魔の三〇年2
樺太が日本の領土という設定なのでこのような条件になりました。今思えば、無茶をしていたと・・・・・北方の安全、それが頭にあったように思います。
露西亜帝国は、伝統的に不凍港を求めて南下政策を採用しており、露土戦争の勝利によって東欧(バルカン半島)における地歩を獲得していたが、露西亜の影響力の増大を警戒する独逸帝国の宰相、ビスマルクによってベルリン条約を締結することに成功していた。この結果、露西亜は東欧での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けられることになった。これが極東での露西亜帝国進出の原因とされている。
当時の大韓帝国は日清戦争後に冊封体制から離脱したものの、国情が安定せず、露西亜が朝鮮半島に持つ利権を手がかりに行った南下政策を阻止できないでいた。露西亜は李朝が売り払った鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を成す権限を取得し、朝鮮半島での影響力を増していたが、露西亜の進める南下政策に危機感を持った皇国がこれらを買い戻して回復させていたといわれる。
当初、皇国は外交努力で衝突を避けようとしていたが、露西亜は強大な軍事力を背景に皇国への圧力を増していった。一九○四年二月二三日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国国内では皇国は軍事行動を起こすことが不可能になっていた。同国国内における軍事行動を可能にするため、皇国は「日韓議定書」を締結し、開戦後の八月には「第一次日韓協約」を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き、条約締結には皇国政府との協議をすることとした。
大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている現状では、独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうとし、鉄道敷設工事などに大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においても露西亜に密書を送るなどの外交を展開していたとされる。
近代国家の建設を急ぐ日本皇国では、朝鮮半島を自国の独占的な影響下におく必要があるとの意見が強かったとされる。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への清の影響力を排除したが、中国大陸への進出を目論む露西亜、仏蘭西、独逸の三国干渉によって下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還せざるを得なかった。
このときの世論においては露西亜との戦争も辞さず、という強硬な意見も出たが、当時の皇国には国内統一が不完全たったこともあり、列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では戦争回避派が主流を占めた。ところが露西亜は露清密約を結んで日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていったのである。
一九○○年、露西亜は清で発生した北進事変の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、全土を占領下に置いた。露西亜は満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、これに日英米が強く抗議したため、露西亜は軍の撤兵を宣言した。が、露西亜は履行期限を過ぎても撤退を行わず、逆に駐留軍の増強を図っていたのである。
この露西亜の南下政策が自国の権益と衝突すると考えた英国は危機感を募らせ、一九○二年に長年墨守していた孤立政策を捨て、皇国との同盟に踏み切った。それが日英同盟である。これは多くの艦船を皇国海軍が英国に発注し、人的交流があったためだといわれている。皇国政府内では小村寿太郎、桂太郎、松岡繁太郎らの対露主戦派と松平丈太郎、井上馨ら戦争回避派との論争が続いていた。民間でも日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していたとされる。
事前交渉が決裂、かくして一九○四年二月六日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃によって皇国と露西亜の間で戦争が勃発する。この日露戦争開戦は露西亜では驚きをもって受け入れられた。なぜなら、欧州最強といわれたバルチック艦隊を始め、日本皇国に数倍する軍事力を持っている自国に戦いを挑んでくるはずがない、とたかをくくっていたからである。
開戦劈頭に海上護衛を担当していた上村彦之丞中将率いる第二艦隊がウラジオストックの巡洋艦部隊を撃破、残余の艦艇はウラジオストックに引きこもっており、旅順艦隊は皇国聯合艦隊との決戦を避けて旅順港にこもっていた。こうして、制海権を得た皇国海軍により、海上補給路は確保され、皇国海軍はその役目を果たしていた。
上村中将は蔚山沖海戦で大破して沈みながらもなお砲撃を止めない露西亜巡洋艦『リューリック』をみて「敵ながら天晴れである」と褒め称え、退艦した乗組員の救助と保護を命じている。この行動は海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でも海軍軍人の手本として日清戦争の伊東祐亨提督とともに、世界の海軍の教本に掲載されている。
そのため、補給に憂いのない皇国陸軍は史実ほどに損害を受けていないといわれている。陸軍の先遣部隊は史実の第一二師団とは異なり、扶桑州(樺太島)から派遣された第一五師団が勤めていた。彼らは極寒の気候に慣れていたため、凍傷に倒れるものは少なかった。そして、大韓帝国陸軍部隊二個師団四万人(名目上は義勇兵とされた)が皇国軍指揮下に入って戦っていたこともあり、皇国陸軍の損害は史実の半分以下であったとされる。
一九○五年五月、皇国海軍聯合艦隊は日本海海戦において欧州最強といわれた露西亜海軍バルチック艦隊との決戦に勝利し、皇国が負けるだろうと予測していた欧州列強を唖然とさせる。この日本海海戦が戦争の帰趨を決したといわれる。その後、帝国海軍陸戦隊はウラジオストック軍港を占領、扶桑州陸軍二個師団は自陣を空にしてハバロフスク周辺を占領して終戦を迎える。
聯合艦隊の勝利は、司令長官東郷平八郎の戦術や二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)、上村彦之丞、鈴木貫太郎といった人材面、新式火薬(下瀬火薬)、新型信管(伊集院信管)、新型無線機といった技術的な面、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによる作戦面が揃っていたからこそ、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒し、殲滅したといえる。なお、この海戦の皇国聯合艦隊には四名の英国観戦武官が同船していたと言われる。
忘れてはならないのが、旅順あるいはウラジオストックに向かうバルチック艦隊に付かず離れず追尾した瑞穂州および秋津州配備の艦隊による通信であった。皇国海軍聨合艦隊司令部は両地域には攻撃されない限り、手出し無用と露西亜艦隊に対する攻撃を戒めていたのである。むろん、攻撃を受けるようなら、問答無用で対抗処置をとることを通達し、聨合艦隊が南シナ海に出撃することとされていたといわれている。
一九○五年一〇月五日(史実では九月五日)にアメリカ合衆国ポーツマスで、締結されたポーツマス条約は要約すれば次のとおりであった。
・日本の朝鮮に於ける優越権を認める。
・露西亜はニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)を含む東経一三五度五分以東、北緯五二度以北地域および千島列島を日本へ永久に譲渡する。
・露西亜は満州に有するすべての利権を日本へ譲渡する。
・露西亜は沿海州沿岸、カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本人に与える。
主な内容は先に述べたとおりであるが、明記されない事項としてニコライ二世の娘、第四皇女アナスタシアのニコラエフスク滞在すら引き出すことに成功している。この第四皇女アナスタシアの極東滞在が後の極東での皇国の行く末を左右することとなる。
こうして自国周辺の安定を勝ち得た日本皇国であるが、関東州への軍の派遣は強力に推し進め、満州の開発にも着手したが、史実ほどに強引なものではなかったといわれている。なぜなら、未だ扶桑州や瑞穂州、秋津州、台湾州の開発が軌道にのっていないため、そちらの開発が優先されたのである。そういうわけで、満州への投資はそれほど多いものではなかった。とはいうものの、朝鮮に比べれば若干多めであったといわれている。
大韓帝国はこの後、李氏朝の支配から脱し、日露戦争において皇国に協力した一進会をはじめとする知識人からなる改革路線を歩むこととなる。皇国が独占的占領下に置かなかったことで反日感情は和らぐが、自国開発は思うように進まず、その点、大韓帝国よりは多少積極的に介入した満州の発展ぶりと比較され、後に皇国に帰属するかそうでないかによる内戦が勃発することになる。
この後、皇国政府はアメリカ合衆国、英国への戦費返済(金額は史実の一/二で約五億円)に邁進することとなる。英国の銀行家やアメリカ合衆国のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフなどがその相手であった。史実の半額で済んだのには理由があり、瑞穂州や秋津州、扶桑州の領土があったためであるとされる。ユダヤ人銀行家シフとのつながりは後のユダヤ人保護政策に影響を与えていたともいわれているが、真相は不明である。