第二話 消えた自転車の謎を追え ~或いはエドワード・J・テイラーの謎~ part1
私の本来の日常は、雪崩のように襲いかかる悪意から善良な一般市民をそれなりに守るという非常に達成感のある物である。事件現場に颯爽と現れ、時には大富豪の伯爵の殺人を、また時には警察官僚の腐敗を白日の元に晒すのだ。しかし私もこれらを一人でこなしてきた訳ではない。私が感謝の意を示したいのは、事件が起こるとまず私に連絡を寄こすグレゴリー警部補なのだが、私が感謝を強要される人間は別にいる。
強要の二文字が示すよう、その人間は迷惑かつ馬鹿で救いようがない変人で、おまけに市場に昼食を買わせに行っても私の注文を平気で間違える。有り体に言えば、私にとって疫病神のような人間と言えるだろう。
彼女の名前はエミルという。
もともと殺人事件の容疑者だったのが、結局仕事を失った彼女は弟の治療費を稼ぐために私の事務所で働くと言い出したのだ。それ以来彼女は私の助手として周囲に迷惑を振りまいている。
ちなみに、後でわかったことなのだが彼女に弟などはいなかった。
――話を戻そう。
私は今の日常を、なかなか気に入っている。なにせ私の持ち主である十嗣を取り巻く環境が素晴らしいからだ。大きな事件や密室殺人とは無縁だが、彼らの一挙一動が私の知的好奇心を満たしてくれる。
しかしどうやら、それももう終わりらしい。つい先日、彼の日常に新たな登場人物が加わった。彼女は迷惑かつ馬鹿で救いようがない変人で、おまけに人樣の金を借りておいてお金が無いと突っぱねる。
エミルのような人間は、きっとどこにでもいるのだろう。
服部エリ。
なんだか、名前まで似てきたような気がした。
彼女は彼らの生活を180度変えたりはしない。
言うなれば、彼女は事故ではなく病原菌だ。
いつの間にか体内に入り込み、気がつけば健康と精神を着々と蝕む。特効薬などありはせず、宿主と心中するのを待つだけだ。
さらに悲しいことに、この病原菌は我々に寄生しているという自覚がない。
「だからさ浅野くん、私はいっつも思うのよ……唐揚げは絶対もも肉のほうが美味しいって」
いつもの昼休みはもうどこかへ消えていた。数日前まで当たり前だった光景がここにはない。
「……誰こいつ?」
当然の指摘を晶は行うが、エリは聞く耳を持たない。彼女の目は今、晶の弁当箱に入った鶏の唐揚げを捉えている。
彼女の動きは早かった。
箸を持たない彼女は素手で弁当箱から目的の物をつまみ上げ、行儀悪く口の中に放り込んだ。呆気に取られた晶は、ただ目を丸くして肩を震わせるだけだった。
「やっぱり胸肉はちょっと固いわね……冷めてるとあんまり美味しくないし」
唐揚げを咀嚼しながら、エリは冷静に感想を述べた。盗人猛々しいとはこの事である。
「泥棒」
服部エリ第一の被害者である十嗣が、遅れて彼女を説明した。ほんの数秒早ければ、唐揚げは本来の持ち主の胃袋に収まっていたというのに。
「見ればわかるよ!」
晶は叫ぶ、そして誰も反応しない。
負けるな、君の明日はきっとある。どこにあるかは知らないが。
「人聞き悪いわね……お金はちゃんと返すわよ」
頬杖をついてカレーパンを食べながら、彼女は不遜な態度で十嗣に反論した。
「信用できない」
もっと言えば、信用できる要素が一つもない。
「唐揚げは? 俺の唐揚げは?」
弁当箱を付け合せのレタスまでひっくり返して失踪した唐揚げを探す晶。
残念なことに、この誘拐事件は拉致監禁の上被害者が殺害されるという最悪の形で幕を閉じた。
「今ここでゲロ吐いたほうがいいかしら」
ついでに死体遺棄もつけておこう。これで四十年は刑務所から出られないはずだ。
というか、そうであってくれ。
「諦めろ晶、この女に日本の常識は通用しない」
「……日本っていうか地球の常識だな」
レタスをしゃぶりながら、晶はついに現実を認めた。愛しの君を奪われた晶の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私、こう見えてもグローバルな人間なの」
馬鹿にされていることなど気にもとめず、エリは鼻を鳴らして理解し難い自慢をした。
「今すぐ地球から出ていってくれ……というかここはお前の教室じゃないだろ」
「ひどい浅野くん! 友達がいない私にひとり寂しく便所でパンを齧れというのね!」
さっきまで笑っていたかと思えば、次は嘘泣きと来た。変り身の速さだけは一級品だが、もう少し落ち着くことは出来ないのか?
「俺は一向に構わないが」
「んで誰?」
一拍置いて、晶はついに話を戻すことに成功した。
代償として支払った唐揚げは、私にしてみれば彼女の個人情報よりも価値のあるものだった。唐揚げは胃袋に溜まってくれるが、彼女は胃を痛めるだけだ。
ちなみに、私に胃袋が無いだろうという意見を私は許可しない。
「初めまして、服部エリ16歳、女子高生でぇ~す! よろしくねっ!」
わかりやすい作り笑顔に、わざとらしいピースサイン。
しかしこの毒々しい両者を抑え、離乳食まで戻してしまいそうな吐き気を誘ったのが、馬鹿丸出しの甲高い声だった。七歳ぐらいの少女が学芸会で披露するならまだしも、二万円を持ち逃げした女が出して良い声ではない。
幸いなことに、彼女の言動を不快に思ったのは私だけではなかった。十嗣は青ざめた顔で空を眺め、晶は目頭を押さえ天を仰いだ。三者三様の反応ではあるが、誰もが現実逃避の四文字をスローガンに掲げていた。
「……今のは浅野くんが好きなアダルトビデオの前振りみたいな感じでやってみたんだけど」
照れたように笑いながら言い訳を述べるエリ……なぜ照れるんだ、悪いのはお前だろう大体その身勝手な挨拶のせいで我々がどれ程苦しんだかを理解しているのか?
「コウ・コウセイはそんな物を見ない」
どの単語に反応したのか知らないが、十嗣はわざとらしいセリフと共に首を横に振った。私も何の事だか良くわからないが、何故だか彼が鍵付きの棚に隠している怪しげな箱を思い出した。確か女中の格好をした女が表面に写っていたので、女中の雇い方の指南書なのだろう。
そういう事にしておこう。
「俺は素人モノより盗撮のほうが好きだなぁ」
素人モノ、という単語がどんな意味を持っているのかは知らないが、盗撮なら私もする。
もちろん仕事だ、断じて趣味ではない。
「助けて浅野くん! この変態、私が人気のない公衆トイレでおしっこしてるところを想像してる!」
誰が撮るか、そんな有害な映像を。
むしろ気分を害する分慰謝料を請求したいところだ。
「おい、俺は変態だけど日下晶って名前が」
「変態でいいよね?」
晶が自己紹介を終える前に、エリは早過ぎる結論を下した。
「ああ、変態でいい」
残念なことに、私もそう思う。
晶が溜息を付いた時、私はある事に気づいた。それは、教室の中で五月蝿いのはエリだけでは無かったという事だ。クラスメイトの多くが窓から身を乗り出し、何やら外の様子を伺っていた。
「……そういえば何だか騒がしいわね。食事の時ぐらい黙ってられないのかしら」
「お前が言うな」
それは正論だが、晶よ、あえて言わせてもらおう。
お前が言うな、と。
「何かあったの?」
「駐輪所にパトカーが来てるってよ」
楽しげな誰かの会話が、私の耳に届く。それはつまり、十嗣の耳にも届いた事と言い換えて差し支えない。
現在我が祖国アメリカでは、弁護士に不名誉な渾名が付けられている。アンビュランスチェイサー、救急車を追う物と言えば多少格好が付くのかも知れないが、要するに金の匂いを嗅ぎつけて遣って来るという意味だ。
そういう訳で、十嗣は今日もパトカーを追いかける。弁護士と違うところがあるとすれば、彼は財布ではなく好奇心を満たす為に走るのだ。
その度に私は、彼のポケットから落ちやしないかと心配する羽目になる。
黄色いナンバープレートをつけた小さなパトカーに乗っていたのは、若い婦人警官が二人。この街に起きる些細な事件を理想の男性像を議論しながら解決しようと一度は試みるものの結局解決しない彼女たちを、私と十嗣は知っている。
所謂顔なじみという奴だ。
髪の短い落ち着きのない警官が鈴木で、髪が長い落ち着いた警官が松田だ。
有難い事に、名前も特徴も覚えやすい。
「すいません、何かあったんですか?」
「何もなかったら今頃交番で優雅に昨日のドラマの話してるんだけど」
精一杯考えた文句なのか、彼女は自信に満ち溢れた顔でそんな事を言った。そんな暇があるなら仕事をしろ。
「もしかして自転車の盗難ですか?」
しかし相手は浅野十嗣、脳味噌が探偵で埋め尽くされた彼に気の利いた発言など届くはずも無かった。
「そうなのよ、最近の若い人って自転車買うお金もないのかしら」
流石落ち着きのある松田だ、同僚の発言に気を取られたりはしない。
「無視、私のことは無視!?」
「大方鍵でもかけ忘れていたんでしょう。被害者の方は?」
喚く鈴木を無視して、十嗣は次の質問を松田に尋ねた。
「ほらあそこ、いるでしょ?」
彼女が指さす先には、この学校の女子生徒がいた。遠目で良くわからないが、背は平均より少し低いだろう、腰まで伸びる長い髪は小川のようにウェーブしている。
「……一人で自転車整理してますね」
「ちょっと変わった子だけど……あれが終わるまで話聞いてくれそうにないのよ」
名前の知らない被害者は、次から次へと自転車を小さく移動させてはまた次の自転車を移動させる。ちょっと変わった子、というのは正しい見解だろう。
「と、いう訳だ未来の名探偵。代わりに盗まれた当時の状況だけでも聞いてきてくれないかな」
どこからか湧いてきた鈴木が、また自信に満ち溢れた顔で十嗣に頼みごとをした。
正確に言えば、自分たちの仕事を年下の高校生に押し付けた。警官が定時に仕事を終えたがるのは、どうやらいつの時代も変わらないようだ。
「言われなくたってやりますよ」
少しだけ不貞腐れた顔をして、十嗣は被害者の元へ歩き出した。
「あとで飴ちゃんあげるからー」
松田のささやかな心遣いに、彼は苦笑いで答えた。
メモ帳替わりの生徒手帳と入学祝いに貰った少し値の張るボールペンを片手に、彼はその女性へと近づいた。近づいて解ったのだが、彼女の身長を私は見誤っていた。
平均より少し低い、というのが間違いで、実際は平均よりもかなり低い。
小学校高学年か中学一年生と言われたほうがまだ納得できる。
「ねぇ、君」
「……何?」
友好的な十嗣の笑顔とは対照的に、彼女は冷たい視線を彼に送った。
小動物のように大きな目と、日本人らしくまとまった輪郭が印象的な女性だった。まあ突然話かけられればこんな反応が妥当だろう。
「自転車を盗まれたってお巡りさんに聞いてさ……それでさっきから何をやっているんだい? 委員会の仕事?」
そう尋ねられると、彼女は少し唇に指を当て何かを思案した。
「……正面」
遅れてやって来た言葉は、我々の理解を超えた物だった。
「え?」
「ここの自転車、全部正面を向いてないの」
聞き返す十嗣に、彼女は丁寧に説明してくれた。
「確かにみんな適当に置いているよね。整理してるんだ」
「違う」
妥当な結論に意義を唱える被害者女性。
自分の自転車を探すのが先決じゃないのだろうか。
「え?」
「正面」
聞き返す十嗣に、答える女子生徒。
「はあ」
「うん」
適当な相槌を繰り返すと、満足したのか女子生徒はまた自転車を整頓し始めた。
「その自転車は綺麗に並んでると思うけど」
「ううん、違うの、全然正面を向いてないの」
十嗣の言い分は正しい。
誰が見ても、今彼女が動かした自転車は乱雑に置かれてなどいなかった。
しかし彼女の言い分は違う。一点して正面を主張するあたり、我々の目には見えない何かを感じ取っているのかもしれない。
「ふーん」
「うん、これでよし」
一通り自転車を並べた彼女は、満足そうに微笑んだ。そして新たな自転車整理に着手しようとしているのか、別の駐輪場に向かって歩き出した。
「あ、ちょっとちょっと」
質の悪い男のように、十嗣は女々しく彼女の後を追った。
「何? 私これから二年生の自転車を全部正面に直さないといけないんだけど」
「その前にお巡りさんに事情を話してあげなよ」
というか自分の自転車が盗まれて警察を呼んだのに、事情聴取そっちのけで自転車整理に勤しむとはどういう神経を持っているのだろうか。
「……それじゃあ全部の自転車を正面に出来無いじゃない。そんなこともわからないの?」
「あれ、これ俺が悪いのかな」
小首を傾げ筋の通らない理論を話す彼女に、十嗣はとうとう頭がおかしくなってしまった。
間違いなく悪いのは彼女の根性だ。
「あなたの頭が足りないのが原因なのよ。だからあなた悪いの……頭が」
「……盗まれたのって君の自転車だよね?」
「自転車っていうか……ラーメン丸二号」
少し考えて彼女は言う。私には理解出来ない新手の呪文だ。
「……ちょっと何言ってるかわからない」
「そう」
頭を抱える十嗣を尻目に、彼女は不満そうな溜息を漏らした。十嗣の頭が悪いからか、自転車を整理し損ねたからか。それを確かめる術は私にはないし、そもそもそんな気力はどこにもない。
「名探偵、仕事は終わった?」
仕事を頼んできた鈴木が、にこやかな顔でやって来た。
「探偵ではなく医者の仕事かと。もしくはUFOの研究者」
「使えないわねこのガキ」
十嗣が匙を投げてしまったのを確認すると、彼女は唾を吐いて悪態をついた。
「それじゃあちょっと交番まで行きましょうねー」
松田は自転車置き場から離れようとしない頭の螺子が緩んだ被害者を腕ずくでパトカーに押し込もうとしていた。顔は笑っているが、その手は血管が浮き出るほど力が入っていた。
「待って、まだ自転車を全部正面に」
「人の仕事を邪魔するな!」
いい加減苛立ちを抑えられなくなった鈴木が、被害者を思い切り蹴飛ばしてパトカーに入れる。颯爽と現場を後にして署へと戻るその姿は、新手の誘拐犯に見えなくもない。
「行っちゃった」
そして残された探偵失格の浅野十嗣。
彼は間抜けな顔で間抜けなセリフを吐いていた。
「浅野くん、何かわかったことはあるかね?」
遅れてやって来たエリは無い髭をさすりながら偉そうにそんな事を言った。
「……自転車の正面って、どこだと思う?」
「さあ、私に聞かれても」
両手を広げ彼女は首を横に振る。
その質問に答えられるのは、世界中を探してもあの被害者女性だけだろう。