第六話 檜山大作
「――戦車です」
異能力者・檜山大作は戦車砲塔の搭乗口から身を乗り出して、思わず身を引く俺たちに向けて、そう言い放った。
見ればわかる。
轟くエンジン音、堅牢なオリーブ色の装甲、威圧的な砲身、力強い履帯。
一次大戦や二次大戦で投入された骨董品ではない。
日本の陸上自衛隊に配備され、現役で活躍している最新兵器だ。
「せええんしゃでええす!!」
檜山はもう一度、より声を響かせるようにして言い放った。
「……おい、櫻井。2回言ったぞ?」
「余程大事なことらしいな。さて、なんと応えたものか……」
応えなど求められているわけでもなかろうが、何か言い返すべきなのかと考えてしまう。
先程、檜山は言っている。
自らは力づくでチケットを奪う者だと。
ならば、俺たちがなんと応えたところで結果は変わらない。
こちらが交渉を持ちかけても最初からテーブルに着く気はないのだから……。
だが、交渉材料を探す事は出来なくとも、弱点を探る事は出来る。
例えば、今。
搭乗口から上半身を露出させている今ならば、確実に檜山本体を攻撃する事が出来るだろう。
しかし、こちらには攻撃手段がない。
桐生は自称巻き込まれの非戦闘員。
葛巻譲治は強運の持ち主だが、話を聞く限りその効力は受け身、受動側に働いている。
唯一直接的な攻撃力と成り得るのは、戦車を前に腰が引けてしまっている梅宮つぐみだけだが、一度現実を叩きこまれて変質した異能力を再び操る事が出来るかは不明だ。
こんな事ならばさっさと自分の用いる異能力を決めておくべきだったか。
いや、安易に力の範囲を限定してしまうと、その限定した範囲に引きずられる。
なまじ原理が不明で、なんでもかんでも可能にしてしまう能力だけに、「選択」は慎重に行わなければならない。
もし仮に、俺がここで「離れた相手に攻撃する」力を得てしまえば、以降交戦しなければならなくなった際に、その「離れた相手に攻撃する」事に固執してしまう。
その状況下において取り得る選択肢を、自ら狭めてしまうのだ。
とはいえ、状況的に選択肢を転がして思考遊びに耽っていられる時間ではない。
戦車上の檜山が今すぐにでも攻撃を開始すれば、俺たち4人は瞬く間に人の形を失うだろう。
葛巻さんなどは強運の異能力で生き残るかも知れないが、それでも確実とは言い難い。
相手も同じ異能力者なのだから。
動かなければならない。
後先の事を考えるのも大事だが、目の前の事態に対応しなければ。
行動する、対応する。
まずは、時間稼ぎと情報収集と、だ。
すぐにこちらに手を下さないという事は、こうして言葉を交わす何らかの意図があるのだ。
それを見極める必要がある。
「みっつほど、質問をいいかな? 檜山さん」
俺は、みんなを背に庇うように一歩前に出て、戦車上の檜山にそう問う。
檜山は笑みを浮かべた表情を崩さずに頷く。
――いかん、反応が読めない。
彼が非日常に酔ってこのような事を行っているのか。
それとも、梅宮のように何らかの事情を抱えてこの異能戦ゲームに参加したのか。
今の彼の表情は演技染みていて、その下の本心がいまいち見えてこない。
本心を隠す必要がある、という時点で、すでに何らかの李とはあるのだろうが……。
「ひとつ。檜山さん、貴方はもしや、ミリタリーオタクですか?」
「いかにも……!」
腕組みして堂々と、檜山は頷く。
厄介だ。迷彩服を着こんでいるからもしやと思ったが、最悪のパターンだった。
彼は、梅宮のように映画などで見聞きした戦闘行為を再現するという、中途半端な異能力者ではない。
一定分野に対して広く深い専門知識を基礎として異能力を顕現させた者だ。
檜山が用いる異能力は、推測するならば軍隊で用いられる兵器や装備を形にするというものだろう。
それを操れるかどうかは定かではないが、もし知識がなくとも異能力でカバーされるのだろう。
一番の厄介は、そうした専門知識から生み出される兵器たちだ。
専門家が相手とあっては、梅宮に対して行ったような異能力の変質は使えない。
対応は彼の異能力、たとえば、目の前で蹄を鳴らしている戦車を基準に考えなければならない。
この戦車よりも強いと思わせるものを異能力で顕現させるか、本当に魔法のような力で押し切るか。
「ふたつ。檜山さん、貴方はアデプターですか? インスタンターですか?」
今度は即答が来なかった。檜山は片眉をぴくりと動かしたが、すぐに元の表情を取り戻す。
「俺はアデプターではない! 今回が異能力戦初参加のインスタンターだ!」
果たしてこの台詞が嘘かどうか。
もしも檜山がインスタンターだとすれば、何か叶えたい願いがあるはずだ。
梅宮のように重要な説明を聞きそびれるような性格には見えないし、ブラックチケットをすべて集めて勝者になろうとしているのは一番最初に宣言している。
しかし、ならばこのように真正面から名乗りを上げて力を見せつけるのはなぜか?
手に入れた力に酔っているからと考えれば簡単だろうが、どうもそうとは思えない。
檜山のこれまでの行動や言動が、どうも芝居臭く感じているせいだろうか。
ならば、答えが返るかは定かではないが、みっつめの質問でそれを確かめよう。
「みっつ目です。檜山さん、貴方はブラックチケットに何を願うのですか? 全参加者からチケット奪い、どんな願いを叶えるのですか? ……その願いは、他者の命を奪ってまで叶えたいものですか?」
今度も即答は来なかった。
檜山の表情が消え、そのまま時間が過ぎる。
それが迷いか、ただ単に答えに窮しただけか、判断が付けられない。
「……私の願いは、世界平和だ。そのために――」
告げて、檜山は車内に身を滑らせた。
砲塔が動き、砲身が持ち上がる。
「そのために」と、檜山が言葉を切った後の部分は、行動によって示された。
戦車の主砲が火を噴いたのだ。
◇
戦車の主砲が火を噴いた。
空気を破裂されるような轟音に、路地裏の窓ガラスが総じて割れ、砕け散る。
ガラス片が舞い、砂やほこりが舞い上がる中、俺たちは咄嗟に身を低くした体勢から動けずにいた。
本物の戦車の砲撃音など今この時初めて聞いたが、これが当たって人体が無事では済まない事くらいは理解できた。
現に、砲弾は俺たちの背後、ビルの5階に直撃し、壁面を吹き飛ばしている。
中はトイレだったようで、砕け散った便器の欠片やトイレットペーパーの切れ端が宙を舞っていた。
人がいなかった事が幸いだった。この場所が交戦区画でなかったら、砲撃が穿ったビルが廃ビルでなかったら……。
「う、うっそだろ……。マジもんの戦車だよ……。う、梅宮ちゃんさ。あれさ、あれ、斬れない? 戦車の砲弾。駄目?」
体を起こして、戦車と、その砲撃が行った破壊の跡を交互に見て、桐生がそんな事を梅宮に問うた。
対する梅宮の反応は至極はっきりとしたもので、真顔で顔中にびっしりと汗をかきながら、首を否定の方向に何度も往復させていた。
言葉が話せる状態ならば「無理無理無理無理、無理です絶対!」とでも言わんばかりの勢いだった。
でーすよねーとしみじみと頷いた桐生は、次いで俺の方を見た。
「さ、櫻井? なんか作戦とか、ない?」
「待て、落ち着け桐生。今、考えている」
俺の答えを聞いて、桐生どころか梅宮まで真っ青な顔をする。
そんなに頼りにしてもらっても、正直困るのだが……。
「……まあ、今すぐ考え付く事でいいなら。聞くかい?」
俺以外の3名が頷いた。
……なんというか、勝手に動かれてもそれはそれで困るのだが、少し主体性を持ってくれてもいいと思う。いいんですよ?
「一番手っ取り早い方法としては、二手に分かれる事かな」
見たところ、檜山の戦力は戦車1台だ。
しかも、彼が直接乗り込んで操縦している。装填と砲撃とは自動で行われていて、檜山自身は操縦と砲塔の指向を担当しているのだろう。
現状は俺たちが一か所に固まっているから、檜山はこうして威圧しながらの威嚇砲撃など行っている。
それが二手に分かれてしまえばどうか。
檜山の異能力が戦車1台に、しかも、人力での操作する事が限界ならば、片方を優先して追わなければならなくなるはずだ。
もしも、檜山の行動がその想定通りにならないのだとしたら、彼の異能力の範囲を探る事が出来る。
「二手に、分かれる? あ、あいわかった! ……で、どう分かれる?」
そう、それが問題だった。
「人選までは考えていないが、数は二対二になるように。彼が、檜山が追って行った方を、もう片方が追跡して観察するという動きを取りたい。だから、どちらにも最低限冷静にものを見れる人間が……」
俺がそこまで言ったところで、3人とも動きを合わせて首を横に振った。
はて。果たして、その意図は……。
「あの、櫻井、さ。悪いけど、この状況でお前みたいに冷静に観察しろとかー、無理!」
「そ、そうか。だとすると、最悪俺ひとりでみんなから離脱という事になるが……。果たして、数が多い方と少ない方、どちらが狙われやすいだろうな?」
うっと、3人が息を詰めたように呻く。
正直1対3で分かれた場合、檜山がどちらに狙いを定めるのかはわからない。
まあ、数が少ない俺の方かなとも思うが、数が多い方を一掃、と考えるかもしれない。
こればかりは実際に動いて見ないとなんともいえない。
考える時間が無限にあるわけではなく、決断して動かなければいけない以上、見切りを付けなくてはならない。
「……わかりました。私が櫻井さんと行きます」
そう言って、梅宮は伏せていた身を起こして立ち上がった。
砲撃で舞った粉じんのせいで黒い制服は真っ白になってしまっているが、もはやそれを気にした様子もない。
「桐生さんは、葛巻さんと逃げて下さい。たぶん、葛巻さんといた方が生存率が高いはずです」
緊張のせいか、汗でぐっしょりと濡れた額を袖で拭う。
梅宮の顔は、覚悟を決めた者のそれだった。
この場を切り抜けるためになんでもやってやろうという気概が見えている。
「いや、そりゃ駄目だ。梅宮ちゃんが葛巻さんと一緒に行けよ」
続いて、桐生がそんな事を言って立ち上がった。
梅宮の男前な態度にプライドをくすぐられたのだろう。
彼女より先にこの言葉が出ていれば見直されたものを、今さら言っても台無しだ。
「……おじさん、人気ないなあ」
のろのろと身を起こした葛巻さんまで、冗談めかしてそんな事を言う。
如何に強運の持ち主とは言え、一撃で身体をバラバラにされかねない破壊の威力を前にしては、竦む身を立ち上がらせるのもやっとなのだろう。
「で、どうするんだ? 櫻井?」
震える声で桐生が聞いて来た。
3人とも緊張した面持ちで俺の方を見て来る。
覚悟は何となく決めたが、数秒後に気が変わるかも知れないから早く何か言ってくれと、そう言われているようなものだ。
「決めた。それじゃあ、行こう」
俺が一声かけると、3人とも頷いてくれた。
「葛巻さんと桐生は一緒に逃げてくれ。できれば、逃げたルートを後で教えてくれると助かる。梅宮、サポートを頼みたい」
「サポート? という事は、櫻井さん……」
「檜山と一戦交える。なんとか、説得材料を探したい」
俺の無茶な提案に、3人は何故か安心したように頷いてくれた。
「説得材料を」の部分で同意が得られたのだろう。
命を奪わずに、かつ自分たちの身の安全を保障しながら立ち回る、という無茶に付き合ってくれるというのだ。
「異能力無効化の案で行くのも手かも知れないが、この局面では使えない」
そもそも、そんな異能力を得る事がルール上可能なのかが定かではない。
異能力を得て戦うゲームにおいて、他者の異能力を無効化する異能力を選択するなど出来るのか。
「それに、檜山に戦車以外の手札があるのかどうかを見極めたいんだ。こんな狭い路地で戦車など、砲撃こそ可能だが旋回は難しい。ここより狭い路地に入り込んだ場合、追って来れるかどうかすら怪しい。そうなった場合の対応を、檜山が用意していないとは思えなくてね……」
「えっと、じゃあ、どんな手順で行くんだ?」
「葛巻さんと桐生はすぐに逃げて下さい。そして、梅宮は――」
◇
粉じんが舞っている中、ゆっくりと履帯の音がこちらへ向かってくる。
そんな急を要する状況の中、俺は梅宮の耳元でいくつか支持を出した。
びくりと肩をすくませて顔を真っ赤にした梅宮だったが、俺が確認のために復唱を求めたところ、ちゃんと同様の文言を復唱してくれた。
……機械的な反応だったのが、若干の不安材料だ。
桐生と葛巻さんが白々しいとばかりに半眼を向けてくるのを努めて無視し、俺は迫りくる戦車に向けて、クラウチングスタートの体勢を取った。
同時に、桐生と葛巻さんが左、梅宮が右の小道へと入って行く。
戦車が、その動きを止める。
いきなり起こった動きに、戦車の操縦席で檜山が判断を行おうとしているのだろう。
その判断の暇を与えない。
俺は背後の3人が小道に消えたの確認して、自らもスタートを切った。
前傾姿勢、重心を前のめりに傾けた加速。
向かう先は檜山の操る戦車――の左をすり抜けて、その後ろへ。
姿勢が前傾から状態を起こしたものに移行する頃には、檜山の判断はなっていただろう。
戦車の砲身、その先が、走る俺を追尾する。
戦車の事は詳しくないが、動体を自動追尾する機能があるのかもしれない。
まだ、もう少し、時間をくれ……!
「梅宮! 今だ!」
戦車の砲塔が俺の進行方向に固定された瞬間、俺は背後に待機していた梅宮に向かって叫んだ。
同時に、進行方向にあったゴミ箱を踏んで蹴って、思い切りジャンプする。
瞬間、爆音と共に目焼かんばかりの閃光が路地を覆った。
戦車の砲撃ではない、梅宮の手による攻撃だ。
スタングレネード。
爆音にて耳を潰し、閃光によって目を焼く、非殺傷兵器。
暴動鎮圧や立てこもり現場への突入の際などに用いられるものだ。
後者には催涙作用を持つものもあるのだろうが此度は音と光だけ。
これは梅宮もアクション映画で幾度も見ていたようで、要求に適う機能のものを想像する事が出来たようだ。
戦車の操縦席の窓は、果たして遮光性だろうか。
だとすれば、この閃光も無意味かもしれない。
しかし、音の方はどうか。疾走する俺に向けて砲塔を向けた檜山は、視界の外で起きた音と光とを、どう受け取るのか。
答えは、沈黙だった。
戦車は砲塔を固めたまま、アイドリング状態で停止していた。
砲撃を少しでも躱そうとゴミ箱を蹴ってジャンプしていた俺は、肩透かしを食らった感触を覚えつつも着地。
向こうで小道の陰に隠れて待機している梅宮に手を振って「行け」と合図。
前線からの離脱を促す。
梅宮も、これ以上は異能力を使う事は出来ないだろう。
何とか非殺傷兵器は生み出す事が出来たが、本来の領分である刀剣類は怪しいところだ。
それに、非殺を決意した彼女にあまり無理はさせられない。
と、その時、戦車の砲塔上部のハッチが開き、檜山が勢い良く飛び出して来た。
路地に着地した檜山の手にはコンバットナイフ、刃渡り10センチにも届く凶器が逆手に握られていた。
「直接、お相手しよう!」
「それは、御免願いたいね……!」
路地に着地してナイフを逆手に構えた檜山は、しかしすぐに襲い掛かってくる事はなかった。
逆手に構えた刃先をこちらに向けて、威嚇するようにすり足でにじり寄って来る。
刃物を持った相手はこれで二度目だが、梅宮の時とはわけが違う。
専門知識に精通している人間に“騙し”は通用しない。
実物上の数値や形が例え嘘であったとしても、それが紙面に載っている情報ならば、異能力はスペック通りを再現する。
正直なところ、この異能戦で最も恐ろしい参加者は、そういった専門知識に特化した者たちだと考えている。
それが、武器や兵器の情報に精通しているというならなおさらだ。
梅宮に行ったような知識への介入が通用しないのだから。
ナイフを構えた檜山に対応するため、俺は先ほど蹴飛ばしたゴミ箱、その蓋を手に取る。
青いプラスチック製で、ナイフを前にしては防御力などないに等しいだろうが、目くらましくらいにはなる。
蓋の取っ手を握り上半身を隠すように構えると、檜山の口元が少し緩んだ。
笑いたくば笑えばいい。こちらにとっては生きるか死ぬかの瀬戸際で、にも関わらず余計な真似をしているのだ。
なりふりなど構っていられない。
「――櫻井さん!」
そこで、予想外の事が起きた。
小道に身を隠していた梅宮がこちらへ走って来ていたのだ。
俺はここから先の行動を指示していない、完全に彼女のアドリブだ。
「もうひとつ、行きます!」
走ってくる梅宮の手には、先ほど投げてもらったスタングレネード。
しかも、もうピンが抜かれた状態だった。
梅宮はそれをアンダースローの要領で放り投げる。
俺と檜山の中間に落ちてくるように……。
「馬鹿な! 味方がいるというのに……!」
檜山が焦ったように言って俺から距離を取り、閃光を遮るためか、腕で顔を覆おうとする。
その動作を見て、俺はゴミ箱の蓋を構えたまま、檜山を追って距離を詰めた。
顔を覆おうとした檜山の表情が驚きに崩れる。
このままでは、ふたりとも目と耳を潰されるのにと、そう考えているのだろう。
確かにそうだ、梅宮の投げたスタングレネードが、本物ならば。
かろんと、梅宮の投じた対人兵器は地面に落ちて軽い音を立てた。
それだけだった。爆発も光も音もない。
中身をすべて吐き出した空き缶が転がる虚しい音だけが響いた。
不発弾を再現したものだろうと、脳裏で梅宮の考えを推測する。
同時に俺は、ひるんだ檜山との距離をしっかりと詰めていた。
腕が上がっているのでちょうどいい、蓋の縁を檜山の腹に横なぎで叩き込んだ。
威力はない。しかし、攻撃された事であちらにも何らかの対応が生まれる。
その対応がある前に、こちらの行動で被せる。
具体的には、ゴミ箱のふたを檜山の上半身に押し付けて自由を奪う。
檜山の背後には戦車の車体がある、板挟みだ。
「くっ、この程度で……!」
それでも、檜山の動きは止まらない。
ナイフを持つ腕ごと抑え込むつもりだったが、そうはいかなかった。
檜山は押さえられたままの体勢から、ナイフの刃を蓋に突き立てた。
ちょうど俺の鼻先数センチというところで刃先が停止し、思わず冷や汗が流れる。
だが、これも好都合。
このまま蓋を時計回りに回転させ、ナイフを檜山の手から奪う。
「ぬう! 何か格闘技を……!」
「ちょっとした護身術ですよ!」
ナイフの刺さったゴミ箱の蓋を梅宮の方に放り捨て、檜山の手を取ってうしろを向かせ、戦車の車体に押し付けるように拘束する。
これで一安心と思いきや、壁代わりにしていた戦車が、ふっと、最初からそこに何もなかったかのように掻き消えた。
檜山が異能力で出現させていた戦車をかき消したのだと理解する前に、ぐらりと前のめりに体勢が崩れる。
そのまま地面に抑え込もうとするが、逆に檜山に腕を取られて背負い投げを食らわされる。
投げをかけられ、地面に叩き付けられる瞬間に受け身を取ると、すぐに檜山の腕を巻き込みうつ伏せの姿勢になる。
そこから彼の腕を巻き込み引き倒す……、というところで、俺は檜山の腕を離して立ち上がった。
檜山が逆の手で、腰のホルスターから拳銃を引き抜いたのだ。
銃の知識に明るくないので名前はわからないが、おそらく軍用、自衛隊などで採用されている装備かもしれない。
一瞬の判断を躊躇ってしまった。
今や檜山は拳銃を引き抜き、銃口を俺に向けている。
拳銃が抜かれる前に檜山を拘束する動きに転ずる事も、あるいは出来たかもしれない。
だが、その手段では確実とは言い難かった。
組み合っている最中に接射されればひとたまりもない。
さあ、まずい方向に流れが変わってしまったなと思い、……その直後、檜山の側頭部にゴミ箱の蓋が直撃した。
「梅宮!?」
梅宮は退避せずにいた。
不発弾を投じてアシストしてくれたまま、この場に残ったのだ。
ありがたい事だが、檜山が銃口を向ける対象が増えてしまった。
側頭部を押さえた檜山は、こちらに銃口を向けたままバックステップで距離を取る。
もう一息に詰められる距離ではない。
檜山の方もこちらに銃口を向けてはいるが、すぐには撃たなかった。
息を整え、片手での構えから両手で構え直す。
「……これで、終わり……!」
吠えるように告げて銃を構え直した檜山だったが、俺か梅宮かで銃口の行先を迷わせている。
まだトリガーに指がかかっていない。
それどころかセイフティすら解除していない。
おそらくは、ミリタリーオタクとしての性が裏目に出たのだろう。
正確な手順を重視するあまり、サイティングの段階から次の動作に移れないのだ。
ならば、まだ付け入れる……!
「梅宮、ナイフを投げろ!」
俺の呼びかけに、梅宮はすぐに動作に移ってくれた。
檜山のナイフを拾った梅宮は、オーバースローでそれを投げ放つ。
向かってくる刃に銃口を合わせようとした檜山だったが、一瞬躊躇いを見せて、その動きを止める。
ナイフの刃が檜山の体に当たった瞬間、戦車が消えたの時のように消失した。
元々は檜山の異能力によって生み出された刃物だ。
出し入れは檜山の意思次第で、刃は生み出した能力者を傷付けないと言ったところだろうか。
檜山がナイフを受けずにかき消したのは、意識を俺たちから外さないためというのが大きいのだろう。
その証拠に、銃口も視線もブレずに俺と梅宮とを行き来している。
だが、撃たない。
チャンスは幾度もあったはずなのに、サイティングから先に手順を進めない。
セイフティの解除を一向に行わないのだ。
手順に正確である事を自分に課しているのだと思っていたが、ここまで来ると違うのではないかという考えが浮上してくる。
「……檜山さん、迷っているんですか?」
こうした問いかけは、実際危険かもしれない。
もし仮に、檜山が本当に人を殺める事に躊躇いを持っていたとして。
それを指摘されて、逆に決意を強固にしてしまうかもしれない。
それでも、こうして問いかける必要がある。
「何を言っている!? 俺は、貴様たちからブラックチケットを……!」
「それにしては、あまりに手ぬるい。威嚇行動から先に移らないのは何故ですか!?」
檜山の銃口が俺を向いてぴたりと停止する。
今度はセイフティが外された。
やっと、トリガーに指がかかる。
「……どうだ!? あとは引き金を引くだけだ! 今度こそ、貴様の命はないぞ!」
声を張る檜山の顔は強張っていて、びっしりと汗をかいている。
先程のような芝居がかった表情をつくろうとしているようだが、それがもう出来ていない。
この表情が芝居だという線は薄そうだ。
演技の種類を高圧的なものからこうした焦ったようなものに変えるくらいならば、最初からそういった演技でこちらに印象を植え付けているはず。
「ならば、すぐに撃たないのは、何故ですか? 最初から、こうして言葉を交わす事も必要なかったはずです。なのに、檜山さん、貴方はこちらの問いかけに答えた。こうして俺と話をしている。どうやら殺す相手をいたぶって楽しむ、といった趣向は持ち合わせていないようだ。……ならば、何故?」
どうして最初に、俺たちからブラックチケットを奪うなどと宣言したのか。
何故、待ち伏せておきながら正々堂々と名乗りを上げて、威嚇までして、こうして至近距離での会話に応じているのか。
「檜山さん。貴方は、ブラックチケット奪い取る事を迷っている。だから、こちらが逃げてもいいように威嚇を繰り返した。戦車の砲撃、ナイフ、拳銃もすぐには撃たなかった。貴方は、人を殺める事を迷っている」
「黙れ! 黙るんだ! ……その通り、その通りだ! だがもう、迷いは消えた! 撃つぞ……、私は撃つぞ!?」
一人称がぶれている。
高圧的な時は“俺”だったが、今は“私”と自身を呼んでいた。
檜山は人を撃つ事を躊躇っていた。
こちらを威圧し続けていた意図は、己を鼓舞して迷いを消すためか。
それよりは、俺たちが降伏して命乞いをしてくれる事でも望んでいたのだろうか。
「……くそう、何故だ……? こんな、人の命を軽々しく弄ぶような殺人ゲームに参加するような輩のひとりやふたり、犠牲にする事に躊躇いを覚えるなど……!」
「目的のための犠牲ですか? 檜山さん。貴方の願い、世界平和は、人の命と引き換えにしてでも叶えたいものですか?」
俺の問いかけに、檜山は乱れた呼吸を整え始めた。
どうやら彼を追い詰めて過ぎてしまったようだ。
願いを叶えると決意した時の、一番最初の心を思い出したようだ。
顔を上げた檜山は、先ほどとは打って変わって生真面目な表情をしていた。
これが、彼の本当の顔か。
「……キミは……」
「櫻井です。櫻井水樹」
「では櫻井くん。キミは、大勢の人間を救うために、少数の人間を犠牲にするというやり方は、ありだと思うかい?」
檜山から問い掛けが来た。
彼がブラックチケットに願いを掛ける理由だろう。
「……状況によります。止むを得ない場合もあるでしょう。具体的なお話を?」
聞かせてくれるだろうか。
だとすれば、説得出来る可能性も生まれる。
そう考えたが、檜山はそれ以上こちらに歩み寄る事をしなかった。
もう檜山の呼吸は落ち着いてしまっている。
銃口もぶれずに俺を狙っている。
本当に、あとは引き金を引くだけという具合に自分を立て直してしまった。
いや、自分自身を追いこんでしまった、だろうか……。
――その時、遠くで大きな音がした。
爆発のような、何かが破裂するような音。
じりじりと距離を詰めようとしていた梅宮がびくりと肩を震わせて、音のした方を向く。
そして、目の前の檜山が絶望的な表情を見せた。
「……ああ、かかってしまった。キミたちのお仲間が、私が仕掛けた罠にかかってしまったよ! これで私も、立派な人殺しだ……! もう迷いは消えたあ!」
血の涙でも流さんばかりの表情のまま、檜山は拳銃を両手で構え直す。
次は撃つだろう。
檜山は自制心を振り切ってしまった。
俺は、もう考えるより先に動き出していた。
震える手で拳銃を握る檜山の懐に飛び込むように。
こちらが飛び込んで来た事で、振り切れはしたものの、檜山の動揺を誘ったようだ。
マニュアル通り、手順通りに工程を勧めようとしていた檜山が、発砲の瞬間目を瞑ってしまったのだ。
そして発砲。
目を瞑りながらも続けて2発撃ったのは、さすがその道に知識に明るい者だと言うべきだろうか。
放たれた銃弾は俺には当たらなかった。
運が良かったのか、檜山が無意識に手心を加えたからだろうか。
2発撃った檜山は、3発目を撃たなかった。
銃弾が当たったか確認するためなのかもしれないが、俺が動きを止めずに突っ込んだため、それも適わなかっただろう。
檜山の腹部にタックルをかけて、地面に引き倒そうとする。
この動きに檜山が耐えられたのは2、3歩が限界だったようで、4歩目でようやく地面に引き倒す事に成功する。
その拍子に、拳銃が檜山の手を離れて地面を転がる。
「まだ……! まだだ……!」
しかし、引き倒したはずの檜山がすぐに抜け出して、凶器を取るために這って進む。
俺もすぐに立ち上がって、這って進む檜山の背中に飛び乗り、たった今拳銃を取った檜山の右手を押さえつけた。
今度は地面に引き倒しているので、戦車の時のように障害物を消失させて脱げ出すことは出来ない。
加えて、檜山の背中に乗って身動きを封じ、拳銃を掴んだ右腕を押さえ、左腕の方は脇に抱え込んで関節を極めている。
この状態から自力で抜け出すには相当な無理をしなければならないはずだ。
しかし、檜山は諦めようとはしなかった。
拳銃を持つ右腕を押さえられながらも、そのままの姿勢で引き金を引き、発砲したのだ。
威嚇か跳弾を狙った苦し紛れの行動かと思ったが、その効果は確実に俺を狙って飛来してきた。
――檜山の拳銃の排莢口は、右側に設けられている。
今、檜山は右手で拳銃を握り、俺はその腕を押さえている状態だ。
排莢口は上、俺の方を向いている。
そんな状態で発砲すれば、銃弾は俺の方へ飛んでこなくても、排出された空薬莢は俺を目がけて飛んでくる。
最初の薬莢が当たったのは俺の顔面だった。
メガネをかけていなかったら、焼けた金属が右目を直撃していただろう。
そのまま、発砲の際に焼けた薬莢が飛んでくるのを、俺は耐え続ける。
6発撃ったところで排莢がスライドに引っ掛かり、その時点で勝負は決した。
檜山はまだあきらめていないようだが、こうなってしまえばもうこれ以上の手はないだろう。
スライドを引いて排莢の引っ掛かりを取るには両手を使わないと確実ではない。
ナイフを消した時のように一度拳銃を消失させて再び出現させる事もできるのだろうが、この状況でその答えに辿り着けるだろうか。
もしその判断に至るとしても、もう行動する暇は与えない。
「……もし、拳銃を消失させて再装備するというのならば、俺は貴方の手を潰します。ナイフでも手榴弾でも同様です」
俺がそう宣言すると、檜山はハッと「その手があったか」とばかりに息を飲んだが、それを封じると先に言われてしまったために悔しそうに歯噛みする。
「檜山さん、お願いです。降参してください。俺たちは貴方の命を奪う気はありません。このゲームを誰も死なず、殺さずに生き残る事が俺たちの目的です」
この言葉が檜山の心に届くかかはわからない。
だが、説得には最大限力を尽くしたい。
「もしも、檜山さんが願いを諦めきれないのならば、俺も方法を模索します。檜山さんの望むレベルのものに至るかは自信が持てませんが、少なくとも人を殺めずに済む方法を提案します。提案が気に入らないのならば、檜山さんが納得するまでとことん話し合いましょう」
言うだけ言って返答を待つと、涙をすすり鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
檜山が鼻をすする音だ。
「……くそう。くそう、何故だ……? こんな、こんな事になる前に……! こんな力を得る前に、キミのような者に、相談できていたら……!」
「今からでも遅くはありませんよ」
「いや! いいや! もう遅いんだよ! 逃げたキミたちの片割れが、私の仕掛けた罠に掛かった! 強力な対人地雷だ! 即死は免れるかもしれないが、致命傷は免れない!」
「それこそ否です。何せ、逃げたふたりの片方は、強運を発揮する異能力の持ち主ですから……」
足音がふたり分、横道から聞こえてきた。
息を飲んで曲がり角を見守る檜山は、頼りなさげな美形男とよれてくたびれたおじさんがおっかなびっくり歩いてくる姿を目の当たりにする。
ふたりとも白い粉や破片を全身に被って入るが、目立った外傷はなかった。
こちらの様子を見てびくりと足を止めたが、じっと目を凝らして状況を認識すると、ホッと胸を 撫で下ろしてよたよたと歩いて来た。
危機が去ったと感じて、緊張が解けたのだろう。
「……私は、殺していないのか……?」
「その通りです、檜山さん。貴方は誰も殺してはいない。これからも、人を殺める事はないはずです」
檜山の握っていた拳銃は、いつの間にかブラックチケットに戻ってしまっていた。
梅宮の時と同じだ。
敗北を認識した瞬間、形を成していた異能力はチケットに戻る。
檜山の、無言の敗北宣言だった。
つづく