魔の三〇年3
ここら辺はもう少し突っ込んで書いたほうが良かったかもしれません。とはいうものの今書いたらたぶん変になるでしょう。なので、そのまま出しました。自分でもあきれますが、七~八年前に書いたにしては・・・・ もっと資料を参考にすべきだと思いました。
日露戦争での勝利の結果、日本皇国は名実とともに西欧列強に認知されることとなった。戦争で得た権益の維持と更なる国内開発に邁進することとなる。なかでも重視されたのが重工業であった。それまでの軽工業主体から重工業主体の工業化の促進である。西欧、特に英独からの技術導入を進め、国内工業の育成が進められることとなる。
こうして日露戦争から一〇年、扶桑州や瑞穂州、秋津州、台湾州の開発も順調に進み、満州で得た権益の管理も進んでいた。西欧、特に英国および独逸からの技術導入も進み、まがりなりにも工業国といえるまでになったころ、欧州でひとつの事件が起こった。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件である。
一九一四年七月二八日、今度は欧州で戦端が開かれ、世界にその戦火は広がっていくことになった。後にいわれる第一次世界大戦勃発である。皇国政府は日英同盟に基づいて連合国側で参戦、皇国陸軍は英国陸軍と共同で独逸東洋艦隊の根拠地、中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した。皇国海軍は太平洋の独逸の植民地だった南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島)を攻略する。
英仏露から欧州戦線への皇国陸軍の派遣要請があったが、これは派兵準備ができていないとして拒絶していた。しかし、英国より要請があった皇国海軍の地中海出兵には政府および海軍は積極的に応じることとして(史実では断っていた)、一九一六年に地中海には「河内」型戦艦『河内』『摂津』、装甲巡洋艦『出雲』、第一〇駆逐隊「樺」型二等駆逐艦『桂』『楓』『梅』『楠』、第一一駆逐隊「樺」型二等駆逐艦『榊』『柏』『松』『杉』、第一五駆逐隊「桃」型二等駆逐艦『桃』『樫』『檜』『柳』からなる第二特務艦隊を派遣、インド洋航路護衛には装甲巡洋艦『八雲』、巡洋艦『須磨』、装甲巡洋艦『春日』、防護巡洋艦『筑摩』『矢矧』『対馬』『新高』、第六駆逐隊「神風」型三等駆逐艦『春風』『初雪』『時雨』『初春』からなる第一特務艦隊を派遣している。
「河内」型戦艦は日本海軍が初めて建造したド級戦艦であった。建造当初は二一ktと低速であったが、機関の改装により、二五ktという優速になっていた。最終改装後の要目は次のとおりであった。排水量二万二五〇〇トン、全長一六二m、全幅二六.五m、吃水八.五m、機関ボイラー瑞穂罐・石炭重油混焼×一○基、主機カーチス式直結型タービン×二基、二軸推進、出力五万馬力、武装五○口径三○.五cm連装砲五基、四五口径一五.二cm単装砲一○基、四〇口径一二.七cm単装砲八基、四〇口径七.六cm単装砲八基、四五cm魚雷発射管五門、最大速力二五kt、航続距離一○ktで六〇〇〇浬というものであった。
『河内』『摂津』はユトランド沖海戦にも参戦しているが、後方にあったため、損害を受けることもなく、戦果を挙げることもなかった。この海戦で多くの艦艇を失った英国は「金剛」型巡洋戦艦四隻の譲渡を皇国に言ってきたが、皇国は拒否、代案として『河内』『摂津』の二隻を譲渡する案を出している。結局、『河内』『摂津』は一九一七年に英国に譲渡されている。第一次世界大戦終結まで生き残り、第二次世界大戦直前に退役している。
さらに皇国海軍は連合国からの要請を受け、世界各地の植民地から欧州へ向かう輸送船団の護衛を受け持っている。一九一七年には、Uボートを中心とした無制限潜水艦作戦により、輸送船の撃沈が続いていたインド洋および地中海で連合国側商船八○○(史実では七八七)隻、計四〇〇(史実では三五〇)回の護衛任務と救助活動を行なっている。
特に、一九一七年後半から開始されたアレキサンドリアからマルセイユへの艦船での兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。戦後、英国王から勲章を授与されている。
第一特務艦隊での被害はなかったが、第二特務艦隊では被害が出ており、駆逐艦『楓』が撃沈され、『榊』が大破、九八名が戦死した。他の戦闘もあわせて地中海前線において日本軍将兵計一五九名が戦死している。
皇国政府としては開戦劈頭から観戦武官(主に陸軍将校)を多数派遣、一九一七年をめどにして陸軍を派兵する予定でいたが、連合国側の一国である露西亜で二月革命が起こり、沙汰やみとなっていた。戦いは一九一九年一一月一一日(史実では一九一八年一一月一一日終戦)まで続き、双方合わせて戦死者一二〇〇万、戦傷者二三〇〇万人、行方不明八五○万人という国家総力戦争であった。
連合国の勝利に大きく貢献した功績により、日本皇国も連合国五大国の一国としてパリ講和会議に参加している。このヴェルサイユ条約により、独逸の山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。以後、英国追従型政策が続けられることとなる。
後年、一八九四年からの三〇年を魔の三〇年と称されるのには理由があった。一八九四年日清戦争、一九○四年日露戦争、一九一四年第一次世界大戦、といずれも戦争が起こっているからであった。そのすべてに皇国は関与し、すべてにおいて勝利あるいは勝利側についているからであろうか、世界からは奇跡のジャパン三〇年などと称されることもある。
史実では一九一五年に対華二一ヶ条要求をを行っているが、この世界では要求されていない。理由は簡単で、既にニコラエフスクや千島列島、台湾州を得ており、さらに扶桑州や瑞穂州、秋津州があるため、皇国は外に出ていくことができないでいたのである。それでもヴェルサイユ条約で定められた山東省権益には乗り気であった。その主な目的は中国国内の資源確保であったとされる。
一九一七年一〇月、露西亜で革命が起こるとにわかに極東があわただしくなる。皇国は日露戦争で得ていたニコラエフスクに陸軍三個師団を送り込む。後に、英仏からの要請であったシベリア出兵に先立つ一年前であった。一九二〇年米国などがシベリア撤兵と同時に皇国陸軍もニコラエフスクまで後退している。何よりも大陸に得た領土を守ることが先決であり、史実のように内陸深くまで兵を派遣する余裕はなかったのである。
露西亜革命によって退位したニコライ二世ら家族は第四皇女のいるニコラエフスクまで落ち延びている。以後、皇国の庇護下に置かれる。が、一九三〇年、同地に亡命露西亜国政府を発足させる。以後、皇国はソ連との紛争や領土問題に好む好まざると関与していくこととなった。この問題は一九四八年に出現する東露西亜国誕生まで続くこととなる。
第一次世界大戦は戦場が遠く離れた欧州であったこと、国土が戦火に見舞われなかったこともあり、当時すでに工業国として近代工業が隆盛を誇っていた皇国は、連合国の他の参戦国から軍需品の注文をうけ、大戦景気に湧いたといわれている。このことがさらに工業が発展していく原因ともなった。が、真の意味での工業立国たるのは五年後の「日本皇国工業規格」の制定まで待たなければならなかったといわれる。
大戦景気で沸いていた皇国であるが、度重なる戦争により、国力が低下、国内開発は思うように進んでいなかった。さらに追い討ちをかけるように関東大震災が発生し、首都は壊滅状況にあった。しかし、この震災により、一部陸軍将校が主張していた中国出兵は取りやめとされ、更なる国内開発が推し進められていった。