第四話 梅宮つぐみ
「梅宮です」
俺の目線程の背丈の女は、短く名乗り会釈した。
陽の光を浴びて光沢を見せる長く艶やかな黒髪と、人を引き付ける整った顔立ち、「美少女」という単語を用いるのに躊躇う事がない容姿だ。
市内でも有名なお嬢様高校の制服は乱れなく整っている。
つい先ほどまで同じ異能力者を相手に死闘を繰り広げていたとはとても考えられないような平静さだ。
彼女、梅宮の表情は険しいものだった。
俺の後ろで身構えている桐生に異能力者同士の戦いを目撃され、次は彼をその手にかけると宣言しているのだから。
まあ、追って来てみれば二対一という状況だ、それは表情も険しくなるというもの。
「俺は櫻井だ。初めまして、おとくいさま」
梅宮の険しかった表情が怪訝なものに変化した。
おそらく後ろの桐生もわけのわからないといった表情を浮かべているだろう。
ふたりの中では俺の口にした言葉は「お得意様」と訳されているはずだからだ。
初対面の相手にお得意様とはどういった事だと、そう思っているのだろう。
「運動が得意、などの得意じゃない。特に異なると書いてお特異様だ。自称異能力者にとってはふさわしい呼び名だと思うのだが?」
あいさつ代わりの軽い挑発。桐生が思わず小声で俺を制したが、大丈夫、これも狙いの内だ。
ようやく意味が分かった梅宮は目つきを鋭くして俺を睨んできた。
だが、すぐに手が出るというところまではいかない。
さすがにこの程度の挑発で自制心を失うような事はないだろう。
「……馬鹿にされるのは構いません。貴方たちがふたり掛かりで来るというならば、それでも」
「見くびるな。女子高生相手に大の男がふたり掛かりなど。キミが戦うつもりなら、俺ひとりが相手になろう」
そう告げると、梅宮の注意がやっと俺だけに向けられた。
今まで俺と、後ろの桐生とのふたりを気にしていたところを見ると、彼女は話に聞くよりは慎重派なのだなという印象を受ける。
彼女は最初から俺と桐生とを相手に戦うつもりでいて、公園に入ってからはその方法をずっと考えていたのだろう。
俺の後ろの桐生に戦えるだけの気力がないと判断したのか、梅宮は深く息を吐き出すと俺に対して左半身に構えた。
視線は俺を捉えたまま、制服スカートのポケットからブラックチケットを取り出す。
後ろで、桐生が叫ぶ。
「櫻井、気を付けろ! その女の異能力は……!」
「刃物、だったかな。聞いた限りだと刀のようなものを扱うのだったね?」
「……その人から聞いていたのですね。そうです、わたしの選択した異能力は」
梅宮がブラックチケット軽く一振りする。
すると、どういった手品か、彼女の手からチケットは消え失せ、代わりに刃渡り二尺半程の日本刀が現れたのだ。
拵えの事などは詳しくないが、このサイズでもかなりの重量を誇るという事は俺にでもわかった。
その重量を証明するかのように、梅宮は刀の刃先を地面に向けるように構えた。
右手は鍔の近くを握り重さに任せるようにして垂らし、上を向いた柄を左手が握り支えるという形だ。
「わたしの選択した異能力は、刀剣類を呼び出すもの」
俺はその光景を目の当たりにして、「ああ、なるほど」と合点がいった。
これは確かに異能力の領域だ。手品にしては種も仕掛けもなさすぎる。
いよいよ桐生の言葉を信じなければならなくなったのだ。
しかし、同時に納得がいかない点もいくつか見受けられた。
いくら梅宮が刀剣類を呼び出せる異能力者だとして、先ほど桐生が話していた銃を持った異能力者とどう戦ったというのだろうか。
見たところ、梅宮は刀を振るうだけの腕力を備えているとは考えにくいし、刀を出せるといっても相手は銃を持っていたのだ。
それとも桐生が話していないだけで、彼女の異能力はそれだけではない、という事なのだろうか。
「さあ、まずは貴方からです。ええと……」
「櫻井だ」
「……櫻井さん、ですか」
梅宮は俺の苗字を口の中で呟き、表情をわずかに曇らせた。
櫻井という苗字に嫌な思い出でもあるのだろうか。
わずかに顔を挙げたところで俺と目が合ってしまったせいか、彼女は気まずそうに視線をそらす。
だが、困ったような素振りは長くは続かず、やがて大きく息を吐き出して呼吸を整えると、真っ直ぐ俺の目を見つめてきた。
「では、櫻井さん。あなたを倒してチケットを頂きます」
「何のために?」
ここでチケットを奪うために、などという答えが返って来ていたなら、俺は彼女からもう話を聞くつもりはなかった。
だが彼女は違った。
言葉に詰まり、自身の理由を言おうか言うまいか、躊躇っているようだった。
やがては俺の目をしっかりと見据え、静かに口を開く。
「……一身上の都合によるものです。人様にむやみに話す事ではありません。……でも、人様に話せる範囲で言うのならば、家族を助けるためです」
そう梅宮は告げた。
俺が驚いて梅宮の顔を見ると、彼女は唇を噛んで目をそらした。
悲しさや悔しさがにじみ出ている表情には、とても演技によるものとは思えない。
人が感情を押し殺した時に見せる複雑な表情は、たとえ演技者でも即興で出せるものではないと俺は考えている。
桐生の時も思った事だが、彼女が稀代の役者でなければという前提が必要にはなるのだが……。
俺はというと、梅宮の口からその答えが聞けて、胸を撫で下ろす気持ちだった。
目の前の梅宮という少女は、桐生の話していたような人の死を何とも思わぬ殺人狂ではないと、この彼女の表情を見て信じる事が出来そうだからだ。
しかし、そうなると疑問は増えるばかりだ。桐生の話していた梅宮と、目の前の梅宮の食い違い。
それ以外にも腑に落ちないと感じる点は多々あるが、ならばその答えをこれから確かめていこう。
「さあ。櫻井さん、貴方も早く力を」
「ご期待に沿えず申し訳ないが、俺は異能力を使わない」
梅宮の表情にむっとした怒りの色が加わる。
背後で桐生が何か言いたそうな身振り手振りをしている気配を感じるが無視しよう。
実際このブラックチケットに関しても詳しい事はわかっていないし、自分の異能力を決めるのが本当に必要な事かも定かではない。
だから、実際に異能力者と相対して確かめる。
「……後悔しないでくださいね」
「残念ながら、後悔はすでにしているよ」
莫迦な妹を探すために、こんな面倒で物騒な事に巻き込まれてしまったのだから。
◇
構えらしい構えなど取らずに自然体で突っ立っている俺を倒すべく、梅宮は動きを見せた。
左足を引いて体の向きを左半身から右半身へ入れ替える。
そして刀の刀身を右の上腕に寝かせるようにして、刃先を俺へ向けて構える。
その姿勢から身をたわめて力を溜めると、一直線に俺へと突っ込んできたのだ。
素早い動き。
何より驚いたのは、その素早い動きに彼女が慣れている事だ。
幾度も同じ動きを繰り返して習慣化したからこそ可能な速度に、先ほど刀を重そうに持っていた姿はフェイクではと疑念を生ずる。
考える間もなく梅宮の姿が接近して、細い腕から鋭い突きが繰り出される。
身を捻って刺突を躱す事には成功するが、梅宮は動きを止めず次の動きに繋ぐ。
突きを放って伸びきった右腕の手首を外側へと捻り、刃を右側に避けた俺へと向ける。
そして呼吸を止め全身に力を込めたかと思えば、刀を片腕の力だけで横なぎに振ってきた。
後退すれば丁度刃が体に当たる位置に来てしまうため、俺は梅宮から離れず逆に密着する。
彼女の右腕を取り、刀を振る動きを抑えにかかる。
手首を掴み、肘を固めようとしたところで、彼女は動きを変えた。
右手の刀を手放したのだ。
「さ、触らないでください……!」
表情は険しいまま、顔を真っ赤にして告げる梅宮。
その左手には新しい刃物が煌めく。
ナイフだ。
刃渡り十センチを超えるサバイバルナイフ。
ミリタリーものの映画でよくお目にかけるタイプの武器。
ランボーナイフと呼ばれているのも聞いた事がある。
なるほど、彼女の異能力である刃物を呼び出すというものは、こういった刀剣類の出し入れが自在となるという事なのだろう。
俺が梅宮の手首を取り肘を固め、肩の関節を極めた事で、彼女はナイフを器用に操って順手から逆手に持ち変える。
そして逆手にした刃を俺に突き立てようと、ろくに狙いも付けずに得物を振るい始めた。
狙う個所を目視せず当たればいいとばかりに振るわれる刃に、俺は彼女の拘束を解かざるを得ない。
刃が俺に当たる事はもちろん、何かの弾みで彼女自身を傷つけてしまいかねないからだ。
梅宮を突き飛ばすようにして距離を取ったところで、右手首に痛みを感じる。
見れば、袖の部分が縦に切り裂かれている。
傷の度合いを確認する間もなく、梅宮は自由になった右腕を振るう。
彼女の右手には新たな刃物が現れていた。
「今度は手裏剣かい?」
新たに姿を現したのは手裏剣だった。
十字の形をした掌サイズの刃、その数は3。
右手の指の間に刃の一辺を挟むような形で出現したそれを、梅宮はサイドスローの要領で投擲する。
彼女の手を離れた手裏剣は回転する動きをまったく見せずに真っ直ぐ飛来し、そのうちのひとつは俺の頬をかすめて遥か後方へと飛んでゆく。
後方、手裏剣の射線上に突っ立っていた桐生が慌てて飛び退くと、先ほど座っていたベンチに三本ともきれいに突き刺さった。
今の手裏剣の動きを見て、ひとつ確信を得た。
動きがおかしい。
……当たり前のように聞こえるだろうか。
だが、簡潔さを求めるのならば、その一言に尽きるのだ。
刀を構えて走り出してからの梅宮の一連の動きは、異能力無しでは有り得ないであろう部分が目立った。
彼女の異能力は刀剣類を呼び出すだけのものではないと、確信を持って言える。
その確信をさらに深めるべく、まだ反撃に出る事はしない。
もう少し彼女の動きを探る。
「まるでアクション映画のようだね、梅宮。次はどうするんだい?」
「また、挑発のつもりですか。櫻井さん……!」
梅宮は左手のサバイバルナイフを一振りして消すと、一番最初に呼び出した刀を再び出現させる。そして走り出しはゆっくりと、俺の左側から回り込むようにゆるい弧を描いて距離を詰めてくる。刀身は下段の構え。接近つつ刀を持ち上げて、袈裟斬りにするつもりだろう。
俺はといえば、逃げる。ただ逃げるだけではなく、先ほど空き缶を放ったゴミ箱のところまでの全力疾走だ。
「櫻井! 追いつかれるぞ!」
背中に届くのは桐生が発する悲鳴のような警告だ。
脚力には少なからず自信があったのだが、それは刀を持ったお嬢様には劣る程度のものだったという事だろうか。
今は肯定も否定もしない。もうゴミ箱が手の届く距離にあるからだ。
金属製の網目状のゴミ箱。
中には燃えないゴミ用のビニール袋と、その中に満載された空き缶の類。
ゴミ箱の外面は風雨に晒された事による錆が目立つ。
俺はゴミ箱の飛びつくと、背後に迫っていた梅宮へ向けて、中身をぶちまけるようにして投げつけた。
その時の梅宮は、ゴミ箱に飛びつくために身を低くした俺を斬りつけるために、刀を下段から上段へと持ち上げていた。
袈裟斬りの構えだ。そして、いざ振り下ろさんといったところで、視界を覆う無数の空き缶と錆びついた金属製のゴミ箱が現れたのだ。
そんな状況で彼女はどうするのだろうか。
答えは、ゴミ箱を真っ二つに斬った、というものだった。
「ば、馬鹿げてる……!」
ベンチの前で腰を抜かしている桐生からそんな言葉が漏れ聞こえてくる。
まったくだ、馬鹿げているとしか言いようがない。
刀で金属製のゴミ箱をきれいに真っ二つにするなど、達人と呼ばれる者でなくとも絶対に行わない。
刀で金属を斬るという所業は、刀を扱うという事を知らない証だ。
彼女の持つ異能力の、……いや。
ブラックチケットの生み出す異能力の正体に、少しだけ近付いてきた。
後ろに軽く跳ぶようにして梅宮から距離を離し、ナイフが切り裂いた右手首や手裏剣が頬を掠めた個所を指で触ってみる。
どちらも皮膚は裂けておらず、みみず腫れのような傷になっていた。
判断材料はまだ欲しいところだが、これでも充分だろう。
これから反撃を開始する。
◇
ゴミ箱を空中で真っ二つにするという芸当をやってのけた梅宮は、不機嫌そうに刀を振った。
彼女の全身には、空き缶の中に残っていた飲料水の滴や溜まった雨水などが降りかかり、制服に付着したそれらが鼻をつく悪臭のもととなっていた。
梅宮自身はというと、あれだけの動きを見せた後だというのに、息が上がってる様子はない。
呼吸の乱れもなく平静を保ち、左手で髪をかき上げる余裕すら見せた。
だが、髪にも臭いがついてしまっていたのか、目付きの鋭さがもう一段階上がる。
ゴミ箱を投げ付けた件は彼女に申し訳ないとは思うが、命に関わる以上こちらも手を抜くことはできない。
謝罪はこの場を収めた後でしっかり行うつもりだ。
「素晴らしい腕前だね、梅宮。もしや、高名な剣術家に師事しているのかい?」
「いいえ、そういった知り合いはいません。これも異能力の力でしょう」
「だろうね」
確信を持って頷く俺に、梅宮は怪訝な表情を見せる。
警戒するように一歩後ずさり、最初のように刃の先で俺を突くような構えを取る。
構えを取り姿勢を低くするが、今度は突撃してくる事はない。
俺の態度に何らかの意図を感じ、警戒しているのだろう。
だが、もう遅い。
彼女は最初の一太刀で俺を殺しておくべきだった。
もっとも、本当にそんな事ができればの話だが。
「ところで梅宮、刀は何でできているか知っているかい? 材質はなんだろうね?」
俺は最初の質問を投げかける。
怪訝な表情をさらに難しいものにする梅宮。
視界の端に映る桐生も、疑問を顔に浮かべている。
質問の意図がわからないゆえの疑問だ。
梅宮は果たしてどう答えるだろうか。
いや、そもそも答えを返すだろうか。
「……鉄。鉄でできています」
一瞬手元の刀に視線を落とし、梅宮は答えた。
その声に自信が籠っていない事を考えると、やはり彼女は刀に詳しいわけではないのだろう。
それは、俺が投げつけたゴミ箱をとっさに斬りつけた事で確信を得ている。
刀を、それも真剣を扱う人間ならば、少なくとも同じ金属を刀で斬ろうとはしない。
身を躱して避けるはずだ。
「そう鉄だ。……では、その刀に含まれる鉄の割合は、どのくらいだろうね?」
息が詰まるような声。
答えに窮する者の発する音だ。
そんな答え、刀の事をよく知らない者にはとっさに出てくるものではない。
俺だって、刀一振りにおける鉄の含有量なんて知らない。
いや、この場合知る必要がないといった方が正しいだろうか。
「ほ、ほとんど鉄でできているのではないですか……!」
苛立ちを帯び始めた梅宮の声。
目元をきつくして俺をにらんでいた表情が、一瞬だけゆるむ。
え、と虚を突かれたような表情に変わり、自らの手元に視線を落とす。
彼女の目は自らが手にする刀に向けられている。
「そうか。それは知らなかった。鍔の部分はともかく、まさか柄まで鉄製だとはね」
わざとらしくうそぶくと、ベンチにもたれ掛るようにして立ち上がった桐生が表情を変える。
なるほど、彼は梅宮よりは刀の事に詳しいようだ。
「その大きさの物体がほとんど純正の鉄でできているとなると、相当な重量になるだろうね。キミの細腕では、もう持っている事すら難しいだろう。それだけの、超重量だ」
そう告げた途端、硬質で重量のある物体が砂の地面に倒れる音が響く。
梅宮は刀を自分の手から滑り落とし、自らも地に両膝を着いていた。
驚いた顔をするのは刀を取り落とした梅宮と、遠くから状況を見守っている桐生だ。
今の光景は誰の目にも同じように映っただろう。
梅宮の持っていた刀が突然重くなり、彼女は耐えられずそれを落としてしまったと。
「そして梅宮、キミは化学は得意かい? 得意でなくてもいい。頭の中に元素記号を思い浮かべてくれ。鉄の元素記号はFeだが、純正なFeのみの物質を作るのは非常に難しく、また手間もかかる事だ」
梅宮の表情は険しいものの、不理解の色はない。
元素記号云々の話は理解できているのだろう。
俺がなぜそんな話をするのかまでは理解が及んでいないようだが。
「実は単一元素の物質というものはとても脆くてね? 超能力バトル漫画によくいる金属使いなんかは、鉄なら鉄、金なら金といった単一金属を能力を用いるような描写があるが、あれは頂けないと俺は思うよ。金属は他の金属と合わさり合金となることで、強靭さをはじめとする特性を発揮するからね」
ここにきて梅宮は、自分が何らかの策にはめられている事に気が付いたようだ。
取り落とした刀を拾おうとはせず、右手を振って手裏剣を呼び出し、先と同じようにサイドスローで投擲しようとする。
「ちなみにだが、その手裏剣は真っ直ぐな軌道を描くタイプのものではないね。刃が回転して対象に突き刺さる、そういう動きをするはずだよ」
梅宮が虚を突かれたような顔になったのは、刃が手から離れる直前だった。
放たれた手裏剣は、今度はしっかりと回転を見せて俺の方へと飛来してきた。
あらかじめ自分に向けて放たれるのがわかっていたので、手裏剣が彼女の手から離れる直前に、俺は数歩素早く横に動いて射線から外れる。
鋭い回転を持って飛来した手裏剣は、俺の遥か後方、公園の樹の幹に突き刺さる。
むきになった梅宮が両手を振って手裏剣を量産するのを確認した俺は、詰みの手順に入るため彼女へと歩み寄る。
「もうひとつ。その手裏剣は、とても鋭いであろう事は見ておわかりだろう。それを刃の部分を指に挟んで投げる、なんて動きをすれば、ちょっと手元が狂っただけで自分の手指を傷付けてしまうだろうね」
梅宮の動きと表情が固まる。
歩み寄りつつ、駄目押しのもう一言。
「刃物で指を切ってしまった事は? その刃の鋭さなら、指を切るだけじゃ済ま
ないだろうね。切断してしまうかも」
青ざめた彼女の両手から刃物が離れるのを確認すると、俺は距離を詰める動きを「歩む」から「走る」に変える。
俺の動きに驚いた梅宮はとっさの動きで何か刃物を出そうとするが、直前の「指を切断」というイメージが脳裏に張り付いたのか、腕を振る動きを止めてしまった。
俺は振らずに止められた彼女の腕を取る。これから行うのは、中学一年生から高校二年生のこの歳まで、毎年冬場の寒い時期、体育の時間にだけ積み上げてきた稚拙な技だ。その技の名は背負い投げ。授業では何度か決めた事があるだけで、別段得意技という程のものではない。それでも決着には充分だ。
「受け身は取れるね?」
「ええ!? 待って!」
出会ってから初めて、焦り取り乱した声を上げる梅宮。
俺は構う事無く背負い投げをかけた。
背中を強く地面に打ち付けないよう、取った腕を引く事を忘れない。
身体が宙に浮きぐるりと縦に回転し地面に叩き付けられるのと同時、梅宮はちゃんと受け身を取る事ができていた。
お嬢様高校の生徒とはいえ、受け身くらいは習っているようで安心した。
そして、俺が掴んだままの彼女の手には、元の形を取り戻したブラックチケットが握られている。
俺がこのチケットを取り上げれば、梅宮はチケットの資格失効となり命を落とすだろう。
もちろん彼女からチケットを取り上げる事はしない。
逆さまの視界で俺を見上げている梅宮の表情は硬い。
このままチケットを取り上げられれば自らの死が確定するというのもあるだろう。
しかし、彼女を見ていると自分の事よりも助けたい家族の方が気掛かりなのではないだろうか、などと勝手な想像をしてしまう。
俺は彼女の目を見ながら静かに問う。
「降参かな?」
「……はい」
諦めたように頷く梅宮の顔は険しさが薄らぎ、おそらくは彼女本来の表情へと変わっていた。
◇
給水場の蛇口から水を出しっぱなしにした梅宮は、そこで濡らしたハンカチで髪や制服に着いた砂土や飲料水の滴を拭っている。
汚れだけを拭っているのならばよかったのだが、俺が触れた腕回りをも入念に拭っているのを見ると、少なからず憂鬱な気持ちにならざるを得ない。
交戦の最中に大声で触れるなと言っていた事からも、彼女が潔癖症か、あるいは男性に嫌悪を抱いている事はわかった。
だから、こちらから仔細を聞こうとはせず、彼女自身が話す気になるのを待つ事にする。
桐生と一緒に男ふたりで問い詰めるなど、彼女の方とてあまりいい思いはしないだろう。
その様子を横目で見ながら、俺は公園の敷地内に落ちていた針金屑で、梅宮が斬り裂いたゴミ箱を修復していた。
落ちていた針金屑は、元は看板の類を木に固定するために使われていたのだろう。
長さはあまりないが本数は多く、応急処置くらいの修復ならば事足りるものだった。
風雨に晒されていたにも関わらずほとんど錆が見られないのは、材質がステンレス製だからだろう。
クロムとニッケル含有のステンレス鋼は錆びにくく劣化しにくい。
加えて強度もかなりのもので、手で形を変える事が非常に難しいものだ。
ペンチなどあればとも思ったが、この公園にいる他のふたりがそれを持っているとは到底思えない。
額に脂汗を浮かべつつ固い針金を曲げながら、とっさの考えがよく上手くいったものだと、いまさらながらに動悸が激しくなってくる。
金属類の知識を少しばかりかじっただけのはったりで、よくもまあ異能力者を騙し果せたものだ。
今回は梅宮のような人だったから上手くいったが、次も同じ手段が通じる保証はどこにもない。
「……なあ、櫻井。ゴミ箱なおす必要あるのか?」
そう小声で聞いてくるのは、俺の横でなぜか体育座りをしまがら作業を見守っている桐生だ。先ほどまで腰を抜かしていた彼は、まだ若干の緊張が見られるものの、ようやく人と会話できるまでに回復していた。俺の近くで体育座りしている理由は、梅宮と一緒にいるのが怖いから逃げてきたからだという。桐生が初めて梅宮と出会った時に味わった恐怖は相当のものだったのだろう。心に巣食う恐怖や緊張を和らげるため、何でもいいから誰かと話したい、そんな心境なのかもしれない。俺は手元の作業を続けつつ、横目で梅宮の方を見やりながら、桐生の相手をする。
「当然だろう。器物破損は立派な犯罪だぞ?」
横目で見ればいいものを、桐生が首を巡らせて梅宮の方を見たものだから、彼女は気まずそうに動きを止めてしまった。
異能力バトルから現実に引き戻されて、公共の物を壊したら警察の御厄介になるという日常の感覚が戻ってきているのだろう。
「しっかし、いったいどんな異能力を使ったんだ、櫻井。刃物女が手も足も出ないなんて」
「異能力か……。確かに、使ったといえば使ったが、それは俺が持っていたブラックチケットによるものではないよ。使ったのは彼女自身の異能力だ」
うん、わけがわからんー、とでも言いたげに目をつぶる桐生と、俺たちの会話に反応して顔を挙げた梅宮。
彼女の興味がちょうど上を向いた事だし、話を聞くなら今だろう。
ゴミ箱の修復を終えた俺が桐生を伴って梅宮のところへ戻ると、彼女は蛇口をしめて俺たちに正面から向き直ってきた。
「……櫻井さんが何かして、私の異能力がおかしくなったという事はわかりました。でも、私の異能力を使ったというのは、どういう意味です?」
「それをこれから説明するよ。だがその前に、キミに確認することがある。いいかい? 梅宮」
梅宮は不服そうに頷いて、気安く名前を呼ぶなとでも言いたげな目つきで俺を睨めつけてくる。
あまり気分が良いものではないが、こちらもそれを顔に出す必要はない。
彼女への確認事項は、現状ひとつだけだ。
「梅宮、キミがブラックチケットに望んだ異能力は、刀剣類を呼び出すというもので合っているね?」
「その通りです。それが何か……」
「本当に?」
言葉に詰まる梅宮は疑念の籠った眼差しで俺を見る。
自分の言葉を疑われていると思っているのだろう。
どういう事だと横から問うてくる桐生に頷き返し、俺は質問の言葉を変える。
「では、キミが異能力を望む際、どのようにして望んだのだろう。しっかりと言葉にして? それとも、頭の中でその異能力を行使しているイメージで?」
「……それです。後者の、頭の中でイメージしたものです」
「そしてそのイメージは、おそらくキミが誰かと戦っている光景だったのではないだろうか。刀を持って切り結んだり、離れた敵に向けて手裏剣を放つような……」
梅宮が俺を見たまま押し黙る。
どうやら図星のようだ。
横の桐生もなんとなく話が見えてきたようで幾度か頷いている。
桐生はそのまま、自分の考えをまとめるべく右手の人差し指を立て、それを額に当てながら口を開いた。
「ええと、それってこういう事だよな? 梅宮ちゃんの異能力は、刀剣類を呼び出すものだと思っていたけど実はそうじゃなくて、そういう刀とかナイフとか呼び出して戦えるようになる、ってやつだったんだな?」
「……ちゃん付けはやめて下さい」
眉根を寄せて嫌そうに告げる梅宮。
桐生は「苗字呼び捨てはいいのかよお」と落胆してしょぼくれてしまう。
頑張れ、桐生。
「桐生の答えは概ね合っていると思うよ。梅宮に限定するならばそれで正解だ。これまでの動きを見た限り、ブラックチケットに望んで得られる異能力とは、所有者の想像したものを現実化するもの。そしてブラックチケット自体は、想像を現実化するための補助装置といったところだろう」
梅宮は己の異能力を決めるとき、自分の異能力の形をはっきりと言葉にせず、漠然と頭の中で自分が戦っている光景を想像したという。
ブラックチケットはその光景を異能力として忠実に再現したのだろう。
相当な重量の刀を達人すら超える動きで振るい、金属すら容易に切断する。
十字手裏剣にしても、あんな持ち方からあの投げ方であの飛び方、異能力でないとありえない。
「この異能力の特徴は、異能力自体が自分の望んだ形、想像通りになるように、ブラックチケットの方で現象を付け加えていくものなんだと思う」
たとえば、アクション映画の主人公にように戦う姿を思い浮かべた場合はどうか。
その主人公が武器を使うならば、まず武器が現れる。その武器を持って戦えるように、体の動きが調整される。
難しい事を考えずとも、理想の姿や動きを思い浮かべれば、そういった形になるように、チケットが不可能な事を取り払って現実化してくれる。
武道を極めるために身体を鍛えずとも、武器を調達し取り扱うための手順や知識を身に着けなくとも構わない。
ブラックチケットと己の想像力さえあれば、即席で異能力が得られてしまうのだ。
「……では、私の異能力が途中からおかしくなったのは?」
「梅宮の頭の中に、別の想像力を叩きこんだ。キミ自身が持ちえない知識をね」
別の想像力という言葉で、すでに大まかな予測を立てていた桐生は納得したようだが、梅宮は依然として疑念の目を向けてくる。
もう少し彼女に説明せねばなるまい。
「俺がキミに対して行ったのは、キミの想像力の及ばない部分に余計な知識を付加して、異能力によって引き起こされる現象を書き換えるというものだ。鉄をも切り裂く刀は、本来ならばキミが持ち上げる事のできない程の重量だよ。手裏剣をあんな風にして扱ったら、下手をすると指を切り落としてしまうよ、とね。しかも、付加する知識は真実でなくとも構わなかった。当人が知らない部分に、嘘でも真実でもいいから信じてしまう可能性がある情報を刷り込めれば、こちらの思惑通りだったんだよ。結果として、キミは刀を落としたし、手裏剣を投げる事が出来なくなった」
無粋な真似だよね。
俺がそう呟いて軽く笑うと、ふたりとも話は理解したが腑に落ちないという顔でこちらを見てくる。
梅宮がそんな顔をするのはまだわかるが、桐生まで難しい顔をする理由が見当たらない。
「桐生、何か言いたいようだが?」
「いや、ちょっと腑に落ちない部分があるんだよな……。櫻井が言ってる事はわかるよ? 櫻井が梅宮ちゃんにやってのは、こういう事だろ? スーパーの鮮魚コーナーに並んでる切り身の魚しか知らない子供にさ、魚本来の姿はこういうものだぞーって言って、不意打ちでグロテスクな怪獣の絵を見せてびっくりさせる、って感じ?」
「……すごいな桐生。俺の説明よりも格段にわかりやすいよ。小学校の先生なんか向いているんじゃないか?」
「そ、そうか? いやー実は、教員免許だけは取っとこうかなーって思ってたんだけど、櫻井のお墨付きがあるなら、目指してみるのもいいかもな?」
「……待ってください。その例え、私に対してすごく失礼だとは思わないんですか?」
梅宮が頬を膨らませて怒っている。
彼女の中では、俺たちが梅宮の事を魚の切り身しか見た事のない、世間知らずのお嬢様だと思っているのだろう。
まあまあと梅宮をなだめている桐生の横で、その可能性もなくはなかったなあ、などと思うが絶対口には出さないようにしよう。
「桐生が腑に落ちないと言ったのは、どうして梅宮が知りもしない補足の知識を信じたのか、だね?」
ふたりが頷くのを見て、俺もひとつ頷き返した。
ふたりの疑問はもっともだ。たとえ本人が知らない事とはいえ、敵対する赤の他人からもたらされた指摘など、本人が信じる必要などどこにもないのだ。
刀は鉄を斬れる、銃は弾切れしない。
そう強く信じてしまえば、ブラックチケットは現実を捻じ曲げて、想像の方を真実にしてしまうのだから。
「それを信じたのは、梅宮が素直だったからだよ」
ぽかんと、間抜けな音でも聞こえてきそうな顔をするふたり。
残念ながら、俺にはそうとしか言いようがない。
とっさに思いついた相手の異能力への介入は、相手の行使する異能力とそれに対する知識が乖離している程大きな効果をもたらす。
梅宮の例を見ればわかるとおり、刀剣類を知らない者が呼び出した刃の方が、この戦いでは大いに有利になる。
実物の持つ弱点を、都合よく無視できるのだから。
そんな無知識の異能力者に知識を付与するとどうなるか。
結果は大まかにふたつ、付加された知識を信じて身動きが取れなくなるか、自分の異能力を都合よく信じて付与される知識に流されないか。
梅宮は前者だった。
「梅宮、キミは自分が刀の扱いなど知らないという事を自覚していた。手裏剣の投げ方も。映画か何かで見のだからこういう風になる、そう思っていたのだろうね。でも、それが真実ではないとも実は知っていた。俺に指摘された都合の悪い現実の部分を、キミは無視できなかったんだ」
これは異能力なのだといって、余計な想像を絶つ事だってできたはずだ。
それをしなかった、できなかったのは、彼女がそういった「間違い」を許せない人物だったからに他ならないからだと考える。
無知や偽物を恥として改めていこう考える彼女だったからこそ、俺の考えが通用したのだ。
それに、梅宮は最初から俺の命を奪う気などなかったはずだ。
彼女の刃がなぞった個所はどれも、みみずばれ程度の傷で済んでいる。
意識的に、もしくは無意識で、刃で人を傷付ける事を拒んでいたのだろう。
そうでなければ、あれだけ刃が体に触れたにも関わらず、俺が血の一滴も流していない事が奇跡に等しい。
「キミが素直な人で、本当に助かったよ」
そう告げた瞬間、梅宮の顔は真っ赤に染まっていた。
恥じらいよりも悔しさの割合が大きいその表情で、上目づかいに俺を睨めつけて来る。
その表情を子供っぽいと思ってしまうのは、目線の関係上物理的に高低差があるからだろうか。
出会ってから今までほとんど険しい表情しか見た事がなかったからかもしれない。
もしかしたら嫌味に聞こえてしまったかもと気付き、咳払いをひとつ。
膨らんだ頬が元に戻る兆しのない梅宮ではあるが、こちらの大まかな事情を知ってもらう必要がある。
「納得してくれなくとも構わないよ。だが、これ以降はお互いに傷付け合うのはよそう。命のやり取りもだ。俺も桐生もブラックチケットの奪い合いに巻き込まれた側なんだ。本意で参加しているわけではない。だから、これから主催者であろう“異能売り”のところへ赴いて、チケットの資格を返上しようと思っている。そこでだ、梅宮。キミは“異能売り”がどこにいるのか知らないかな?」
そう話しているうちに、梅宮の表情は困惑の形となった。
一度にたくさんの事を話されて処理が追いついていないのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「ええと、よろしいですか?」
俺たちふたりに対して梅宮はそう問うてくる。
俺がたった今まくし立てた事のどれかに対する反論なのだろう。
桐生とともに頷くと、梅宮は目元に力を込めて問いかけてくる。
「まず、おふたりは“異能売り”に会わずに、ブラックチケットを得たというのですか? 本当に?」
その問いは、言葉こそ俺たちふたりに向けられたものだったが、梅宮の視線は桐生の方を向いて固定されていた。
懐疑の視線に晒された桐生は自分を指さして目を丸くしている。
「あ、会っているわけないだろう!? 梅宮ちゃんだって見たはずじゃないか! 俺が銃の異能力者のチケットを拾ってしまって、それで……、持ち主は死んでしまって……」
言葉が尻切れになって押し黙ってしまう桐生。
その時の光景を思い出してしまっているのだろう。
だが、梅宮の懐疑の視線は揺るがない。
むしろ、さらに厳しさを増している。
「……何をおっしゃっているのか、わかりません。確認しますよ、桐生くん。銃の異能力者とは、貴方の事ですよね?」
桐生が弾かれたように顔を上げるのと、俺が桐生の方を見るのはほぼ同時だった。
桐生は動揺を隠そうともせず、梅宮と俺を交互に見た後、数歩だけ後ずさって首と両手を否定の方向に振る。
「ち、違うぞ櫻井。俺じゃない、銃の異能力者は俺じゃない! 信じてくれ!」
「落ち着け桐生。まだ何も言ってない」
必死に弁明しようとする桐生を制し、俺は梅宮に向き直る。
「梅宮、キミの見聞きした事を話してくれないか?」
梅宮は最初公園に入ってきた時のような、緊張した険しい表情を取り戻して頷いた。
彼女の話によると、桐生が言う銃の異能力者はここにいる桐生自身だった。
路地裏を彷徨い歩いていた梅宮は、曲がり角から突然飛び出してきた桐生に、出会いがしらに銃口を向けられる。
桐生は躊躇いなく手にした拳銃の引き金を引き、梅宮の方は反射的に呼び出した刀で銃弾を打ち払う。
そして、そのまま交戦に入ったのだという。
梅宮が相対したという桐生の扱う異能力は、梅宮と同じく武器を手に戦うというもので、こちらの場合は扱う武器が刀剣ではなく銃火器だった。
梅宮の異能力の時と違った部分は、その桐生が扱った銃は弾切れや弾詰まりを起こしていたという事。
銃の異能力者である桐生が、銃火器の知識に明るいという証拠だ。
「……ですが、ひとつ腑に落ちない点があります」
少しだけ考える素振りを見せた梅宮は、まず俺に視線を向けて、そして次に桐生を横目で見た。
「なんというか、今の桐生くんは、あの時の桐生くんとは、その……、だいぶ雰囲気が違います。私と交戦した銃の異能力者である桐生くんは、もっとこう、悪人みたいな表情や言葉遣いの人でした。背格好や顔付きは全く一緒なのに」
「ほら、なあ!? 他人の空似だーって! ……というか、待ってよ。だからー、銃の能力者はー、あの時梅宮ちゃんが戦ってたー!」
「ちゃん付けはやめて下さい」
梅宮に強い口調で言われ、桐生は泣きそうな顔で黙ってしまう。
頑張れ桐生。
そして泣きそうな顔でこっちを見るな。
「話はわかった。ふたりが俺と会う前に見た光景が食い違うのは、そういう異能力が働いているからかもしれないな。他人に化ける、幻覚を見せるといった異能力かも」
告げた瞬間、桐生も梅宮も身を固くする。
そういった異能力まで可能なのかと、そう言いたげな視線に無言を持って肯定とする。
銃刀を発生させてアクション映画顔負けの立ち回りを可能にする異能力だ、空を飛んだり炎を吹いたり、果ては怪物に変身する事もできるだろう。
この異能力に関して現在わかっている事は「これができる」という部分のほんの少しだけなのだ。
「これができない」といった部分、限界値については何ひとつわかっていないので、どんな突拍子のないものが出てきてもおかしくはないだろうというのが、現状に対する俺の考えだ。
他人に化けたり幻覚を見せる異能力者が居るのだとすれば、今より一層警戒してかかる必要がある。
とはいえ、このふたりを必要以上に疑わずとも済みそうだ。
まあそれには、どちらかが、あるいはどちらも嘘をついていない、という前提に立たねばならないが……。
「俺自身も含め他人が疑わしい事は心中察するが、ひとまずこの場は収まってくれないか? これ以上無為に争いたくないのは本当なんだ」
俺が両手を肩の高さまで上げて告げると、桐生も慌てて同じようなポーズを取る。
梅宮はやはり納得がいかないようなので、取って置きの一言で懐柔する。
「心配するな、梅宮。もし仮に桐生が豹変して襲いかかってきても、二秒で無力化する秘策がある」
「え、なにそれ。俺聞いてない」
情けない表情を向けてくる桐生に、話すものかよとそっぽを向く。
もちろん、そんな秘策など存在せず口から出まかせのはったりなのだが、手段を思いつかないわけでもないのだ。
そして、その一言が功を奏したかは定かではないが、梅宮は渋々といった様子で了承してくれた。
だが、言いたいことはまだあるとばかりに、その全身を俺へと向き直らせた。
「……勘違いしないでください。私は別に桐生くんの事を脅威に思ってはいません。私が本当に脅威だと思っているのは、櫻井さんの方です」
もう二度と遅れを取らないぞとでも言いたげな眼差しで、まっすぐ俺を見上げてくる。
争う事はしないものの、こちらを完全には信用しないぞと言っているのだろう。
その方がこちらとしてもありがたい。安易に信用されるよりも警戒してもらった方が気が楽だ。
「あのー。いいすか?」
視線を交わす俺と梅宮の視界の端に、遠慮がちに挙手した桐生が映りこんでくる。
桐生を無力化する秘策について問い質したいのだろうかとも思ったが、どうやら違うようだ。
「えっとさ、梅宮ちゃん……、いえ梅宮さん。あのさ、なんで櫻井はさん付けなのに、俺はくん付けなの?」
問いに、梅宮はきょとんと素に戻ったような表情になる。
「だって、櫻井さんの方が年上でしょう?」
さも当然と言わんばかりの声の響きに、桐生は全身の力を失ったかのように膝から崩れ落ちて、うつ伏せの形で地面に倒れた。
どうした事だろう、桐生の扱いがひどい気がする。
これが彼本来の姿なのか。
それとも、大いなる意志が働いて彼を貶めているのだろうか。
梅宮に、俺が高校二年生、桐生が大学三年生だと告げると、彼女は今度こそ本当に素の顔になり大声を上げて驚いて見せた。
交戦中に触るなと叫んだ声量に匹敵する程の大声で、この事実こそが彼女にとって今日一番の驚きであろう事は疑いようもなかった。
両手を投げ出してうつ伏せになった桐生に、本当に申し訳なさそうに謝罪する梅宮の姿は、傷心の彼にさらなる打撃を与えるのだった。
それにしても、俺はそんなにも老けて見えるのだろうか……。
◇
一応の停戦を互いに約束したのち、梅宮の腹の虫が鳴いて彼女の顔が真っ赤になったので、食事にしようという話になった。
必死に腹の虫など鳴っていないと訴える梅宮を伴って公園を出て、桐生の先導で駅前の方へ向かう。
梅宮の腹の虫の事はさて置き、“異能売り”本人と接触している梅宮からの情報はどうしてもほしいものだった。
彼女自身が戦わなければいけないという事情も聞いておきたい。
それらの話を聞き出すためなら、彼女に一食奢るくらいわけもない。
それに、先ほど桐生が危惧していた「人込みに入ると無関係な他人を巻き込んでしまう」という可能性は、梅宮の言葉によって否定された。
どうやらブラックチケットの異能力者が力を発揮できる区画は限られているらしく、駅前方面へ出てしまえばチケットは待機状態となり、異能力は発現しないのだという。
ほっと胸を撫で下ろす桐生に、俺は言うべきか否か迷っている事があった。
他の異能力者の目的がブラックチケットの奪取ならば、異能力が使えないタイミングを狙って襲ってくるのではないかと。
だが、俺の考えに気付いた梅宮が、先回りしてそれをも否定した。
「異能力の使えない時に襲われるのではと、考えていますね? 櫻井さん」
「そう聞くという事は、襲われる心配をしなくていいという事かな?」
「ええ。他の異能力者の目的が、ブラックチケットの奪取であるならばの話ですが。交戦区画以外でのチケットのやり取りは無効となります。そもそも、この一帯に侵入しないと、ブラックチケット自体が姿を現さないのです」
梅宮がブラックチケットを手にしたまま路地裏に入り込み、そのまま進んで人込みのある駅前通りに出る。
するとどうだ、彼女の手にしていたチケットはだんだん薄くなっていき、輪郭を失って姿を消してしまった。なるほど、これではチケットを奪うことができない。
同時に、チケットの奪取が目的ならと強調した意味も理解した。
異能力者の目的がチケットの奪取ではなく、チケット所有者自身に危害を加えるというものならば、異能力が使えない場所の方が断然手が出しやすいという事だろう。
「ええ、確かに。チケットの所有者を直接襲うのならば、人込みの中、街中の方が手を出しやすいでしょう。こちらも異能力を使えませんから。それでも、人々の目と法律の元で、そんな大それた事を行う度胸があればの話ですがね」
「梅宮ちゃん饒舌だねー。さっきまで櫻井ばっかりしゃべってたから、もしかしてストレス溜まってたり?」
「ちゃん付けはやめて下さい桐生、さん」
定型化してしまったやり取りを微笑ましく眺めながらも、俺はチケットの奪取が目的ではない異能力者について考えいた。
正直なところ、一番出会いたくない厄介な存在がそれだったからだ。
“異能売り”からブラックチケットを手渡された異能力者たちは、何らかの目的のためにブラックチケットを奪う。
それは梅宮のように友人を助けるためであるかもしれないし、他の理由があるのかもしれない。
だが、チケットが目的ではない異能力者は、それらとは全く違う。
彼らは異能力の使い道がまったく別になるのだ。最悪の想像をするのならば、交戦区画外でどんな事を仕出かしても、交戦区画に逃げ込んでしまえば異能力で法権力や追っ手を返り討ちにできてしまう。
そんな事をする異能力者が、他の異能力者よりも頭が切れて何枚も上手だったらと思うと、流れ出る冷や汗を止める事が出来ない。
梅宮はああ言っていたが、それは逆にも考えられる。
異能力を持ち交戦区画にて防衛を図れるからこそ、表立って非道な事が出来るのだ。
そして、そういった考えを持つ者は、交戦区画にいない異能力者を積極的に排除しに来るだろう。
……できれば、こんな事を考える人間が俺だけであってほしいと切に願う。
「あー、櫻井。ファミレスでいいよな? イタリアンで」
「俺は構わないが、梅宮は?」
「そこでいいです。個人的には、あまり人目に付きにくいお店の方が喜ばしいですが……」
「あちゃあ、それは無理かなー。駅前周辺は個人店舗とかないし、それに今日は3連休初日だぜ? どこも人でいっぱいだよ」
桐生の言葉に、梅宮が渋い顔をする。
彼女の服装が制服姿だからだろう。
梅宮の通うお嬢様高校は校則がとても厳しいと聞く。
休日に男ふたりと一緒に街で食事など、どんな誤解をされるかわかったものではないと、そう言いたいのだろう。
だが、梅宮自身は諦めたように深く息を吐き、桐生に導かれるままファミレスに入ってゆく。
校則に対する反抗心か、それとも冒険心か。
そして俺はというと、ふたりに続く事無くレストランの扉の前で立ち止まってしまっていた。
ふと、嫌な考えが頭を過ったのだ。速く入れと急かす桐生に応えて歩み出すも、内臓のあたりにもやもやとしたものが湧き上がってくるような不快感を覚えていた。
ストレスから来る胃痛のようなもの。
いつもは頭痛とセットでやってくるが、今回は軽い空腹のせいか胃痛のみだった。
こういった体の不調が起こるタイミングはいつも決まっている。
うちの莫迦な妹が何かやらかした時だ。
今回に限れば火花は近くにいないので、俺の気のせいかもしれないとも思ったが、すぐにそうではないなと考えを改める。
胃痛の原因はやはりあいつだろう。
ほんの一瞬だけだが、考えてしまったのだ。
まさかあいつ、ブラックチケット絡みの面倒事に巻き込まれてはいないだろうなと……。
つづく