chapter 2
2
夏が近づきある。
肌に触れる風から、冷たさがなくなりつつあった。
ちょうどよい気温だ。
登校時間の朝の空気は、とくに気持ちよい。
一日のはじまりには最高な気分を楽しんでいた天宮羽衣は、ふと校門のすぐそばで人だかりを発見した。
みな一様に顔をあげて、声一つ漏らさず固まっているのだ。
「いったいなにごとかしら」だんて柄にもなく、上品なお嬢様ふうにみんなの視線に合わせて見上げてみると、画風が変わるほど表情を変えて驚いた。
散りゆく桜の木の幹に、物憂げなジュリエットが優雅に佇んでいるのだ。
見えない大きな手に撫でられるように、異国の少女の赤い髪が風に靡いている。まるで炎が揺らいでると錯覚するくらい際立った美しさ。それは手放すのにはあまりにも儚くて、閉じ込めておくには凶暴すぎる。
彼女の美貌に、登校する生徒たちは玄関を前に石化。後から来た生徒が人だかりに気づいてまた石化――、という負の連鎖が続いている。
天宮羽衣はワナワナと拳を振るわせながら、ツッコミという伝説の剣をもって赤の魔女に斬りかかった。
「あんた木に登ってなにカッコつけてんの。降りられなくなって強がってる女神像か――ッ」
このツッコミは、まだほんの始まりでしかなった……(ホラーナレーション風)。
「馬鹿と煙は高いところが好きって、あんた知ってる」あきれながも、羽衣はジュリエットの肩や腰についた汚れを叩いて落とす。
「煙が上昇する理屈は、結局は確率論だ。重力に引かれた空気分子が、しかし雪のように積もらないのと同じだね。でもごめん。人間の行動原理については専門外で……」
「ストップストップ。ちょっとボケがトモみたいじゃない」ちょっと斜め上の回答された羽衣はジュリエットの論を塞ぐが、彼女のほうは至極真面目な顔をしている。
マジレスなのか、こいつ……。
じゃっかん引きぎみの羽衣だが、すぐに様子の異常さに気づいた。
はっきりと言葉にはできない。
だからどうやって表現しようものか難がある。
しかし、強いて言葉にするならば、漫画的な言い回しだがこれがしっくりくる。
ジュリエットの瞳に、ハイライトがなかった――。
彼女の異変は、どうやら長期に続くらしい。
一日中、ジュリエットを観察していた羽衣であるが、ジュリエットはずっとなにかを考えているようで上の空の様子だった。
授業中、先生に指名されたときだって、自分が呼ばれたことになかなか気づかない。ただ、それくらいなら集中力の無いふつうの生徒でしかないのだが、聞いたこともない言語で解答し――おそらく母国語なのだろうが――自分がなにを口にしているのか最後まで気づいていないあたり、やはり意識が幽体離脱しているようである。
休憩時間も、椅子に根を下ろした植物のように動かない。かと思えばふっと席を立ち、ふらりと男子トイレに入っていくから、羽衣は慌てて「あんたはこっち」と二の腕を掴んで女子トイレに放り込んだ。用を足している最中だった男子生徒たちには気の毒なことである。
昼休みには、いちおう声をかけてみた。
「昼よ、ジュリ恵。食堂いきましょう」
ワンテンポ遅れて、ジュリエットが羽衣に焦点を絞る。
「What’s up ?」
「ワ、ワッツアップ……。いや、ちょっとタンマ。なによ急に。ウチらの言葉しゃべれくるせに」完全な不意打ちを食らったボクサーの気分である。気を取り直して、
「お昼ご飯食べないの」
「いいよ、ぼくは。ここのカフェテリアにハギスがあるなら別だけど」
「どんな料理」
「簡単に言えば、羊の内蔵の羊の腸煮込み」
「なにそれゲロまずそう……」
ということで、いつもどおり羽衣は中学から仲のよいウェスカーと二人で食堂に行った。ウェスカーというのは苗字からとったあだ名で、彼女は古風な三つ編みに丸縁メガネをかけた、黒魔術とか儀式召喚とか罠カードが大好きな普通の女子高生である。
「サバトで使ったあと、残りはスタッフがおいしくいただきました、が起源の料理かな」
「じゃあ食ってみ」わくわく顔のウェスカーに、一応軽いツッコミは入れておいた羽衣である。
さて、食堂には一人で二人分の空間を占領する観月智一がいた。
いつもなら無視するところだが、きょうは事情が事情だったので接近する。
「ごめん、ウェスカー。あいつのテーブルに座っていい」
親友は『あいつ』だけで察してくれたらしい。
「あたしも席、外した方がいい」どうやら必要以上に察してくれたらしい。
にやにや顔のウェスカーの肩を叩いて、
「ちょーい。そんなんじゃないんだから」
「はいはい」
「まったく」どっせい、と淑女にあるまじき擬音とともに、羽衣は観月と向かい合わせに座った。
観月は口いっぱいにほおばっているところだった。
「ねえ、正直なところ、聞いていい」
まだ口いっぱい。
「ジュリエットって、わたしアイドルかなにかだと思ってたのよ。ほら、よくあるでしょう。アイドルの一日署長とかの、ああいうノリよ」
観月、咀嚼中につきしゃべれません。
「でもさ、それにしたって、警察、消防、税務署は聞いたことあるけど、軍関係なんて聞いたこともないのよ」
「一日将軍」ウェスカーが横で笑っている。
「あんたはなんかの、ほら、理科系の天才で、まあわかるよ。ジュリエットはなんなの。そろそろ教えてくれたっていいじゃい」
呑み込んで、さらにもう一口、
「ちょーい」というかけ声とともに、羽衣はスパゲティを絡めた観月のフォークを手刀で叩き落とした。
「なにするんだよ」とわりと本気で怒る観月。
「だめだよー羽衣ちゃん。ご飯中のわんちゃんにちょっかいだしたら、たとえ家族だって噛まれるんだから」
「だれが家族やねん。ってこいつ食べ終わるの待ってたら昼休み終わるし。で、どうなの」
「軍事機密だ。言っただろう、ジュリエットについてはなにも言えないって。ぼくにしたって、あんまり突っ込んで欲しくないな」
「じゃあ逆に聞くよ」羽衣は質問の仕方を変えてみる。「なんで軍関係の人が学校に来るのさ」
観月の安まることのない手がぴたりと止まった。
「ぼくに聞かないでくれ……」
「なるほど。そこはトモも頭を抱えているところっと。あんたはなんで」
「……黙秘」目をそらす観月。
「羽衣ちゃんに会いたいからじゃなーい」おちょくるウェスカーの脇腹を突いてややると、彼女が笑いながらギブアップを宣言する。これをやると親友はしばらくは大人しくなるのである。
「ジュリエットの様子がおかしいのよ。知ってるでしょう。ぼーっとしちゃってさ。さっきだって、ご飯誘ったのに、食べないんだってさ」
「なん……、だと……」
「いやそんな世界の終わりのような顔されても……」
「だってあいつ、朝もコーヒーだけだったんだぜ」
「いや一日二食抜いたくらいで死なないから」
「信じられん……」
「あー、まあいいよ」観月の食に対する情熱はこのさい置いといて、「気になるじゃない。あの子があんな気の抜けた顔してたらさ、やっぱり」
「お前は昔からそうだよな」
「昔から」羽衣は頭を傾ける。「中学でもなんかあったっけ」
「いやなんというか。おせっかいだなぁと」
「あらそっ。連れないトモに、今後一生、女の子と一緒に食事できない呪いをかけてあげる」
むすっと頬を膨らむ羽衣に、観月はまったく動じる気配もないどころか講釈をたれる。
「あのな天宮。呪いってのは、九割がサブリミナル・エフェクトと自己暗示が原因で――」
「あんたは、女子よりも食べ物食べられなくなる方が辛いのね」
「食べるのは男子じゃなくて女のほうだよ」
「えっ」
「えっ」
「……ごめん、下ネタだった」




