軍縮の流れ
ご都合主義もいいところです(汗)
第一次世界大戦後、戦勝国である各国は海軍力の増強(特に戦艦)に向かっていた。代表的なものが米国のダニエルプランと日本の八八艦隊計画だろう。しかし、こういった軍備拡張の国家経済に与える影響を無視することができないものであった。たとえば、日本の八八艦隊計画では国家予算の二/五を使い、維持費としてその半分を使うことになる計画であったといわれる。このため、時のアメリカ合衆国大統領ハーディングの提案により、戦勝五ヶ国の軍縮を行うことになった。これが後にいうワシントン海軍軍縮条約である。
ワシントン海軍軍縮条約は一九二二年に締結されたが、その内容は次のようなものであった。戦艦(米英)五○万トン、(日)三二万五〇〇〇トン、(仏伊)一七万五〇〇〇トン、一艦あたりの最大排水量三万五〇〇〇トン、主砲一六インチ以下とされた。空母(米英)一四万トン、(日)九万一〇〇〇トン、(仏伊)六万三〇〇〇トン、一艦あたりの最大排水量二万七〇〇〇トン(二艦に限って三万三〇〇〇トン、主砲八インチ以下(六インチ以上を装備する場合は五インチ以上の砲を合計一〇門以下とするが先の二艦に限って五インチ以上の砲を合計八門以下)とされた。巡洋艦は制限無し、一艦あたりの最大排水量一万トン、主砲は五インチ以上八インチ以下とされた。
ワシントン海軍軍縮会議で艦艇の保有比率は、英:米:日:仏:伊がそれぞれ、五:五:三.二五:一.七五:一.七五の割り当てとなった。皇国は当初、対米七割を主張している。皇国は自国防衛のためこれを主張したが、米国は六割を主張していた。結局、英国の六割五分という案で決着することになった。これは史実とは異なり、西部太平洋に瑞穂州および秋津州という国土があったがゆえのことであろうと思われた。
皇国から提出された代案、東経一一〇度より東に海軍基地の建設の禁止とすることで決着をみている。ただし、皇国本土(瑞穂州および秋津州含む)及び沿岸諸島、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、グアム、アメリカ本土及び沿岸諸島は除かれた。また、米英の同比率は大戦後のイギリスの地位の転落とアメリカの向上を反映している。
皇国から提出された代案の中に、英米の一六インチ砲搭載戦艦の新造を保有比率の中で認める、というものがあった。当時完成していた一六インチ砲搭載戦艦は、皇国の『長門』『陸奥』、アメリカのコロラド級二番艦『メリーランド』の三隻のみであり、英米に比べて皇国が圧倒的に有利となっていた。そこで皇国側の提案により、英米はその所有比率の中で、アメリカは廃棄が決まっていたコロラド級二隻の建造続行を、英国は二隻の新造(後のネルソン級戦艦)を認めることで皇国の六割五分が受け入れられたともいえる。この結果、世界に存在する一六インチ砲搭載艦は七隻となり、これらの戦艦群は「世界のビッグ七」と呼ばれるようになった。
戦艦の新造は条約締結後一〇年間は行わないとするが、艦齢二〇年以上に達した艦は条約の範囲内で代艦建造が許されることとなった。巡洋艦については艦に対する制限は決定したものの、保有排水量については合意至らず、一万トン以下の空母は条約対象外となり、駆逐艦は備砲が五インチ以下と決定されたのみで、その他の艦艇に関しては備砲八インチ、排水量一万トン、速力二〇ノット以下と決定され、あやふやだった艦の大きさの基準を「基準排水量」で統一することに決まった。
満期になった日英同盟は米国の反対があったものの一〇年間の延長が決まった。なお、ワシントン本会議においては上記五ヶ国に中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルを含めた九ヶ国で協議が行われ、中国領土の保全など九カ国条約を決議して閉幕した。こうして後にネイバル・ホリデイ(海軍休日)と呼ばれる一五年間が始まったのである。
ここで当時、皇国海軍が所有していた艦艇を挙げてみよう。もちろん、主力艦たる戦艦のみとする。
「香取」型戦艦
『香取』『鹿島』
「薩摩」型戦艦
『薩摩』『安芸』
「筑波」型巡洋戦艦
『生駒』
「鞍馬」型巡洋戦艦
『鞍馬』『伊吹』
「金剛」型巡洋戦艦
『金剛』『比叡』『霧島』『榛名』
「扶桑」型戦艦
『扶桑』『山城』
「伊勢」型戦艦
『伊勢』『日向』
「長門」型戦艦
『長門』『陸奥』
と一七隻もある。このうち、「長門」型戦艦二隻、「伊勢」型戦艦二隻、「扶桑」型戦艦二隻、「金剛」型巡洋戦艦四隻、「薩摩」型戦艦一隻が保有枠内に収まることになる。さらに、建造中のものは「天城」型巡洋戦艦四隻がある。
「香取」型戦艦は廃棄とされ、「鞍馬」型巡洋戦艦二隻と「薩摩」型戦艦、「筑波」型巡洋戦艦は徹底改装され、「薩摩」型戦艦の『安芸』は少尉候補生の練習艦とされ、「鞍馬」型巡洋戦艦の『鞍馬』『伊吹』、「筑波」型巡洋戦艦『生駒』は下士官候補生学校の練習艦とされた。「鞍馬」型巡洋戦艦と「薩摩」型戦艦、「筑波」型巡洋戦艦の改装は武装を撤去するだけではなく、機関を最新式のオールギヤードタービンに換装している。
建造中であった「天城」型巡洋戦艦四隻のうち『天城』『赤城』が航空母艦に改装されている。「加賀」型戦艦は建造されておらず、「天城」型巡洋戦艦は建造を民間造船所(『天城』は三菱長崎造船所、『赤城』は神戸川崎造船所)で行っていたため、関東大震災の影響は受けなかった。しかし、この二艦の改装は不完全であり、さらに改装を重ねることとなる。ではあったが、後の太平洋戦争による損傷で廃棄されることになる。
ついで建造された空母は「龍驤」型航空母艦二隻であり、建造に当たって世界初の空母『鳳翔』は一万トン以下のため、そのままとされたが、後に武装を撤去して練習空母とされている。「天城」型航空母艦二隻と「龍驤」型航空母艦二隻で空母の保有枠は使い切ってしまうことになったからである。
そしてこれ以降、皇国海軍の仮想敵国は太平洋を挟んで向かい合い、何かとクレームをつけてくる米国となる。なぜなら、小笠原諸島と目と鼻の先にあるグアム島が米軍の一大根拠地と化していたからである。その理由は布哇王国は未だ独立を保っており、米国の中部太平洋の拠点はグアムしかなかったからである。
逆に皇国は布哇とは友好通商条約、航海安全保障条約など各種の条約を締結しており、大使館が設置されていた。そのため、布哇近海の情報は皇国に入るようになっていたから、アメリカ海軍艦艇が通過しようとするならば、その情報は三日後には皇国にもたらされるようになっていた。現状の米布関係は一時に比べれば修復されつつあるが、日布関係に比べれば悪いといえた。皇国側としての考えよりも布哇側の考えの方がより深かったといえる。布哇側は安全保障まで踏み込んで考えていたといわれる。
こうして皇国はそれまでの軍備拡張路線から再び国内開発を重視していくこととなった。一時停滞していた国内開発はこれにより加速されることになった。国内開発に必要な建築機械などは英国や米国から順調に入手できていたのは史実に比べて中国進出がなく、英国の意見を英国が望むとおりに解釈し、それに答えていたためであるとされる。そう、この当時の皇国は英国追従型政治であったといえる。だからこそ、英国との衝突がなかったことが日英同盟の継続に繋がったといえるのである。




