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極東露西亜

本島はもっと酷い問題が起きると思います。

 一九九五年五月、ペトロパブロフスク・カムチャツキーでの戦闘発生は皇国海軍択捉航空隊所属の八七式対潜哨戒機<潜海>によって確認されることとなった。そして、驚いたことに平文のしかも皇国海軍宛の無電が発信されていることが確認されたのである。これは皇国政府によって即日世界に公表されている。当然としてこれを確認した露西亜政府は皇国の侵略であると騒ぎ立てることとなった。しかし、当時の皇国軍は動いておらず、逆に露西亜側の謀略であるとして突っぱねている。


 一九九五年六月、皇国軍はペトロパブロフスク・カムチャツキーで在留邦人が露西亜軍により殺害されたこと、露西亜兵による自国領土が侵略を受けたこと、オホーツク海を航行中の漁船が攻撃を受けて沈没したこと、難民の強制送還に向かった船舶が攻撃を受けたことを理由として、六月にはペトロパブロフスク・カムチャツキーに皇国陸軍第一一師団を派遣していた。オホーツク海には原子力航空母艦「蒼龍」型一番艦『蒼龍』、アイギス防空巡洋艦「妙高」型『妙高』『那智』、アイギス防空駆逐艦「島風」型『島風』『灘風』『矢風』『羽風』、「峯風」型駆逐艦『峯風』『野風』『波風』『沼風』を基幹とする佐世保軍港所属の第一艦隊を派遣していた。


 派遣部隊の軍事力そのものは少なかった(一個師団一万二〇〇〇人および第二艦隊および海軍陸戦隊一個大隊八○〇人)が、四万人を超える露西亜東シベリア軍を圧倒していた。明確な指揮系統を持つ皇国軍と露西亜中央および東シベリア軍管区からも離れていて明確な命令系統を持たない烏合の衆(事実上、軍人および露西亜マフィアからなる)との差は歴然としていたといえた。


 一九九五年八月にはカムチャッカ半島の北緯六二度以南を確保するに至る。そして北上を中止する。国連安全保障会議では露西亜が皇国を追及するも皇国側は動じず、逆に領土侵犯および民間船舶撃沈の賠償を求めることとなる。当然としてそれなりの証拠を露西亜側に突きつけてもいる。在留邦人殺害と領土侵攻、民間船攻撃については事実であるが、民間船撃沈はそうではない。


 露西亜以外の常任理事国である英国および仏蘭西は正当な行為であると認め、米国は棄権、露西亜のみ反対という結果になった。こうして都合四度目の日ソ戦は終結することとなる。皇国は九七年六月の同地域撤収を約束することになる。しかし、露西亜にとっては天然の良港であり、有力な海軍基地を失うこととなる。


 こうも簡単に露西亜が引き下がったのには理由があった。当時の東欧や中央アジアでは露西亜から分離独立する国が相次いでいた。欧州とは異なり、亜細亜の東の外れの地域にこだわっていることはできなかったのである。結局のところ、僅か四〇万人しか住んでいない地域よりも数一〇〇万人も居住する欧州が重要であったということになる。これを見ても露西亜の国内政情が明確であった。ソ連崩壊により、露西亜辺境域は無秩序状態といえたのである。


 現地反露西亜軍最高位にあったミハイル・ブーリン陸軍大佐が当地に入った西側メディアを通じて事態を白日の下に晒したことにより、皇国の正当性が証明されることとなった。皇国軍が撤退するまでの間、ブーリン大佐は現地軍を掌握、軍政を敷くこととなる。二年後、皇国軍が引き上げた後も彼の地域は露西亜に所属することはなかった。


 実は彼こそが皇国のいう領土を侵攻した軍人である。しかし、実際には東シベリア軍管区の腐敗振りに耐え切れず、露西亜を捨てて皇国の領土である占守島に脱出したというのが真相であった。そして、露西亜難民を何とかしたい皇国軍との密約により、一九九五年二月にペトロパブロフスク・カムチャツキーに戻って行動を起こしたのである。


 ブーリン大佐は同時に占守島に脱出した部下たちと共に監禁されていた軍人や知識人の解放と武器弾薬の確保を行い、反乱を起こすこととなった。当初の予定より時期が早まったのは彼に従う軍人が多数いたこと、市民の蜂起が起こったことなどが挙げられる。いずれにしても、一度火がついた暴動は彼のコントロールを離れつつあった。それが冒頭の皇国海軍あての無電となって現れたのである。


 皇国が軍を派遣した理由は自国民が露西亜軍に殺害されただけではなく、中華共和国や満州国、英国国民が監禁および殺害されたことにも原因があったとされる。こうして九月には北緯六二度以南のカムチャッカ半島は露西亜から切り離された状態となり、ある程度の安定化をもたらすこととなった。ブーリン大佐は監禁されていたペトロパブロフスク・カムチャツキー第一副市長のボリス・コーチンを知事として任命、彼はカムチャッカ州政の回復と治安維持に努めることとなった。


 一九九七年八月にはミハイル・ブーリン陸軍大佐は知事から中将を拝命し、ボリス・コーチンを首相に任命すると共に軍政から民政に移行、同時に自らは国防大臣に就任することとなった。一般諸国から見れば奇妙なものではあったが、少なくとも軍政から民政に移行したことは歓迎された。むろん、この間には東露西亜国や東イスラエル国など東亜細亜諸国の援助が成されたのはいうまでもないことである。


 第三次日ソ戦争以後、皇国が中心となって対共産包囲網形成と軍事技術流出防止のための機関として設立されたのが、東亜細亜条約機構であり、東南亜細亜条約機構であった。東亜細亜および東南亜細亜ではソ連(現露西亜)、中華人民共和国、ベトナム共和国が含まれていた。その中には軍事技術や軍事技術応用可能な工業機械、工業技術の対共産圏への輸出規制が含まれていた。


 冷戦崩壊後、皇国と露西亜の交易は変化があった。農業機械の輸出や漁業加工機械の輸出、工業機械の輸出などである。それまでの冷戦期間中は皇国からの技術供与は農業技術や漁業加工技術などに限られていた。それに比べればはるかに改善されていたが、直接の軍事技術に繋がる先端技術の輸出は今も自粛していた。それが一部とはいえカムチャッカ独立国へは輸出されたのである。


 レナ川以東の露西亜軍は東露西亜の影響を受けており、露西亜中央からの制御が利かない部分があったといわれている。民衆にいたっては東露西亜の影響を受け、冷戦時代から共産主義離れが進んでいたとされるが、亡命を企てる人間は少なかった。しかし、今回のカムチャッカ事件後は変わりつつあったといわれる。一九九八年一〇月にカムチャッカ独立国が東露西亜に吸収される形で属州(自治州)となったことで、さらに不穏な空気が流れることとなった。


 新しい領土を確保したことは東露西亜国内では歓迎されていたという。反ソ連として建国された国であるが、元はといえば、現在の露西亜領土そのものを領有していた国であり、国民の一部には旧国土を回復、という意識がある。現在の女帝は国土拡張は望んでいないといわれている。当然ではあるが、新しい領土の確保による内政の混乱が生じるからである。現実にカムチャッカ独立国を併合したことで多大な混乱を生じていることは政治にも現れていた。特に飛び地であることが最大の問題であったようだ。



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