chapter 12
12
ジュリエットは灰色の世界にいた。
すべての色が、火山灰で塗りつぶされたような世界。輝く太陽ですら、色あせている。大地も、湖も。ただ、不思議と自分自身だけはフルカラーで、自慢の燃えるような赤髪が鬱陶しいほど赤かった。
まるで白黒フィルムのなかの世界。
場所は見知った中島の浜辺なのだが、フィルムに映りきらなかった外側には、まるで世界が存在しないかのようにそれ以上進めなかった。正確には、進めるのだが、進んでいない。古いビデオゲームのような、左端の一歩先が右端に通ずる、おおよそ十メートル四方の閉じた世界。
ジュリエットには、この異常な空間からの脱出方法がわからない。
原因は自明だ。
ワルキューレに、意識を司る頭脳のトラフィックをミュセドーラス=アマダイン・モードを介して除却次元へ誘導させられているのだ。
覚醒できるように、何度もリダイレクトを試しているが、どうしてもこの世界に接続される。
途方に暮れて、ジュリエットは膝を抱え、ずっと湖の波の挙動を見続けていた。
「どうすればよかったっていうんだよ……」ジュリエットは独りごちる。もちろん、ここではだれも答えてはくれない。
いますぐにでも銀河舞踏会に飛びだちたいのに、こんなところで時間を浪費させられている。そんな苛立ちがマグマのように腹から立ち上り、とうとう口から爆発した。
ジュリエットは立ち上がって、湖に向かって力の限り叫ぶ。
「ぜんぶお前のせいだぞ、ロメオー」
「うぁッ」突然、隣から驚きの声を聞き、
「うぁッ」と逆にジュリエットも驚きの声を上げる。
そして、二人が同時に相手の名を叫んだ。
「うぃー」「ジュリエット」
除却次元の彼方で現れたのは、なんと第三世界の女子高生・天宮羽衣だった。
「ど、どうしてうぃーが、こんなところに」
「どうして言われても。夢だからね」羽衣は作り笑いをして、「ようこそ、あたしの夢へ」
「これは夢じゃないけど……。うぃーの幻を見せて、なにがやりたいんだ」
「あんたこそ、あたしの夢に出てきてなんの用よ」
「いや。うぃーがぼくの世界に現れた幻覚じゃんか」
「人のこと蜃気楼呼ばわりしないでくれる。もうっ」羽衣はジュリエットの隣に腰を下ろす。ジュリエットも再びあぐらを掻いて座り直す。「でもよかった。あんた、元気そうじゃん。心配したんだから。なんの連絡もなく三日も休んでさ。って、なに言ってんだろうね、あたしは。夢のなかなで」
「うぃー……。ぼくは君に心配されるほどの人間じゃあないよ。最低の人間だ。無力で、愚かで、みんなを不幸に――、痛てっ」不意に頭を小突かれ、ジュリエットは目を丸くする。
「人が心配してやってるのに、なんだその態度は」羽衣が本気で怒る。
「ああ、ごめん……」
「あんたの特技は迷惑な明るさでしょ。謝るんだったら、もっとほかに謝ることあるでしょうに。まったく。なんで夢のなかで怒らなきゃいけないのよ」
「ええー、ぼくに言われても……」
ぷんすかご立腹の羽衣は呼吸を整える。
「で、今度はなにをやったのよ」
幻が相手ならいいかな――、そんな油断につい、ジュリエットは本音を漏らした。
「ずっと探していた人が見つかった。けれど、ぼくの望みは他人の不幸だ。だから、もうすべて手放したほうが、不幸は最小限で済むんじゃあないかって、てね」
ジュリエットは微笑む。
けれど、それがどんなにも不細工な微笑みであるらしいことは、羽衣の表情が物語っていた。
ジュリエットを見据える羽衣のなんと悲しげな顔か。
思わず、ジュリエットの両目から堪えきれない涙がこぼれ落ちた。
取り繕ったところで、
隠しきれない涙の温度は冷たかった。
なに一つ言い訳もできず、ジュリエットはひたすらに涙を拭った。
「天女様よりは、まだマシよ」羽衣が優しげに呟いた。
羽衣の口から、まさか天女などという単語がでるとは思わず、ジュリエットは涙と鼻水と両方を垂れ流しながら、しばし固まった。
「えっ……、天女、様……」
「伝説を聞かせてあげる」
羽衣は唐突に、自身の名の由来にもなった天女の顕現伝説を語りはじめた。
このカルデラ湖の周囲には、いつくかの天女にまつわる言い伝えがある。
その一つには、たとえば見たこともない美しい顔立ちの天女様が、二人同時に顕現した伝説もある。この『二人の天女伝説』でおもしろいのは、二人同時に、ということもあるが、わかりやすい形で不思議な力を村人に示したことである。
湖の上を歩いたり、浮かぶように空を駆けたり、街道を封じていた大岩を一太刀で砕いたり。また月の満ち欠けや、星の運行も読めたらしい。
天女様たちは、月から舞い降りてきた月の住人だと、その物語は語っている。
「いやそれ、ただ当時珍しかった西洋人の女の子だっただけじゃ」鼻水をぐずりながら、ジュリエットが身も蓋もないこという。
「神の力と書いて、まさに神力を使えたの」向きになって力説する羽衣。
「それくらい、ぼくにだってできるし」
「できるんかーい、ってツッコミを入れている場合じゃなくて……。まあ、これはいくつかある天女顕現伝説のひとつに過ぎないんだけれど、なかでももっとも悲惨なエピソードが、『羽衣伝説』なの」
「ハゴロモ……、天女様……」どう考えても、それは伝説ではなく、言い伝えられたワルキューレの過去だ。
「彼女はふつうの家に生まれた、ふつうの女の子だったの。ただ、一つだけ。未来を見ることができたんですって……」
はじめて彼女が未来を予言したのは、まだ幼い日、連日降り注ぐ豪雨の夜のことだった。彼女は高熱を出し、父は一刻もはやく診療所まで連れて行きたかった。しかし当時、自動車などもなく、止む気配もない雨風に、父は出るに出られずにいた。
そんなとき、彼女はこう言ったらしい。風の音が一際酷く吹いたあと、一瞬雨も弱まります。
彼女の言うとおり、叩きつけるような雨風が撫でるほどにおさまった。父親は娘を背負い、雨のなか診療所を目指して走った。その道中も、街灯もない暗闇で迷うことなく父を誘導し、ときには飛んでくる木材の破片を回避するなど、まさに予言者の振舞いだったそうである。
それからである。父は娘を、千里眼や予言者として村中に流布して回った。それは単に、父にとっての娘自慢に過ぎなかったにちがいない。だが不運なのは、娘には真の異能力を持っていることだった。
次々と予言しては的中させる少女の噂は、ついに政府役人を使わせるに至る。彼らにも異能の力を認めさせると、とうとう親子は中央に召還されることになった。
さて、少女は中央で、大人達に数えきれぬほど予言を命じられるのだが、実に奇妙なものばかりだった。得意の天候の読みはもちろん、人や物の往来まで予言を求められる。ときには海、ときに山の地図を見せられ、そこに指をさせと命じられるのだ。
父を喜ばせ、大人を驚かせているだけで満足だった彼女が、しかしとうとう自分の予言がなにに使われたのかを知っとき、はじめて自身の力を呪った。
「戦争だ……」ジュリエットはさきを読み呟いた。「電子戦の概念もない時代に、ワルキューレはそうと知らず戦略規模の情報支援の片棒を担いでしまったんだね……」
羽衣は黙って頷き、物語の続きを話す。
それから彼女は、ときおり嘘の予言を告げるようにしたし、あるときを境にでたらめだけにした。勝ちすぎる戦はむしろ争いを長引かせる、という未来を、彼女はひっそりと見ていたのかもしれない。
力を失ったか、あるいは拒否しているのか。
いずれにせよ、大人達の用を失った彼女は、ながい拘束のときを経て、やっと故郷の村に戻ることを許された。また元の村娘に戻れると、そのときは思っていたのかもしれない。
希望は持っていた。
だが、小さな胸に抱いたそれを砕いたのは、愛した父の深い落胆だった。どんなに醜い大人も、父ほどには彼女の予言を求めようとはしなかったからだ。もはや麻薬のように、父は娘の予言の恩恵をなくしては生きられなかった。
それでも彼女は、二度と力は使わないつもりでいた。
そのはずなのに、彼女は最後の一度という約束で見てしまった。ぜったいに見てはならない未来を……。
羽衣は無言で、ジュリエットを見据える。
答えを待っている目だ。
「愛した人の未来。いや、最期、か……」
「天女様は、父の望みどおり、父の未来を予言した」
「なにを見たの」ジュリエットは涙を忘れ、物語の結末を急いた。
「噴火による村の崩壊」
まるで謀ったような天からの試練だった。
逃げるには充分な猶予がある。しかし村を救うには短すぎる。
さらにもう一つ、天女には試練があった。もし村を救ってしまえば、再び異能の力の悪用されるにちがいない。日常を取り戻すことは、今度こそないだろう。
そして彼女が選んだ選択は――。
「どちらも選ばなかった」羽衣は悲しげに呟いた。「天女様はね、結局どちらも選ぶことができずに、父とともに村は滅んじゃったの。そして、この世をただ嘆き悲しみ世捨て人になりましたとさ。おしまい」
ジュリエットは知っていた。その後も天女は、異能の力――超通信能力の恩恵を預かろうとする獣たちにとらわれている。否、獣は自分もか、と思いジュリエットは自嘲的に笑った。
「ジュリエットはどうなの。天女様のように、なにも選ばず、すべてを棄てる」
「ぼくにまだ選択の余地があるのなら」
「嘘」羽衣は間髪入れず見破った。「あんた、嘘つくとき、いっつも視線を逸らすっしょ」
「まさかうぃーに見破られつとは。この癖は直さないと」
「やるべき道を自覚しているんだったら、あたしにこれ以上、言うことはないわね。戦う理由があるんだったら」羽衣がジュリエットの肩を掴む。「〝ロザライン〟を助けたいんだったら」
「……なん、だって」
ジュリエットは愕然として、焦り立ち上がった。
「待ってくれ、うぃー。ぼくは君に、いったいなにを話してしまっ――」と言いかけて、ジュリエットは言葉を続けられなくなる。
羽衣の黒いくせっ髪が、頭頂部から銀色に染まっていき、また毛先から見る間に髪が伸びていく。ぱっと輝く一等星のような彼女の表情に明かりが消え失せ、死に絶えた星のようにじっとジュリエットを見据える瞳になった。
数秒と経たず、天宮羽衣は別人に変わった。
「ワルキューレ……、様……」
天女も、音もなくすっと立ち上る。
二人の瞳に、互いの姿が映り合う。
「そうか……、そうでしたね。これは幻だ。ほんとうに焦りました。まさかうぃーに嘘がばれてしまったんじゃないかって、ほんとうに焦りました」ジュリエットは頭を抱えて首を振った。「あなたはいったい、どこまで知っているんですか」
彼女はなにも答えない。
灰緑の瞳には、ただ苛立ちと疲労と、複雑な感情が渦巻いたジュリエットが映るばかりだ。
「まあ、よしとしましょう。ええ、これはよい幕間になりました。すっかり頭はクールになりましたよ」
ジュリエットは涙を拭い、天女をまっすぐに見つめた。
「あなたの言うとおり、ぼくにはまだ戦う理由がある、あなたと違ってね。立ち止まりはしない。これはぼくらがはじめた、世界を騙す、最低最悪の物語だ。完結まで立ち止まらない。もう邪魔はさせないぞ。いいか、舞台にあがっていいのは役者だけだ。わかったらぼくをとっとと元の世界へ戻すんだ、ワルキューレ」
ジュリエットは息を細く吸って、高らかに告げた。
「これはぼくらの戯曲。『ロメオとジュリエット』だ」
次の瞬間、目に映ったのは白い天井だった。
ただ少し目の前がぼやけて見えたが、それは瞳に涙がたまっていたからだった。




