リンダとエリサ
ーーラシェットが遠ざかっていくのを見届けて、リンダは手の力を緩めた。
そうして、緩めてから素早く離れつつ剣を横に薙ぎ払う。
エリサはこの力技を受け流すことができずに、体を左に持って行かれる。
そのちょっとした隙を突き、リンダはその手を取ろうとした。
が、あと少しのところで空振りし、逆に剣を向けられてしまう。
リンダは自分の間合いになるように、適切な距離をとった。
リーチの長さはリンダの大きな武器だ。
だが、同時に弱点にもなり得る。
小回りの効く二刀から繰り出される、エリサの連続技とは特に昔から相性が悪かったから、リンダは殊更警戒していた。
「……ふぅーっ」
リンダは直剣を両手で持って中段に構え、大きく息を吐く。
そうしながら、エリサの挙動を観察する。
「……なるほど。あまりに仕草に癖がないな」
リンダはどちらかと言うと、戦いに関しては頭で考える方ではなく、感覚で捉えたものに対して素直に動く方だった。
だからリンダの目は、その普段のエリサとは違う佇まいにすぐに気がついた。
構えのバランスが非常整っていたのだ。
良く言えば隙がない。
エリサは元々優等生らしく、隙のないスタンダードな構えを好んだが、それでも戦況や相手に合わせ、構えを微妙に揺らし、必ずどこかしらに隙を作っていた。そして、その隙を突こうとする相手の動きを先読みし、強烈なカウンターで返り討ちにしたり、様子を見ようと距離を空ける相手にはエリサの側からトリッキーな連続技を仕掛け、有利を取る……。
そんなエリサの素早さを活かした戦法をリンダはいつも厄介なものに感じていた。
だから、今のエリサの隙のない整った佇まいは、悪く言えば脅威がない。
リンダはそのことをしっかりと念頭に入れ、自分から一歩間合いを詰めた。
技の速さと頭の回転の速さでは私はエリサには勝てない。
だが、力と反射神経の勝負ならば私は誰にも負ける気がしない。
リンダはもう半歩前に出て、自分の間合いの有利を消し、エリサを誘う。
そうやって、あえて後手に回り、勝負を一撃で決するつもりだった。
ーーエリサの軍学校時代の模擬戦の成績は、空軍志望者の中で一番だった。
一方、リンダは陸軍志望者の中で二番。一番は男子で、リンダは女子の中ではダントツの一番だったが、注目されるのは、いつもエリサの方だった。
それも当然といえば当然だった。一番と二番ではやはり差が出る。
しかし、それ以上にエリサが注目されたのは、その可愛さからだったのは言うまでもあるまい。
今でこそ、エリサは「美しく」「綺麗で」「でも、近寄り難い」と、何かカリスマのように言われるが、その当時はまだあどけなさが残り、本当に可愛らしかった。
そんな少女が戦闘となると鬼のように冷たい目をし、男子をギタギタに薙ぎ倒すのだから、そんな女子が学校で人気にならないわけはなかった。
もちろん、内面の方は(まぁ、現在の方がいくらか尖ってはいるが)基本的には変わらなかったから、アタックしては撃沈する男子が後を絶たなかったのもまた、言うまでもあるまい。
それに比べて、リンダについたあだ名は「デカ女」。
自覚はあったが、なんだこの扱いの違いはと思わないこともなかった。リンダにだって、一応それなりにルックスには自信があったのに。
しかし、リンダはリンダで、そんな男子達を力ずくでギタギタにしていったのだから、おあいこだ。
けど、一、二年次の模擬戦が完全に陸、空、海に分かれて行われていたので、空軍と海軍志望の男子達を黙らせることができなかったのが腹立たしかった。
それとなにより、エリサとも戦って、どちらが本当に強いのかを証明できないことも歯痒かった。
が、それも三年次になった時に一変する。
三年次からは各軍志望者の内の成績上位者だけが「幹部候補生」として集められ、合同で訓練と模擬戦を行なうと決められていたからだ。
リンダはそこに召集された。もちろんエリサも。エリサと一緒に訓練をしたいと不純な動機で頑張った男子生徒達も沢山いたようだが、そこに集められたのは各軍から8名ずつ、計24名のみというかなり狭き門だったため、多くの生徒が泣いたのはまず間違いない。
召集初日、専用の教室に集められた同期生達とリンダは初めて顔を合わせた。
この中には、今もなお交流の続く者が結構いる。
リー、クラウス、ダントンなどがそうだ。
この集まりの中にラシェットもいたのだが、リンダの印象には全然残っていない。
リンダがラシェットの名前と顔を最初に覚えたのは、その日の夕刻だった。
それは早速次の日から始まる模擬戦のオープニングとして、勝ち抜き戦をするという知らせを受け、組み合わせ表を掲示板に見に行った時だったと、今でもはっきり記憶している。
〈Bブロック 1回戦 ラシェット・クロード対リンダ・グラント〉
それを見た時のリンダの率直な感想は、
「誰だ? そんなやついたか?」
というものだった。
それよりもリンダの意識を釘付けにしたのは、その隣のブロックの組み合わせ表にエリサ・ランスロットの名前があったことだった。
うまく行けば次でエリサと当たれる。いや、おそらくエリサは勝ち上がってくるだろう。
リンダは内心で拳をグッと握った。
そうと決まればまずは敵情視察だ。ラシェット・クロードとかいうやつの顔くらいは知っておくべきだろうと、リンダはその時刻、大勢の生徒が押し寄せる学食へと向かった。
学食は相変わらず、飢えた生徒達でごった返していた。だから、リンダは普段ここを好まない。専ら自炊派だった。
「うむ……これでは、見つけるのは難しいか? ……ん?」
リンダが入口付近から辺りを窺っていると、近くのテーブルでリー・サンダースが一人で食事をしているのを見つけた。
リンダとリーは昨年度の学校の催し物で、共に実行委員を務めたことがあったので話ができる間柄だった。
リンダはリーに聞けば、もしかしたらラシェット・クロードのことを何か知っているかもしれないと思い近づいて行った。リーは学生時代から、様々な事情通として有名だったのだ。
リーは相変わらずの猫背で、片方の手でレンゲを持ち焼き飯を食らい、もう片方の手で机に置いた文庫本のページを器用に捲って読書をしていた。
飯を食うか本を読むか、どっちかにすればいいのにとリンダは思いつつ話しかける。
「そんなに時間が勿体無いか? リー?」
「んん?」
食事中に声を掛けられたことが意外だったのか、それとも女子の声で話し掛けられたのが意外だったのか、リーは変な声を出してこちらを見た。
そして、首を曲げ、ぐいっと見上げ、ずれた眼鏡をクイッと直し、その声の主がリンダだと知る。
「や、リンダ。これは時間が勿体無いんじゃなくて、単なる癖だ。むしろ俺の中では優雅な夕食のひと時を過ごしていて実に満足している。せかせかした日常とは無縁の、一線を画す充足した完結した世界で……」
「はいはい。わかったわかった。邪魔をして悪かったよ」
リンダは早口で言うリーの言葉を遮り、とりあえず謝った。リーはそんな呆れ声に対し
「別に謝ることは何もない。ただ、ちょっとした誤解を解こうとしただけだ。で、何の用だ? 用事がなきゃ、リンダが俺に話しかけることもないだろう?」
と気にせずに、すぐに用件に入ろうとする。
自虐的なことも言っているが、それも含めてこちらにすぐに話に入るように促しているのだから、これをせっかちと言わずに何と言うのか。
そう思ったが、そんなやり取りも面倒なので、リンダはため息ひとつで済ませる。そうして、言われた通りに用件に入った。
「ラシェット・クロードっていう空軍志望の男子生徒の情報が欲しい。明日の模擬戦の対戦相手なんだ」
「ん? なんだ。ラシェットのことか。さっき、顔合わせの時にもいただろう? や、そう言えば改めての挨拶もしてなかったな。これからは同じ教室だな、また今年もよろしく」
「あ、ああ……よろしく頼む。いや、そんなことよりも、なんだ? リー、お前はラシェット・クロードと知り合いなのか?」
リンダは何やら訳知り顔で懐から取り出した手帳のページを捲り始めたリーに言う。リーはそんなリンダの質問に手帳から目を離さぬまま
「まぁな……知り合いというか、友人だな。腐れ縁とも言うが……人物としても、なかなか面白いところがあるし、変に真面目なところもある奴だ。や、一言で言うのは難しいな……」
と言う。そして、そのまま顎で遠くのテーブルを示し、
「ほら、あそこの空軍志望の連中のテーブルの端っこでつまらなそうに飯食ってる奴がいるだろう? 茶髪で作業着の」
と言った。
リンダが示された方を見てみると、確かにそんな男がいた。
大勢集まったテーブルの隅で、本当につまらなそうにスプーンを上下に動かしている、油まみれの作業着を着た男子生徒が。
そのテーブルには見るからに見栄えのいい綺麗な制服を着た男子生徒達が集まっていたからその作業着姿は余計に目立っていた。たぶん、空軍志望者の日課の中には自分の乗る訓練用飛行機の整備のカリキュラムが組み込まれているから、作業途中でそのままここに食事に来たのだろうが、さすがに場所をわきまえたらどうかとリンダは思った。そのテーブルにいる他の男子生徒達のように。
そのテーブルの中央では、クラウス・オッドが楽しそうに仲間達と談笑しているのが見える。
リンダもクラウス・オッドのことは知っていた。いや、むしろこの学校にクラウスのことを知らない生徒などいない。彼は名門貴族出のお坊ちゃんで、尚且つ顔もよく成績優秀。おまけに、実兄は期待の空軍幹部候補なのだ。注目されないわけはなかった。
そんなクラウスと楽しそうに話している男子生徒達もよく見ると皆どこか育ちが良さそうだ。
それに比べるとラシェット・クロードはかなり見劣りすると言わざるを得ない。
髪は整えていないし、目は何かを考えているように虚空を見つめている。顔のレベルが云々以前の問題だった。全体に陰気な印象をリンダに与えた。
「あれがラシェット・クロードか?」
「そそ」
「なんだか、暗そうな奴だな」
「……ま、そう見えるわなぁ」
リーはそう応えつつ、コメカミをぽりぽりと掻く。その言い方にはどこか含みがあるように思われた。
「なんだ、違うのか?」
「まぁな。全然暗くはないな。ちょっと何考えてるかわからないこともあるが、冗談もよく言う良い奴だ。でも、やっぱり一言では言えないものがラシェットにはあるんだがな。それと……今日はきっと特別に暗いと思う」
「ん? なぜ今日は特別なんだ?」
「……さっき聞いたんだが、ラシェットのやつ、愛しの彼女に食事を断られたんだと。まったく……いい気なもんだよ。羨ましい悩みさ」
リーが悲しげに言うのをリンダは「おいおい」とツッコむ。
なるほど、そんな理由で暗いとは。男というやつは単純だ。
しかし、彼女持ちとは。見た目から暗いと思ったが、案外チャラチャラした男なのか?
「で、その彼女の方は剣の素振りをしてて、あいつは飛行機の整備をして、今飯ってわけだ。そしたら、クラウスに声をかけられて捕まっちまったのさ。これまたとんだ災難だ。クラウスはラシェットのことを目の敵にしてるからな」
「ほう…ん? 待て。あのクラウス・オッドが? ラシェット・クロードのことを? なぜ……あんなやつを意識する? 私には意味が……」
リンダがそう言うと、リーはニヤリと笑った気がした。
そして、ようやく見つけた手帳のページを開きリンダに差し出す。
それを受け取り、目を通したリンダは思わず、目を見開いた。
「そ……そんな、あの男が……?」
「そうなんだよ。飛行技術試験一位、メカニック試験一位、学習試験全生徒中五位、空軍志望者模擬戦成績四位。な? なかなかやるだろう? 特に飛行機での実習ではことごとくクラウスを二位に追いやっているからさ……もうクラウスはラシェットの事を目の上のたんこぶだと思ってるんだ」
リーはどこか誇らし気に言った。
けど、リンダは途中から全然話が頭に入って来ず、その件のラシェット・クロードの方ばかり見てしまっていた。
そんな成績優秀者の顔さえ、自分は知らなかったのかと自分で自分に呆れていたのだ。
「……なるほどな。これは簡単にはいかなそうだ。ここに様子を見に来て良かった。ありがとう、リー」
リンダはそっと手帳をリーに返した。それをリーは「や、なんのなんの」と言って受け取る。リーはこうやって誰かに情報を提供するときは、それなりの対価を貰うのだが、女子からは決して取らなかった。
「けど、リンダは何も心配することはないと思うがな。リンダとラシェットじゃあ、地力に差があり過ぎる。それが俺の見立てだ」
「ふふっ、過大な評価も感謝する。けど、私は俄然興味が出てきたからな。油断も慢心もしない。最初から全力で潰しに行くさ」
「……そ、そうか。や、少しは加減してやってくれ……」
そんなリーの言葉に軽く手を振って応えて、リンダは食堂を後にした。
その翌日の午前、リンダとラシェットの模擬戦は始まった。
その前の試合ではエリサが圧倒的な攻めを見せて相手を倒し、順調に駒を進めていた。
だから、ここでリンダが勝てば、念願だったエリサとの対決が実現するわけだ。
リンダは気合いが入っていた。
鐘が鳴る。
模擬戦は好きな木製の模擬刀を選んで装備し、相手の急所に一撃を入れるか、相手の武器を叩き落とせば勝ちというもので、時間制限はない。
場所は専用の武道場。その中なら場外もなかった。
観客は二階から見守っている。
リンダは得意の大剣型の模擬刀を選び、上段に構えた。
その高さと並外れた身体能力から繰り出される振り下ろしは、いくら模擬刀とは言えど、直撃すると骨折は免れない。防御をしても、模擬刀を吹き飛ばすリンダの絶対的な一撃技だった。
これを攻略するにはそれを避けるか、同じ力で受け止めるしかないわけだが、避けるとなるとそれはそれで動きのパターンが狭まるからリンダの良い的になってしまう。二段構えというやつだ。そういう意味でリンダのこの構えは牽制と防御も兼ねていると言ってもいい。
リンダはじっとラシェットの様子を伺う。
ラシェットの方も、ごく普通の直剣の模擬刀を中段からやや下段に構え、リンダの様子を見ていた。
初めて戦う者同士の場合、こういうパターンは多い。
余程自信のある者でもなければ先に動かないからだ。
もちろん、リンダには自信はあった。
だが、リンダはその特殊な型の性質上、自分から動こうとはしない。いくら何でも、初めて戦う相手に対し、先攻して有利になる要素が少な過ぎると思っていたのだ。
後攻なら憂いはない。
リンダは油断しないとも決めていた。
だからこの日、先に動いたのはラシェットの方だった。
ラシェットは開始二分過ぎに、リンダに向かって突進した。
それも真正面からだ。
リンダの目が光った。
潔いが、策がない。
捉えたと思った。
リンダは思い切り大剣を振り下ろしにかかる。
ラシェットはスピードを落とさない。防御もしない。
と、その時。
ラシェットが膝をガクッと落とした。
そして、ぐっと踏み込み加速。リンダの模擬刀の下をギリギリですり抜けて来た。
「なにっ…!?」
リンダはこれには少なからず動揺した。
今までリンダの剣圧を受けスピードを緩める者は多々いたが、逆に加速してくるやつは初めてだったからだ。
それに、リンダは油断したつもりは毛頭なかったが、ラシェットのスピードがどの程度のものかを知らなかったから、間合いを図り損ねていたのだ。
その二つの要素が重なり、リンダは懐までまんまとラシェットを飛び込ませてしまった。
ラシェットの突きが心臓のサポーターめがけて飛んでくる。
突きというのも、モーションの少ない攻撃だ。
全てが計算づくの作戦としか思えない。
「くっ……」
しかし、リンダの並外れた反射神経と嗅覚がその計算を少し狂わせた。
リンダは体を捻り、突きを急所から外し、思い切り大剣を振り上げて難を逃れたのだ。だが、実戦だったら、急所付近にかなりの深手を負わされ、勝負がついていた。
リンダは今しがた吹き飛ばしたラシェットの方をキッと睨みつけた。
そのラシェットの方はリンダの馬鹿力に目を丸くし
、痺れた手をぶらぶらとさせながら「しまったなぁ……」と一撃で仕留めらなかったことを後悔しているようだった。
そのラシェットの余裕のありそうな表情が、リンダを益々怒らせ、冷静さを失わせた。
そこからは持久戦となった。
普通なら5分から10分くらいで決着がつくのだが、その試合は決着まで実に35分もかかった。
地力ではリンダが圧倒していたのだが、ラシェットの粘りと相手の癖を読む動きとで、なかなか決定打までは至らなかったのだ。
しかし、結局勝負は最後に賭けに出たラシェットの武器をリンダがカウンター一閃、吹き飛ばし、辛くもリンダの勝利で幕を閉じた。
いつの間にか集まった観客から歓声が沸き起こる。けど、そんなものは耳に入らないくらい、試合が終わった時の二人はもうボロボロといった感じだった。
二人はフラフラと別々に退場して行った。
熱戦の興奮が頭も熱くしていた。
でも、リンダには次の試合がある。
しかも、次こそが本命。念願だったエリサ・ランスロットとの対戦なのだ。
それまでに体力を回復しなければ。
と、そんな風に思いながら控え室の隅の椅子で休んでいると、同じようにラシェットも控え室にクタクタの体でやってきた。
なんとなく目が合う。
すると、ラシェットは疲れ切った顔でニコッと笑い、
「やぁ、お疲れ様。改めまして、空軍志望のラシェット・クロードです。よろしく」
と言ってきた。
なんとも遅い挨拶だ。
そんな先ほどまでとは打って変わった緊張感のない言葉にリンダは拍子抜けしつつも、どこかほっとして、
「リンダ・グラントだ。陸軍志望の……」
と言ったのだが、ラシェットはまた「ははは」と笑って
「知ってますよ。リンダさんは有名人じゃないですか」
と言った。
「有名人?」
「ええ。だから、すごく研究してましたよ。いつか戦うだろうって。今日の模擬戦に向けてだって、昨日色々聞いて回って。でも、聞いた以上で……僕の完敗でした」
ラシェットはあっけらかんと言う。
初め、その言葉は嫌味なのかとリンダは勘繰った。だってあれは完敗などではない。実戦だったら、やられていたのはリンダの方なのだから。
リンダはラシェットの顔をじーっと見た。
けど、そこにあったのは、とても女に嫌味を言いそうな男の顔ではなかった。いや、むしろとてもお人好しで、どこかのんびりしていそうな……そんな男の顔だった。
「……ふーっ、こんなやつに負けかけるとはな……」
「えっ? ……どうかしましたか?」
「いいや。なんでもない。とにかく、お疲れ様。こちらこそよろしくな。ラシェットくん」
「ラシェットでいいですよ。くん付けはちょっと気持ちが悪いんだ。どっかの貴族のお坊ちゃんが、皮肉を言う時にそう呼ぶから」
「ふふっ、そうか。なら私もリンダでいい。皆、私にさんなんて付けない」
「わかった。よろしく、リンダ」
「ああ、よろしく、ラシェット」
と、二人は互いの健闘を称え合い、握手をしようとした。
だが、ラシェットの手がそこでピタッと止まった。
一瞬の変化だったが、リンダもすぐに気がつき手を止める。そして、ラシェットの視線を辿ってみた。
見るとその視線のずっと先に、こちらをじっと見ているエリサ・ランスロットの姿があった。
それを見てリンダはぐっと拳を握る。
そうだ。こんなことをしている場合ではない。集中だ。
リンダはそう思い、ラシェットに別れを告げ、一人廊下へと消えていった。
もちろん、その時ラシェットが尋常じゃないほど冷や汗を掻いていたことには、リンダは気づきもしなかった。
リンダとエリサの初対決は結局、ラシェットとの試合で消耗してしまっていたリンダがエリサに一方的に打ち込まれ、負ける結果になってしまった。
この女子生徒最強決定戦の結果は、その次の瞬間には学年中に広められていた。
「くそ……っ!」
リンダは試合後、人知れず廊下で悔し泣きしていた。拳を壁に叩きつけ、リンダは悔しさを露わにする。
女子に初めて負けたという事実からくる悔しさも確かにあった。
しかし、リンダはそれ以上に、エリサと自分との間にそれ程の実力差はないと、打ち込んだ時の手応えからわかってしまったから、余計に口惜しかったのだ。
消耗していたことは言い訳にしかならない。
だから、これは単に自分の甘さだ。
次は、絶対に勝つ!
そう思うために、今はリンダは思い切り悔しがっていた。
と、そこへ。
「……ん?」
リンダはふいにその男の存在に気がついた。
だが、男の方はまずかったかなと、すごすごと無言で立ち去ろうとする。
それをリンダはあえて
「泣いている女を覗き見とは、いい趣味じゃないな。ラシェット」
と呼び止めた。
その言葉に肩をビクッとし振り返ったラシェットは、とてもバツの悪そうな顔をして
「ごめん。泣いてるとは思わなくて……ちょっと、考えなしだったよ」
と言う。
「……ああ。そうだな。泣いているとは思わないよな。まさか、この私が。普通の女の子みたいに」
リンダはイラッとして言った。
それを聞き、ラシェットは益々慌てる。
「いや、そ、そんなつもりじゃ……!」
「ほんと、考えなしだな」
「う……ほんと、ごめん」
ラシェットは手を合わせて謝った。それでリンダは急に泣いているのがバカらしくなってきてしまった。
だから涙を拭いてラシェットと向き合った。
「ふーっ。まぁ、いい。で? 何しに来たんだ? ラシェット」
「な、なにって言われてもなぁ……」
「慰めに来たのか?」
「そんな偉そうなもんじゃ……って、まぁ、うん。いや、確かにひとこと言いたいことがあったから来たんだけど……別に慰めじゃないんだぜ? 本音というか、それを伝えたくて……」
ラシェットがうだうだもじもじやり出したので、リンダはなんだか益々イライラして来た。
なにやら恥ずかしいことを言っているくせに、わざわざここまで来たくせに煮え切らないこの男のことをリンダはどう扱っていいのかわからなかった。
だから
「なんだ。何を言いに来たんだ。さっさと言え」
と迫る。それに、いよいよ覚悟を決めたらしいラシェットは「わかった……じゃあ、言っておくけど…」
と前置きし、
「リンダはエリサより、ずっと強いと思うぞ」
と言った。
一瞬、辺りがしーんとなる。
けど、リンダの
「……はぁ?」
という声でその静寂は破られた。
意味がわからない。
そのラシェットの言葉にリンダは本格的にキレそうになった。何を言っているんだこいつは。
「ラシェット…私は負けたんだぞ。なのに、ずっと強いだと? 大概にしろ。それこそただの慰めだ」
「ち、違う、そういうことじゃない! 試合は時の運もある。けど、実力は別物だ。それは今さっき打ち合った僕にはわかる! 僕が保証する」
「そんな保証が何になる。実力とは、試合で勝って証明するものだろう……」
「違う。実力とは本人に備わるもので、証明なんて必要ない。要は自分を信じられるかどうかだ。結果なんて、勝手に後からついてくる」
ラシェットはあくまでも真剣に言う。
エリサはそれに対し、なるべく気持ちを落ち着かせるようにした。
「ふーっ、脳天気なやつが考えそうなことだな……けど、それでも、私は今勝ちたかったんだ。それで負けた。それが今の私の全てだろうが。だが……次は負けない。大丈夫だ。私だって、エリサに全てが劣っているなんて考えていない。だから、そんな下手な嘘で慰めるのは止めてくれないか? 心外だ」
「う、嘘じゃないのに……」
ラシェットは肩を落としてそう言った。
口論している内に、いつの間にかリンダの涙はすっかり乾き、逆にラシェットの方が涙ぐんでいた。
そんな状況に、リンダは「私は何をしていたんだろう?」と思う。
気づけば、もう悔しさなんて微塵も残っていなかった。
その原因をリンダは考える。
すると、当然ラシェットの存在に行き着くので、リンダは困ってしまった。本当に、リーの言っていた通り一言では表せない不思議なやつだ。
「はぁ。まぁ、とにかく何だ……立ち話も疲れるし、敗退者同士、大人しく観覧席に行くか?」
リンダは急に罵ったことにバツの悪さを感じ、ラシェットを誘った。
けど、ラシェットはちょっと躊躇いつつも
「あ……ああ、うん。そうだね。けど、まだ僕は行くところがあるから……本当にごめん。また今度」
と、やんわり断りを入れ、足早にどこかへと行ってしまった。
まったく、なんなのだ。
リンダはせっかく誘ったのに断ったラシェットのことを、脳内の「失礼な男ランキング」の上位に食い込ませた。
模擬戦は、そのままエリサの優勝で幕を閉じた。
エリサはなんとリンダのずっと勝てなかった陸軍一位の男子も簡単にねじ伏せて見せたのだ。
ほら、見ろ。私の方がずっと強いなんてことはないじゃない。
そう思い、リンダがラシェットのいる方を見てみると、彼はエリサと親しげに話をしていた。
そのすぐ後くらいに、エリサこそがリーの言っていたラシェットの「愛しの彼女」だと知った。
リンダはそれを知ると、なんで私にあんなことをわざわざ言いに来たのか、益々わからなくなった。そして「失礼な男ランキング」第一位に見事ラシェットはランクインした。
リンダがエリサを初めて模擬戦で打ち負かしたのは、その二ヶ月後、3回目の対戦の時になる。
その時のエリサの悔しがり様といったら、リンダの比ではなかったと聞く。
けど、それを聞いたリンダはエリサのことよりも、そんな悔しがるエリサに、ラシェットは何と言って声をかけているのかと、そればかりが気になってしまった。
ラシェットとはその後はうまく友人関係を築いていった。
エリサとも、狭い教室だから自然と話すようになったが、お互いにどこか一歩距離を置いた付き合いをしていたと思う。
それはライバルだったこともあるけれど……それ以上にもっと別のことが作用していたのだと、今なら正直に思える。
そうやって、互いに意識し、高め合い、リンダとエリサは学校生活を送った。
その結果はエリサの一勝勝ち越し。
けどリンダはその結果以上に、いつもエリサの隣にいるラシェットという存在に、知らず知らずの内に打ちひしがれていたのかもしれない。
なぜなら、今でも時々あの言葉を思い出すからだ。
「リンダはエリサより、ずっと強いと思うぞ」
あれ以来、リンダの機嫌を気にしてか、一度も言ってくれなくなったその言葉を、リンダは今では本当なのではないかと信じている。
そして、それがリンダの自信の源になっていた。
私はあのエリサよりずっと強いんだぞと。
ーーそして、随分長くかかってしまったが……。
今一度、それを証明するため、まず今日戦績を五分に戻す。
そう思い、リンダはもう半歩、思い切って間合いを詰めた。
すると、予想通りエリサは飛び出してきた。
エリサのスピードは学生時代の時よりも上がっている。
だが、それはリンダも同じだった。
あの当時よりもパワーもスピードも増している。
だからあまりにも予想通り過ぎるエリサの切り込みは、リンダの体にかすり傷しか与えることが出来なかった。
リンダはステップを踏みながら
「エリサはこんな攻撃はしない。こんなに単純じゃないし、ヤワでもない」
と口の中で呟く。
そして、次に攻撃を受け流しながら、ぐっと半歩引きタメをつくった。
それを隙と捉えたエリサは第二撃を打ち込みに来る。
それに向かいリンダはまた呟いた。
「こんな駆け引きにも乗ってこない。こんなんじゃ、勝っても何の意味もない」
と。
そして、そんな怒りを次の一撃に込めて叫んだ。
「エリサの体……返してもらうぞ!!」
リンダは横に引いた直剣を力任せに振り切った。
それをエリサは二刀をクロスして受け止める。
が、空中に飛び、突進してくる瞬間を狙った正確なリンダの一撃を完全には受け切れなかった。
エリサは勢いよく吹き飛ばされ、壁に激突する。
そして前からその場に倒れ込んだ。
彼女の手からこぼれ落ちた剣は刀身がボロボロに砕けていた。
でも、それはリンダの直剣も同じだ。だから、リンダは直剣を捨て、エリサに歩み寄った。
そうして、無事に気絶しているのを確認すると
「悪いな、エリサ。さすがにこれはなしにしよう。今度改めて、勝負してくれないか」
と言って肩に担ぎ上げた。
エリサは嘘のように軽かった。
本当にこんな体であの強さとは……尊敬するよとリンダは思う。
そうして廊下の先を見つめて、少し迷った。
ラシェットを助けに行くべきか。
今ならすぐに追いつけるはずだ。
しかし、エリサのこともある。出入口も戻ればすぐそこだ。ここは一度引いて態勢を整えるかべきか。
でも、引いたらもう間に合わなくなる。
リンダは迷ったあげく、引き返すことにした。
やはりエリサをこのままにしてはおけない。
それに、ラシェットは信じられる男だ。
それを今は知っている。
「たまには信じて待ってみるのもいいか。なぁ? エリサ」
リンダはコツコツと廊下を音を立てて歩いた。
そして、ラシェットを心配しつつも、エリサが正気に戻った時、自分とラシェットのことを話したら、エリサはどういう反応をするのかと、ちょっと場違いなワクワクを感じ、微笑んだりしていた。