第二次中国動乱
何をもって第二次というのかはともかく、またも発生します。
一九七七年、中国大陸で大規模な動乱が発生する。中華民国対中華人民共和国との国境紛争であった。一九五六年以来安定化していると思えた中華中央であったが、ベトナム戦争で米国が撤退、共産主義勢力が勝利したことが原因とされる紛争が発生したとされる。中華共和国が標的とされなかったのは満華条約があったためだと考えられた。
満華条約とは中華共和国と満州国との間で一九四七年に締結された対共産主義包囲条約であり、どちらかが中華人民共和国と戦端を開いた場合、残る片方が参戦するという軍事条約であった。元は単なる防共協定であったが、両国とも国境地域で共産勢力との紛争が多発したことから軍事条約に格上げされたものであった。
この当時の中華民国は、初代総統であった蒋介石の没後二年を経ており、後継者争いで国内が揺れていた時期でもあった。蒋介石の息子である蒋経国を押す声が多かったとされるが、蒋介石の下にいた五人による合議統治が成されていた。蒋経国はこの時、駐日中華民国大使として日本に滞在していたのである。その長男の蒋孝文は外交官として米国にあり、次男の蒋孝武は海南島の知事に、三男の蒋孝勇は広東州軍に所属していたといわれている。
紛争が始まると、中華民国軍は命令系統の不備さから敗走を続け、七九年には広東州と海南島のみ勢力下に置くだけとなった。中華民国上層部は敗戦濃厚な七九年初頭には海南島に逃れていたとされる。七九年末、蒋経国は帰国し、第二代中華民国総統となる。蒋経国は改めて皇国および米国、香港に権益を持っていた英国に援助を依頼し、軍備を整えると防衛戦に徹する。息子の蒋孝勇には軍を率いて海南島に赴かせ、中華民国政府上層部の政治家を拘束させる。そして彼は中華共和国首相であった汪兆銘の息子汪陳銘と会談、共同戦線の約束を取り付けることに成功する。
八〇年五月、中華人民共和国軍が湖南省および湖北省から江西省に侵入したことで中華共和国も参戦することとなる。当然ながら軍事同盟を結んでいる満州国も参戦することとなった。満州国は東北部が親日国家である東露西亜国であり、両国の関係も良好であったが、北西部はソ連と国境を接していることから、必要な軍以外は満中(満州国と中華人民共和国)国境に軍を集結させた。このころには中華民国軍は広東省で激しい戦いを強いられていたとされる。
人海戦術で押し寄せる人民軍に対して組織だって戦う中華共和国軍は優位に立つことができていた。そして、中華民国広東省に滞在していた皇国人が殺害された、として皇国台湾州駐屯軍の一部および関東軍が動く。国連常任理事国の安全保障会議で国連軍の派遣が決まったのはこの後である。ソ連は反対するが日米英が賛成、仏は棄権ということで国連軍派遣が決定する。
八一年一月、中華共和国軍は自己の領土と湖南省を確保、満州国軍は自己の領土を確保し、中華民国軍が広東省を確保して人民軍を追い出すことに成功、この時点で国連軍はまだ派遣されておらず、皇国は四月の皇国軍(国連軍)投入を発表した。中華共和国は自国領土および湖南省を確保した三月時点で進撃を停止、防衛戦に移行する。人民軍は戦闘を継続していたが、満州国軍が国境線を突破した時点で戦闘を中止、ここで国連は中華共和国および満州国、中華人民共和国に停戦を勧告する。三国とも国連の停戦勧告に従うこととなる。これ以上続けると、中華人民共和国は満州国軍が首都北京に侵攻される事態が起こるため、それを避けたいからであったとされる。
皇国軍は当初派遣予定であった、海軍の一個機動艦隊、陸軍の台湾州の第二機甲師団、瑞穂州の第一三師団、秋津州の第一四師団、第二九師団(本土部隊から抽出部隊)、空軍は台湾州の第九航空団、九州の第二爆撃航空団、台湾州の第二早期警戒管制団から、第一三師団、秋津州の第一四師団、第二九師団を治安維持国連軍として四月に派遣する。
この時点で中華共和国は安徽省、福建省、江蘇省、浙江省、江西省、湖南省の領土を確保、また、河南省、湖北省の一部を手中に収め、中華民国は広東省と海南島を確保し、満州国はそのまま、残りを中華人民共和国が勢力下(チベットは参戦していない)においた状態であった。国際連合の安全保障会議ではひと悶着あったものの現状で新たな国境を策定するということに落ち着いた。米国は強く反対していたとされるが、英仏が説得にあたり、しぶしぶと了承した。
この第二次中国動乱において中華民国は多くの領土を消失したといっても良く、広東省と海南島での再出発となった。蒋経国総統はかっての中華民国上層部を追放し、新たな体制を作り上げることとなる。この時点で広東省および海南島には約九〇〇〇万人が存在していたとされる。結果的に旧中華民国上層部が追放されたことで新生中華民国は安定することとなる。二〇〇〇年には人口一億三〇〇〇万人、工業国といえるまでになっていたといわれる。
米国は中華民国という市場を半ば消失、極東では新たな展開を模索することとなった。そして、その一環として海南島からの米軍の撤退を図り、一部の海兵隊および空軍部隊の駐留を継続するだけとなった。この動乱で、米軍は少なくない損害を受け、ベトナム撤退との関連で東亜細亜への介入意思が減ずることとなった。米国議会が東亜細亜からの撤退を決定したからである。このことが中華民国のこれまでの米国寄りから皇国寄りの政策にシフトする原因となる。
旧中華民国領から逃げ遅れた中華民国軍および地方官僚の多くは、比較的中華民国基盤のしっかりしていた雲南省に逃げ込むこととなった。この地の軍はあえて戦うことはせず、人民軍の侵攻には早々に降伏していた。そのため、省内はそれほど荒れておらず、インフラなどは良好なまま残されていたといわれる。この地の最高責任者として知事の章孝友は、旧中華民国軍および地方官僚を受け入れていた。
こうして省内勢力を把握した章孝友は八二年六月、雲南共和国の独立を宣言することとなった。この時、同地には八〇〇〇万人があり、軍は四〇万人を数えていた。雲南省は南部でベトナムやラオスと国境を接し、南部から西部にかけてミャンマーと接するため、援助ルートが限られていた。このため、これらの国と友好的な皇国の援助を章孝友は期待していたといわれるが、彼に応じたのは満州国であった。
章孝友は若いころ、満州国に滞在しており、また、雲南省知事になるまでは満州国に滞在する外交官であったからだった。そのため、満州国を理解しており、皇国の政策もよく知っていたといわれる。また、彼は米国の簒奪的な援助には危機感を持っていたとされ、旧中華民国内では亜流とされた政治家であったといわれる。
ともあれ、あまり工業化の進んでいなかった雲南省では食料は自給できても武器弾薬は不可能であった。人民軍はソ連という後方基地があるため、武器弾薬には困らないとされていた。また、広東省と雲南省の間に存在する広西省には五〇万人もの人民軍が存在していたため、おいそれと突破できるものではなかったのである。ミャンマーおよびラオスルートが唯一の援助ルートとされた。
八二年六月、後に雲南独立戦争と称される紛争が始まることとなった。しかし、この戦争においては国連が介入することはできなかった。なぜならこれは戦争ではなく内乱であり、始まったばかりの今は介入することは不可能であった。皇国も表立っては動くことはなかった。ミャンマーおよびラオスルートの維持のみ行っていたとされる。
この当時、ミャンマーおよびラオスには皇国軍が駐屯しており、援助ルートの維持にはなんら問題がなかった。それが雲南省の独立に関与していたとされる。しかし、問題もあった。それはベトナムにはまだソ連の影響力が強く残っていた、ということである。事実、幾度かベトナム軍との衝突が起きてもいる。いずれにしても、章孝友の雲南軍は戦い抜き、一九八七年二月、雲南省は雲南共和国として独立を果たすこととなった。




