式の小型リボルバーを取り出した。
この銃は護身用に携帯しているだけで、まだ食糧調達のために山で野ウサギを撃ったときぐらいにしか使ったことがない。弾丸も5発しか入らないというものだ。
軍人時代は支給されていた、大型のオートマチックを使っていたが、そんなものはとっくの昔に返してしまった。だから、今はこれしか銃を持っていない。
廊下の物音は、あれ以降聞こえなくなっていたが、やはりは気配する。何人だろうか?少なくとも3人はいる気がした。それも、それなりの訓練を受けた者らしかった。きっと装備もこちらのこんなチンケな銃などではなく、サブマシンガンを構えているに違いない。
一体、今度はどこの連中なんだ?
なんで、僕を狙うんだ?
それとも、それは僕の思い過ごしで、本当はこの階に泊まっている別の誰かを狙っているのか?
しかし、考えるだけ無駄だった。こうして考えている間にも、状況は刻一刻と悪くなっているに違いないのだ。
だから、なぜ突入してこないのかをまず考えた。それはきっと外の味方の配備を待っているのではないかと思った。おそらくまだ完全には包囲の態勢が整っていないのだ。
やつらがこの部屋の位置を割り出してからまだ、そう時間が経っていないということか?
だとしたら、行動を起こすのは今だ。
僕は窓を見た。スライド式のガラス窓で、開ければ十分飛び降りられる。ここは少し高めの2階だが、幸い目の前には木があった。
逃げるならあそこしかない。
僕は素早く立ち上がると、窓に向かって全力で駆けた。そして、ザッと窓を開け、思いっきり窓枠を蹴り、木に向かって勢いよく飛び降りた。
フワッとした感覚。夜の涼しい潮風。しかし、そんなことは気にしなかった。
僕は木の太い枝に思い切りしがみつき、勢いを一度ころすと、今度は手を離し一気に地面まで落下した。
どさっ!っと両足で着地したが、かなり痛かった。ちょっと痺れもきたが大丈夫、すぐに走れそうだ。
2階の部屋からはドアを蹴破り、突入する音がした。
早く逃げないと、と思ったその時、ホテルの壁沿いを勢いよく駆け、こちらに向かっている人影が見えた。
「ちっ、もう見つかった」
僕は吐き捨てるように言うと、反対方向へと全力で駆け出した。酔いは完全に醒めてしまっていたが、頭はまだ走る度にクラクラする。
2階の窓から男が顔を出した。その男は無言のまま、すかさず銃を構え撃った。
タタタタタタタッ!
「くっ!」
かろうじで横にそれてくれた。足元の草と土が次々と飛び散る。冗談じゃない。どこの誰かもわからないやつに、何で狙われているのかも知らないまま、殺されてたまるか!僕は全力で走った。
目指すのは飛行機の格納庫だ。もし、僕に逃げ切れるチャンスがあるとすれば、それは飛行機に乗って逃げるということ以外にはないと思った。しかし、その飛行機がすでに奴らに抑えらていたら、万事休すだ。
その時はこの小型リボルバーで戦うか、敵に投降するかの二択しかない。でも、奴らは僕の姿を見るや、すぐに銃を撃ってきた。きっと投降など受け入れないに違いない。
そこまで考えて、僕はちょっと絶望を覚えたが、まだ何も決まっていないこの状況で絶望するなど、一番してはいけないことだと思いなおした。
兵士は常にあらゆる手を尽くし、あとは天命を待つのみ。
敵だって人間なのだ。やるだけやるしかない。
ホテルの壁沿いを走り続ける。飛行場内のホテルだから、すぐ目の前はただっ広い滑走路だ。これでは身を隠すところもない。
後方から追いすがる男2人は、やはり無言のまま僕に向かい時折、マシンガンを撃ってきている。しかし、この距離ではまだそうそうは当たるまい。
このまま格納庫まで行ければと思っていたとき、前方の管制塔の影から新たに2人の追っ手が現れたのが見えた。
「くそっ、まだいたのか!」
このままでは挟み撃ちになる。僕はホテル沿いから、滑走路に飛び出した。
これでもう正真正銘、完全に身を隠すところが無くなった。レッドベルがある格納庫は見えてはいるが、まだ遥か向こうだ。それまで、自分の体力が持つかどうか。僕は初めてタバコを吸っていることを後悔した。
まだ、追っ手とは距離がある。しかし、いつ弾が命中するかなんてわからない。下手な鉄砲だって数撃ちゃ当たるのだ。
ふと、手を見てみると、だいぶ擦りむいていた。おそらく木に飛び降りた際に怪我したのだろう。今まで気づきもしなかった。
タタタタタタタタタッ!
追っ手2人が同時に撃ってきた弾は、僕の足のすぐ近くに着弾した。確実に追いつかれつつある。僕は全力で走り続けるが、こんな牽制射撃もできない装備では苦しかった。このままじゃ……
と、思ったその時
遥か前方から近づいて来る光が見えた。
それは車両だった。僕は最初、それが追っ手の増援だと思い身構えた。しかし、よく見るとその車両は飛行場の荷物運搬用の黄色い小型トラックだった。
トラックは僕の前まで、猛スピードでやって来て止まった。すると、中から
「おいっ、坊主!早く乗れっ!」
とファーガソンが顔を出した。
僕は状況はよくわからなかったが、迷うことなくすぐに飛び乗った。
ファーガソンは僕が助手席に完全に乗り込むよりも早く、トラックを急発進させ、格納庫方向へ向かわせた。
追っ手は立ち止まり、遠くからトラックに弾丸を雨のように浴びせたが、トラックはびくともしなかった。今や、あの追っ手達は遥か後方だった。
僕は肩で息をしていた。本当に何年かぶりに全力で走り、疲れきっていたが、頭だけは働かせなければならないと思った。
「おい、坊主!なんなんだ?あの連中は」
ファーガソンは声を荒げて言った。
「わからない。でも…とにかく、ありがとう。助かったよ」
僕は息を切らしながら答えた。
「んなこたぁいいんだけどよ。坊主、お前また何かやらかしたんじゃねぇだろうな」
ファーガソンはアクセルをベタ踏みにして、前方を睨みながら言う。その言葉は僕に向けらた言葉だったが、怒りの感情は感じられなかった。
「いや、心当たりはない」
僕はそう言ったが、本当は若干の心当たりがあった。というか、僕が狙われる理由なんてどう考えても2つしかないと思われた。
しかし、あの男たち。
服装は見たこともない全身黒のアーミースーツだったが、あの身のこなし、あの銃の構え方、2人一組で行動するフォーメーションは記憶にあった。僕の記憶が正しければ、おそらく奴らは……
「まぁ、お前さんがそう言うなら信じるがな」
ファーガソンは僕の思考を遮るように言った。
「ありがとう。でも、なんでおっさんが、こんなことを?」
「ああ?いや、あいつら、いきなり管制塔に現れやがってよ。坊主の部屋番号と飛行機の場所を教えろって言うもんだから、誰だあんたらって言ったら、身分も教えやしねぇじゃねぇか?でも銃は持ってるからよ、下手な嘘はつけねぇ。だから、すまねぇがお前さんの部屋は教えちまったんだ。だからこれは、その罪滅ぼしさ。」
ファーガソンはにやっと笑った。
「まぁ、お前さんなら、奴らを振り切ってこっちに来るだろうとも思ったしな」
僕はそう言われて、怒っていいのか喜んでいいのかわからず、苦笑いをした。とにかく、僕のせいで管制塔の人達が傷つかなくてよかった。
「わかった。それで、飛行機の方は?」
「大丈夫だ。うちの若い連中が別の場所に移して待機させてる。ま、これも見つかるのは時間の問題だろうが、なぁに、間に合わせてみせらぁ」
ファーガソンはなおもトラックを爆走させる。一体、奴らが何人態勢でここに来ているのかはわからなかったが、とりあえず追っ手は来ていない。
ファーガソンの運転するトラックはどうやら、本来レッドベルが置いてあった格納庫とは別の格納庫を目指しているようだ。
「さっきの話のことだがよ」
ファーガソンが口を開いた。
「さっきの話?」
僕はわからなかったから聞いた。
「お前さんが、昔やらかしたって話よ」
「ああ」
僕はおもしろくなさそうに言った。実際あまり愉快な思い出ではない。
「昔の話さ。今はもうあんなことはしない。おっさんはまたやったと思ったのかい?」
「ははは。まぁ、さすがにそうは思わなかったがな。しかし…」
ファーガソンは何やら考え込んで言った。
「お前さんが、何か犯罪を犯して追われていると思えんかったのは、あの時のあの言葉を知っていたからかもしれんと思ってな」
「おいおい。もっと普段の僕を信じてくれてもいいんじゃないか?」
僕がそう、からかうと
「バカ野郎。俺が言いてぇのはそういうことじゃねぇ」
ファーガソンはそう返した。いたって真面目な口調だった。
「まぁ、なんだ。ああいうことって言うのは、みんな思ってても中々言えないことなんだよ。たぶんな。この国の半分くらいはそう思ってるだろうよ。帝国制ってのはどうしたって格差はできる、決まりに縛られる、上が富めば下に皺寄せが来る。それに反発すれば武力で抑えられる。自由が少ねぇわな。飛行機乗りならわかるんだ。他の国をいくらでも見て回れるんだからな」
ファーガソンは右にハンドルを切った。どうやら移した格納庫は、前のところよりずっと奥らしい。
「でも、逆にこの国の半分くらいはそうは思っちゃいないってことだ。国王主導による機械工業と軍需産業の拡大路線、それによって出た利益。それを利用した軍の強化。また、そこにできた多くの雇用。みんな歓迎してらぁ。経済的にも膨れ上がって、今や世界一、二を争う経済大国だ。でもな、あんなのは見かけだけだ。金持ちが金持ちに金をばら撒いてるだけだ。そして、その近くにいる奴らが少しおこぼれを拾うんだ」
「そうかもしれないな。でも、それを良しとする人達もたくさんいる。だから僕もクビになった」
僕はそう言った。
「帝国制の中では、帝国主義以外の言葉は言えねぇってわけだ。だから、坊主。お前さんは偉かったんだ。多くの人の思いを代弁したわけだからな。そういう所を俺は今回も信じたんじゃねぇかなってふと思ったんだ。ま、言っておきたかったのはそれだけだ」
ファーガソンはそう言って口をつぐんだ。それを聞いて僕は
「いや、僕はただ単に、あの御歴々が嫌いだっただけさ」
と照れ隠しに言い、同じく口をつぐんだ。
レッドベルは一番奥の格納庫に移されていた。ファーガソンはトラックから下りるなり、
「火を入れろ!」
とどなり、レッドベルのコックピットに乗っていた整備士にエンジンをかけさせた。
僕は急いでレッドベルに駆け寄ると、操縦服に着替える暇もないまま、その整備士と交換でコックピットに乗り込んだ。
「ありがとうございました。助かりました」
僕が整備士に言うと
「いえいえ、そちらこそお気をつけて!」
と答え、整備士は敬礼をした。
確かに、軍人時代に戻ったような気分だった。それに、このレッドベルに乗れれば大抵の困難なら乗り切れるという気もしてきた。
「よし、扉開けろー!」
ファーガソンが言うと、扉がゆっくり開き始めた。その向こうはただっ広い滑走路だ。
僕はクラッチを踏んだ。
バラ、バラ、バラバラ、バラバラバラバラバラバラバラ
とだんだんプロペラが回り始め、機体はゆっくり動きだした。また、夜の出発だ。僕は計器類のライトを点ける。燃料は補給してくれたらしく、満タンだった。何から何までありがたかった。
扉が開ききったとき、そこに2人追っ手が現れた。2人はこちらに気がつき、サブマシンガンを撃ってきたが、レッドベルの装甲には豆鉄砲のようなものだったし、ほとんどがプロペラによって弾かれた。
僕は道を開けさせるため、操縦桿のトリガーを引き、翼部の機関銃で威嚇射撃をした。
ダダダダダダダダッ!
敵がたまらず道を開けた、その瞬間を見逃さず、僕はスロットルをぐいっと入れた。
ギュオーー、バァァァァン!
と相変わらず、すごい爆音と馬力であっと言う間に滑走路へとレッドベルは飛び出した。
後に残してきた、おっさんとアルバ飛行場の人達のことは心配だったが、せっかく、みんなが作ってくれた活路だ。引き返すなんてできない。きっとなんとか誤魔化してくれるはずだ。
僕はスロットルをフルまで押し込み、離陸体制に入った。夜の飛行は難しいものだがやるしかない。そう覚悟を決めていた時だった。
暗くて気がつけなかったが、遥か前方に何か大きなものが見えた。
しかし、それは近づくにつれて、車体を真っ黒に塗られたトラックだとわかった。そして、その後ろに搭載されたものを見て、僕は戦慄した。
「こ、高射砲まで持ち出してきたのか!」
それは射程上空5000メートルという、大型の高射砲を積んだ、自走式高射砲トラックだった。
あんな化け物じみた弾丸を受けてしまったらレッドベルだって、なんだって一撃だ。
そして、色こそ塗り替えてあるが、あの型の自走式高射砲トラックも記憶にあった。もう、間違いなかった。
奴らは帝国陸軍の部隊だ。
僕はフルスロットルを維持したまま、操縦桿を引き離陸させた。
すると、トラックは停車し、素早くこちらに照準を合わせにきた。
「ちっ」
僕は機体を急上昇させながら、フットバーを操り、機体を垂直飛行させる。これで、当たる面積がだいぶ狭くなる。
ドゴォンッ!
第一射が来て、すぐ後ろを掠めていった。
この高度ではまだ危ない。僕は垂直飛行のまま不規則に螺旋を描きながら急上昇を続けた。
あまりの急激な気圧の変化に頭がふらふらした。しかし、これをやめるわけにはいかない。
ドゴォンッ!ドゴォン!
第二、第三射がきた。それらはさっきまで、僕がいた所を過ぎていった。目線のすぐ上の雲が、砲弾によってバラバラに吹き飛ばされたのが見えた。
もう少しだ。もう少し飛行場から離れられれば。
第四射、第五射がきた。
もう、発射音は聞こえてこなかった。そのくらいの距離は離したようだ。
第四射をきわどくかわす。
第五射は見当違いのところを過ぎていった。
しかし、油断はできない。もう少し高度と距離を稼がなければ。
その少し後、敵の攻撃が止んだ。
どうやらこちらをロストしたらしい。
「よし、ここまで来れば」
僕は高度を維持する態勢に変え、飛行場から距離を取るため、南東方向に向かった。
しかし、帝国陸軍が出てきた以上、空団が出てきてもおかしくない。だとしたら来る前に、早くボートライル大陸から出なければ。僕は最悪の相手が来ないことを祈った。
僕はレッドベルをフルスロットルで移動させる。
でもまたしても、わからないことだらけだ。
と僕は思った。
帝国陸軍の狙いはなんだ?トカゲの手紙か?
確かに、これには重要な機密が書かれている可能性がある。その受け渡しを阻止するために僕を狙ったのだとしたら、一応理解できる。
しかし、僕はトカゲの手紙のことをリーとジンにしか知らせていない。あの2人が言う訳はないのだから、だとしたら一体、どこから情報が?それに奴らはなぜ、わざわざ帝国陸軍だということを隠していたんだ?
もうわけがわからなかった。
しかし、確実にわかったのは、
また僕の知らない所で、新たな厄介事が起きているかもしれないということだ。
「坊主!無事か?」
その時、ファーガソンから通信が入った。僕は無線を取った。
「ああ、なんとかね。そっちこそ大丈夫か?」
「今のところな。まぁ、こっちはなんとかする。心配するな。それより悪いニュースだ」
「悪いニュース?」
僕はそれを聞いて、さすがにうんざりした。これ以上何が悪くなると言うのか。
「ああ。さっき情報が出たんだが、その先は嵐だ。それも、そこそこの大きさだ。なるべくなら避けて通るか、やり過ごすんだ」
「嵐だって?」
「ああ、そうだ。ちっ、奴らが来る。いいか、うまくやり過ごすんだ。優秀な飛行機乗りならな」
ファーガソンがそう言うと通信が切れた。
前には嵐、後ろには来るかもしれない追っ手。
僕はまた暗澹となりつつある気持ちをぐっとこらえ、冷静になれ、冷静になれと操縦桿を握りながら考えていた。