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中華中央紛争

遅くなりました。天安門事件は許せません。軍が自国の国民を軍事力で制圧するのは問題です。

 中華人民共和国の計画としては全方位から中華共和国に侵攻し、中華中央を手中に収めるつもりであったのかもしれない。しかし、雲南共和国が誕生したことにより、それは不可能となった。広東省の中華民国と雲南共和国に囲まれた広西省から民主化の声が上がるのにそう時間を要しなかったのである。特に、広西省は旧中華民国領であったことから共産政権にはなじまず、重慶省や四川省は三〇年以上にわたって民主主義というものに触れていたため、新たな共産社会には不満を持っていた。


 八九年以降幾度となく住民による民主化デモが行われていた。中華人民共和国政府はこれを武力を持って鎮圧しており、民衆の不満は高まる一方であったようだ。そして九〇年、南寧市事件が起こる。民主化を求めて集まっていた二〇万人の民衆を人民軍は戦車まで持ち出して鎮圧に当たることとなり、五万人以上の死傷者を出す事件が起こったのである。


 この事件は欧米から入っていた報道機関によって世界中に映像として流れることとなった。この結果、中華人民共和国は世界から孤立してゆくこととなった。彼らを支援するのは一部の共産主義国家だけとなった。東南亜細亜ではベトナム、欧州ではソ連、中米のキューバなどといった国々である。


 九一年三月、広西省で始まった武装蜂起は貴州省や重慶省、四川省へと飛び火し、内乱が発生することとなる。むろん、彼らを援助していたのは中華共和国であり、雲南共和国であった。特に雲南独立戦争時使用されていた武器弾薬を処分したい雲南共和国から流れた武器であったとされる。それが証拠に武装蜂起した民衆が持っていたのは皇国や中華共和国、満州国製の武器であったとされる。


 九二年一月には貴陽市が、九二年三月には成都市が、九二年六月には重慶市がそれぞれ武力制圧され、人民軍の非道さを世界に知らしめる結果となった。しかし、広西省は戦い続け、一九九二年末には人民軍を駆逐することに成功している。この時点で国連が介入することとなる。このとき積極的に動いたのが雲南共和国首相の地位にあった章孝友であったといわれる。彼は広西省の武装勢力と接触を持ち、対等な関係の新国家設立を打診することとなった。


 そうして一九九三年二月には華南共和国設立が決定することとなった。初代首相は章孝友が勤めることとなった。しかし、華南共和国は旧中華民国領からの避難民が殺到し、その対応を迫られることとなる。ベトナム戦争の勝利から更なる拡大を狙った中華人民共和国の狙いはここに失敗することとなった。一九九三年のソ連崩壊により、第二次世界大戦後続いていた東西冷戦は終結することとなったのである。


 これ以後、人口五億を数える中華中央(中華人民共和国を除く)と一〇億ともいわれるインドに影響力を有する皇国とその他欧米という対立が目立ち始めていくことになる。この当時の亜細亜域は皇国の影響もあり、識字率は高く、アフリカや南米とは比べ物にはならないほど市場としての効率は大きかったのである。欧州は第二次世界大戦後の経済状況、主に米国による国債購入の影響から脱することができないでいた。唯一の例外は皇国が関与していた英国であっただろう。そして再びクローズアップされるのが白色人種対黄色人種という構図であった。


 一九九三年の華南共和国の誕生と、同年のソ連崩壊により、中華人民共和国は崩壊すると誰もが思った。その原因ともいえるのが華南共和国や中華共和国、満州国による資本主義輸出であるといえた。これまでの戦争で人民軍も消耗していたため、首都北京に集結されていた。消耗とはいえど必ずしも戦死しているわけではなく、華南共和国や中華共和国へ寝返っていたからである。


 ついには河北省石家荘市で民主化デモが発生する。そしてそれに一部人民軍の兵士も加わるに及び、完全な内戦状態へと移ることになった。内戦は拡大し、山西省太原市、青海省西寧市、甘粛省蘭州市、陝西省西安市、寧夏省銀川市、とほぼ中華人民共和国全域に及ぶこととなった。落ち着いていたのは新疆省ウルムチ市ぐらいであった。


 当然ながらこれらには華南共和国や中華共和国が関与していたとされる。そしてこのなかから頭角を現したのが家陝慈であった。中国共産党の中でも改革派として知られ、その過激さゆえ、閑職に回されていた人物であったとされる。家陝慈は四川省にいたが、先の暴動の際、山西省太原市に退避していたのである。家陝慈は北京に戻るとクーデターにより、共産党中央を制圧すると、次々と手を打ち始めた。


 一九九四年七月、内戦は徐々に収拾に向かい、一〇月にはほぼ終結した。家陝慈は華南共和国や中華共和国の侵攻を恐れ、国際連合に平和維持軍の派遣を要請することとなる。彼は露西亜一国軍だけを国連軍として派遣するよう要求している。当然、露西亜はこれに応じて軍を派遣している。米国は軍を派遣したがっていたのであるが、結局、安全保障理事会で拒否されることとなった。


 一九九四年一一月、青海省、四川省、甘粛省、陝西省、河北省、河南省、寧夏省、山西省、新疆省、山東省、重慶省、湖北省、内モンゴル自治区の一部が新生中華人民共和国として改めて宣言された。貴州省は華南共和国に帰属を宣言していたため、領土からははずされることとなった。それでも、かっての中華民国領であった地域には中華人民共和国と露西亜が望む西側技術があり、これがその後の両国に与えた影響は大きかったといえる。


 これら地域には四億近い人口があり、経済の立て直しを図る露西亜にとっては十分魅力があった。既に興こっている国家、華南共和国や中華共和国、チベット、満州国は皇国の影響が強く、中華民国も皇国寄りにシフトしていくなか、対共産包囲網を未だに解かない地域に、自国の影響力を残したい露西亜としては必死にならざるを得なかった。


 しかし、貴州省が華南共和国に属することとなったがゆえに、中華中央は安定することとなった。特に、中華人民共和国にとってはうかつに動けない状況となったのである。それは華南共和国と中華共和国との間に中華人民共和国に対する軍事同盟が締結されたからに他ならない。つまり、どちらかと戦争となれば、二国に加えて満州国との戦争になることが決定的であったからである。華南共和国国土は荒れており、国力も他の二国に比べれば遥かに劣るが、軍の各種装備は中華人民共和国が持つソ連製に比べれば遥かに高性能であったからである。


 国家元首となった家陝慈が目指した国家体制は拡大共産主義体制であった。彼はかなり自由性を持たせた新体制を実施している。また、贈収賄の犯罪には妥協せず、殺人に次ぐ重罪とし、思想の自由や制限があるものの一部私有財産を認めている。これが彼の目指す新共産主義国家の将来を決めることとなった。


 皇国としては中華人民共和国が消滅し、民主国家の設立を望んでいたが、それは瓦解することとなった。第二次世界大戦前から中国の民主化を期待していた皇国ではあるが、それが成されることがなかったのは今後の軍備にも影響することを覚悟せざるを得なかった。華南共和国、中華共和国、チベット、中華民国、満州国への影響力は残しているものの、地域の不安定化は望んでいなかったのである。


 皇国が望んでいたのは地域経済の安定化と自らの経済発展であった。ましてや、既にソ連が崩壊、かってのように東側と西側ではなく、世界大国たる米国と対決するつもりはなく、亜細亜の地域大国である皇国というネームバリューを活かしたかったのかもしれない。とはいえ、軍事的にはともかくとして、経済的には内政や国家体制に関わらず、世界中に援助を行っている皇国としても今後の対策は難しいといえた。


 とにかく、南シナ海および東シナ海沿岸部を西側勢力が確保することで、中華人民共和国を内陸部に封じ込めることに成功したことは、皇国のシーレーン確保のためには十分以上の成果であるといえた。よくいわれることであるが、シーレーン確保には沿岸地域は関係ない、というのは間違いである。沿岸部が安定することはそこからの不穏分子(海賊や海軍艦艇を含む)が出現することがなく、結果的にシーレーンの安全確保に繋がるのである。


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