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暗雲漂う東シベリア

なんとなく中途半端かもしれません。

 一九四八年八月一日の建国以後の東露西亜国は内政は安定していたものの、外政的には緊張が続いていたといえた。陸続きで南に東イスラエル国および満州国、モンゴル、北にソ連という国に囲まれており、このうち、東イスラエル国と満州国は皇国つながりで関係は良かったが、問題はソ連にあった。元はといえば、東露西亜国の前身であった露西亜帝国を倒したのがソ連であるため、両者の関係は険悪であった。


 しかも、一九五〇年代初めまではソ連から東露西亜国へ亡命する人間が相次ぎ、その多くがシベリア地域の農民や一部軍人であった。露西亜正教も復活し、両国の関係は一触触発という危険なものであった。事実、ソ連軍と東露軍との小競り合いは幾度となく行われている。それが戦争へと発展しなかったのはひとえに皇国の存在であったといえる。いまや、東亜細亜に影響力がないのは中華人民共和国だけ、という皇国は抑止力として高水準の軍事力を有し、ソ連とて簡単に動けない地域であったからである。


 東露西亜国は建国時の人口は二五二〇万人であったが、一九五五年には三五一〇万人と七年間で約一〇〇〇万人も増加していた。このうちの七割の七〇〇万人強は亡命者であり、もとはレナ川以東に住んでいた農民や商人、配備されていた軍人であった。その多くは第三次日ソ戦争終結後、ハバロフスクに引き上げる東露西亜軍人に混じって東露西亜領域に入ったものであった。それ以後も国境線を越えて入国する人間が相次ぐが、五三年に国境警備が強化されるとそれも少なくなった。


 東露西亜国は皇国の援助で開発が進み、未だ扶桑州や満州国には及ばないもののそれなりの工業化を達成していた。当初、隣国である東イスラエル国とは過去のしがらみ(旧露西亜帝国時代からユダヤ人の迫害が行われていたため)から関係はギクシャクしていたが、皇国との関係から対話が進むにつれ、友好国といえるまでに関係は修正されていた。


 満州国との関係も当初はギクシャクしていたが、王室と帝室との交流もあり、改善されていた。何よりも建国当時、満州ははるかに工業化され、自国よりもはるかに進んでいた国であった。未だ皇国に頼っていた東露西亜にとって最初に自由貿易に応じたのが満州国であった。満州国つながりで中華共和国やか何共和国とも良好な関係が保たれていた。


 一九六〇年には人口は四〇〇〇万人に達し、まがりなりにも独立国として自立が可能となり、西側諸国との交易も増加していた。亜細亜では皇国、満州国、中華共和国、東イスラエル国に次ぐ先進国となっていた。しかし、問題も発生していた。その問題とは人種問題であった。白系露西亜人だけではなく、モンゴロイド系など多民族国家となっていたからである。


 民族問題に関しても皇国は一切の関与はしていない。日系住民も多数居住してはいるが、明確に間違った判断をしない限りは口を出すこともなかった。むろん、自らも経験していることであるから、解決するのが難しいのは判っていたのである。ただ、民族による差別化政策などにはやんわりと警告を発するにとどめている。いずれにしても、かっての露西亜帝国からは想像できないほど変貌していたのは事実であった。


 皇国は東露西亜国の建国以来、内外政に関与することもなく、経済的援助は行っていた。唯一、関与したのは六八年に起きたウランウデ事件である。この事件は住民が共産主義化を求めたデモに端を発し、軍が関与した事件である。直接皇国軍が入ることはなかったが、東露西亜国政府に強権発動も含めた対応を迫っていたのである。この当時、バイカル湖沿岸には皇国企業が多く進出し、二〇万人以上の皇国人が居住していたからである。


 このころ、ソ連はマガダンを通る第二シベリア鉄道をカムチャッカ半島まで敷いており、マガダンやペトロパブロフスクカムチャツキーはそれなりの発展はみせていた。むろん、強制労働者を利用したもので多くの死亡者が出ていた。そのなかには多くの中華人民共和国人も混じっていたとされる。いわゆる反共産主義者や現権力者を脅かす人間などもいたといわれる。


 マガダンはウラジオストックを失ったソ連が極東での唯一の軍港として再開発した港湾であり、水上艦よりも潜水艦基地といえた。西側諸国に遅れること一○年、原子力潜水艦を配備するソ連海軍は、これまでの大西洋、インド洋、太平洋を航行することなく、北極海を航行してマガダンに入れるようになっていたため、皇国海軍もソ連原潜を監視するためにベーリング海に潜水艦を派遣していた。


 このため、皇国海軍は太平洋(米国)、北太平洋(ソ連および米国)、オホーツク海(ソ連)東シナ海(中華人民共和国)と艦艇を重点配備する必要があった。日本海は潜水艦のみ注意すればよく、水上艦艇は有力な敵性勢力はいないと判断されていた。そして日本海には友好的で有力な艦艇を装備する国家が二ヶ国あった。東イスラエル国と東露西亜国であった。


 この両国には皇国が優先して警備艦艇を供与していた。その多くは巡洋艦や駆逐艦といった軽快艦艇であり、その任務は対潜水艦任務とされていた。少なくともこれで皇国海軍の負担は軽くなっていた。この二国は皇国の影響力が強く、それなりの期待が持てていたからである。とはいっても、両国とも外政よりも内政を重視していた。


 ただ、東露西亜国は内政を重視するとはいっても北のソ連との兼ね合いもあって、東イスラエルに比べると国内開発が進まないのが現状であった。そこで皇国が関わってくることになる。域内の資源開発は皇国の企業が中心になって行われており、国軍は彼らの警備と保護という任務にも就いていた。いずれにしてもこの時点で欧州の企業が参入してはいなかったこともその理由であろう。


 この時点で皇国軍が確認していたのは大型巡洋艦四隻と潜水艦一○隻がマガダンにあるということであった。これは千島列島の占守島から根室にかけて設置されたSOSUS監視網(ソナー監視ライン)からの報告であった。七〇年現在、幌筵島および択捉島にレーダー基地がおかれているが、最新鋭の対空対水上レーダーではない。人間の目で確認したものではないため、確実なものではなかった。


 しかし、皇国としては北方の脅威に備えなければならない理由があった。それは東露西亜をはじめ、東亜細亜の安全保障のためであった。対ソ連警戒をおろそかにすることは東亜細亜諸国に影響を持つ、あるいは対共産包囲網を形成している諸国に対するリーダーシップが取れないことを意味する。そのため、扶桑州豊原空軍基地や択捉海軍航空隊基地は常にデフコンレベルはイエローを維持している。


 幸いにしてこれまでも戦闘は生じてはいないが、ソ連対潜哨戒機による領空侵犯機を二機強制着陸させる事件がおきている。オホーツク海では領海侵犯による漁船の拿捕は数え切れないほどあり、ソ連側戦闘艦艇との相互監視は常に発生していた。また、ソ連原子力潜水艦の原子炉事故による日ソ間の政治的駆け引きは常に神経を使うものとされ、外務省では対ソ連課ほど激務をこなす部署はないといわれている。


 そしてこの海域に時として紛れ込むのが米国であった。その多くは戦略核ミサイル搭載原子力潜水艦、それ以外にも原子力攻撃潜水艦などが紛れ込んでいたのである。グアム島、フィリピン以外に有力な基地を持たない米国は冷戦が崩壊するまではこの海域に常に一隻の戦略核ミサイル搭載原子力潜水艦を配備していたといわれる。むろん、皇国ではそのすべてを把握していたわけではない。



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