魔の三〇年1
ちょっと端折りすぎなんで加筆を考えましたが、やめました。申し訳ないです。誰か書いてくれる人いませんかねぇ。それはともかくとしてやっぱり無理があるような気がします。今書くなら明治維新を一〇年から二〇年早めるほうがいいかも知れません。
一八九四年七月二五日の豊島沖海戦から始まった日本皇国と清帝国との戦争、いわゆる日清戦争は一八九五年四月一七日に締結された講和条約により終結する。日本皇国の戦争目的は何であったか、といえば、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和が唱われていた。しかし、それは名目であり、実際は朝鮮を自国の影響下におくことや中国の領土割譲など自国権益の拡大、露朝関係あるいは露西亜の南下政策が影響していたとされている。これには瑞穂州および秋津州は反対していたとされ、皇国創設時の国家体制の脆弱さを表している例といえるだろう。
日本皇国海軍(実際は本国海軍)は日清戦争の豊島沖海戦、黄海海戦で勝利し、皇国の勝利に貢献する。「松島」型防護巡洋艦は沈没を免れるが大中破する被害を蒙った。なかでも、旗艦『松島』は沈没寸前であったといわれている。威海衛港の戦いで初代聯合艦隊司令長官伊東祐亨中将のとった行動、敵将丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届けて清国兵を助命した、は現在でも世界の海軍教本に掲載されている。これがあったからこそ、皇国海軍としての存続が可能であったといわれ、これがなければ皇国は分裂していたかもしれない、とさえいわれる出来事であった。
この後、大山巌大将率いる第一軍主力は鴨緑江渡河作戦を開始し、九連城を無血で制圧し、この作戦成功によって皇国陸軍は初めて清国領土を占領することになった。松岡繁太郎大将率いる第二軍が金州に上陸し、金州城を占領、一一月二一日には旅順要塞を占領する。史実では起きたとされる旅順虐殺は起こらなかった。これには扶桑州陸軍が参加していたため、彼らが虐殺行為を戒めた、といわれる。
日清戦争での日本皇国軍の損害(乙未戦争含む)は戦死一五〇〇名弱、病死五〇〇〇名強、負傷五〇〇〇名弱とされる。史実で起きた陸軍脚気大流行はこの世界では起こっていない。その原因として挙げられるのは軍務省の兵食改革(洋食+麦飯)にあったとされる。当初、この兵食改革に否定的な陸軍は日清戦争時に陸軍省令で「戦時陸軍給与規則」を公布し、独自の兵食を定めた(日本食+白米)が、議会の反発にあい、戦時兵食を軍務省の定めた兵食としたことによるものとされている。実情は必ずしも守られてはいなかったといわれているが、戦中はほぼ八割の確立で守られていたといわれている。
一八九五年四月一七日に締結された講和条約の主な内容は次の通りであった。
1.清は朝鮮が独立国であることを認め、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
2.清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
3.清は賠償金二億両(約三億円)を金で支払う。
4.清と欧州各国間の条約を基礎に日清通商航海条約を締結する。
5.新たに沙市、重慶、蘇州、杭州の四港を開港する。
6.日本人は清国内の開市、開港場での各種製造業に従事できること。
しかし、遼東半島の譲渡に関しては三国干渉(露西亜、独逸、仏蘭西)により、返還することとなった。以後、皇国陸海軍は露西亜を仮想敵として軍備を進めることとなった理由である。このときの皇国では露西亜、独逸、仏蘭西を相手にすることは到底不可能であったからである。なぜなら、扶桑州はともかくとして、瑞穂州や秋津州の陸軍兵力化にはいま少し時間を要すると考えられたからである。
他方、朝鮮では一八九七年、清の服属国でなくなったことから改革が実施され、国号を「大韓」と改め、高宗が皇帝に即位、大韓帝国が成立した。皇国の一部政治家は当初、大韓帝国併合をも視野に入れていたようであるが、瑞穂州や秋津州、扶桑州から皇国議会に進出していた議員や軍人から反発があり、一時内戦の可能性すら存在したこともあって、結局、併合は見送られることとなった。
独立国家である大韓帝国への投資のための予算使用は純然たる皇国の領土である扶桑州や瑞穂州、秋津州、新たな領土となった台湾の開発が遅れることになる、この際は純然たる領土の開発や軍備の増強に力を注ぐべきである、との意見が議会で多数を占め、皇国政府としてもその意見を無視することができないでいたのである。結局、大韓帝国は日本の影響下で緩やかに開発していけばよい、ということになり、日本の影響国ということになっていった。
なお、このとき英国から大韓帝国を永世中立国とする旨の提案があったが、皇国は露西亜との関係が強化されることを憂慮し、拒否していた。この当時、大韓帝国では反日感情が非常に強く、露西亜に傾く可能性が高かったからである。しかし、結果的に併合がなされなかったことで、反日感情は沈静化に向かい、皇国の大韓帝国への関与は非常に緩やかなものとなった。
日清戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出していた。露西亜は旅順と大連、独逸は膠州湾、仏蘭西は広州湾、英国は九竜半島と威海衛を租借した。しかし、皇国は中国本土への進出には出遅れることとなった。理由は瑞穂州や秋津州、扶桑州、台湾および澎湖諸島の開発に予算が回され、中国大陸に向かうだけの予算が得られなかったとされていたためである。
史実でも起こった乙未戦争はこの世界でも起こった。史実と同じく、戦死者は少数であったが、マラリアなどによる病死者は四〇〇〇人強に上る。台湾側は軍民合わせて一万四〇〇〇人の死者を出す。しかし、瑞穂州や秋津州、扶桑州の情報が流れるにおよんで抵抗は沈静化し、一九○○年以降は民政による統治へと移行していき、陸軍は一個師団、海軍は陸戦隊一個大隊と艦艇一個部隊(駆逐艦主体)が駐留するにとどまる。
日本皇国と清帝国の間でおきた日清戦争に勝利した皇国であったが、三国干渉により、遼東半島を手放さざるをえなかった。これによって皇国は露西亜を仮想敵国と考えるようになったといわれる。その後、皇国は朝鮮半島に成立した大韓帝国の開発に乗り出すが、日清戦争の結果得た領土、台湾および澎湖諸島の開発に全力を注ぎ、大韓帝国の開発はおざなりの物となっていた。大韓帝国からすれば半独立、欧米列強からは皇国領ということになる。
一八九四年、皇国海軍は英国に「富士」型戦艦を発注していた。これまでのように、予算不足で戦艦建造が計画のみに終わってしまうのを危ぶんだ明治天皇が、宮廷費と公務員の俸禄の一割を今後六年間にわたって戦艦建造費に充てるという勅令を出されたので、やっと大型戦艦二隻を発注することができたといういきさつがあった。結局戦争には間に合わなかったが皇国海軍初の大型艦艇であり、その要目は次のようになっていた。排水量一万五三三〇トン、全長一一四m、全幅二二.五m、吃水八.一m、ボイラー円罐・石炭焚×一〇基、主機直立型往復動蒸気機関(三気筒三段膨張式)×二基、二軸推進、出力一万三五〇〇馬力、武装四○口径三○.五cm連装砲二基、四〇口径一五cm単装砲一〇基、四七mm単装砲二四基、四五cm魚雷発射管五門、最大速力一八.三kt、航続距離一○ktで七〇〇〇浬、乗員定数七四一名というものであった。
戦後の皇国は三国干渉による結果、露西亜帝国を仮想敵国として軍備を進めることになったが、戦艦『富士』『八島』だけでは到底世界最強と称される露西亜艦隊には及ばないことは判っていた。そこで海軍は六六艦隊計画を定め、海軍力整備を進めることとなった。この計画案が議会を通ったのには理由があった。史実ほど朝鮮半島に投資していないこと、扶桑州、瑞穂州、秋津州の税収が皇国財政に反映され始めたことである。
こうして「敷島」型戦艦が英国に発注されることになった。後にこの「敷島」型戦艦が四隻あったればこそ、皇国海軍が歴史的な勝利を挙げ得た、とまでいわれる戦艦である。その四番艦『三笠』は今も横須賀軍港特○埠頭に係留、建艦一〇〇年に当たる一九九九年秋に一時現役復帰し、日本皇国領土歴訪航海を行ったのは記憶に新しい出来事である。
さらに、「富士」型戦艦の設計を元に瑞穂州で建造されたのが、「東海」型戦艦であった。しかし、技術的にはまだ英国には及ばなかったこともあり、性能的には若干劣るものがあったといわれる。とはいえ、国産初の戦艦として皇国海軍史にその名を残すこととなった。史実では『薩摩』は一九一〇年、『安芸』は一九一一年に完成しているが、この世界では一九〇三年三月と五月に相次いで竣工していた。その要目は次のようになっていた。排水量一万六三○〇トン、全長一一四m、全幅二二.五m、吃水八.五m、ボイラー円罐・石炭焚×一〇基、主機直立型往復動蒸気機関(三気筒三段膨張式)×二基、二軸推進、出力一万二五〇〇馬力、武装四○口径三○.五cm連装砲二基、四〇口径一五cm単装砲八基、四七mm単装砲二四基、四五cm魚雷発射管五門、最大速力一七.四kt、航続距離一○ktで六八〇〇浬、乗員定数七二一名というものであった。
この当時、露西亜帝国は中国東北部や朝鮮半島の領土化を目指して影響力を強くしていたこともあり、皇国としても放っておくわけにいかなくなったとされる。かくして日露間は急速に悪化していき、日清戦争後一〇年を経て皇国では対露西亜戦やむなしとの機運が高まっていった。もっとも、当時の皇国は露西亜との戦争を避けるための外交努力がなされていたが、その成果は芳しいものではなかった。




