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世紀末の皇国

うーん、やっぱり書き直すべきでした。時間があれば考えてみたいと思います。


 こうして 新世紀に入る直前に、極東地域は沈静化を見ることとなった。つまるところ、皇国の影響国である東露西亜が同地域を平定したことで、皇国もこれまで北に向けていた軍事力をある程度まで削減することが可能となり、より、太平洋と東シナ海に重点をおくことが可能となった。ちなみに、皇国の軍事力は総数でいえば、二〇一〇年には五万人以上、多くは海空軍であった、を削減することが可能であり、総数四三万人体制に移行することが可能となったとされる。内訳は陸軍一九万人、海軍一九万人、空軍五万人であった。むろん、これには艦艇の省力化がなされたこと、空軍機もその多くが複座から単座になったことも影響している。


 二〇世紀最後の年に皇国は一つの問題を解決することができたといえる。もっとも、皇国を取り巻く問題はそれだけではなかった。これ以降、皇国は南や西に目を向けることとなっていく。西には中華中央の問題があり、南には米国があったのである。


 中国は第二次世界大戦前後から四つに分裂、紛争と安定を繰り返していたが、ソ連崩壊後、中国大陸で唯一の共産国家である中華人民共和国の国内情勢が急速に悪化、いつ紛争が起こってもおかしくない状況であった。すでに国境線では小規模な紛争が起きており、難民も発生し、中華民国や中華共和国、華南共和国、満州国に流れていたといわれる。国際的にみて最も安定していたのが満州国であり、中華共和国であった。そのため、これら二国への難民流入が多量に発生した、ともいえた。


 皇国と米国との関係は良いとはいえるものではなかった。一九三一年に起こった太平洋戦争、一九五五年のマリアナ事変と二度の衝突があり、いずれにおいても皇国の勝利あるいは勝利側として終結し、米国は国際的信用を落としていた。さらに、第二次世界大戦には最後まで参戦せず(末期に義勇軍派遣という形で消極的参戦するにとどまっていた)、大戦終結以降の地域紛争には積極的介入し、解決を見る場合もあったが、より問題を大きくさせるようなその政策もあり、皇国と相容れることはなかった。そうして現在、米国内の不況から日米衝突が何時起きてもおかしくない状況であったといえる。


 世界的にみても、米国に追い抜かれたとはいえ、現状で世界第二位のGDPを誇る皇国は、欧州では欧州共同体(EU)との経済衝突もあり、経済摩擦問題も多く起こっていた。今のところ、表立って問題とはなっていないが、これまで皇国が参入していなかったアフリカ大陸や中東に目を向け始めたことも問題として浮上しつつあった。


 もっとも、皇国がアフリカ大陸や中東に目を向け始めたのにはそれなりの理由があった。これら地域での欧米、特に米国の政策により、問題が解決されるどころか、より混迷を深めていっていたからである。近年表面化している米国対イスラム国家という構図において、皇国は明確に米国に異を唱え、米国の求める軍事介入に反対を表明しているからであった。一九七〇年代中頃までに、自国領内で産出していた石油資源が減少し、いまや輸入国に転落している皇国としても、アフリカや中東の石油の安定供給が最大の関心であり、そのためには必要なことは実行する意思があったからである。


 現状で最良の市場といわれる中国大陸では皇国の勢力が強く、近年、市場として上向きつつある東南亜細亜やインドにおいても、先発の欧州勢を押し退ける形で勢力拡大していたこともその原因となっていた。未だ表面には出ていないが、かっての欧米を中心とした白色人種対皇国を中心とした黄色人種という見方すら表れているのも事実であった。


 中国大陸が最良の市場といわれるのはいくつかの理由があった。少なくとも皇国は第二次世界大戦以降、そうなるようにしてきたのであって、自然とこうなったわけではないのである。ここでいう最良の市場とは、当然のことであるが、中華人民共和国は除いた地域を指す。皇国はこれら地域には当初は自国製品を輸出していたが、工業力や技術力がある水準以上になると次は沿いれら地域に進出し、技術的に可能な生産を行う。そうして技術力や工業力を引き上げてきたのである。それが結果的に最良の市場として成長したのである。


 これには、日本人(あえて皇国人とは言わない)が農耕民族であったことが伺い知れる。対して、欧米人は基本的に狩猟民族であるため、こういった市場を育てる、ということは行えないのであろうと思われる。もっとも、これを皇国人として見た場合、必ずしもそうとはいえない。近年においては多数を占めるようになった混血により、多くの国民には狩猟民族の血が混じっているからである。少なくとも、外様領土ではそういった傾向が見られるのは事実であった。


 むろん、人種的にはそうであっても、多くの人間や企業はその根源に農耕民族的な考え方があることもまた事実であったし、そうでなければ、ここまで市場として成長することはなかったであろうと思われた。実際のところ、水産資源を含めた有限資源においては保護や育成という考え方が主流となりつつあった。新しい資源として、メタンハイドレードなどの実用化にもある程度の目処は立っていたのである。これには、第二次世界大戦後、独逸から得た技術に接した皇国が自らの技術立国を目指す、という考え方とその教育が実を結びつつある証といえるかもしれない。


 しかし、人種的な面もあるが、地理的な面から、皇国内にある問題が芽生え始めていたといえる。それが瑞穂州や秋津州の独立問題であった。もっとも大きい理由として挙げられるのが、地理的な制約であったかもしれない。皇国本土からあまりにも遠く、また、各種の政策が瑞穂州や秋津州に合わなくなってきていたからでもあった。近年の皇国政府はどちらかといえば、北方および西方を重視する政策を取っていた。むろん、これは先にも挙げた、極東露西亜の問題、中華中央の問題もあったからであり、意図的なものではない。


 このころ、瑞穂州や秋津州近隣では何の問題も起きていなかったか、といえば、そうではなかった。先に述べたように幾つかの問題が発生し、皇国軍としての介入、その多くは瑞穂州や秋津州に配備されている軍であった。むろん、皇国本土からも派遣されて入るが、圧倒的にこれら二州の軍が多かったのである。もっとも、北方での問題の場合、多くは皇国本土や扶桑州の軍であったから、それは問題とされない。


 何よりも大きいのは、東南亜細亜域で群を抜いた発展をみせていたことで、多くの国が、これら二州を目指していたことにある。史実のように日本列島まで出稼ぎに来ることはなく、好む好まざるとに関わらず、東南亜細亜域に大きな影響力を持つようになっていたのである。その代表ともいえるのが、各種資源開発において表れているといえた。史実のパプアニューギニア(ニューギニア島東部)の資源開発は順調に進み、すでに皇国の進出が始まっていたといえるだろう。


 結果として、ニューギニア島統合の話しすら浮上しており、英国やオーストラリア、ニュージーランドとの衝突も起き始めていた。さらに、独立意識の強いティモール島ではインドネシアからの独立を目指して紛争すら発生していたのである。良くも悪くも、東南亜細亜に与えた影響は大きいとされ、インドネシアでは史実以上に問題が多発していたといえる。


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